結界が閉じる。
淡い光の壁。
出口はなく、隙間もない。
冒険者たちは安堵した。
終わった。
そう思った。
森を騒がせた謎の人物。
ようやく捕らえた。
後は拘束するだけ。
誰もがそう考えた。
だが青年だけは違った。
諦めていなかった。
欠片ほども。
視線が走る。
冒険者。
扉、窓、天井。
床。
一瞬。
本当に一瞬で全てを確認する。
そして結論を出した。
分からない。
なら試す。
それだけだった。
青年が動く。
冒険者たちの反応より早く。
「待て!」
誰かが叫ぶ。
青年は止まらない。
剣士が前へ出て肩を掴もうとする。
その瞬間。
青年の身体が滑る。
まるで猫だった。
身体を捻る。
腕を避ける。
足を潜る。
掴めない。
触れられない。
冒険者の足へ手を掛ける。
まるで踏み台。
そして跳ぶ。
「なっ!?」
驚愕の声。
青年はそのまま別の冒険者の肩へ着地する。
さらに跳ぶ。
また別の人間を利用する。
壁を蹴る。
机を蹴る。
止まらない。
森の中を駆ける獣そのものだった。
剣術ではない。
武術でもない。
ただ捕まらないためだけに磨かれた動き。
冒険者たちは翻弄される。
掴めない。
予測できない。
攻撃する隙もない。
それでも結界は越えられない。
青年は出口へ飛ぶ。
一直線に。
迷いなく。
ドゴォン!!
「ぶぇっ!?」
凄まじい音。
青年の身体が弾かれる。
結界へ正面から激突した。
見えない壁。
その存在を理解するより先に。
額がぶつかる。
肩がぶつかる。
全身が吹き飛ぶ。
床へ転がる。
世界が揺れる。
青年は起き上がろうとする。
立たなければ。
逃げなければ。
そう思う。
だが身体が言うことを聞かない。
視界が二重になる。
頭が痛い。
猛烈に。
今まで殴られたことも。
崖から落ちたこともある。
それでもこんなぶつかり方は初めてだった。
青年はふらつきながら顔を上げる。
何もない。
何もないのに通れない。
理解できない。
理解できないまま。
手を伸ばす。
指先が触れる。
冷たい感触。
硬い壁。
そこにある。
確かにある。
なのに見えない。
その理不尽さに。
青年は一瞬だけ呆然とした。
そして限界が来る。
視界が暗くなる。
足から力が抜ける。
身体が傾く。
最後に見えたのは。
慌てて近付いてくる冒険者たちと。
どこか信じられないものを見るような顔をしたジーナだった。
青年はそのまま。
床へ倒れる。
ゴトリ。
音が響く。
静寂。
あまりにも予想外。
結界は強力な魔法ではない。
大型魔物を閉じ込める術でもない。
あくまで誰も出入りできない密閉空間。
普通なら見えた時点で止まる。
あるいは魔力で触れて異常を察する。
だがこの青年は違った。
躊躇なく突っ込んだ。
存在そのものを知らないかのように。
そして頭から激突した。
「……」
ジーナは言葉を失う。
演技ではない。
策でもない。
本当に知らなかったのだ。
結界を。
魔法を。
魔力を。
それほどまでに。
この青年は魔法から遠い場所で生きてきた。
ジーナは倒れた青年を見つめる。
噂の森の主。
人の形をした魔物。
狩人殺し。
その正体は。
結界に全力で頭突きをして気絶した青年だった。
あまりにも締まらない。
あまりにも情けない。
だが、だからこそ。
ジーナの興味はますます深くなっていった。
この人は何者なのだろうか。
魔法も使えず。
こちらの常識が通じず。
それでいて自分たちの誰よりも多くを知っている。
そんな人間を。
彼女は初めて見たのだった。
***
意識が浮上する。
最初に感じたのは痛みだった。
頭、額、首。
全部痛い。
特に額。
殴られたような鈍い痛みが脈打っている。
青年は顔をしかめた。
失敗したと理解する。
逃げられなかった。
捕まった。
記憶が戻る。
見えない壁。
激突。
そして暗転。
そこまで思い出したところで、ゆっくりと目を開いた。
見慣れた天井。
見慣れた壁。
見慣れた匂い。
本拠点だった。
青年は一瞬だけ安堵しかける。
だが身体が動かない。
腕、足、胴。
全て固定されている。
丁寧に、だが強固に。
椅子ごと縛り付けられていた。
青年は黙って拘束を確認する。
無駄に暴れない。
まず状況を見る。
それが癖だった。
そして顔を上げる。
少女と目が合った。
「おはよう」
椅子に腰掛けている。
まるで友人でも訪ねてきたかのような気軽さだった。
「気分はどう?」
明るい声。
敵意は感じない。
少なくとも表面上は。
青年は何も答えなかった。
ただ見つめる。
沈黙したまま。
少女、ジーナは肩を竦めた。
「そういう反応すると思ったわ」
返事はない。
沈黙。
青年は相手を観察していた。
年齢、服装。
装備、魔法使い。
間違いない。
あの見えない壁を使った少女。
青年はさらに視線を動かす。
周囲を確認する。
すると違和感に気付く。
荷物だった。
床や地面そこかしこに。
物が並んでいる。
整然と。
綺麗に。
薬草。
容器。
乾燥肉。
道具。
石器。
木器。
狩猟具。
書きかけの地図。
実験材料。
さっき倒壊した拠点から持ち出した荷物。
それだけではない。
他の拠点に置いていた物まである。
青年の目が僅かに細くなる。
全部運ばれている。
しかし雑ではない。
ある程度用途ごとに整理されていた。
青年は理解した。
調べられている。
その事実に不快感を覚える。
だが表情には出さない。
ジーナはそんな青年を見ながら笑った。
「勝手に触ったことは謝るわ」
返事はない。
「でも正直に言うとね」
ジーナの目が輝く。
興奮を隠せていない。
「私、昨日ほとんど眠れなかったの」
青年は眉をひそめる。
意味が分からない。
「知らない道具ばかりなんだもの」
楽しそうだった。
心の底から。
「この薬は何?」
「この罠は何?」
「この地図はどう読むの?」
「この乾燥した草は何に使うの?」
矢継ぎ早に言葉が飛ぶ。
青年は少しだけ困惑する。
怒られると思っていた。
責められると思っていた。
拘束されているのだから当然だ。
だが目の前の少女は違う。
捕まえた犯罪者を見る目ではない。
珍しい虫を見る子供のような目。
研究者の目。
好奇心の塊。
そんな視線だった。
青年は警戒を強める。
こういう相手は苦手だった。
何を考えているか分からない。
獣なら分かる。
魔物もある程度分かる。
だが人間は分からない。
特にこの目をした者は。
なおさらだった。
ジーナは机へ肘をつく。
そして青年を真っ直ぐ見た。
「じゃあ改めて」
気さくに微笑む。
まるで初対面の挨拶のように。
「私はジーナ」
「あなたの名前は?」
青年は黙ったまま。
答えない。
視線も逸らさない。
部屋には静寂だけが流れる。
そしてジーナは吹き出した。
「うん、そう簡単には教えてくれないわよね」
楽しそうだった。
青年は理解する。
面倒な相手に捕まった。