魔法を持つ者は栄え、持たぬ者は蔑まれる。人々は魔法を神秘として崇め、危険な魔物を忌み嫌い戦いながら生きていた。
そんな時代、一人の魔力を持たない少年がいた。
魔力を持つ両親に捨てられ、飢えの果てに魔物を食べて生き延びた少年は、人々が当たり前だと思っている常識を疑い続ける。
やがて得た知識は、魔力を持たない者たちに生きる術を与え、魔力を持つ者たちには魔法の新たな可能性を示した。
後に彼は「近代魔導学の祖」「文明の父」と称されることになる。
だが、彼を知る不死の魔女だけは語ろうとしなかった。
歴史が神格化した英雄の正体が、誰よりも泥臭く、誰よりも必死に生きた、ただの一人の男だったことを。
これは、世界を変えた男と、その男を愛した魔女がいた時代の物語。
夜は長く、暗い。
しかし夜は必ず朝を迎える。
***
ピピピッ ピピピッ
「…ん〜、もう時間かぁ?」
寝ぼけながらも青年は起き上がり、カーテンを開ける。
窓の外には、見慣れた都市の風景が広がっていた。
ガラス張りの高層ビル。
大型の電光広告。
朝の通勤ラッシュで徐々に埋まる歩道。
街灯の支柱には魔法陣が刻まれた金属板が埋め込まれ、夜になると魔力灯が淡く輝く。
交差点の信号機の根元には小さな結界装置が設置されている。
都市部に魔物が侵入することは滅多にないが、それでも対策は義務だった。
遠くには巨大な魔導障壁発生塔が見える。
透明なため普段は目に見えないが、非常時には都市全体を覆う防壁として機能する。
人々はそれを特別なものとは思わない。
電柱や水道管と同じ、生活を支える当たり前の設備だった。
その礎を築いた人物の名を、誰もが学校で学んでいた。
***
道路を走る車のほとんどは電気と魔力を併用するハイブリッド車だった。
走行音は驚くほど静かで、タイヤが路面を滑る音だけが聞こえる。
配送トラックの側面には魔力補助機関搭載の文字。
大型車両は積載量が多いため、魔力補助なしでは効率が悪いのだ。
上空では数台の浮遊車両がゆっくりと移動している。
ただし空を飛べるのは特別な許可を持つ車両だけだ。
救急搬送車。
対魔物機動部隊。
政府関係車両。
一般人が所有できるものではない。
駅へ向かえばさらに人で溢れていた。
魔導鉄道は現在の主要交通手段である。
車両の下部には巨大な魔導結晶が搭載され、線路上に設置された魔力供給網からエネルギーを受け取る。
かつて蒸気機関車が世界を変えたように、魔導鉄道は人類の生活圏を広げた。
その礎を築いた人物の名を知らない人間はあまりいないだろう。
***
休日になると大型ショッピングセンターは家族連れで賑わっていた。
吹き抜けの中央には巨大な魔導ディスプレイが設置され、季節限定イベントの映像を映し出している。
一階では魔導家電フェアが開催されていた。
自動浄化浴槽。
永久保冷庫。
魔力炊飯器。
どれも一般家庭に普及した製品だ。
ペットショップでは小型魔獣の飼育用品が並んでいる。
もちろん危険種ではない。
長い歴史の中で人類に適応した種だけが流通を許可されていた。
食品売り場には魔力栽培野菜のコーナーもある。
安定した魔力環境で育てられた作物は品質が高く、人気商品だった。
さらに上階へ行けば映画館やゲームセンターもある。
人気ゲームの題材は歴史上の英雄たち。
その中には、魔導文明の礎を築いた一人の青年を主人公にした作品も少なくなかった。
***
始業ベルが校内に響く。
正確にはベルではない。
校舎全体に設置された魔導通信網による一斉放送だ。
生徒たちは教室へ急ぐ。
教室の机にはタブレット端末と魔導端末が備え付けられている。
数学。
国語。
歴史。
そして魔力学。
現代の学校ではどれも必修科目だった。
校庭の一角には魔法実技場が存在する。
結界で囲まれた広場では、生徒たちが初歩的な魔法訓練を行っていた。
もっとも、戦闘魔法を扱える者は少ない。
ほとんどの人間にとって魔法とは、生活を便利にするための技術でしかない。
歴史の授業では教師が教科書を開く。
『混乱期から新世界歴への移行』
ページには一人の青年の肖像画が掲載されていた。
世界を変えた英雄。
誰もが知る偉人。
だが、その人物が生前どれほど悩み、迷いながら歩んでいたのかを知る者は少ない。
それを知るのは、残された少ない記録と今も生きる1人の魔女だ。
***
歴史研究家や学者はいつも魔女を訪ねる。
魔女の知識や蓄えた書物は宝の山だからだ。
魔女は危険か否かを判断したあと必要な物を渡すが、いつもあの英雄の話になると口を閉ざす。
他の魔女に聞くと理由を知っている為か、必ず笑って誤魔化される。
魔女にとってあの英雄はいつまで経っても忘れられない。
大切な思い出は誰にも共有したくはないし、英雄なんて呼ばれている男が本当はただの平凡な…ちょっと変な人間だったなんて信じられないだろう。
魔女はクスリと微笑みながらその思い出に願いを込めて鍵を掛ける。
誰も彼を忘れてしまわないように。
誰も彼の本当の姿を知りませんようにと。