「住所?」
聞き返された言葉について、ユトが説明を始めてから、およそ十分後。
「つまり、今いる場所を書けばいいのか?」
「いえ。それでは移動するたびに変更が必要になります」
「じゃあ、いつもいる場所?」
「それが存在するのかを確認しています」
「ないな」
「……そうですか」
調査項目が増えた。
その後も何人かに同じ質問をしたが、結果は似たようなものだった。
冬を過ごす場所。
夏に家畜を放す場所。
毎年立ち寄る水場。
親族の多い地域。
所属する集団。
いずれも答えられる。
しかし、それらを一つの場所にまとめて「住所」と呼ぶ考え方自体が、どうにも馴染まないらしい。
ユトは紙の記述を修正した。
『固定住所を個人識別の前提とする方式は、当該生活形態に適合しない』
その横からロゼが覗き込む。
「結局、住所聞けなかったね」
「質問自体が適切ではありませんでした」
「真面目に反省してる」
「調査ですので」
そんな話をしながら移動を続けて、昼を少し過ぎた頃だった。
先頭を歩いていた者が、丘の向こうを指した。
「見えてきたぞ」
「何がですか?」
「市だよ」
丘を越える。
ユトは足を止めた。
昨日まで見てきた草原とは、まるで様子が違った。
天幕。
荷車。
家畜。
人。
さらに天幕。
遠くまで、無数の色が続いている。
布を張っただけの簡素な店の前には、乳製品、毛織物、干し肉、薬草、金属製品、木工品が並ぶ。
大鍋から湯気を上げている場所もある。
家畜を売買している者。
荷車の車輪を修理している者。
大声で値段を交渉している者。
走り回る子供。
昨日まで歩いてきた土地とは思えないほど、人がいた。
「……街?」
ロゼが言った。
「地図にはありません」
「もうそれはいいって」
ユトは地図と目の前の光景を見比べる。
「これだけの人口集積が記録されていないのは不自然です」
同行していた男が笑った。
「そりゃ載らんだろ」
「何故でしょうか」
「五日もすりゃ、なくなるからな」
ユトが男を見る。
「なくなる?」
「市が終わる」
「建物も?」
「天幕だぞ。畳むに決まってるだろ」
ロゼが「ああ」と納得する。
「また家畳むやつだ」
「家だけではありません」
ユトはもう一度、市を見る。
食料がある。
商品がある。
人が泊まっている。
荷物が集まっている。
これだけの規模なら、治安維持も必要になる。
「五日後には、この場所に何も残らないのですか?」
「杭の跡くらいは残るんじゃないか?」
「……」
「ユト?」
「興味深いです」
「やっぱり」
ロゼが笑った。
***
市へ入って間もなく、四人は妙に注目を集めた。
最初、ユトは服装の違いが原因だと思った。
すぐに違うと分かった。
人々が見ているのは、主にエドナとデゼルだった。
「……何よ」
エドナが不機嫌そうに周囲を見る。
視線を向けられた人間が慌てて顔を逸らした。
「見えていますね」
「見れば分かるわ」
デゼルも居心地悪そうに舌打ちする。
「普段見えねえ奴まで、こっち見てやがる」
「ユイの加護です」
「分かってる」
ユトの近くでは、霊応力が底上げされ、天族を視認できるようになる。
確認した通りの現象だった。
ただ、人の数が違う。
一人が気づけば、隣の者も見る。
隣が見るから、その隣も何があるのかと視線を向ける。
結果として、四人が歩くだけで小さなざわめきが移動していた。
「あの二人、天族か?」
「見えてるのか、お前も?」
「見える」
「俺もだ」
「本当にいるんだな……」
エドナの眉がぴくりと動く。
「次に『小さい方も天族か』って言ったら埋めるわよ」
「まだ誰も言っていません」
「言いそうな顔してたのよ」
その時。
「あっ!」
露店の向こうから、一人の男が声を上げた。
「あんたか!」
ユトが振り返る。
「私でしょうか」
「南から来た導師!」
「はい」
「天族を見せるっていう!」
「違います」
即答だった。
ロゼが吹き出す。
「否定早いなあ」
「正確ではありませんので」
男は構わず近づいてきた。
「昨日、東から来た連中に聞いたんだ。南から来た導師の近くに行けば、守り神が見えるって」
「情報が届いているのですか」
「市だぞ?いろんな所から人が来るからな」
ロゼが肩をすくめる。
「人と一緒に噂も来るんだよ」
ユトは周囲を見た。
昨日助けた集団とは別方向から来た者もいる。
それでも、既に話が届いている。
「情報伝達拠点として機能している……」
「また始まった」
男は話を続けた。
「俺たちの守り神も見せてもらえないか?」
「現在、その天族の方はいらっしゃいますか」
「え?」
「私の加護は、存在している天族を知覚しやすくするものです。遠方にいる天族を呼び出す能力ではありません」
「……ここにいるかどうかも分からん」
「でしたら、確認できるとは申し上げられません」
「そうか」
男は少し残念そうにした。
ユトは続ける。
「もし近くにいらっしゃれば、知覚できる可能性はあります」
「じゃあ、試すだけ試していいか?」
「はい」
数人が周囲へ集まり始めた。
さらに、
「何だ?」
「天族が見えるらしいぞ」
「例の導師か?」
と人が増える。
ロゼがユトの袖を引いた。
「これ、そのうち収拾つかなくならない?」
「可能性はあります」
「冷静だね」
「対応方法を考えます」
「今考えて」
結局、その場に目当ての天族はいなかった。
ユトは結果もそのまま伝えた。
「少なくとも、現在私が確認できる範囲にはいらっしゃいません」
「見つからないこともあるんだな」
「はい」
「天族が見える導師なんだろ?」
「私は天族を生成しているわけではありません」
「そこまで言ってないよ」
ロゼが止めた。
しかし、この失敗はむしろ重要だった。
何でも見えるわけではない。
存在していないものは見えない。
近くにいないものも見えない。
ユト自身も、その点を改めて記録した。
『加護の社会利用に際し、「天族の存在確認」と「天族の存在保証」を混同しないこと』
「社会利用まで話進んだ?」
「誤解が既に発生していますので」
「早いなあ」
***
市を歩く。
今度はユトだけでなく、ロゼも忙しかった。
「これは南じゃあまり見ない織り方だね」
ロゼが布を手に取る。
「寒い地方だから?」
「それもあるだろうけど、こっちは家畜の毛が違うね」
「判別できるのですか?」
「商人だからね」
ロゼは別の店へ移る。
「こっちの金物は南から来てる」
「なぜ分かるのでしょうか」
「刻印」
「なるほど」
「で、こっちの塩はもっと北かな」
「根拠は?」
「値段と量」
ユトが紙を取り出す。
「全部書かなくていいからね?」
「交易経路の推定に有用です」
「じゃあ書いていいけど、店主に先に聞きなよ」
「承知しました」
ロゼが少し得意げに笑った。
「こういうのはあたしの方が詳しいでしょ」
「はい。助かります」
「素直」
「事実ですので」
少し離れたところでは、デゼルが人の流れを見ていた。
「あれを見ろ」
突然言う。
「何でしょうか」
「揉めてる」
指した先では、二人の商人が荷物の置き場を巡って言い争っていた。
しかし、すぐに腕章のような布を巻いた数人が現れる。
話を聞き、周囲の証言を取り、区画を確認する。
しばらくして一方の荷物が移動された。
ユトが見ていた。
「治安維持担当者がいますね」
「市の間だけ出してるんだってさ」
ロゼが教える。
「各集団から何人かずつ」
「常設組織ではない」
「五日しかないからね」
少し進む。
今度は帳面を持った人間が、商人から何かを受け取っていた。
「徴税ですか?」
「場所代も混ざってるみたい」
「行政機能も存在する」
さらに進む。
旅人向けに寝具を貸し出す天幕。
怪我人を診ている場所。
行方不明になった家畜や荷物について尋ねる掲示板。
遠方から届いた知らせを読み上げる者。
ユトの筆が止まらない。
ロゼが呆れた。
「もう答え出てない?」
「何についてでしょうか」
「これ、街でしょ」
「恒久的な建築物がありません」
「でも飯食える」
「はい」
「泊まれる」
「はい」
「買い物できる」
「はい」
「役人もいる」
「はい」
「揉め事も処理してくれる」
「はい」
「じゃあ街じゃん」
「しかし五日後には消滅します」
「期間限定の街じゃん」
ユトが黙る。
「何その顔」
「分類を検討しています」
「街でいいじゃん」
「都市と市場の境界条件を――」
「街でいいじゃん」
エドナが横から口を挟んだ。
「ロゼの勝ちね」
「勝敗を競っていたのでしょうか」
「そういうところよ」
ユトは紙に書いた。
『恒久的建造物を有しない場合でも、一定期間、人口・交易・宿泊・治安維持・行政等の都市相当機能が成立する』
ロゼが読んだ。
「だから街でいいじゃん」
「記録上は区別します」
「頑固」
***
午後になる頃には、さらに多くの人間がユトのことを知っていた。
歩いているだけで声をかけられる。
「導師さん、本当にこの子が天族なのか?」
「本人に聞いてください」
「え?」
「聞こえるでしょう」
老人が隣にいた小柄な天族を見る。
恐る恐る尋ねる。
「……昔から、この井戸のところにいたのか?」
「いたよ」
天族が答える。
老人が泣きそうな顔になった。
その少し後には、
「うちの先祖が祀ってた天族が、この辺にいるはずなんだ」
「現在地が不明であれば確認は困難です」
さらに別の人から、
「天族に商売の行く末を占ってもらえないか」
「その天族の方が占術を行えるかどうかは、私には分かりません」
そして、
「死んだ親父にも会えるか?」
「死者を呼び出す能力はありません」
噂が広がるほど、内容が変わっていく。
ユトはそのたび訂正した。
天族を作れるわけではない。
呼び出せるわけでもない。
死者を見せる力でもない。
未来を知る力でもない。
ただ、そこにいる天族を、人間が認識しやすくする。
それだけだ。
「説明板でも作る?」
ロゼが言った。
「有用かもしれません」
「冗談だったんだけど」
「『ユーゼクスの加護によって可能なこと・不可能なこと』として――」
「本当に作り始めた」
ユトが書いている横で、デゼルがふと周囲を見る。
「ユト」
「はい」
「少し離れてみろ」
「何故でしょうか」
「いいから」
ユトは言われた通り、人の集まりから離れた。
十歩。
二十歩。
さらに進む。
途中で、一人の人間が首を傾げた。
「あれ?」
エドナを見る。
「薄くなった?」
さらにユトが離れる。
「消えた」
「こっちはまだ見えるぞ」
「俺はもう見えない」
ユトは戻ってきた。
「個人差がありますね」
「いつも通りだ」
デゼルが言う。
「昨日の場所みてえに広がってる感じはねえな」
「はい」
ユトは記録する。
『大市において、前日観測地点と同程度の加護範囲拡大は認められない。知覚可能範囲は、現在ユーゼクスが存在する器であるユトの位置を中心として形成される』
エドナがちらりと紙を見る。
「つまり、場所じゃなくてアナタについてくるわけね」
「現時点では、その認識で問題ありません」
それ以上、ユトは考えなかった。
この時はまだ。
***
日が沈む。
高台から見る大市には、無数の灯りが点っていた。
昼間は商品の色と人の声で埋め尽くされていた草原が、今度は星を地上へ落としたように光っている。
ロゼが隣に座った。
「すごいね」
「はい」
「五日後には全部なくなるんだって」
「そう伺っています」
「もったいないと思わない?」
ユトは少し考える。
「いいえ」
「へえ」
「必要な時期に、必要な場所へ人が集まる。それによって機能しているのであれば、恒久化する必要はありません」
「家も建てない?」
「維持費が発生します」
「道も?」
「使用頻度によります」
「役所も?」
「必要な期間のみ設置すればよいのであれば、その方が合理的です」
ロゼは何となく笑った。
「覚えとこ」
「何をでしょうか」
「今の台詞」
「なぜです?」
「なんとなく」
ユトには分からなかった。
ロゼはそれ以上説明しなかった。
しばらくして、ユトは大市を見ながら新しい紙を開いた。
「まだ書くの?」
「一つ気になりました」
「何?」
「昨日発生した出来事が、既に複数地域の方へ伝わっています」
「ああ。天族が見えるって話?」
「はい」
「市だもん。あたしたちだって、遠くの商品の値段とか、道の状況とか、ここで聞くよ」
「つまり、物資だけではなく情報も集積し、再分配される」
「難しく言えばね」
ユトは書いた。
『季節市は交易拠点であると同時に、広域情報伝達拠点として機能する』
「今さら?」
「私は今回初めて確認しました」
「そっか」
ロゼは足元の灯りを見下ろす。
「次の市に行ったら、もうユトの噂が先に着いてたりして」
「それほど速いでしょうか」
「賭ける?」
「何をですか」
「次の市で、何人に『天族を見せる導師』って呼ばれるか」
「その呼称は不正確です」
「だから広まるんじゃん」
「何故でしょうか」
「短いから」
「正確性が低下します」
「噂ってそういうもんだよ」
ユトは少し考えた。
そして紙の端へ、
『情報伝達過程における簡略化・意味変化に注意』
と書き足した。
「そこまで記録する?」
「既に発生していますので」
「そっかあ」
遠くで笑い声が上がる。
家畜の鳴き声。
商人の呼び込み。
見えるようになった天族と、いつまでも話している人間たち。
五日後には、この街は消える。
だが、ここで交わされた物も、言葉も、噂も消えない。
それぞれの人間が次の土地へ運んでいく。
ユトはそれを、まだ単なる調査結果として記録していた。
翌日。
市の反対側を歩いていたユトへ、一度も会ったことのない商人が声をかけた。
「おい、あんた」
「はい」
「天族が見える導師だろ?」
ユトは黙った。
少し離れたところで、ロゼが笑っていた。
「一人目」
「数えるのですか」
「もちろん」
「その呼称は不正確です」
「二人目来たよ」
別の人間が、こちらへ走ってきていた。
ユトは紙を取り出した。
「何書くの?」
『情報伝播速度、想定以上』
「そこ?」
五日で消える街には、地図に残る建物は何もなかった。
ただ、そこで広がった噂だけが、ユトたちより先にスラガを旅し始めていた。