食事が終わった。
冒険者たちは満足そうに談笑している。
青年は静かに器を集め始めた。
誰かが手伝おうとすると、
「いい」
「自分でやる」
と短く答える。
当たり前のように。
何年もそうしてきたから。
ジーナはその背中を眺めていた。
不思議な人だった。
最初は森に住む危険人物。
噂では魔物。
人を襲う怪物。
そう思っていた。
けれど実際は違う。
料理を作り。
薬を作り。
畑を耕し。
魚を育て。
傷を治し。
保存食を生み出し。
森を循環させて生きる。
誰よりも穏やかで。
誰よりも人らしい青年だった。
そしてジーナはゆっくり周囲を見渡す。
机の上には薬が並んでいる。
楽園の実から抽出した鎮痛薬。
傷薬。
眠り薬。
彼女が知らない調合。
知らない理論。
知らない発想。
外には魚を育てる池。
水を自在に流す仕組み。
管理された畑。
香草。
薬草。
保存された食料。
燻製。
漬け野菜。
土で覆われた保存容器。
さらに発火ネズミを利用した着火具。
魚料理。
香草の調理法。
どれも一つだけでも国が欲しがる知識だった。
なのに青年はそれを当然のように使っている。
褒められたいわけでもない。
名誉が欲しいわけでもない。
ただ生きるために。
必要だから作った。
ジーナは思わず苦笑した。
「反則よ……」
青年が振り返る。
「?」
「なんでもない」
本当に、なんでもなかった。
しかし胸の奥では。
一つの考えが大きくなっていた。
この人をこの森に閉じ込めてはいけない。
世界は魔力だけで価値を決めている。
魔法こそ文明。
そう信じている。
その当たり前を、その常識を。
目の前の青年は魔力を一切使わず覆してしまった。
薬学は変わる。
農業は変わる。
漁業は変わる。
料理は変わる。
保存技術は変わる。
人々の食卓が変わる。
飢えが減る。
病で死ぬ者も減る。
そしてきっといつか、魔力がなくても生きられる世界になる。
そんな未来が。
ジーナにははっきりと見えてしまった。
「……世に出るべきよ」
思わず零れた独り言。
青年は首を傾げる。
「森の外?」
「ええ」
「嫌だ」
即答だった。
迷いは一切ない。
「人多い」
「うるさい」
「疲れる」
ジーナは思わず笑う。
さっきまで皆と笑っていた男とは思えない返事だった。
けれどその返答で確信する。
この青年は野心がない。
名声も。
富も。
権力も。
何一つ求めていない。
だからこそ危うい。
こんな知識を持ちながら。
本人はその価値をまるで理解していない。
青年は洗い終えた器を並べながら呟く。
「街は嫌いだ」
その一言に全てが詰まっていた。
捨てられた場所。
飢えて死にかけた場所。
魔力がないだけで人ではなくなった場所。
青年にとって街とはそういう場所なのだ。
それでもジーナは静かに拳を握る。
――なら、私が変えよう。
この人が安心して歩ける世界を。
この人の知識が当たり前になる世界を。
魔力がなくても笑える世界を。
この時のジーナはまだ知らない。
この決意が、この淡い想いが。
数百年後に「夜明けの魔女」と呼ばれる原点となり、そして彼女が最後まで秘密にし続ける。
この一人の青年との約束へと繋がっていくことを。
***
青年は黙っていた。
ジーナは真っ直ぐに青年を見つめる。
「あなたは外へ出るべきよ」
「この知識は世界を変える」
「飢える人が減る」
「病で死ぬ人も減る」
「あなたなら――」
「嫌だ」
青年は遮った。
短く、はっきりと。
その声に怒りはない。
ただ、諦めがあった。
「人は嫌いだ」
部屋が静かになる。
青年は少しだけ目を伏せた。
「腹が減れば奪う」
「弱い奴から奪う」
「子供でも、家族でも」
誰も口を開けなかった。
青年は続ける。
「魔力が無いだけで捨てる」
「食べ物もくれない」
「死んでも誰も困らない」
「そんな人ばっかりだった」
淡々と、まるで天気の話をするように。
それが青年にとっては当たり前だった。
世界とはそういうもの。
人間とはそういうもの。
だから森へ来た。
だから一人で生きてきた。
アゼドは静かに目を閉じる。
否定できなかった。
この時代では珍しい話ではない。
魔力が価値。
魔力が命。
それが現実だった。
ジーナは拳を握る。
「……でも私たちは違う」
「あなたを利用しない」
「絶対に守る」
青年は全部頷く。
理解している。
目の前の人たちは善人だ。
嘘もない。
自分を傷付けようともしていない。
それは分かる。
分かるからこそ困る。
一人なら簡単だった。
信じなければいい。
期待しなければいい。
そうすれば傷付かない。
しかし今、この胸の奥で。
何かが小さく疼いた。
ざわり。
森で何度も命を救ってきた感覚。
獣が近い時。
触れるといけない毒草を踏みそうな時。
魔物が現れる時。
理由は分からない。
でも従えば助かる。
青年はそれを「勘」と呼んでいた。
今、その勘が静かに囁いている。
――行け。
――この人について行け。
青年は眉を寄せる。
意味が分からない。
森を出ろと?
今さら?ここで生きられるのに?
理屈では全部否定できた。
街は危険だ。
人は醜い。
森の方が安全だ。
全部正しい。
それでも胸の奥の何かだけが。
ゆっくりと優しく。
背中を押してくる。
青年は無意識にジーナを見る。
ジーナもこちらを見ていた。
魔法使いとしてではなく。
研究者としてでもなく。
英雄を探す目でもない。
ただ一人の人間として。
そこにいてほしいと願う目。
青年は知らない。
この先、自分が世界を変えることも。
この少女が数百年を生きる不死の魔女となることも。
だから小さく。
本当に小さく。
「……わかった」
そう呟いた。
その瞬間。
ジーナはぱっと笑顔になる。
その笑顔を見た青年は少しだけ後悔した。
第六感がまた囁く。
――もう遅い。
――この人は絶対に離さない。
その予感だけは、
森で生き抜いてきたどんな勘よりも、不思議なくらい確信に満ちていた。
***
アゼドは黙って二人を見ていた。
青年。
ジーナ。
片方は森で生き延びた、魔力を持たない青年。
片方は将来を約束された天才魔法使い。
本来なら交わることのない二人だった。
それが今。
同じ机を囲み。
同じ料理を食べ。
未来を見始めている。
アゼドは静かに息を吐いた。
短い時間だった。
まだ一日も経っていない。
それなのに何度、自分の常識は壊された。
楽園の実。
魚料理。
薬学。
保存技術。
農法。
火起こし。
森の管理。
どれも国一つが欲しがる知識だった。
そして恐ろしいのは。
青年はそれを偉業と思っていないこと。
生きるために必要だった。
ただそれだけ。
ジーナもまた異常だった。
普通の魔法使いなら警戒する。
秘匿する、あるいは独占する。
しかし彼女は違う。
もっと知りたい。
もっと広めたい。
その好奇心が恐ろしいほど純粋だった。
アゼドは苦笑する。
「厄介な二人だ」
誰にも聞こえない声だった。
だが、だからこそ分かる。
この二人が歩けば。
世界は変わる。
飢えは減る。
病は減る。
魔法だけが価値のこの時代も変わるかもしれない。
しかし人はそう簡単ではない。
知識は富になる。
富は権力になる。
権力は争いを生む。
王族。
貴族。
商人。
魔法使い。
冒険者ギルド。
薬師。
農園。
誰もが欲しがる。
奪おうとする。
利用しようとする。
この青年は断れない。
優しいから。
目の前で腹を空かせた者がいれば料理を作る。
怪我人がいれば薬を渡す。
きっとそんな男だ。
ジーナは止まらない。
知識を見れば飛び込む。
危険でも。
禁忌でも。
好奇心が勝つ。
そんな女だ。
アゼドは頭を抱えたくなった。
放っておけば二人とも真っ先に死ぬ。
この世界を変える前に人間に潰される。
だから答えは一つしかなかった。
アゼドは立ち上がる。
腰の剣へ手を添える。
何かを誓うように。
静かに。
「ジーナ」
「ん?」
「青年」
「?」
二人が同時に振り向く。
アゼドは笑った。
豪快でもなく。
いつもの冷静な笑みでもなく。
どこか吹っ切れた顔だった。
「俺がお前たちを守る」
青年は首を傾げる。
「守る?」
「ああ」
「なんで」
「それが仕事だからだ」
青年は納得したように頷く。
「そうか」
それだけだった。
ジーナは違う。
長い付き合いだから分かる。
その言葉が本気だと。
軽い護衛ではない。
命を預ける覚悟。
命を捨てる覚悟。
そこまで決めている。
「……いいの?」
アゼドは笑う。
「冒険者だからな」
「面白いものを最後まで見届ける義務がある」
冗談のように言う。
しかし心の中では別の言葉を噛み締めていた。
――この二人はきっと英雄になる。
いや、英雄なんて生易しいものじゃない。
時代そのものになる。
ならばその隣に立つ剣が必要だ。
光が強くなれば。
必ず影も濃くなる。
誰かがその影を斬らなければならない。
それなら自分がいい。
若い頃から剣しか取り柄がなかった男には。
それくらいしかできない。
アゼドは窓の外を見る。
夜の森。
静かな闇。
そして視線を二人へ戻す。
一人は未来を変える知識を持つ青年。
一人はその未来を信じる魔法使い。
その時まだ誰も知らない。
数百年後。
人々は「夜明けの魔女」の名を知っていても、アゼド本人の名前は知られない。
しかし笑っていた老剣士の事は響き渡る。
命が尽きる時まで忠義を尽くした者の代名詞として。
それでもアゼドは構わなかった。
名誉などいらない。
ただ最後までこの二人が笑って歩けるように。
それだけが彼が剣を握る理由になった。
***
その光景を。
一人の女性は少し離れた場所から眺めていた。
青年。
ジーナ。
アゼド。
三人は何かを話している。
笑い。
困ったように眉を下げ。
また笑う。
まるで昔からそうだったかのような空気。
彼女は何も言わず壁に寄りかかった。
腕を組む。
視線だけを向ける。
周囲の冒険者たちは騒いでいた。
「あの人が護衛とか!」
「大げさだろ!」
「でも本気の顔だったぞ!」
笑い声が飛ぶ。
彼女だけは笑わなかった。
横顔には古い傷が一本。
剣を振るう者の手。
日に焼けた肌。
女性らしい装飾は何一つない。
彼女の家は代々続く名家だった。
男は騎士となり。
主君へ剣を捧げる。
女は給仕となり。
主君へ忠誠を捧げる。
それが誇り。
それが伝統。
誰も疑わない。
幼い頃、彼女は兄の剣を盗んで振った。
そしてよく叱られた。
「女のすることではありません」
次の日も振った。
また叱られた。
それでも振った。
血が滲むまで。
腕が上がらなくなるまで。
彼女は剣が好きだった。
だから全部を捨てた。
家も、名誉も。
親の期待も。
女として生きる未来も。
騎士になるために。
誰よりも努力した。
走り。振り。学び。
そして全てに勝った。
男にも。
先輩にも。
教官にも。
そして最後。
騎士叙任の日。
称号は与えられなかった。
理由は簡単だった。
「女性だから」
それでは世論が悪い。
だから別の理由が用意された。
規律違反。
命令違反。
虚偽の報告。
汚名だけが並べられ。
努力は全て泥に塗られた。
彼女は剣を握ったまま笑った。
乾いた笑いだった。
それ以来、彼女は冒険者になった。
誰にも頭を下げず。
誰にも期待せず。
依頼だけをこなし。
酒を飲み。
喧嘩をして。
今日を生きる。
それだけ。
夢はもう死んだ。
そう思っていた。
なのに。
今、目の前には。
世界を変える知識を持ちながら。
名誉に興味もないただの人間。
そしてその隣には。
身分も立場も関係なく青年を引っ張ろうとする魔法使い。
一流冒険者であるアゼドが。
命を懸けて守ると宣言した。
誰も生まれで決めていない。
魔力でも。
血筋でも。
男か女かでもない。
誰もが人の中を見ている。
そんな当たり前が。
彼女には眩しかった。
胸の奥で。
何かが音を立てる。
ぱちり。
小さな火花。
もう消えたと思っていた火。
騎士になりたかった少女の熱。
誰かのために在りたかった熱。
それが静かに燃え始める。
彼女は腰の剣へ触れる。
冷たい柄。
何度も手放そうと思った。
そのたび握り直した剣。
小さく息を吐く。
「……馬鹿らしい」
自嘲する。
まだ諦めきれていなかった。
剣を振りたい。
誰かを守るために。
誇れる自分であるために。
青年がその時。
偶然こちらを向いた。
目が合う。
青年はただ目があっただけと思い視線を外す。
しかし彼女は一瞬固まり。
次の瞬間、思わず吹き出した。
「……乙女か、私は」
彼女が騎士としてもう一度歩き始める。
最初の一歩になった。
後に人々は語る。
夜明けの魔女。
名もなき英雄。
忠義の老剣士。
そして黎明の盾。
「騎士」という言葉そのものになる女性。
「ノエル」
彼女の呼び名は時代によって違う。
『黎明の盾』『剣士ノエル』など
しかし共通していることが一つだけあった。
――最強の騎士。
騎士を志す者は必ずその名を学ぶが彼女を語る文献は、それだけでは終わらない。
『英雄の屋敷にて給仕を務める』
『夜明けの魔女の食卓を支えた女性』
『茶の淹れ方は王宮の作法を超え、来客はその一杯で心を許した』
そんな記述がいくつも残っている。
騎士なのに給仕でもある。
剣士なのに屋敷を切り盛りする。
後世の学者たちは長く議論した。
だが発掘された複数の文献。
屋敷の台帳。
夜明けの魔女の言葉。
英雄に関する記録。
その全てが同じ名を書いていた。
ノエル。
剣を握る騎士。
そして主人たちへ紅茶を淹れる給仕。
『彼女はどちらも極めた』
そのため現代では「ノエルのような人だ」という言葉がある。
剣も学問も。
礼儀も仕事も。
何一つ手を抜かず高い水準でこなす人物への最高の賛辞。
文武両道、才色兼備、万能。
それら全てをまとめた言葉。
それが「ノエル」だ。