魔女が秘密にした男   作:ケン3ヴァルデン

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第19話 たどり着いた答え

 

 

青年は鍋の蓋を静かに開けた。

 

ふわりと白い湯気が立ち上る。

同時に、濃厚な香りが一気に部屋へ広がった。

 

「……」

 

誰も喋らない。

いや、喋れなかった。

 

鼻腔を抜ける力強い香り。

じっくり火を通した野草の甘み。

刺激的でありながら食欲を掻き立てる、嗅いだことのない香草の匂い。

 

青年は木の匙でゆっくりとかき混ぜる。

 

黄金色に近い澄んだ汁。

 

表面には魚から溶け出した脂が小さく輝き、香草の葉がゆっくりと揺れている。

 

鍋の中には大きく切った魚の身。

柔らかく煮えた根菜。

食べやすい大きさの野草。

見慣れない白い球根。

そして細く刻まれた香草。

 

ジーナは鼻をひくつかせた。

 

「これ……薬草じゃないの?」

 

青年は首を横に振る。

 

「薬草にも使えるけど食べる」

 

「薬じゃなくて?」

 

「美味くするために」

 

その答えにジーナは目を丸くした。

 

薬草は薬だ。

苦く、不味く、我慢して飲むもの。

 

それが常識だった。

 

なのに青年は当然のように鍋へ放り込み、香り付けとして使っている。

 

アゼドは鍋を覗き込む。

 

「魚臭くないな」

 

「消した」

 

「どうやって?」

 

青年は刻んだ香草を見せる。

 

「これ」

「臭い消える」

「あとこれ」

 

白い球根を持ち上げる。

皮を剥くと強烈な香りが広がる。

 

「辛い」

「火を通すと甘い」

 

さらに細長い根を見せる。

 

「これは?」

 

「温まる」

 

「体が楽になる」

 

青年にとっては当たり前の食材。

 

森で見つけ、何度も試し、何度も失敗して辿り着いた答え。

 

後世で言うところの、にんにくや生姜によく似た香草だった。

 

それらが魚の臭みを消し、脂の旨味を引き立て、体の芯から温まる力強い香りを作り出していた。

 

鍋の隣では、別の料理も仕上がっていた。

 

串に刺した魚。

 

表面だけが薄く色付き、皮から脂がじゅうじゅうと滴る。

 

青年は葉を束ねた刷毛で透明な液を塗る。

 

塩水だった。

さらに細かく刻んだ香草を散らす。

 

火へ近づける。

香草が焼ける。

魚の脂と混ざる。

 

香りが爆発する。

 

外で待っていた冒険者の一人が思わず叫んだ。

 

「なんだその匂い!」

 

別の者が唾を飲み込む。

 

「魚だよな?」

 

「魚ってこんな匂いになるのか?」

 

「いや、絶対知らない食べ物だろ」

 

 

誰もが鼻を利かせ、料理を見つめている。

青年はその反応を不思議そうに眺めた。

 

いつもの食事だ。

 

特別な日でもない。

森で採れた魚。

森で育てた香草。

森で採れた野草。

 

最後に青年は鍋から一口味を見る。

 

少し考える。

塩を一つまみ。

香草を一枚。

軽く混ぜる。

 

そして満足そうに頷いた。

 

「できた」

 

静かな一言。

 

その瞬間部屋中の視線が鍋へ集まる。

 

魚など「食べられなくはないもの」。

香草など「薬にしか使わないもの」。

 

そう信じて生きてきた者たちはまだ知らない。

 

目の前の素朴な料理が。

 

この世界の食文化を根底から覆す一杯になることを。

 

 

***

 

 

料理が並ぶ。

 

木の器に注がれた魚のスープ。

黄金色に透き通る汁。

湯気と共に立ち上る力強い香り。

 

隣には香草と塩だけで焼かれた魚。

皮はぱりりと音を立てそうなほど焼け、身からは透明な脂が滲んでいた。

 

誰も手を出さない。

いや出せなかった。

冒険者たちは遠巻きに見つめる。

 

ごくり。

 

誰かが唾を飲み込む音だけが妙に大きく聞こえた。

 

青年は首を傾げる。

 

「食べないのか」

 

ジーナが我に返る。

 

「……いただきます」

 

木の匙でスープを掬う。

 

白い魚の身。

野草、根菜。

そして透き通った汁。

 

恐る恐る口へ運ぶ。

 

その瞬間。

 

ジーナの動きが止まった。

 

「……え」

 

言葉にならない。

 

最初に来るのは優しい旨味。

 

魚とは思えないほど澄んだ甘さ。

その後から香草の爽やかな香りが鼻を抜ける。

 

さらに遅れて、身体の奥から熱が広がるような刺激。

 

にんにくの力強い風味。

生姜の温かさ。

最後に塩が全てを一つにまとめていた。

 

魚臭さはない。

薬草特有の苦みもない。

 

むしろもっと飲みたい。

 

自然とそう思ってしまう。

 

ジーナは無意識にもう一口飲んでいた。

 

また一口。

また一口。

 

気付けば器の半分が空になっていた。

 

「……」

 

青年が見ている。

 

ジーナは我に返った。

 

恥ずかしくなり、そっと器を置く。

しかし手はまだ器から離れない。

 

もっと飲みたい。

そんな自分に困惑していた。

 

隣ではアゼドが焼き魚へ手を伸ばす。

 

皮を割る。

 

ぱりっと心地よい音。

中から白い湯気が立ち上る。

 

木の串のまま口へ運ぶ。

 

噛む。

 

皮は香ばしく。

身は驚くほど柔らかい。

脂が舌の上で溶ける。

塩が旨味を引き出し。

香草が後味を軽くする。

臭みなど一切ない。

 

美味い。

 

その一言しか浮かばない。

 

アゼドは固まった。

 

人生で様々な土地を歩いた。

 

王都の宴席。

貴族の晩餐。

港町の名物。

山岳民族の保存食。

砂漠の香辛料料理。

 

何でも食べてきた。

その自負があった。

 

だが今。

 

その全てが音を立てて崩れていく。

 

魚とは。

こんな味だったのか。

 

彼はゆっくりとスープへ手を伸ばす。

 

飲む。

 

さらに崩れる。

 

魚が主役になる料理など考えたこともなかった。

 

肉がなくても。

乳がなくても。

酒がなくても…いや欲しい。

 

けれどこれほど満足できる。

世界がひっくり返る感覚だった。

 

「……美味い」

 

それしか言えなかった。

 

青年は当然という顔をする。

 

「魚だから」

 

その一言で片付けられる。

アゼドは思わず笑ってしまった。

 

「そうだな」

 

その頃。

 

周囲の冒険者たちは完全に固まっていた。

 

あのお嬢様ジーナが無言で食べ続けている。

冷静沈着な隊長が笑いながら夢中で食べている。

 

信じられない光景だった。

 

「隊長……?」

 

「美味いんですか?」

 

誰かが恐る恐る聞く。

 

アゼドはゆっくり顔を上げた。

 

しばらく考え。

 

そして静かに答える。

 

「……今まで魚を食わなかった人生を後悔している」

 

その一言で。

 

冒険者たちの喉が一斉に鳴った。

 

ごくり。

 

青年だけが不思議そうに周囲を見る。

理解できない。

 

森ではいつもの食事。

今日もいつもの味。

 

それだけだった。

 

だがジーナは匙を握りながら思う。

 

自惚れかもしれない。

 

自分は裕福な家に生まれた。

最高の教育を受け。

最高級の食材を知り。

各地を旅して珍しい料理も食べてきた。

 

だから食を知っているつもりだった。

 

なのに目の前の青年は。

 

森で一人、生きるためだけに料理を覚えた男は。

そんな常識をあまりにも簡単に追い越していた。

 

そして彼女は確信する。

 

この男が変えるのは薬学だけではない。

 

食卓。

文化。

 

そして人々の暮らしそのものなのだと。

 

 

***

 

 

「……」

 

青年は黙って周囲を見た。

 

窓。

入口。

壁際。

 

冒険者たちが並んでいる。

 

誰もが鍋を見ていた。

 

いや、料理を見ていた。

腹を空かせた獣のような目。

 

青年はその視線を知っていた。

 

昔自分も同じ目をしていたから。

何日も食べられず。

誰かの食べ物を見つめるだけだった頃の目。

 

青年は小さく口を開く。

 

「腹、減ってるのか」

 

外から何人かが気まずそうに頷いた。

 

「……まあ」

 

「少し」

 

腹が盛大に鳴る。

 

ぐぅぅぅ。

 

青年は少しだけ眉を下げた。

 

「待ってろ」

 

その一言だけ言って立ち上がる。

 

一方。

 

ジーナとアゼドは返事すらできなかった。

 

スープを飲む。

焼き魚を食べる。

またスープ。

 

完全に手が止まらない。

 

ジーナは自分でも驚いていた。

 

魔法学院の晩餐会でも。

王都の宴席でも。

こんな食べ方はしたことがない。

 

「……もう一杯」

 

無意識に呟いていた。

 

アゼドも同じだった。

半ば呆然としながら食べ続ける。

 

青年はそんな二人を横目に、部屋の奥へ向かった。

 

しばらくして戻ってくる。

 

乾燥肉。

そして謎の土の塊。

 

冒険者の一人が首を傾げた。

 

「……土?」

 

青年は答えない。

 

机へ置く。

手で表面を軽く叩く。

 

ぱきっ。

 

乾いた音。

土が崩れる。

 

ぽろぽろ。

ぽろぽろ。

 

中から現れたのは。

滑らかな石の容器だった。

 

ジーナが立ち上がる。

 

「え?」

 

青年は蓋を開ける。

その瞬間部屋が静まり返った。

 

緑色の葉。

赤い実。

白い根菜。

 

採れたてのような野菜と果物。

水滴すら残っている。

 

冒険者の一人が思わず叫ぶ。

 

「うそだろ!?」

 

昨日採ったものではない。

それ以上前のものだ。

 

青年は平然としている。

 

「保存したやつ」

 

当然のように言う。

 

ジーナは容器を覗き込む。

 

触る。

柔らかい。

新鮮。

 

理解できない。

 

さらに青年は別の容器を開けた。

 

 

蓋が開いた瞬間。

酸味のある爽やかな香りが広がる。

 

液体が揺れる音。

透明に近い薄い色の液体。

細長く切られた野菜。

 

葉物。

根菜。

香草。

 

浸かっていた。

 

ジーナが鼻を近づける。

 

「腐って……る?」

 

青年は首を振る。

 

「美味い」

 

「腐ってないの?」

 

「腐りにくいから」

 

簡単に答える。

 

アゼドは乾燥肉へ手を伸ばす。

 

いつもの保存食だと思った。

 

しかし違う。

色が違う。

香りが違う。

 

青年は火の近くへ持っていく。

 

少し温める。

 

途端に香ばしい煙が立ち上る。

 

木の香り。

肉の脂。

凝縮された旨味。

 

鼻を突くのではなく。

優しく包み込む香り。

 

アゼドが目を見開く。

 

「……何をしたんだ?」

 

青年は頷く。

 

「煙で」

「虫来ないし」

「長持ちで美味い」

 

当然のように言う。

部屋が静まり返る。

 

この時代保存とは。

 

干すことだった。

太陽に晒す。

水分を抜く。

固い。

臭い。

味も落ちる。

 

だが仕方ない。

それが常識。

 

燻す。

液体に浸ける。

密閉する。

 

そんな発想は誰も持っていなかった。

 

青年は燻製肉を切り分ける。

香草を添える。

漬けた野菜を並べる。

瑞々しい果物を皿へ置く。

 

食卓が完成する。

 

冒険者たちは誰も喋らない。

 

もう驚きすぎて声も出ない。

 

ジーナはゆっくり息を吐く。

 

薬学。

農業。

漁業。

料理。

火起こし。

そして保存技術。

 

目の前の青年は。

 

何か一つに秀でているわけではない。

生きるために積み重ねた知識が。

いつの間にか世界そのものを追い越してしまっていた。

 

そして本人だけが。

不思議そうに首を傾げている。

 

「そんなに珍しいか?」

 

その素朴な問いに。

 

誰一人として答えられなかった。

 

 

***

 

 

最初は遠慮があった。

 

「本当に食べていいのか?」

 

「お前が食べたがったんだろ」

 

「いや、お前行けよ」

 

そんな声が飛び交う。

 

だが。

 

一人の冒険者が燻製肉を口に入れた瞬間。

 

「……うっま」

 

その一言で終わった。

 

「俺にも!」

 

「待て待て!」

 

「スープ寄越せ!」

 

「あっ、それ俺の!」

 

静かな拠点は、一瞬で騒がしくなった。

 

木の器が鳴る。

笑い声。

驚く声。

 

誰かが大笑いし、誰かが鍋を覗き込み、また別の誰かが燻製肉を奪うように手を伸ばす。

 

「魚がこんなに美味いとか嘘だろ!」

 

「この酸っぱい野菜何だ!?」

 

「止まらん!」

 

「肉もう一本!」

 

「それ三本目ですよ!」

 

「うるさい!」

 

酒など一滴もない。

それなのに酒場そのものだった。

 

ジーナも例外ではない。

 

「ねぇ、この香草何!?」

「後で教えて!」

「あとこの保存方法も!」

 

質問しながら食べる。

食べながら質問する。

 

青年が答えようとすると。

 

「それよりもう一杯!」

 

結局また食べ始める。

 

アゼドは燻製肉を噛み締めながら静かに笑っていた。

 

「……久しぶりだな」

「こんな飯は」

 

周囲では冒険者たちが料理を取り合っている。

 

若い冒険者が焼き魚へ手を伸ばす。

 

その前に別の手が奪う。

 

「先輩ずるい!」

 

「早い者勝ちだ!」

 

「鍋空になるぞ!」

 

「急げ!」

 

青年はその光景を眺めていた。

 

うるさい。

あまりにうるさい。

声が反響する。

 

笑い声。

足音。

器の音。

 

落ち着かない。

 

森ではあり得ない音だった。

 

青年は眉をひそめる。

 

早く静かになってほしい。

 

そう思った。

……思ったはずだった。

 

しかし不思議だった。

 

嫌ではない。

 

騒がしい。

うるさい。

 

なのに心の奥が妙に温かい。

 

青年は黙って鍋を見る。

 

空になっていく。

焼き魚も減っていく。

燻製も。

野菜も。

果物も。

 

全部。

 

あっという間に無くなっていく。

 

「美味い!」

 

「こんなの初めて食べた!」

 

「もう一回作ってくれ!」

 

「魚捕ってくる!」

 

そんな声が飛び交う。

 

青年はその様子を見ていた。

何も言わず。

ただ見ていた。

 

そしてふと気付く。

 

自分はいつも一人だった。

 

魚を焼く時も。

薬を作る時も。

畑を耕す時も。

火を眺める時も。

食べる時も。

 

全部一人。

 

それが当たり前だった。

寂しいと思ったことはない。

 

そう思っていた。

思い込んでいた。

 

生きるのに必要ない感情だと。

捨てたつもりだった。

 

だが違った。

 

「おい!」

 

若い冒険者が青年へ器を差し出す。

 

「これ何入れたんだ!」

 

青年は反射的に答える。

 

「香草」

 

「もっと入れてくれ!」

 

周囲から笑いが起きる。

 

「自分で入れろ!」

 

「その魚残してください!」

 

「ジーナさん、それ俺の漬け野菜!」

 

また笑い声。

また喧嘩。

また笑う。

 

青年は静かにその輪を見ていた。

 

胸の奥にあった何かが。

少しずつ溶けていく。

 

長い年月をかけて凍り付いたものが。

火に当てられた氷のように。

 

ゆっくりと。

静かに。

溶けていく。

 

気付けば。

 

青年の口元が僅かに緩んでいた。

誰にも気付かれないほど小さく。

 

本当に少しだけ。

笑っていた。

 

それを見たのは。

偶然こちらを向いたジーナだけだった。

 

彼女は何も言わない。

 

ただ同じように少しだけ笑う。

 

森の主。

 

人の形をした魔物。

 

そう噂された青年は。

 

誰よりも静かな人間だった。

 

そしてその静かな心は今、

 

初めて人の喧騒で満たされ始めていた。

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