土日は朝晩に2本上げます。
青年は風向きを確認した。
問題ない。
いつも通りだ。
獣へ使う時と同じ。
静かに容器の蓋を開ける。
そして少量の粉を取り出した。
ほんの僅か、それだけで十分だった。
風へ乗せる。
粉末は夜の空気へ溶けるように消えていく。
目には見えない。
音もない。
匂いも極めて弱い。
甘いような。
花のような。
微かな青苦い香りだけ。
風が運ぶ。
焚き火の周囲へ。
最初に反応したのは鎧の男だった。
「……ふぁ」
欠伸。
男は目を擦る。
疲れているだけだと思った。
実際、そう見えた。
少しだけ眠気が強くなっただけ。
それだけのはずだった。
だが、次の瞬間。
男の身体が前へ傾く。
ガシャン。
鎧が鳴る。
膝が地面へ落ちる。
そしてそのまま静かに動かなくなった。
眠っている。
深く。
穏やかに。
その隣。
槍を持った男も同じだった。
視界が揺れる。
眠い。
異常なほど眠い。
何かがおかしい。
そう思った時には遅かった。
槍が手から落ちる。
男も崩れ落ちる。
焚き火の向こう。
ジーナは顔を上げた。
音がした。
金属音。
倒れる音。
違和感。
「……?」
視線を向ける。
鎧の男が倒れている。
槍の男も。
眠っているように見える。
だが、何かがおかしい。
ジーナは立ち上がった。
魔力を練る。
警戒心が走る。
魔物か。
毒か。
敵襲か。
考えるより先に身体が動く。
そしてその時だった。
風が吹く。
森の空気が流れる。
焚き火の煙が揺れる。
同時に微かな香りが届いた。
甘い。
懐かしいような奇妙な香り。
ジーナの眉が動く。
何か。
何かを思い出しそうになる。
昼間見たもの。
薬草。
粉末。
そして楽園の実。
まさか。
その考えが脳裏を掠めた瞬間。
身体が重くなる。
「……え?」
足に力が入らない。
頭がぼんやりする。
視界が霞む。
眠い。
異常なほど。
あり得ないほど。
魔法による精神干渉ではない。
毒とも違う。
眠気そのものが強制的に押し寄せてくる。
ジーナの顔色が変わる。
理解した。
何者かが近くにいる。
そしての原因は楽園の実だ。
そんな確信が生まれる。
理由は分からない。
証拠もない。
だが直感が叫んでいた。
昼間見た拠点の光景。
薬草。
砕かれた種。
研究の痕跡。
全てが一本に繋がる。
「あなた……なの……?」
誰に向けた言葉だったのか。
ジーナ自身にも分からない。
視界が揺れる。
焚き火が滲む。
立っていられない。
魔法を使おうとする。
だが集中できない。
眠気が重い。
まるで温かな毛布に包まれたように。
意識を奪っていく。
遠く、木々の向こう。
青年は首を傾げていた。
おかしい。
普通ならもう眠る。
獣もそうだ。
人間もそうだと思っていた。
だがあの少女だけ妙に粘る。
立ち上がった。
周囲を見た。
何か考えている。
青年は少し感心した。
強いのかもしれない。
あるいは体質か。
気になるが今はどちらでもいい。
眠ってくれるなら。
それでいい。
青年にとっては。
ただそれだけだった。
***
青年はすぐには動かなかった。
木の上から様子を見続ける。
森で生きる者にとって確認は重要だった。
罠に掛かった獣も。
川に浮いた魚も。
死んだように見えて動くことがある。
油断した者から怪我をする。
だからじっと待つ。
風が流れる。
焚き火の煙が揺れる。
眠り薬の香りも少しずつ薄れていく。
青年はそれを知っていた。
どれくらい待てば安全か。
どれくらいで薬が消えるか。
何度も試してきた。
獣で。
魚で。
時には自分自身で。
だから焦らない。
十分な時間が過ぎる。
風が変わる。
匂いが消える。
青年はようやく木から降りた。
足音はない。
落ち葉すら鳴らさない。
眠る冒険者たちの横を通る。
鎧の男。
槍の男。
焚き火の近くで眠る者。
誰も起きない。
青年は一人ひとりを確認する。
呼吸。
胸の動き。
顔色。
問題ない。
ただ眠っているだけ。
それを確認すると興味を失ったように視線を外した。
目的は別にある。
拠点だった。
青年は慣れた足取りで自分の拠点へ向かう。
散らかされた棚。
開けられた箱。
触られた道具。
少しだけ眉をひそめる。
だが怒りはしない。
獣に荒らされた時よりずっとマシだった。
壊されてはいない。
それなら問題ない。
青年は作業を始めた。
最初に手を伸ばしたのは塗り薬だった。
乾燥させた薬草。
獣脂。
樹液。
何度も配合を変えながら完成させたもの。
作るのに時間が掛かる。
材料集めも面倒だ。
だから優先する。
容器ごと袋へ入れる。
傷薬。
保存用の薬草。
乾燥肉。
加工途中の実験材料。
無駄のない動きだった。
どれが重要か。
どれがすぐ作れるか。
頭の中で整理されている。
冒険者たちから見れば宝の山だった。
だが青年にとっては違う。
生活用品だった。
失うと面倒な物。
それだけだ。
だから高価な物から回収する商人のように。
必要な物から順に集めていく。
棚を空にする。
袋をまとめる。
持ち運ぶ順番を考える。
今夜のうちに別の拠点へ移す。
朝になれば彼らは起きる。
起きた後で騒ぐだろう。
ならその前に終わらせればいい。
実に単純な話だった。
そして。
青年が知らないだけで。
その光景は異様だった。
王侯貴族が莫大な金額を払ってでも欲しがる薬学知識。
学者たちが人生を懸けて研究する発見。
それらを生み出した男が。
まるで冬支度でもするような気軽さで荷物をまとめているのだから。
焚き火は静かに燃え続ける。
冒険者たちは眠ったまま。
ジーナもまだ目覚めない。
夜の森には青年が荷物を整理する小さな音だけが響いていた。
だが。
その静かな時間は長く続かない。
運命はもうすぐ。
二人を同じ場所へ立たせようとしていた。
***
ジーナは夢を見ていた。
暖かい夢だった。
優しい夢だった。
幼い頃の記憶。
実家の庭。
柔らかな陽射し。
風に揺れる花々。
遠くから聞こえる母の声。
本を抱えて走る自分。
失敗して叱られた日。
褒められて嬉しかった日。
何気ない日常。
ありふれた思い出。
もう何十回も思い返したはずの記憶。
なのに、夢の中では輝いて見えた。
全てが美しい。
全てが愛おしい。
何もかもが幸福だった。
ジーナは微笑む。
懐かしい。
暖かい。
心地良い。
ずっとこのままでいたい。
そう思うほどに。
だが、しばらくして。
小さな違和感が生まれる。
――あれ?
夢の中のジーナが首を傾げる。
幸福だった。
それは事実だ。
家族に愛された。
恵まれていた。
それも事実だ。
けれど、ここまでだろうか。
ここまで完璧だっただろうか。
ここまで幸福だっただろうか。
思い出は美化される。
人は過去を綺麗に飾る。
それをジーナは知っている。
だからこそ気付いた。
この幸福は不自然だ。
甘すぎる。
暖かすぎる。
都合が良すぎる。
まるで「楽園のようだ」
ジーナの目が細くなる。
魔法使いとして培った警戒心が働く。
夢、幻覚。
精神干渉。
可能性を考える。
そして昼間の出来事が脳裏をよぎった。
楽園の実。
薬草。
粉末。
眠った冒険者たち。
甘い香り。
抗えない眠気さ
その瞬間。
全てが繋がった。
「……なるほど」
夢の中でジーナは呟く。
ようやく理解した。
自分は眠らされた。
おそらくあの拠点の主に。
しかもただ眠らせたのではない。
見ている夢まで操作されている。
あるいは誘導されている。
そこまで考えた時。
ジーナの口元に笑みが浮かんだ。
恐怖ではない。
怒りでもない。
純粋な驚きだった。
楽園の実。
人々が触れることすら恐れる植物。
それを利用して。
眠り薬を作り。
精神へ干渉し。
しかもそれを使用者だけ影響を受けない。
そんなことが可能なのか。
信じられなかった。
だが現実だった。
「本当に面白い人ね……」
夢の中でそう呟く。
そしてジーナは魔力を練った。
魔法使いにとって夢は特別なものではない。
意識の領域。
精神の領域。
干渉される可能性がある以上。
対策も存在する。
覚醒術式。
精神保護。
夢から目覚めるための初歩的な魔法。
彼女はそれを知っていた。
魔法陣は必要ない。
詠唱も不要。
意識の内側で魔力を組み上げる。
夢へ杭を打つように。
現実との繋がりを強める。
パキリ。
何かが割れる音がした。
夢の景色が揺れる。
庭が崩れる。
陽射しが砕ける。
懐かしい景色が霧となって消えていく。
幸福な夢も。
暖かな記憶も。
全てが遠ざかる。
そしてジーナはゆっくりと目を開いた。
視界は暗い。
焚き火の明かり。
夜の森。
冷たい空気。
現実だった。
頭は少し重い。
身体もだるい。
だが意識ははっきりしている。
魔法は成功した。
そして目覚めた直後。
ジーナは気付く。
誰かがいる。
近い。
非常に近い。
この拠点の中に。
音がする。
物を動かす音。
袋へ何かを入れる音。
人の気配。
ジーナは目を細める。
眠ったふりを続ける。
慎重に。
静かに。
心臓だけが少し早くなる。
ようやく。
ようやく会えるかもしれない。
楽園の実を研究した人物。
森で生きる謎の人間。
人々が怪物と噂する存在。
そして今。
数歩先で荷物を整理している人物へ。
ジーナは初めて意識を向けた。