魔女が秘密にした男   作:ケン3ヴァルデン

2 / 29
第1話 渇望

 

 

空はどこまでも青かった。

 

 

少年は石畳の脇に倒れていた。

年齢は十歳ほどだろうか。

骨ばった腕は細く、頬は痩せこけ、纏っているのは布切れと呼ぶ方が相応しいほどの服だった。

 

腹は空腹で痛みすら感じなくなっている。

 

最後に食べたのがいつだったかも思い出せない。

 

喉は乾き、身体は重く、立ち上がろうとしても力が入らなかった。

 

それでも人々は足を止めない。

 

商人が横を通る。

荷車を引く男が通る。

子供を連れた女が通る。

 

誰も少年を見ない。

 

 

いや、正確には見慣れていた。

道端で餓死しかける孤児など珍しくもない。

この国では当たり前の光景だった。

 

なぜなら、この世界では魔力こそが全てだからだ。

 

生まれながらに持つ魔力。

 

その量が多ければ貴族や騎士となり、少なければ平民となる。

 

そして持たない者は、人として扱われない。

 

魔力は富を生み、権力を生み、生存すら左右する。

 

魔法を使える者は畑を豊かにし、水を呼び、家を建てる。

 

だが、その恩恵は魔力を持つ者のためだけに使われた。

 

食料は常に不足していた。

 

畑から採れる作物は少ない。

家畜はいるものの、十分な飼料を与えられず乳の量も質も悪い。

 

肉となればさらに貴重だった。

野生動物を狩るしかなく、狩場を巡って争いが絶えない。

 

貴族の食卓には肉が並ぶ。

平民は祝いの日に少し口にできれば幸運。

貧民に至っては、何年も味を知らぬ者すらいた。

 

そして孤児には、明日食べる物すらない。

 

少年もその一人だった。

 

今日を生き延びられるかどうか。

 

それだけが問題だった。

 

――少なくとも、この時までは。

 

***

 

 

少年にはかつて名前があった。

 

だが、それを呼ぶ者はもういない。

 

両親はどちらも魔力を持っていた。

決して裕福ではなかったが、魔力を持つ者として最低限の生活は保証されていた。

 

そんな家庭に生まれた少年だけが、魔力を持たなかった。

 

最初のうちは期待されていた。

まだ幼いから測れないだけだ。

成長すれば目覚めるかもしれない。

 

そう言って両親は待っていた。

 

だが何年経っても結果は変わらなかった。

 

少年は無力だった。

 

魔力を持たない欠陥品。

 

周囲からそう囁かれるようになった頃、弟が生まれた。

 

弟は違った。

幼い頃から魔力の兆候を見せた。

両親は喜び、親戚は祝福し、近所の者たちは将来を期待した。

 

そして少年は不要になった。

 

ある朝、目を覚ますと家に入れなかった。

扉は閉ざされていた。

何度叩いても開かない。

 

中から聞こえたのは母の泣き声と父の怒鳴り声だった。

 

それが最後だった。

 

だが、それも珍しい話ではない。

 

魔力を持たない子供を捨てる親は少なくなかった。

 

誰も咎めない。

誰も助けない。

 

魔力こそが価値であり、それを持たない者に価値はない。

 

それが世界の常識だった。

 

だから少年も受け入れるしかなかった。

自分は要らない存在なのだと。

 

それでも。

 

それでも少年には理解できないものがあった。

 

人を傷つけてはいけない。

弱い者から奪ってはいけない。

困っている人は助けるべきだ。

嘘は良くない。

盗みは悪いことだ。

 

誰に教えられたのかも分からない。

 

もしかすると、生まれつきそう考える性分だったのかもしれない。

 

飢えに苦しみながらも、少年は盗みをしなかった。

 

市場には食べ物が並んでいる。

荷車には野菜が積まれている。

目を盗めば盗れる機会はいくらでもあった。

 

それでも手を伸ばせなかった。

 

一度でも盗めば。

 

一度でも悪いことを正当化してしまえば。

 

二度と戻れなくなる気がした。

 

何に戻れなくなるのか、自分でも分からない。

 

けれど、きっと大切な何かを失う。

 

そんな気がしていた。

 

だから腹を空かせ続けた。

だから痩せ続けた。

 

そして今、死にかけていた。

 

 

少年は震える腕で石畳を掴んだ。

 

生きたい。

理由なんてなかった。

立派な夢もない。

誰かが待っているわけでもない。

 

 

それでも死にたくなかった。

 

 

捨てられても。

価値がないと言われても。

生きていたかった。

 

少年は歯を食いしばる。

 

身体は悲鳴を上げていた。

 

視界は霞み、足は震え、何度も倒れそうになる。

 

それでも前へ進んだ。

街の外へ。

森へ。

 

そこなら何か食べられるかもしれない。

 

雑草でもいい。

木の実でもいい。

木の皮でもいい。

 

泥だらけになっても構わない。

みっともなくてもいい。

とにかく生きる。

 

 

死んでたまるか。

 

 

その一心だけで、少年はふらつく足を動かし続けた。

 

そして夕暮れが近づく頃。

 

少年はようやく森へと辿り着く。

 

後に世界を変えることになる男が踏み入れた最初の場所は、誰にも見向きもされない小さな森だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。