翌朝。
昨日話を聞いた年配の女性から、近くにいた移動集団が今日のうちに出発すると教えられた。
「そんなに移動して暮らすのが気になるなら、ついていけばいいんじゃないかい」
「よろしいのでしょうか」
「邪魔しなきゃね。話は通してやるよ」
「ありがとうございます」
即答だった。
横で聞いていたロゼが笑う。
「昨日からずっと楽しそうだよね」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
エドナが本を閉じた。
「研究対象を見つけた時だけ足取りが軽いのよ」
「自覚はありません」
「でしょうね」
デゼルは既に荷物をまとめ終えていた。
「行くなら早くしろ。向こうはもう畳み始めてるぞ」
「畳む?」
ユトが聞き返した。
「見りゃ分かる」
***
昨日、人々が集まっていた場所へ戻る。
確かに、畳んでいた。
家を。
正確には天幕を。
支柱を抜き、布を外し、紐をまとめる。
寝具も、調理器具も、道具も、次々に荷物へ変わっていく。
昨日までは人が暮らす場所だった一画が、短い時間で草原へ戻っていった。
ユトはしばらく黙って見ていた。
「……家がなくなりました」
「畳んだんでしょ」
ロゼが答える。
「家を畳むという行為に馴染みがありません」
「言いたいことは分かるけど」
近くで天幕を片付けていた男が笑った。
「南の人間は、家を持ち歩かないのか?」
「通常は建築物として設置します」
「面倒だな」
「こちらから見れば、そうなるのですね」
昨日も似たようなことを言った気がする。
「手伝いましょうか?」
「助かる」
ユトはすぐに天幕の撤収へ加わった。
支柱をまとめる。
布を折る。
紐を巻く。
巻く。
さらに巻く。
「そこまで綺麗にしなくていいぞ」
男が言った。
「次回使用時に絡まる可能性があります」
「多少絡まってもほどけばいい」
「最初から絡まないようにした方が早いのでは」
「……好きにしろ」
結局、ユトが担当した紐だけ妙に整然とまとめられた。
ロゼがそれを見ている。
「ユトの荷物だけ絶対見分けつきそう」
「利点ですね」
「褒めてないよ」
やがて家財道具の大半が家畜の背や荷車へ積まれた。
人々が歩き始める。
四人も、その後についていった。
***
「毎年、同じ場所へ移動するのでしょうか」
「だいたいな」
歩きながら、ユトは早速質問を始めていた。
隣を歩く男は、昨日とは別の人物だった。
集団の中では家畜の管理を任されることが多いらしい。
「だいたい、とは?」
「草がなければ変える」
「では、経路は固定されていない」
「雨にもよる」
「降雨量によって牧草の状態が変化するためですか」
「そうだ」
「水場の状況は誰が確認しますか」
「先に行った奴」
「役割として決まっているのですか」
「その時動ける奴が行く」
「記録は?」
「何の?」
「水量や植生です」
「見りゃ分かる」
ユトが黙った。
ロゼが横を見る。
「その顔やめなよ」
「何も言っていません」
「記録したそうな顔してる」
「記録は有用です」
「言った」
男は笑った。
「毎年違うもんを細かく書いてどうする」
「比較できます」
「比べなくても、水がなければ移るぞ」
「それも合理的です」
***
昼前、一つの家族が集団から外れた。
荷車が南東へ向きを変える。
ユトは足を止めた。
「別行動されるのですか」
「ああ」
近くにいた女性が答える。
「あそこは今年、南側で冬を越す」
「集団から離脱するのでしょうか」
「離脱?」
「同じ共同体ではなくなるのかと」
女性が不思議そうな顔をした。
「同じだよ」
「しかし、別の場所へ移動します」
「子供が小さいんだ。北まで行かせるより南の方が楽だろ」
「では、別の地域で生活しても所属は変わらない」
「当たり前だろ?」
「……当たり前なのですね」
ユトは紙を取り出した。
「また増えた」
ロゼが覗く。
『共同体所属と現在居住地は一致しない場合がある』
「これも必要?」
「はい」
「何に?」
「まだ分かりません」
「またそれ?」
「事実として区別できる情報を、同一項目として記録する必要はありません」
ロゼが少し考えた。
「つまり?」
「同じ集団に属していることと、同じ場所にいることは別です」
「それは今見た」
「はい」
「だから書く?」
「はい」
「やっぱりユトだなあ」
別れた一家の子供がこちらへ手を振っている。
同じ集団の者たちも手を振り返す。
別れの雰囲気は薄い。
いずれ、またどこかで合流するのだろう。
ユトはその様子も見ていた。
***
午後。
先行していた若者が走って戻ってきた。
「駄目だ」
その一言で、集団の空気が変わった。
「水か?」
「かなり減ってる。家畜全部は無理だ」
「東の高台まで持たないか?」
「無理だな」
「じゃあ途中の窪地は?」
「そっちも人がいる」
「南東の水場へ回るか」
「少し遠くないか?」
「今日中には着く」
数人が短く言葉を交わした。
やがて、集団全体の向きが変わる。
ユトは地図を見た。
予定していた移動経路とは違う。
「変更するのですか」
「水がないからな」
「今から?」
「今だからだ」
「会議は?」
聞いてから、自分でも少し変な質問だったと思った。
男が笑う。
「草も水もない場所で、夜まで話し合ってどうする」
「……なるほど」
「家畜は待ってくれんぞ」
人々は慌ててはいない。
しかし、迷ってもいない。
現在確認できた状況に合わせて、予定を変える。
それだけだった。
ユトは歩きながら、紙へ短く書いた。
『予定経路より現地観測を優先する』
筆が止まる。
少しだけ、その文字を見つめた。
「どうしたの?」
ロゼが聞いた。
「いえ」
「何かあった?」
「以前、似た内容を書いたことがあります」
「へえ」
「記憶と現在の観測結果が異なる場合、現在の事実を優先する、と」
ロゼは少しだけ黙った。
「じゃあ、ユト向きの暮らしなのかもね」
「生活経験がありませんので、適性は判断できません」
「そういう意味じゃない」
「?」
「いいや」
ロゼは笑って先へ行った。
***
夕方。
朝には何もなかった草原へ、天幕が立ち始めた。
支柱を立てる。
布を張る。
家畜を囲う。
火を起こす。
荷物を下ろす。
数時間前までただの草地だった場所に、人の暮らしが現れる。
「すごいね」
ロゼが言った。
「朝には何もなかったのに、もう村みたい」
「村じゃないぞ」
近くの男が言った。
「じゃあ何?」
「俺たちの家だ」
ロゼが少し目を瞬いた。
ユトも男を見る。
「建物ではなく?」
「建物?」
「家という語を、天幕そのものではなく、生活共同体全体を指す意味で使用していますか」
「……なんか難しいな」
「ユト、普通に聞いて」
ロゼが止めた。
「ここが今、家ってことでいいんだよね?」
「ああ」
「明日は?」
「明日もここにいればここだ。移れば向こうだ」
「なるほど」
「今のロゼさんの質問の方が適切でしたね」
「でしょ?」
ユトはまた一行追加した。
『居住地は固定建造物ではなく、現在形成されている生活地点として扱われる場合あり』
ロゼがそれを読んだ。
「これ、このまま続けたら辞典できるんじゃない?」
「資料として整理する可能性はあります」
「作るんだ……」
***
夕食後。
火を囲みながら、ユトはさらに聞き取りを続けていた。
「移動先について、最終的な決定権を持つ方はどなたでしょうか」
「最終的?」
年配の男が首を傾げる。
「族長、あるいは代表者に相当する方です」
「ああ」
男は火へ薪を放り込んだ。
「場合によるな」
「場合による?」
「家畜の病気ならセラが決める」
少し離れた場所で羊を見ていた女性を指す。
「道なら爺さん」
今度はさらに年上の男。
「他の集団との話なら、あいつ」
昼間話していた女性。
「全体を統括する方はいないのですか」
「統括?」
「すべての事項について最終判断を下す方です」
「一人で全部分かる奴なんていないだろ」
あっさりと言われた。
ユトは黙った。
「道しか知らん奴が家畜のことを決めても仕方ない。水場を知らん奴が行き先を決めても困る。分かる奴に聞けばいい」
「意見が割れた場合は?」
「話す」
「決まらなければ?」
「その時また考える」
「恒常的な最高責任者は不要?」
「必要なら置く。必要ない時はいらん」
ユトはしばらく何も書かなかった。
ロゼが珍しそうに横を見る。
「書かないの?」
「整理しています」
「頭の中で?」
「はい」
「何を?」
「南部の行政制度と比較しています」
「やっぱり書くんじゃん」
少しして、ユトは紙へ書いた。
『意思決定権は、対象事項に関する知識を有する者へ分散している』
その下に、
『恒常的な単一最高責任者を前提としない』
と追加した。
「難しく書くねえ」
火の向こうから男が言う。
「すみません」
「別にいいけどな」
「一つ確認してもよろしいでしょうか」
「まだあるのか?」
「はい」
「元気だな、お前」
ロゼが吹き出した。
***
夜も遅くなった。
天幕の一つを借り、四人は休むことになった。
デゼルは既に壁際で目を閉じている。
エドナは横になったまま本を読んでいた。
ロゼは毛布へ潜り込んでいる。
ユトだけが、まだ紙へ書き込んでいた。
「ユト」
「はい」
「もう寝なよ」
「あと三項目です」
「その三項目が長いんだって」
「簡潔にします」
「ユトの簡潔、信用できない」
ユトは筆を進めた。
『固定住所を個人識別の前提とする方式は、当該生活形態に適合しない可能性あり』
『所属共同体と現在位置を別情報として記録する』
『季節移動については固定経路ではなく、利用可能な範囲及び変動要因を併記する』
ロゼが半分だけ顔を出した。
「それ、誰が使うの?」
「現時点では決まっていません」
「なのに作るんだ」
「必要になった際、改めて調査し直すより効率的です」
「はいはい」
ロゼは再び毛布へ潜った。
しばらくして、ユトの筆が止まる。
昼間の言葉を思い出した。
一人で全部分かる奴なんていないだろ。
特別な思想として語られた言葉ではない。
ただ、この土地で暮らす人間にとって当然のことだった。
家畜を知る者が家畜を見る。
道を知る者が道を見る。
水を知る者が水を見る。
必要なら話し合う。
一人で全部を背負う必要はない。
ユトは紙の余白へ、もう一行書いた。
『少なくとも当該共同体において、一名に全判断を集中させる必要性は確認できない』
「四項目になってるじゃん」
毛布の中から声がした。
ユトは振り返る。
「起きていたのですか」
「筆の音がするからね」
「申し訳ありません」
「いいけど。明日も歩くんでしょ」
「はい」
「じゃあ寝る」
「承知しました」
灯りを落とす。
外では、家畜の鳴き声が小さく聞こえていた。
今日の居住地はここにある。
明日も同じ場所にあるとは限らない。
それでも、人々のつながりは続いている。
同じ共同体がある。
同じ暮らしが続いている。
ユトは目を閉じた。
固定された場所がなければ、人を数えられないわけではない。
同じ場所にいなければ、同じ集団ではないわけでもない。
移動することと、所属を失うことは同義ではない。
まだ、それを何に使うのかは分からなかった。
ただ、分けて考える必要があることだけは分かった。
翌朝。
ユトは移動準備を始めた人々に、一つ尋ねた。
「ところで、皆さんの住所を記録する場合ですが――」
「住所?」
聞き返された。
ユトは黙った。
ロゼが横で笑い始める。
「そこからなんだ」
その朝、調査項目がまた一つ増えた。