騒ぎはゆっくりと落ち着いていった。
鍋は空。
焼き魚は骨だけ。
燻製肉も最後の一切れが誰かの腹へ消え。
漬け野菜の容器には液体だけが残っている。
冒険者たちは床や壁に寄りかかり、大きく息を吐いた。
「……食ったぁ」
「足りねぇ」
「でも満足だ」
「もっと食いたい」
「明日も頼む」
笑い声が上がる。
誰も腹一杯ではない。
量だけを見れば決して多くはなかった。
一人で森を生きる青年の備蓄だ。
大人数で囲めば足りるはずもない。
それでも誰も不満そうな顔はしていなかった。
むしろ逆だった。
体の芯が温かい。
胃袋はまだ余裕がある。
なのに心は妙に満たされている。
初めて味わう感覚だった。
アゼドは器を眺めながら笑う。
「不思議な飯だな」
「もっと食えるのに、満足してる」
「隊長、それ俺も思いました」
「俺も」
「あの魚また食いたい」
好き勝手な声が飛ぶ。
青年はその様子を黙って見ていた。
食べ物が無くなれば終わり。
そういうものだと思っていた。
食べ終わっても笑っている人間を見るのは初めてだった。
その時。
ジーナがぽんと手を叩いた。
「あ」
青年が肩を震わせる。
また質問だ。
そう直感した。
案の定だった。
ジーナはゆっくり青年を見る。
机の端に置かれた楽園の実へ視線を移した。
鮮やかな果実。
誰も近寄らない禁忌。
先ほどまで料理の香りに隠れて存在を忘れていた。
「そういえば」
ジーナは身を乗り出す。
「あなた、これ食べてたのよね?」
青年の表情が露骨に曇る。
「……」
「その顔何?」
「嫌い」
「それは聞いたわ」
「味は好き」
「それも聞いたわ」
「死にかけた」
「それも聞いた」
青年は露骨に嫌そうな顔をする。
冒険者たちが笑う。
「なんでそんな顔なんだよ!」
「嫌なもんは嫌だろ」
青年は真面目に答える。
また笑いが起きる。
ジーナもつられて笑った。
しかしすぐに表情を戻す。
魔法使いとして。
純粋な好奇心として。
どうしても知りたかった。
楽園の実。
人を惑わし。
幸せな幻覚を見せ。
二度と帰らぬ旅へ誘う禁忌。
その果実を。
「……ねぇ」
ジーナが静かに口を開く。
「私も食べてみたい」
部屋が静まり返る。
一瞬だった。
「駄目だ」
アゼドが即答した。
迷いはない。
「隊長」
「駄目なものは駄目だ」
「でも」
「でもじゃない」
冒険者たちも慌てる。
「ジーナさん!」
「冗談ですよね?」
「それ食べたら死ぬって!」
誰もが止める。
当たり前だった。
好奇心で触れていいものではない。
しかしジーナは真剣だった。
「知りたいの」
「この人が見てる世界を」
「味も、香りも」
「本当に普通なのか」
魔法使いとして。
研究者として。
純粋な知識欲だった。
アゼドは深くため息をつく。
「だからこそ止めてるんだ」
「記録では生還者はいない」
「……目の前にいるわ」
ジーナが青年を見る。
青年は話を聞きながら。
果実を手に取っていた。
「おい」
アゼドが声を掛ける。
青年は首を傾げる。
「?」
「何してる」
「剥く」
あまりにも自然だった。
誰かが魚を頼んだ。
だから魚を捌く。
誰かが果実を食べたいと言った。
だから剥く。
その程度の認識だった。
青年は小刀を手にする。
刃が皮へ入る。
するり。
無駄なく一周。
指先だけで皮が外れる。
鮮やかな果肉が現れた。
途端に部屋へ甘い香りが広がる。
冒険者の一人が思わず唾を飲み込んだ。
「……なんて、いい匂い」
誰かが呟く。
危険だと知っている。
なのに食べたい。
本能がそう訴えてくる。
青年は果実を半分に切る。
断面が現れる。
中心にはいくつかの種。
その周囲を包むように。
とろりとした半透明の柔らかな組織。
蜜のように輝く。
見ているだけで魅了される。
青年の手が止まらない。
木の匙を取り出す。
その柔らかな部分だけを。
迷いなく丁寧に掬い取る。
一切れ残さない。
慎重に。
本当に慎重に。
別の器へ移す。
まるで毒を扱う職人のようだった。
ジーナは見入っていた。
アゼドも同じ。
青年は淡々と説明する。
「ここ」
匙で器を示す。
「ここが毒」
「なんで?種だけじゃないの?」
青年は首を振る。
「周りも」
「柔らかいところも駄目」
「果肉は?」
「平気」
青年はさらに小刀を入れる。
種から十分距離を取った。
あとは透明な果肉だけを切り分けるだけ。
美しい。
宝石のようだった。
最後に青年はそれを水で軽く洗う。
布で拭く。
確認する。
もう一度見る。
そしてようやく頷いた。
「食べられる」
部屋の誰も喋らない。
静寂。
ジーナは皿の上を見る。
禁忌。
恐怖。
死。
そう呼ばれてきた果実。
今は丁寧に皮を剥かれ。
種を外され。
一口大に切り分けられた果物になっていた。
青年は皿をジーナへ差し出す。
「甘いぞ」
その言葉に悪意はない。
罠もない。
本心だ。
美味しいから。
そう勧めているだけ。
アゼドは頭を抱えた。
楽園の実を普通の果物のように盛り付ける男を見てしまった。
***
部屋は静まり返っていた。
誰も動かない。
誰も喋らない。
全員の視線が。
ジーナの手元に集まっている。
木の皿。
その上には、一口大に切られた楽園の実。
透き通るような淡い色。
光を受けて静かに輝いていた。
甘い香りが漂う。
強くないけれど。
一度吸い込めば忘れられない香り。
ジーナは小さく息を吐く。
魔法で毒を探る。
異常はない。
青年を信じる。
そう決めた。
指先で果肉を摘まみ。
ゆっくり口へ運ぶ。
噛んだ瞬間だった。
「…………」
思考が止まる。
果肉が舌の上でほどける。
噛む必要すらない。
雪のように溶けていく。
最初に訪れるのは甘味。
しかし単純な甘さではない。
花の蜜。
熟した果実。
温めた乳。
焼き菓子。
それら全てを優しく混ぜ合わせたような、複雑で柔らかな甘さ。
次に広がるのは旨味。
果物とは思えない。
まるで長時間煮込んだ料理のような深み。
口いっぱいに幸福が広がっていく。
香りが鼻へ抜ける。
気付けば。
呼吸すら忘れていた。
「……え」
ようやく漏れたのは。
そんな小さな声だった。
もう一口。
そう思ってしまう。
理性ではなく。
本能が求めている。
ジーナは慌てて手を止めた。
危ない。
そう理解している。
それでも、もっと食べたい。
その欲求が消えない。
隣でアゼドが見ている。
「どうだ」
ジーナはゆっくり顔を上げた。
言葉が出ない。
代わりに目尻へ涙が滲んでいた。
「……美味しい」
それしか言えなかった。
今まで食べた果物。
王都の献上品。
貴族の温室で育てられた珍果。
旅先の高級品。
保存されていた青年の果物でさえ、驚くほど瑞々しく美味しかった。
だが比べることすら失礼だった。
楽園の実は。
甘さも。
香りも。
旨味も。
何もかもが別格だった。
まるで抗えないように作られている。
そんな錯覚さえ覚える。
青年はその様子を見て首を傾げる。
「美味いだろ」
「……うん」
「でも嫌い」
「なんでよ!」
思わずジーナが叫ぶ。
青年は少し考えた。
そして子供が嫌いな野菜を説明するように答える。
「死にかけたから」
部屋に笑いが広がる。
緊張が解ける。
しかしジーナだけはまだ果肉を見つめていた。
手が伸びそうになる。
あと一口だけ。
その誘惑を必死に押さえ込む。
ようやく彼女は理解した。
この果実がなぜ”楽園”と呼ばれるのか。
毒だからではない。
幻覚を見せるからでもない。
その前段階で。
人は自ら望んで食べ続けてしまう。
幸福そのものを凝縮したような味。
だから誰も疑わない。
だから誰も止まれない。
毒は隠され笑顔のまま森へ消えていく。
ジーナはそっと皿を置いた。
そして青年を見る。
彼は何事もなく果肉を食べている。
平然と、普通の果物のように。
その姿に恐怖より先に、呆れが込み上げた。
「……あなた、本当に変な人ね」
青年は意味が分からず首を傾げる。
「そうか?」
その返事に。
今度は部屋中から笑い声が上がった。
楽園の実。
誰もが畏れ、近寄らず、死を意味する禁忌。
それが今。
青年の手によって、ただの美味しい果物として皿の上に並んでいた。