ピィィィィ――
音は鳴り続けていた。
森の静寂を裂くように。
規則正しく。
執拗に。
その音を頼りに、ジーナたちは慎重に進む。
誰も口数は多くない。
先ほどの閃光。
消えた森の主。
そして追跡魔法。
相手が並の人間ではないことは全員理解していた。
「……近いわ」
ジーナが呟く。
音はもうすぐそこだ。
木々の隙間から建造物が見える。
小規模な拠点。
採集や狩猟の中継地だろう。
ジーナは手で合図する。
冒険者たちが散開した。
左右へ。
背後へ。
逃げ道を塞ぐように。
慎重に、極めて慎重に。
その間にもジーナは考える。
追跡魔法は初級魔法だ。
子供でも知っている。
解除も簡単。
魔力を流し込めば終わる。
それだけにもかかわらず。
未だに鳴り続けている。
つまり森の主は魔力を使えない。
あるいは解除方法を知らない。
どちらか。
そしてどちらであっても興味深かった。
あれほどの知識を持ちながら。
魔法だけが欠けている。
そんな人間が本当に存在するのだろうか。
やがて包囲が完成する。
ジーナはゆっくりと扉へ近付いた。
魔力を練る。
いつでも防御魔法を展開できるように。
呼吸を整える。
そして踏み込んだ。
――誰もいない。
魔法以外静まり返った室内。
荒れた棚。
散乱した荷物。
開け放たれた収納。
慌てて持ち出した形跡。
床には足跡。
外へ続く痕跡。
誰が見ても分かる。
逃走の跡だった。
「……逃げられたか」
冒険者の一人が吐き捨てる。
ジーナも小さく唇を噛む。
惜しい。
あと少しだった。
あの人物に辿り着けたかもしれないのに。
そして同時に納得もする。
だから魔法が鳴り続けていたのだ。
解除する余裕もなく逃げた。
そう考えれば自然だった。
ジーナは音の発生源へ近付く。
床に転がる追跡魔法。
まだ鳴っている。
まだ光っている。
彼女はしゃがみ込む。
指先から魔力を流す。
それだけでピタリ。
音が止まる。
光も消える。
静寂が戻る。
その瞬間だった。
チッ――
舌打ち。
小さい。
本当に小さい音。
だが確かに聞こえた。
ジーナの耳が動く。
反射的に振り返る。
冒険者たちを見る。
誰も舌打ちなどしていない。
困惑した顔。
警戒した顔。
疲れた顔。
それだけなら聞き間違いか。
そう思いかける。
しかし違和感が残る。
あまりにもタイミングが良すぎる。
まるで欲しかった答えを目の前で奪われたような。
悔しそうな。
そんな舌打ち。
ジーナの瞳が細くなる。
ゆっくりと天井を見る。
木材。
見た事のない縄の様なもの。
乾燥させた薬草。
物置。
それ以外は何もない。
だが彼女の胸の奥で何かが引っかかった。
一方少し前のこと。
青年は天井にいた。
身体を縮める。
息を潜める。
ほとんど動かない。
獣を観察する時と同じ。
完璧な静止。
そして彼は見ていた。
ジーナが魔法へ触れる様子を。
魔力を流す様子を。
音が消える瞬間を。
そして思わず舌打ちした。
本当に無意識だった。
少しだけ悔しかった。
期待していたからだ。
どこかに仕掛けがあるのではないか。
押す場所があるのではないか。
壊し方があるのではないか。
そう思っていた。
だが違った。
答えは単純。
魔力。
魔力がなければ触れることすらできない。
魔法は魔力で動き。
魔力で止まる。
結局そういうものだった。
青年は静かに歯を食いしばる。
別に怒っているわけではない。
羨ましいわけでもない。
ただ少しだけ悔しい。
魚なら理解できた。
植物なら理解できた。
毒なら。
薬なら。
動物なら。
観察して答えへ辿り着けた。
だが魔法は違う。
自分には入口そのものが存在しない。
その事実がほんの少しだけ。
気に入らなかった。
そして下では。
ジーナが静かに周囲を見回していた。
誰も気付いていない。
だが彼女だけは感じている。
まだいる。
どこかに。
ほんの僅かな確信と共に。
***
静寂が続く。
誰も動かない。
ジーナは天井を見上げていた。
青年は天井裏で息を潜めていた。
互いに存在を確信しているわけではない。
だが何かがおかしい。
そんな違和感だけが空間を支配していた。
そしてその均衡は。
あまりにも間抜けな理由で崩れる。
ミシッ――
小さな音。
青年の耳が動く。
まずい。
そう思った時には遅かった。
長年使っていた避難場所。
本来なら獣から身を隠すための場所。
だが今夜は違う。
慌てて飛び込んだ。
しかも体重を掛けた場所が悪かった。
支えの縄。
その最も傷んでいた部分。
それが限界を迎える。
ブチッ。
縄が切れる。
青年の目が見開かれる。
「あ」
そして。
ドガァン!!
天井が崩れた。
木材。
縄。
乾燥した薬草。
埃。
全てを巻き込みながら。
青年が真下へ落下する。
派手な音が拠点へ響いた。
そして時が止まる。
誰も動けない。
冒険者たち。
ジーナ。
そして青年。
全員が固まっていた。
床へ転がる青年。
崩れた天井。
舞い上がる埃。
あまりにも予想外。
あまりにも間抜け。
森の主。
人の形をした魔物。
様々な噂の正体が。
天井から落ちてきた。
しかも若い。
思ったよりずっと若い。
冒険者たちの脳が理解を拒否する。
青年も同じだった。
見つかった。
数秒にも満たない時間。
だが全員にとって永遠のように長かった。
そして最初に動いたのは青年だった。
反射。
もはや本能。
身体が跳ね上がる。
人間離れした速度。
横たわった状態から。
獣のように。
一瞬で立ち上がる。
「っ!」
冒険者たちが息を呑む。
速い。
速すぎる。
剣士でもない。
騎士でもない。
ただ森で生きてきた男。
それなのに動きだけなら猛獣だった。
青年は迷わない。
戦わない。
攻撃もしない。
狙うのはただ一つ。
崩れた天井を支える縄。
それを引けば残った部分も落ちる。
視界を塞げる。
混乱を作れる。
逃げられる。
青年は縄へ飛び付いた。
全力で引く。
だが今夜だけは違った。
「捕まえた」
ジーナが動く。
既に魔力は練り終えていた。
天井を見上げていた時から警戒を解いていなかった。
だから間に合う。
青白い魔法陣が展開される。
瞬間。
空間が震えた。
半透明の壁。
光の障壁。
それが拠点全体を包み込む。
結界。
本来は誰も出入りできない簡易的な拠点を作る防御魔法、でも今回は逃走阻止に使う。
森の主。
そして冒険者たち。
全員を中へ閉じ込める。
次の瞬間。
青年がロープを引く。
ドォン!!
残った天井が崩れる。
木材が降る。
埃が舞う。
だが誰も逃げられない。
結界が全てを遮る。
青年の動きが止まる。
ジーナも止まる。
互いの視線が初めて交差する。
数歩先。
森の主。
噂の男。
そして魔法使い。
初めて互いの顔を見る。
青年は驚いていた。
強い。
今まで出会った生き物よりも。
ジーナもまた驚いていた。
普通の青年だった。
角もない。
牙もない。
魔物でもない。
神秘的でもない。
ただの人間。
少し日に焼けていて。
傷だらけで。
森で生きてきたことが分かる男。
それだけなのに。
誰よりも異質だった。
結界の中。
誰も言葉を発しない。
冒険者たちも動けない。
まるで時が止まったようだった。
だが今度は違う。
先ほどの偶然ではない。
互いを理解しようとする沈黙。
そして長い追跡劇の終わり。
森で最も奇妙な男と。
後に不死の魔女と呼ばれる少女。
二人の出会いは。
あまりにも締まらない天井崩落と共に始まったのだった。