魔女が秘密にした男   作:ケン3ヴァルデン

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第20話 孤独の味

 

 

騒ぎはゆっくりと落ち着いていった。

 

鍋は空。

焼き魚は骨だけ。

燻製肉も最後の一切れが誰かの腹へ消え。

漬け野菜の容器には液体だけが残っている。

 

冒険者たちは床や壁に寄りかかり、大きく息を吐いた。

 

「……食ったぁ」

 

「足りねぇ」

 

「でも満足だ」

 

「もっと食いたい」

 

「明日も頼む」

 

笑い声が上がる。

 

誰も腹一杯ではない。

量だけを見れば決して多くはなかった。

 

一人で森を生きる青年の備蓄だ。

大人数で囲めば足りるはずもない。

 

それでも誰も不満そうな顔はしていなかった。

むしろ逆だった。

 

体の芯が温かい。

胃袋はまだ余裕がある。

なのに心は妙に満たされている。

 

初めて味わう感覚だった。

 

アゼドは器を眺めながら笑う。

 

「不思議な飯だな」

「もっと食えるのに、満足してる」

 

「隊長、それ俺も思いました」

 

「俺も」

 

「あの魚また食いたい」

 

好き勝手な声が飛ぶ。

 

青年はその様子を黙って見ていた。

 

食べ物が無くなれば終わり。

そういうものだと思っていた。

 

食べ終わっても笑っている人間を見るのは初めてだった。

 

その時。

 

ジーナがぽんと手を叩いた。

 

「あ」

 

青年が肩を震わせる。

 

また質問だ。

そう直感した。

 

案の定だった。

ジーナはゆっくり青年を見る。

机の端に置かれた楽園の実へ視線を移した。

 

鮮やかな果実。

誰も近寄らない禁忌。

 

先ほどまで料理の香りに隠れて存在を忘れていた。

 

「そういえば」

 

ジーナは身を乗り出す。

 

「あなた、これ食べてたのよね?」

 

青年の表情が露骨に曇る。

 

「……」

 

「その顔何?」

 

「嫌い」

 

「それは聞いたわ」

 

「味は好き」

 

「それも聞いたわ」

 

「死にかけた」

 

「それも聞いた」

 

青年は露骨に嫌そうな顔をする。

 

冒険者たちが笑う。

 

「なんでそんな顔なんだよ!」

 

「嫌なもんは嫌だろ」

 

青年は真面目に答える。

 

また笑いが起きる。

 

ジーナもつられて笑った。

しかしすぐに表情を戻す。

 

魔法使いとして。

純粋な好奇心として。

どうしても知りたかった。

 

楽園の実。

 

人を惑わし。

幸せな幻覚を見せ。

二度と帰らぬ旅へ誘う禁忌。

 

その果実を。

 

「……ねぇ」

 

ジーナが静かに口を開く。

 

「私も食べてみたい」

 

部屋が静まり返る。

 

一瞬だった。

 

「駄目だ」

 

アゼドが即答した。

迷いはない。

 

「隊長」

 

「駄目なものは駄目だ」

 

「でも」

 

「でもじゃない」

 

冒険者たちも慌てる。

 

「ジーナさん!」

 

「冗談ですよね?」

 

「それ食べたら死ぬって!」

 

誰もが止める。

 

当たり前だった。

好奇心で触れていいものではない。

 

しかしジーナは真剣だった。

 

「知りたいの」

「この人が見てる世界を」

「味も、香りも」

「本当に普通なのか」

 

魔法使いとして。

研究者として。

純粋な知識欲だった。

 

アゼドは深くため息をつく。

 

「だからこそ止めてるんだ」

「記録では生還者はいない」

 

「……目の前にいるわ」

 

ジーナが青年を見る。

 

青年は話を聞きながら。

果実を手に取っていた。

 

「おい」

 

アゼドが声を掛ける。

青年は首を傾げる。

 

「?」

 

「何してる」

 

「剥く」

 

あまりにも自然だった。

 

誰かが魚を頼んだ。

だから魚を捌く。

 

誰かが果実を食べたいと言った。

だから剥く。

 

その程度の認識だった。

 

青年は小刀を手にする。

刃が皮へ入る。

 

するり。

 

無駄なく一周。

 

指先だけで皮が外れる。

鮮やかな果肉が現れた。

 

途端に部屋へ甘い香りが広がる。

 

冒険者の一人が思わず唾を飲み込んだ。

 

「……なんて、いい匂い」

 

誰かが呟く。

 

危険だと知っている。

なのに食べたい。

本能がそう訴えてくる。

 

青年は果実を半分に切る。

 

断面が現れる。

中心にはいくつかの種。

その周囲を包むように。

とろりとした半透明の柔らかな組織。

 

蜜のように輝く。

見ているだけで魅了される。

 

青年の手が止まらない。

 

木の匙を取り出す。

 

その柔らかな部分だけを。

迷いなく丁寧に掬い取る。

一切れ残さない。

 

慎重に。

本当に慎重に。

 

別の器へ移す。

 

まるで毒を扱う職人のようだった。

 

ジーナは見入っていた。

 

アゼドも同じ。

 

青年は淡々と説明する。

 

「ここ」

 

匙で器を示す。

 

「ここが毒」

 

「なんで?種だけじゃないの?」

 

青年は首を振る。

 

「周りも」

「柔らかいところも駄目」

 

「果肉は?」

 

「平気」

 

青年はさらに小刀を入れる。

 

種から十分距離を取った。

あとは透明な果肉だけを切り分けるだけ。

 

美しい。

 

宝石のようだった。

 

最後に青年はそれを水で軽く洗う。

布で拭く。

確認する。

もう一度見る。

 

そしてようやく頷いた。

 

「食べられる」

 

部屋の誰も喋らない。

 

静寂。

 

ジーナは皿の上を見る。

 

禁忌。

恐怖。

死。

 

そう呼ばれてきた果実。

 

今は丁寧に皮を剥かれ。

種を外され。

一口大に切り分けられた果物になっていた。

 

青年は皿をジーナへ差し出す。

 

「甘いぞ」

 

その言葉に悪意はない。

 

罠もない。

本心だ。

美味しいから。

そう勧めているだけ。

 

アゼドは頭を抱えた。

 

楽園の実を普通の果物のように盛り付ける男を見てしまった。

 

 

 

***

 

 

部屋は静まり返っていた。

 

誰も動かない。

誰も喋らない。

全員の視線が。

 

ジーナの手元に集まっている。

 

木の皿。

 

その上には、一口大に切られた楽園の実。

透き通るような淡い色。

光を受けて静かに輝いていた。

 

甘い香りが漂う。

強くないけれど。

一度吸い込めば忘れられない香り。

 

ジーナは小さく息を吐く。

 

魔法で毒を探る。

異常はない。

 

青年を信じる。

そう決めた。

 

指先で果肉を摘まみ。

 

ゆっくり口へ運ぶ。

 

噛んだ瞬間だった。

 

「…………」

 

思考が止まる。

 

果肉が舌の上でほどける。

噛む必要すらない。

雪のように溶けていく。

 

最初に訪れるのは甘味。

 

しかし単純な甘さではない。

 

花の蜜。

熟した果実。

温めた乳。

焼き菓子。

 

それら全てを優しく混ぜ合わせたような、複雑で柔らかな甘さ。

 

次に広がるのは旨味。

 

果物とは思えない。

まるで長時間煮込んだ料理のような深み。

 

口いっぱいに幸福が広がっていく。

香りが鼻へ抜ける。

 

気付けば。

 

呼吸すら忘れていた。

 

「……え」

 

ようやく漏れたのは。

 

そんな小さな声だった。

 

もう一口。

 

そう思ってしまう。

 

理性ではなく。

本能が求めている。

 

ジーナは慌てて手を止めた。

 

危ない。

 

そう理解している。

 

それでも、もっと食べたい。

 

その欲求が消えない。

 

隣でアゼドが見ている。

 

「どうだ」

 

ジーナはゆっくり顔を上げた。

 

言葉が出ない。

 

代わりに目尻へ涙が滲んでいた。

 

「……美味しい」

 

それしか言えなかった。

 

今まで食べた果物。

 

王都の献上品。

貴族の温室で育てられた珍果。

旅先の高級品。

 

保存されていた青年の果物でさえ、驚くほど瑞々しく美味しかった。

 

だが比べることすら失礼だった。

 

楽園の実は。

 

甘さも。

香りも。

旨味も。

 

何もかもが別格だった。

 

まるで抗えないように作られている。

そんな錯覚さえ覚える。

 

青年はその様子を見て首を傾げる。

 

「美味いだろ」

 

「……うん」

 

「でも嫌い」

 

「なんでよ!」

 

思わずジーナが叫ぶ。

 

青年は少し考えた。

 

そして子供が嫌いな野菜を説明するように答える。

 

「死にかけたから」

 

部屋に笑いが広がる。

緊張が解ける。

 

しかしジーナだけはまだ果肉を見つめていた。

 

手が伸びそうになる。

あと一口だけ。

その誘惑を必死に押さえ込む。

 

ようやく彼女は理解した。

 

この果実がなぜ”楽園”と呼ばれるのか。

 

毒だからではない。

幻覚を見せるからでもない。

 

その前段階で。

 

人は自ら望んで食べ続けてしまう。

幸福そのものを凝縮したような味。

 

だから誰も疑わない。

だから誰も止まれない。

 

毒は隠され笑顔のまま森へ消えていく。

 

ジーナはそっと皿を置いた。

 

そして青年を見る。

 

彼は何事もなく果肉を食べている。

 

平然と、普通の果物のように。

その姿に恐怖より先に、呆れが込み上げた。

 

「……あなた、本当に変な人ね」

 

青年は意味が分からず首を傾げる。

 

「そうか?」

 

その返事に。

 

今度は部屋中から笑い声が上がった。

 

楽園の実。

 

誰もが畏れ、近寄らず、死を意味する禁忌。

 

それが今。

 

青年の手によって、ただの美味しい果物として皿の上に並んでいた。

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