部屋の空気は少し和らいでいた。
少なくとも最初のような緊張感はない。
青年は相変わらず縄で縛られている。
だが今の彼は捕虜というより。
珍しい学者か職人に近かった。
ジーナは机の上の楽園の実を手に取る。
つややかな果皮。
甘い香り。
人を惑わす果実。
「それで」
彼女の目が輝く。
「あなたはこれをどう使ってるの?」
青年は果実を見る。
それから答えた。
「色々」
ジーナとアゼドが身を乗り出す。
ようやく本題だった。
二人の予想は似ている。
毒、幻覚。
狩猟。
魔物除け。
その辺りだろう。
薬にしていることは既に分かっている。
だがどこまで利用しているのか。
知りたい。
非常に知りたい。
「まず魚」
青年が言う。
二人は頷く。
予想通りだ。
魚を捕るため。
そこまではわかる。
だが次の言葉で二人の表情が変わる。
「果肉を食べさせる」
「太るから」
沈黙。
ジーナが瞬きをする。
アゼドも瞬きをする。
「……太る?」
「太る」
青年は当然のように頷く。
「肉が増える、味も良くなる」
「よく食べるようになる」
二人は顔を見合わせた。
そんな話は聞いたことがない。
そもそも誰も試したことがない。
楽園の実なのだから。
食べる発想すらない。
青年は続ける。
「魚だけじゃない」
「鳥も、小さい獣も」
「よく育つ」
ジーナが固まる。
アゼドが固まる。
彼らの頭の中では。
楽園の実は危険物だった。
だが青年は違う。
飼料として扱っている。
しかも成果付きで。
「待って」
ジーナが手を上げる。
「果肉だけ?全部じゃなくて?」
「種は駄目」
即答だった。
「種が危険」
「果肉は平気、むしろ良い」
さらっと恐ろしいことを言う。
アゼドが額を押さえる。
既に頭が痛い。
だがまだ始まりだった。
「他には?」
アゼドが聞く。
青年は少し考える。
「眠り薬」
二人が頷く。
これは知っている。
昨夜使われた。
だが次が問題だった。
「痛み止め」
「傷薬」
「痒み止め」
「熱冷まし」
「虫除けと獣避け、あと魚寄せ」
「それから保存に」
「腐ってないか確かめるのに」
言葉が増える。
どんどん増える。
ジーナの顔から笑みが消えた。
真顔になる。
研究者の顔。
アゼドも同じ。
冒険者ではなく。
未知と遭遇した人間の顔だった。
「……待って」
今度はアゼドが止める。
「一つずつ説明してくれ」
青年が首を傾げる。
不思議そうに。
「?」
何が不思議なのか。
そんな顔だった。
「なんで?」
その一言で。
二人は理解する。
この男にとって。
これは当たり前なのだ。
何年も。
試して。
失敗して。
積み重ねた結果。
だから特別ではない。
当たり前。
だがジーナたちから見れば違う。
人類が何百年も恐れてきた果実。
近付くことすら避けてきた植物。
それをこの男は。
利用方法の一覧表のように語っている。
しかもまだ終わっていない。
青年は続ける。
「あと種」
ジーナとアゼドが身構える。
種。
さっき言っていた危険な部分。
当然毒として使うのだろう。
そう思った。
だが。
「種は砕いて果肉と混ぜて畑の近くに撒く」
「虫が寄る、鳥も寄る」
「集まったやつを捕る」
部屋が静まり返る。
青年は続ける。
「砕くと効率がいい」
「乾燥させると保存できる」
「薬草と少し混ぜる、薬草の必要な量が減る」
「火を使うと効き目も変わる」
「水だと広がる」
ジーナの頭が追いつかない。
アゼドも追いつかない。
二人が考えていたのは。
楽園の実をどう克服したか。
どう生き延びたか。
その程度だった。
しかし違った。
この男は克服したのではない。
研究した。
理解した。
分解した。
そして利用した。
人類が恐怖として遠ざけていたものを。
道具として扱っている。
その差は。
二歩どころではない。
十歩でも足りない。
もっと先。
もっと遥か先。
ジーナは思わず椅子から立ち上がる。
「待って待って待って!」
青年がびくっとする。
「な、なんだよ」
初めて少し焦った声。
だがジーナはそれどころではない。
机へ両手をつく。
目を輝かせる。
「その話全部聞かせて!!他のも全部!!」
青年は困惑した。
何故そんなに興奮しているのか。
本気で分からなかった。
だがアゼドだけは理解していた。
今この瞬間。
この部屋で起きていることを。
もしこの話が本当なら。
もし再現できるなら。
楽園の実は恐怖の象徴ではなくなる。
薬になる。
食料になる。
産業になる。
そしてそれは。
国が動く話だった。
アゼドは静かに息を吐く。
――とんでもないものを見つけてしまった。
***
「全部聞かせて!」
ジーナの声が部屋に響く。
青年は少しだけ身を引いた。
勢いが凄い怖い。
魔物より怖いかもしれない。
そんなことを考える。
だがその前に別の問題があった。
青年の腹が鳴った。
ぐぅぅぅ。
部屋が静かになる。
ジーナが瞬きをする。
アゼドも見る。
青年は無表情を貫こうとした。
しかし腹は容赦しない。
ぐぅ。
再び鳴る。
「……腹減った」
ぼそりと呟く。
ジーナが思わず吹き出す。
「この状況で?」
青年は不満そうだった。
「減るものは減る」
正論だった。
アゼドが苦笑する。
「そうだな、朝から何も食べてないしな」
青年は頷く。
そして机の上を見た。
楽園の実。
棚にある乾燥肉。
乾燥した薬草。
だが手は縛られている。
食べられない。
空腹の様子を見たジーナが荷物袋を漁った。
「これならどう?」
取り出したのは乾燥パンだった。
冒険者の携行食。
保存性が高く、腹持ちも良い。
比較的高価。
旅人には人気で美味な部類。
青年は初めて見る食べ物だった。
視線が止まる。
じっと見る。
動かない。
「……何それ」
「パン」
「パン?」
「知らないの?」
青年は首を傾げる。
知らない、見たこともない。
匂いを嗅ぐ。
怪しい。
かなり怪しい。
ジーナは一瞬考える。
そして。
「あー」
納得した。
この男は森で生きてきた。
街の食文化など知らない。
むしろ当然だった。
青年は疑わしそうに見ている。
毒草を見極める時の目だった。
ジーナは苦笑する。
それから乾燥パンを少し千切った。
ぱくり。
咀嚼。
飲み込む。
「ほら、毒じゃない」
青年は数秒考えた。
それからようやく口を開く。
「毒は効かないものもある」
「疑い深いわね!?」
「生きるため」
即答だった。
ジーナは言い返せなくなる。
確かにその通りだった。
結局、青年は恐る恐る口を開く。
ジーナが欠片を入れる。
もぐもぐ。
咀嚼。
沈黙。
そして、青年の顔が歪んだ。
「うっ」
ジーナが固まる。
アゼドも固まる。
青年はさらに咀嚼する。
眉間に皺。
明らかな不快感。
「まずい」
断言だった。
部屋が静まり返る。
ジーナとアゼドが顔を見合わせる。
聞き間違いかと思った。
「まずい?」
ジーナが聞き返す。
「まずい」
青年は頷く。
真顔だった。
「硬いし臭い」
「味が薄くて飲み込みにくい」
「口の水分がなくなる」
容赦がない。
アゼドが思わず笑う。
「ははっ!それは初めて聞いたな!」
乾燥パンは高級品だ。
少なくとも庶民から見れば。
保存できる。
腐りにくい。
旅に持ち運べる。
味も悪くない。
そう評価されている。
しかしそれはあくまでこの時代の基準。
青年は違った。
彼の基準は自らにある。
焼きたての魚。
煙を使って乾燥させた肉。
果実。
木の実。
採れたての野草。
そんなものばかり食べていた。
文明が未発達な代わりに。
当時の感覚からしても異常だった。
青年はさらに言う。
「魚の方が美味い」
「魚?不味いだろ」
アゼドが笑う。
だが青年は首を振る。
「昨日の魚でも美味い」
「一昨日でも」
「干したやつも」
「煙で乾燥したやつも」
今度はアゼドが黙る。
ジーナも黙る。
その言葉。
少し引っかかった。
魚、保存。
干物。
当たり前のように言った。
だがこの時代の魚は人気がない。
食べる者はいる。
川辺や海辺では珍しくない。
だが積極的には選ばれない。
理由は単純。
臭い。
骨が多い。
気持ち悪い。
保存できない。
運べない。
なにより調理法も未熟。
その結果として。
「あー、食べられるのは知ってる」
「でもわざわざ食べなくても」
そんな扱いだった。
青年は首を傾げる。
「魚は美味いぞ」
心底不思議そうに言う。
「骨取れば」
「内臓捨てれば」
「臭いの減るし、それに畑に撒ける」
「それから焼けばいい」
ジーナとアゼドは固まった。
あまりにも自然に。
あまりにも当然のように。
言うからだ。
青年は気付いていない。
自分が常識だと思っていることが。
世間の常識ではないことを。
そしてジーナは確信する。
楽園の実だけじゃない。
この男の頭の中には。
まだまだとんでもないものが詰まっている。
楽園の実は入口に過ぎない。
本当に危険なのは。
この男の知識そのものだった。
「……ねぇ」
ジーナが静かに呟く。
「あなた、今まで誰にも会わずに生きてきたの?」
青年は少し考えた。
それから答える。
「たまに狩人は見る」
「話したことはない」
「逃げるし」
ジーナは額を押さえた。
なるほど。
だからだ。
誰も教えていない。
誰も止めていない。
誰も常識を教えていない。
だからこの男は。
独自に答えへ辿り着いてしまったのだ。
誰とも違う方法で。
誰とも違う世界を見ながら。
***
「……食ってみるか?」
青年のその一言から始まった。
ジーナとアゼドが顔を見合わせる。
「いいの?」
ジーナが聞く。
「食料なんでしょう?」
青年は少し考える。
視線を窓の外へ向ける。
池。
畑。
乾燥庫。
保存棚。
頭の中で計算する。
残りの食料。
収穫時期。
魚の数。
保存量。
そして小さく頷いた。
「大丈夫」
「これを外してくれるなら」
それは青年なりの了承だった。
アゼドは立ち上がる。
「なら案内してくれ」
そして縄へ手を伸ばした。
完全には解かない。
当然だ。
逃げられては困る。
だがこのままでは料理もできない。
青年は黙って見ている。
やがて拘束が変わる。
腕は動く。
歩ける。
走るのは難しい。
だが作業はできる。
そんな絶妙な加減。
青年は数回手首を動かした。
違和感はある。
しかし問題ない。
「逃げてくれるなよ」
アゼドが言う。
青年は首を傾げる。
「逃げても捕まる」
「理解が早くて助かる」
アゼドが苦笑した。
そして三人は拠点を出る。
森の空気が流れる。
青年は迷わず歩き始めた。
自分の庭を歩くように。
まず向かったのは池だった。
人為的な池。
川から水が引かれている。
中空の枝を用いた管。
そこから水が流れる。
さらに別の管から排水される。
一定の水位が保たれている。
ジーナが思わず足を止めた。
実際に見ても理解が追いつかない。
「……本当に魚を育ててるのね」
池の中では魚が泳いでいた。
かなりの数。
天然の川では見ない密度。
青年は近くにあった見慣れない道具を持つ。
それを手にして躊躇なく水へ入る。
数秒。
バシャッ。
魚が一匹。
青年は当然のように捕まえていた。
ジーナが呆れる。
「どうして取れるの?それは?」
「慣れ、これは乾燥した草と木で作った」
青年は即答した。
アゼドが笑う。
慣れで済む話ではないし。
乾燥した草と木で何を作ったのか。
だが本人は本気だった。
魚を2、3匹捕まえて籠へ入れる。
次。
青年は歩き出す。
今度は楽園の実の畑。
畑。
そう呼ぶしかない光景だった。
整然と並ぶ木々。
管理された間隔。
地面の状態。
雑草の処理。
自然の群生ではない。
明らかに人の手が入っている。
ジーナが呟く。
「本当に育ててる……」
青年は実を取る。
色。
香り。
柔らかさ。
一つずつ確認。
熟した物だけ。
迷いがない。
慣れ切った動き。
アゼドが報告にあった木の根元を見る。
埋められた砕かれた骨。
魚や獣の内臓。
小動物の残骸。
腐った植物。
「やっぱり肥料か……?」
青年が頷く。
「栄養になる」
「実が大きくなる」
「他のにはあんまり使えない、この実だけ」
アゼドが黙る。
その発想は通常の畑でもあった。
だがここまで体系化されていない。
ジーナも目を丸くする。
「試したの?」
「試した」
「全部?」
「やれること全部」
簡単に言う。
だがその言葉の重さを二人は理解していた。
どれだけの時間が必要なのか。
どれだけ失敗したのか。
想像もつかない。
そして最後。
青年はさらに奥へ向かった。
ジーナとアゼドはまた驚く。
畑だった。
今度は野草や薬草。
整然と並んでいる。
種類ごとに区画が分かれている。
日当たり。
水量。
土の状態。
全部違う。
青年は迷わない。
一つ抜く。
別の葉を摘む。
根を掘る。
茎を切る。
その手際は職人そのものだった。
「これ」
「これ」
「これも」
次々と採集する。
ジーナは思わず呟いた。
「薬師より慣れてる……」
青年は聞いていない。
ただ必要な物を集めているだけ。
アゼドは周囲を見回す。
恐ろしいほど管理されていた。
森の中だというのに。
まるで農園。
いや、農園より効率的ですらある。
雑草はない。
無駄な植物もない。
必要なものだけ。
必要な場所に。
必要な量だけ。
そして何より。
青年は全部覚えている。
地図も見ない。
印もない。
どこに何があるか。
どの時期に育つか。
全部頭の中。
ジーナは息を吐いた。
改めて理解する。
この男は森で生き残ったのではない。
森を学んだのだ。
魚も。
果実も。
薬草も。
土も。
水も。
全部。
何年もかけて。
ひたすら。
その結果が。
今目の前に広がっている。
青年は採集を終える。
籠を持ち上げる。
そして不思議そうに二人を見た。
「行くぞ」
二人は返事をしない。
ただ黙って頷く。
知らない世界を見ている。
そんな顔をしながら。