青年は迷わなかった。
閃光が炸裂した瞬間。
既に次の行動へ移っていた。
走る。
ただそれだけ。
戦わない。
様子も見ない。
勝ったかどうかも確認しない。
森で生きる者にとって重要なのは勝利ではない。
生存だ。
危険から離れること。
それだけだった。
夜の森を駆ける。
足音は小さい。
枝を避ける。
根を跨ぐ。
崖を回る。
何年も何年も繰り返した道。
身体が覚えている。
やがて。
小さな拠点へ辿り着く。
普段は採集の時だけ使う場所。
最低限の設備しかない。
だが今夜には十分だった。
青年は入口を塞ぐ枝をどける。
中へ入り荷物を降ろす。
薬。
乾燥肉。
材料。
道具。
一つずつ確認する。
失ったものはある。
だが重要な物は持ち出せた。
それで十分だった。
青年はようやく息を吐く。
安堵する。
流石に追って来ないだろう。
そう思った。
あの人数。
あの混乱。
しかも夜。
森に慣れていない人間が追跡できるとは思えない。
少なくとも今夜は。
だから少しだけ気を緩めた。
薬草を棚へ置く。
荷物を整理する。
腰を下ろす。
そして――
直後だった。
背筋を何かが走る。
冷たい。
嫌な感覚。
説明できない。
だが確実な警告。
青年は反射的に立ち上がった。
考えるより先に。
身体が動いた。
次の瞬間。
バンッ!!
何かが飛来する。
先ほどまで座っていた場所へ。
青年は目を見開いた。
敵だ。
そう判断する。
魔法か何かだろう。
詳しくは分からない。
だが危険なのは分かる。
青年は壁際へ身を寄せる。
呼吸を殺す。
周囲を見る。
何が起きた。
どこから来た。
何も分からない。
しかし飛来した光はそこで終わらなかった。
床へ落ちた瞬間。
淡い光を放ち始める。
ピィィィィィ――
甲高い音。
耳障りな音。
小さな虫の鳴き声にも似ている。
だが不快だった。
青年は眉をひそめる。
何だこれは。
攻撃ではない。
少なくとも今は。
だが目立つ。
非常に目立つ。
音も。
光も。
森では致命的だった。
獣を呼ぶ。
魔物を呼ぶ。
人も呼ぶ。
最悪だ。
青年は咄嗟に布を被せる。
音は消えない。
光も漏れる。
埋めようとする。
音は続く。
投げ捨てる。
音は続く。
青年の表情が険しくなる。
理解できないものほど厄介だった。
一方その頃。
森の中を進むジーナは小さく息を吐いた。
成功。
予想通りだった。
あの人物は荷物を持ち出している。
だから魔法も一緒に運ばれる。
本来なら防犯用。
研究資料や貴重な薬を守るためのもの。
盗まれた場合に位置を知らせる。
それだけの魔法。
攻撃性はない。
危険もない。
だからこそ気付かれにくい。
だがジーナは少しだけ笑う。
もし相手が普通の盗賊なら。
今頃混乱しているだろう。
光る。
鳴る。
位置を知らせる。
それだけで十分だからだ。
しかし今回の相手は違う。
普通ではない。
だからこそ。
どう反応するのか興味があった。
あの人物は。
何を考えるのか。
何をするのか。
追跡しながらジーナは期待していた。
森の中で出会った最大の謎。
その正体へ。
少しずつ近付いていることに。
そして拠点の中。
青年は未だに鳴り続ける光へ険しい視線を向けていた。
魔法は分からない。
理屈も分からない。
だが一つだけ分かる。
こんなに目立つものを置いていたら。
何かが来る。
それだけは確信できた。
だから青年は頭を悩ませる。
森の支配者と噂される男は今。
たった一つの初級防犯魔法相手に本気で困っていた。
光は鳴り続けていた。
ピィィィィ――
青年は木の棒で突いてみた。
変わらない。
土へ埋める。
変わらない。
布で包む。
少し光が弱くなるだけ。
音はそのまま。
青年は顔をしかめた。
嫌な道具だ。
何が目的なのかも分からない。
どうすれば止まるのかも分からない。
獣や植物ならまだ良かった。
観察できる。
試せる。
理由を探せる。
だがこれは違う。
魔法だった。
青年は壁にもたれながら小さく息を吐く。
魔法。
嫌いではない。
だが好きでもなかった。
正確には理解できなかった。
青年に魔力はない。
生まれつき一欠片も。
だから魔法は最初から遠い存在だった。
空を飛ぶ者。
火を出す者。
傷を癒す者。
皆が羨む力。
だが青年は羨ましいと思ったことがない。
なぜならどこか納得できなかったから。
魔法使いたちは火を起こす。
青年は木を擦る。
魔法使いたちは傷を癒す。
青年は薬草を探す。
魔法使いたちは獲物を焼く。
青年は罠を作る。
それだけだった。
どちらが正しいという話ではない。
ただ青年にはどうしても思えてしまった。
楽をしている。
もちろん理屈では分かっている。
魔法にも努力は必要だろう。
訓練もあるだろう。
簡単なものではない。
木を擦って火を起こす苦労を知っているから。
薬草を何百種類も試して腹を壊した経験があるから。
どうしてもそう感じてしまう。
だから興味を持たなかった。
学ぼうとも思わなかった。
関係ない。
自分にはないものだ。
そう割り切っていた。
だが青年は光る魔法を睨む。
今は少しだけ後悔していた。
知っていれば止め方くらい分かったかもしれない。
正体くらい分かったかもしれない。
こんな風に困らなかったかもしれない。
そう思う。
しかし次の瞬間には別の考えが浮かぶ。
――いや、無理だろ。
青年は眉をひそめる。
いつ学ぶんだ。
誰から学ぶんだ。
街にいた頃か。
腹を空かせていた頃か。
捨てられた後か。
森で死にかけていた頃か。
そんな余裕はなかった。
毎日生きるだけで精一杯だった。
火を起こす。
食べ物を探す。
雨を凌ぐ。
怪我を治す。
それだけで一日が終わる。
魔法の勉強など考えたこともない。
青年は苦笑した。
少しだけ、本当に少しだけ。
理不尽だと思った。
魔法を持つ者は生まれた時から学べる。
教師もいる。
本もある。
仲間もいる。
自分には何もなかった。
だから知らない。
知らないまま生きてきた。
そして今、知らないことに困っている。
なんとも皮肉だった。
ピィィィィ――
また音が鳴る。
青年は顔をしかめる。
考えても仕方ない。
知らないなら調べるしかない。
それがいつものやり方だった。
魚もそうだった。
毒草もそうだった。
忌々しい果実もそうだった。
分からないなら観察する。
試す。
失敗する。
また試す。
それだけだ。
青年は光る魔法へ手を伸ばした。
少しだけ警戒しながら。
少しだけ苛立ちながら。
そしてどこかで思う。
もし次にどこかで魔法使いに会ったら。
少しくらいは聞いてみてもいいかもしれない。
魔法というものについて。