魔女が秘密にした男   作:ケン3ヴァルデン

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第22話 踏み出す者達

 

 

 

その夜。

 

青年は眠れなかった。

 

冒険者たちはそれぞれ休み。

穏やかな寝息を立てている。

青年だけが火の前に座っていた。

 

ぱちり。

 

薪が爆ぜる。

その音を聞きながら。

青年は考える。

 

森を出る。

 

その言葉の重みを。

何度考えても答えは変わらなかった。

 

人は嫌いだ。

街も好きではない。

森の方が安心する。

 

けれど理由は分からない。

 

森で生きてきた勘。

それだけが背中を押していた。

 

青年は小さくため息を吐く。

 

 

***

 

 

翌朝。

 

青年は誰よりも先に起きていた。

そして拠点を歩いていた。

 

長年暮らした場所。

初めて魚を焼いた場所。

初めて薬を作った場所。

初めて畑を作った場所。

 

青年はゆっくり周囲を見渡した。

 

持って行こうと思えば持って行ける物もある。

 

薬や道具。

保存食。

素材。

 

しかし無理だ。

 

森を出るなら荷物は減らさなければならない。

それにまた戻ってくる可能性もある。

全部を背負うことはできない。

 

青年は考える。

 

何を持っていくべきか。

何が一番大事か。

 

答えはすぐに出た。

 

青年は拠点の奥へ向かう。

 

慎重に石をどかす。

さらに木箱を開ける。

 

その中に一冊の本があった。

 

本と言っても貴族が持つような立派な物ではない。

 

木の皮。

動物の皮。

植物の繊維。

 

様々な素材を重ねて作られたもの。

 

不格好で。

分厚く。

何度も補修されている。

 

それでも青年にとっては世界で最も価値のある物だった。

 

青年はそっと表紙を撫でる。

 

最初のページ。

 

幼い字と絵が並んでいる。

 

雑草の絵。

食べられた。

吐いた

腹痛。

 

そんな走り書き。

次のページ。

 

魚の絵。

骨。

内臓。

どこが美味いか。

どこが不味いか。

 

さらにページをめくる。

 

薬草、毒草。

動物、魔物。

足跡、天候。

保存方法。

畑。

池、水路。

種。

薬。

 

何百枚もの記録。

 

失敗と成功。

発見と後悔。

 

全てがそこにあった。

 

青年の人生だった。

 

誰も教えてくれなかった。

だから自分で調べた。

 

誰も助けてくれなかった。

だから自分で覚えた。

 

飢え、病。

そして孤独。

 

死にかけた日々。

それら全部がこの本の中に詰まっている。

 

青年は静かに笑う。

 

少しだけ、本当に少しだけ。

 

「……重いな」

 

本の重さではない。

これまでの人生の重さだった。

 

青年は革紐で本を縛る。

背負い袋へ入れる。

 

それだけだった。

 

薬も持たない。

道具も最低限。

食料も少し。

 

だが本だけは持っていく。

失ってはいけない。

 

もし自分が死んでも誰かがこれを読めば。

また作れる。

また生きられる。

また飢えずに済む。

 

そんな気がした。

 

青年は最後に拠点を見回した。

何年も暮らした場所。

家だった。

 

そして初めて少しだけ思う。

帰って来る場所があるのも悪くないな、と。

 

背負い袋を肩に掛ける。

 

 

 

中にはたった一冊の本。

 

けれどその一冊は王国の図書館すべてより価値があることを、まだ誰も知らなかった。

 

後世。

 

その本はこう呼ばれる。

 

『英雄の手記』

 

あるいは。

 

『文明の始まり』

 

人類史において最も重要な書物の一つ。

 

その原本が今、

 

青年の背中で無造作に揺れていた。

 

 

***

 

 

青年が戻ると、一人だけ起きている者がいた。

 

青年が昨日見て気になっていたノエルだった。

 

既に鎧の手入れを終え、剣帯を締め直している。

 

冒険者としては珍しくないが少ない方だった。

彼女の生真面目な性格がよく出ていた。

 

青年は特に気にする様子もなく近づく。

 

「起きてたのか」

 

「……ああ」

 

ノエルは短く返す。

 

ぶっきらぼうな口調。

 

だが青年は気にしない。

 

森の動物たちも大体そんなものだった。

 

警戒しているだけ。

悪意ではない。

 

だから自然と距離を詰める。

 

ノエルは思わず半歩下がった。

 

青年は気付かない。

というより意味が分からなかった。

今まで自分に近づく人間などほとんどいなかったのだ。

 

だから異性との距離感も分からない。

 

ノエルの方は違う。

 

男性に近寄られた経験ならある。

酒場。

冒険者や貴族。

酔っ払いなどとの喧嘩。

 

そういう類のものだ。

 

だが今は違う。

目の前の青年は何も考えていない。

 

下心もない、だからこそ困る。

妙に距離が近い。

 

そして気付けば青年の手が伸びていた。

 

「?」

 

ノエルが固まる。

 

青年の指先が。

 

頬から鼻筋へ伸びる一本の傷をなぞる。

 

古傷だった。

 

その傷は確かに顔の中心を走っている。

 

ノエルの身体が僅かに強張る。

青年は傷だけを見て触れていた。

 

純粋な観察。

自分や獲物の傷を見る時と同じ目。

 

「いつ出来た」

 

「……騎士学校でな」

 

ノエルは少しだけ視線を逸らす。

 

「訓練中だ」

 

嘘だった。

正確には半分だけ。

 

実際は策略だった。

 

称号を与えたくない連中が仕組んだ事故。

死んでもおかしくなかった。

傷だけで済んだのは幸運だった。

 

青年は黙って聞いている。

さらに尋ねる。

 

「痛いか」

 

「今は痛くない」

 

「痒いとか」

 

「ない」

 

「引きつるか」

 

「少しだけ」

 

青年はそれ聞いて頷く。

 

「待ってろ」

 

そう言い残して歩いていく。

ノエルは思わずぽかんと見送った。

 

いまのは何だというのだろう。

 

しばらくして青年は拠点の荷物を漁っていた。

 

箱を開ける。

布をどける。

木の容器を取り出す。

 

さらに別の棚。

乾燥した薬草。

油、粉末。

 

何かを確認している。

 

ノエルが近付く。

 

「何してる」

 

「薬を探してる」

 

「薬?」

 

青年はようやく目当ての物を見つけた。

 

小さな石の容器。

 

蓋を開ける。

 

中には淡い緑色の軟膏が入っていた。

香草と土の匂い。

どこか甘い香りも混じっている。

 

青年はそれを持って戻る。

 

「これ」

 

青年はノエルへ差し出した。

ノエルは咄嗟に受け取る。

 

「なんの薬か?」

 

「傷跡の薬、時間が経っても効果はある」

 

その言葉にノエルは固まった。

 

粗雑だが傷を治す薬はある。

高いが傷口を塞ぐ薬もある。

 

だが傷跡を消す薬など聞いたことがない。

 

青年は当然のように続ける。

 

「さすがに完全には消えない」

「それでも今より薄くなる」

「しばらく続けて塗れば」

「ほとんど分からなくなる」

 

ノエルは容器を見つめる。

 

何も言えない。

 

この傷は諦めていた。

騎士になれなかった証。

 

ずっとそう思っていた。

だから隠さなかった。

消そうとも思わなかった。

 

しかし目の前の青年は違う。

 

ただ傷があるから治そうとしている。

そこに特別な感情はない。

怪我人を見たら薬を渡す。

 

それだけ。

 

「……なんで」

 

思わず漏れる。

 

青年は首を傾げた。

 

「?」

 

「なぜそこまでしてくれるんだ?」

 

青年は少し考えた。

 

本当に少しだけ。

そして当たり前のように答える。

 

「気になるから」

「君は綺麗な女性だし」

 

ノエルは思わず顔を覆った。

 

その返答は卑怯だった。

 

駆け引きも。

口説き文句も。

何もない。

 

ただの本音。

 

だからこそ誰よりも真っ直ぐだった。

 

 

***

 

出発の時が来た。

 

冒険者たちは慌ただしく動いている。

 

荷物の整理、確認。

帰還経路の確認。

 

昨晩のうちに一人の冒険者が先行して街へ向かっていた。

 

調査結果の報告。

追加人員の手配。

 

そして何より森の主が発見されたという報告のためだ。

 

もっともその森の主はアゼドの隣で干し魚を齧っていた。

 

「それ持ってくのか?」

 

アゼドが呆れたように聞く。

青年は当然のように頷く。

 

「食べ物だから」

 

「そうか」

 

それ以上は聞かなかった。

 

今さら何を見ても驚かない。

そう思っていたアゼドだったが、

青年の荷物を見て少しだけ眉を上げる。

 

少ない。

 

背負い袋一つ。

最低限の道具。

 

何より大切そうに背負われた一冊の本。

青年の人生そのものが詰まった本。

 

それだけだった。

 

「本当にそれでいいのか?」

 

アゼドが尋ねる。

青年は振り返り、森を見る。

 

「戻って来れる」

 

短い返答。

 

森は逃げない。

拠点も残っている。

持ち出せないなら置いていけばいい。

 

それだけだった。

 

 

やがて一行は歩き出す。

 

森の道を抜ける。

 

青年にとっては何千回も歩いた道。

しかし今日は違った。

 

進む方向が違う。

狩りでもない。

採集でもない。

 

森を出るための道。

それは妙に落ち着かなかった。

 

青年は無言のまま歩く。

 

やがて木々の密度が薄くなる。

 

風が変わる。

光が変わる。

 

そして森が終わる。

 

青年の足が止まった。

誰も急かさない。

 

ジーナも、アゼドも。

ノエルも、他の冒険者たちも。

 

ただ彼を待った。

 

青年は森の外を見る。

 

遠くまで続く空。

草原。

街へ続く道。

人の手が入った畑。

煙を上げる建物。

 

見たことはある。

森に潜る前も。

 

だがこうして再び来るなんて思わなかった。

 

森の中には匂いがある。

音がある。

気配がある。

風の流れも分かる。

 

だが外は違う。

 

広すぎる。

開けすぎている。

どこを見ればいいのか分からない。

 

妙な不安が胸を掠めた。

本能が警戒している。

 

知らない世界だ。

知らない匂いだ。

知らない人間がいる。

 

青年は思わず背後を見る。

 

そこには森があった。

 

自分を育てた場所。

自分を生かした場所。

家だった。

 

一瞬、戻ろうかという考えが頭をよぎる。

その時だった。

 

隣にジーナが立つ。

 

青年は顔を向ける。

ジーナは笑っていた。

 

優しく。

どこか嬉しそうに。

 

「おかえり」

 

ジーナはそう言った。

 

青年は固まる。

 

意味が分からなかった。

 

森を出るのだ。

 

どちらかと言えば「行ってらっしゃい」ではないのか。

 

だがジーナは続ける。

 

「あなたが帰ってくる場所は森だけじゃない」

「これからはどんな場所にでも帰れる」

「だから、おかえり」

 

青年は何も言えない。

 

胸の奥が妙に落ち着かない。

痛くもない。

苦しくもない。

 

けれど、くすぐったい。

 

どう返せばいいのか分からない。

生まれてからそんな言葉を向けられたことがなかった。

 

捨てられた子供に。

帰る場所などなかったから。

 

だから青年は視線を逸らす。

少しだけ耳が赤い。

 

「……変なこと言うな」

 

それだけだった。

 

しかしジーナは満足そうに笑う。

アゼドは肩を竦める。

ノエルは口元を隠していた。

 

やがて青年は小さく息を吐く。

 

そして森へ背を向ける。

 

あの時と、初めて森に来た時と同じだ。

 

自らの意思で。

未来へ向かって歩き出したのは。

 

 

***

 

 

後世の歴史家たちの何人かはこの日こそが

「人類の夜明け」と呼んでいる。

 

魔法だけの時代が終わり、

人が知恵によって世界を切り拓く時代が始まった日。

 

英雄のことが初めて正式な書類に記載されたその日だからだ。

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