セルディア原第一調査拠点。
そう記録してから、六日が経った。
天幕は、まだ同じ場所にあった。
天幕の周囲には、人の足跡も増えていた。
少し離れた場所には、数日前から来るようになった商人の荷車が一台停まっている。
そして地面には、別の意味で何本もの杭が打たれていた。
十歩。
二十歩。
三十歩。
さらにその先。
杭には番号が振られている。
「見える?」
ロゼが聞いた。
少し離れたところに立つ男が、エドナを見る。
「見える」
「声は?」
「聞こえるぞ」
「では、次へ移動します」
ユトが記録する。
男が首を傾げた。
「まだやるのか?」
「あと三地点です」
「三地点」
ロゼが繰り返した。
「昨日もやったよね?」
「昨日とは測定位置が異なります」
「うん。知ってる」
ユトは杭を一本抜いた。
「この地点では、前回より知覚可能距離が短くなっています」
エドナが地面を見る。
「その辺り、少し地脈から外れてるわね」
「記録します」
「もう地脈が原因でいいんじゃない?」
「他の要因を排除できていません」
「面倒ね」
「はい」
「褒めてないわよ」
「承知しています」
少し離れた場所で、デゼルが笑った。
***
セルディア原での研究は、昼と夜で内容が分かれていた。
昼間は、ユイの加護。
地脈の位置。
天族の分布。
古い建造物の痕跡。
そして夜になると、ユトは別の実験を始めた。
木箱だった。
両手で抱えられる程度の、小さな木箱。
装飾はない。
蓋と本体の間にも、特別な仕掛けは見当たらない。
ただし、誓約術式が定着している。
条件は単純だった。
『夜間だけ開けられる。
昼間になった場合、開いていても自動的に閉じる。
そして、夜間だけ発光する。』
日がまだ落ちる前。
ユトが箱の蓋へ手を掛ける。
動かない。
「開かない?」
ロゼが聞いた。
「はい」
「暗くしたら?」
「既に確認しました」
ユトは天幕の中を指した。
「布を重ねて外光を遮断しましたが、開きませんでした。発光もありません」
「じゃあ、暗いかどうかじゃないんだ」
「その可能性が高いです」
エドナが箱を見る。
「本当に『夜』を見てるってこと?」
「何をもって夜間と判定しているのかは、まだ不明です」
「そこまで調べるの?」
「重要です」
しばらく待つ。
空が赤くなり。
山の向こうへ日が沈む。
薄暗くなった頃。
「あ」
ロゼが言った。
箱が光っていた。
淡い光。
強くはない。
それでも、何の光源もない木箱が、自ら光を帯びている。
「発光を確認しました」
「綺麗だね」
「はい」
「そこは認めるんだ」
「観測事項ですので」
ユトが蓋へ手を掛ける。
今度は開いた。
「開きました」
「条件通りね」
エドナが言う。
ユトは箱の内部を見る。
特に何も入っていない。
箱そのものが、淡く光っているだけだ。
「発光強度は想定より低いですね」
「何を想定してたの?」
「もう少し明るい可能性も考えていました」
「箱に期待しすぎじゃない?」
ユトは記録用紙へ書く。
『夜間移行後、発光開始。開閉可能』
続けて、
『昼間に外光を遮断した状態では、発光及び開閉を確認できず』
「ねえ」
ロゼが箱を見る。
「これ、夜に使う箱なんでしょ?」
「現時点では実験用です」
「でも夜に開けて、夜に光る」
「はい」
「普通に便利じゃない?」
「便利かどうかは用途によります」
「夜に荷物探すなら便利」
「その場合、昼間に開けられないことによる不利益が小さくなります」
ロゼが瞬きをした。
「……それ、駄目なの?」
「駄目とは限りません」
ユトは箱を見る。
「ただ、誓約によって得られる効果が、記述された制限の大きさだけで決定されていない可能性があります」
「どういうこと?」
「この箱を夜間にしか使用しないのであれば、『昼間は開けられない』という条件は、文章上は明確な制限です」
「うん」
「しかし、使用者にとって実際の不利益は小さい」
「……ああ」
「その場合、誓約術式が何を代償として評価しているのかを確認する必要があります」
エドナがため息をついた。
「木箱一個でそこまで考えるのね」
「小規模な実験の方が安全ですので」
「それは正しいけど」
***
翌朝。
まだ日が昇る前から、ユトは箱の前にいた。
ロゼが目を覚まして外へ出る。
「……何してるの?」
「自動閉鎖の確認です」
「何時から起きてる?」
「必要な時間からです」
「そういう答えじゃなくて」
木箱は開いたままだった。
淡い光も残っている。
ユトは箱から少し離れ、時間を記録していた。
「中に手入れてたらどうなるの?」
ロゼが聞く。
「危険性のため確認していません」
「そりゃそう」
「ですが良い発想です。今度は試しに野菜でも入れてみますか」
「やるんだ」
東の空が明るくなる。
少しずつ箱の光が弱くなった。
「消えた」
「はい」
そして。
ぱたん。
蓋が閉じた。
ロゼが箱を見る。
ユトが記録する。
『発光停止後、自動閉鎖を確認』
「嬉しそう」
「想定した挙動と一致していますので」
「そうだね」
ユトは閉じた箱へ手を掛ける。
開かない。
「昼間条件へ移行しています」
「分かったから、朝ご飯にしよう」
「はい」
その後も、昼は地脈と加護を、夜は木箱を調べる日が続いた。
***
セルディア原第一調査拠点。
滞在十一日目。
夜。
ユトはその日最後の記録へ日付を書いた。
筆が止まる。
「……」
ロゼが気づいた。
「どうしたの?」
「連絡していませんでした」
「何を?」
「皆さんに」
「皆?」
「以前一緒に旅をしていた方々です」
ロゼが少し考える。
「……今?」
「当初は数日間の調査を想定していましたので」
「十一日いるけど」
「はい」
「十一日目なのは分かってた?」
「毎日記録していますので」
「そういう意味じゃないんだよなあ」
ユトは少し考えた。
「滞在予定の更新に伴い、関係者への連絡も行うべきでした」
「うん。まあ、それなら分かる」
「手紙を書きます」
「今から?」
「はい」
ユトは新しい紙を取り出した。
***
最初は、スレイ宛てだった。
『スラガ公国北部のセルディア原にて、調査を継続しています。
旧居住地と推定される遺構を複数確認しました。
当地の天族によれば、かつて複数の導師が出入りしていた時期があったとのことです。
現在、危険な憑魔は確認されていません。
今後も追加調査を行います』
ユトの筆が止まる。
少し考えてから、一文を追加した。
『遺構の用途及び年代については未確認です』
ロゼが覗き込む。
「そこ書くんだ」
「スレイさんが断定すると困りますので」
「遺跡って書いた時点でもう行きたがってると思うよ」
「まだ遺跡と断定していません」
「もっと行きたがると思う」
次はミクリオ。
こちらは長くなった。
ユイの加護。
通常地域との知覚距離の差。
地脈の位置との比較。
地点ごとの測定結果。
『現時点では、地脈条件と加護範囲の間に相関が存在する可能性を認めています。ただし、因果関係については未確認です』
「ミクリオ、これ読むの?」
ロゼが聞く。
「はい」
「全部?」
「必要であれば」
「絶対読むんだろうなあ」
ライラ宛てには、木箱のことを書いた。
『小規模な誓約術式の実験を継続しています。
今回の条件は、
夜間のみ開放可能。
昼間へ移行した場合、開放中であっても自動閉鎖。
効果として夜間のみ発光。
以上です。
昼間に人工的な暗所を作った場合には作動しませんでした。
術式が「夜間」をどのように判定しているのか、追加検証を予定しています』
最後に、
『制限の文章上の強度と、誓約者が実際に受ける不利益の大きさが一致しない場合についても、比較が必要と考えています』
と書いた。
「ライラ、大丈夫かな」
ロゼが言う。
「何がでしょうか」
「ユトがまた誓約の研究してるって知って」
「危険性の低い規模から実施しています」
「それは書いといた方がいいかも」
「追記します」
アリーシャ宛ては、別の意味で長くなった。
移動する行政窓口。
所属共同体と現在地を分離した住民記録。
税の徴収方法。
地域内の判断と、公国政府が介入する判断の違い。
ユトは書き続ける。
ロゼが横から紙の長さを見る。
「一番長くない?」
「行政制度については、アリーシャさんの参考になる可能性があります」
「セルディアの話より?」
「両方書いています」
「そっか」
その後も何通か書いた。
最後に、すべての手紙へ同じ一文を付け加える。
『現在は、セルディア原第一調査拠点に滞在しています。危険はありません』
***
翌朝。
問題が一つ発生した。
「ハイランドに手紙を送ることはできますか」
ユトが尋ねる。
相談に来ていた男が、変な顔をした。
「ハイランド?」
「はい」
「ここ二十年やってねえぞ」
「何故でしょうか」
「道が閉ざされてるからだ」
「崩落による通行止めの原因は解消しました」
「……何?」
「少なくとも、徒歩による通行は可能です」
男が黙った。
ロゼが横で頷く。
「そういう顔になるよね」
「何がでしょうか」
「二十年閉ざされてた道を『解決しました』で済ませるところ」
「通行は可能です」
「うん」
男がようやく口を開く。
「いや……道が通れるようになったって、ハイランドへ手紙運ぶ奴はいねえぞ」
ユトが止まる。
「……そうですね」
「そこは今気づいたの?」
「街道が通行可能であることと、郵便輸送網が存在することは別です」
「また分けた」
「異なりますので」
ユトは手紙を見る。
少し考える。
そしてデゼルを見た。
「……なんだ」
デゼルが先に言った。
「まだ何も言っていません」
「その顔はろくなこと考えてねえ」
「デゼルさん」
「ほら来た」
「こちらの手紙を、ハイランドまで運んでいただくことは可能でしょうか」
「俺を何だと思ってる」
「現時点で最も確実な輸送手段です。さらに、風の天族の力を持っているため速いです」
ロゼが笑った。
「国際郵便」
「言うな」
「もちろん、負担が大きい場合は断っていただいて構いません」
デゼルが手紙の束を見る。
「これ全部か」
「ハイランド側、一旦アリーシャさんへ届けていただければ、その後は既存の連絡経路を使用できると考えています」
「……どこまで行けばいい」
「引き受けていただけるのですか」
「一回だけだ」
「ありがとうございます」
「次からは郵便の仕組み作れ」
「私が作る必要はありません」
「お前なら作りかねないから言ってんだよ」
ユトは少し考えた。
「需要が継続する場合は、既存の輸送経路を利用する方法を検討します」
「もう始まってるじゃねえか」
***
手紙を渡す前に、ロゼが気づいた。
「返事は?」
ユトが見る。
「何でしょうか」
「返事、どこに送ってもらうの?」
「……」
ユトが止まった。
「ここにいるんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、ここ宛て?」
「行政上の住所は存在しません」
「でも、ここに届ければユトいるよね?」
「当面は」
「じゃあ書けば?」
ユトは封筒を見る。
少し前まで、スラガで住所について何度も尋ねていた。
固定された家がない。
現在地は変わる。
所属共同体と居住地は同一ではない。
住所という一つの欄へ押し込むこと自体が、生活形態に合わない人々がいる。
その一方で。
今のユトは動いていなかった。
昨日もここにいた。
今日もここにいる。
明日も、おそらくここにいる。
ユトは筆を取った。
『返信先』
その下へ、
『スラガ公国
セルディア原
第一調査拠点
導師ユト』
と書く。
ロゼが横から覗いた。
「住所できたね」
「所在地です」
「住所じゃないの?」
「正式な行政上の住所ではありません」
「でもそこに行けばユトいるよね」
「当面は」
「じゃあ住所でいいじゃん」
「所在地です」
「頑固だなあ」
エドナが言った。
「家の時と同じね」
「研究拠点です」
「誰も今その話してないわよ」
***
デゼルは昼前に出発した。
「なるべく早く戻る」
「急ぐ必要はありません。安全を優先してください」
「お前に言われなくても分かってる」
「ありがとうございます」
「あと」
デゼルが手紙を見る。
「返事、俺がまた持ってくんのか?」
「現時点では未定です」
「そこ決めとけよ」
「ハイランド側の輸送状況を確認してから判断します」
「……もういい」
デゼルは風のように去っていった。
それを見送っていた男が言う。
「返事も、ここに持ってくりゃいいんだな?」
「はい」
ユトが答える。
「当面は、セルディア原第一調査拠点に滞在しています」
「ああ。あの導師の天幕な」
「第一調査拠点です」
「分かりゃいいだろ」
「正式名称がありますので」
ロゼが笑った。
その日。
ユトは複数の手紙へ、同じ返信先を書いた。
『セルディア原第一調査拠点』
行政上の住所ではない。
本人もそう説明していた。
ただ、そこへ行けば、同じ場所に天幕があり。
同じ導師がいて、手紙を渡す相手がいる。
セルディア原に、久しぶりに。
誰かを訪ねるための場所ができた。