森を出てから半日ほど。
街道を進み続けた一行は、ついに街へと到着した。
高い木柵。
見張り台。
人の声。
荷車の軋む音。
焼いた麦の匂い。
青年は無言で周囲を見渡していた。
懐かしい。
だが懐かしいだけだった。
温かさは感じない。
帰ってきたという感覚もない。
ただ昔見た景色がそこにあるだけだった。
門番たちはアゼドたちを見ると慌てて敬礼する。
調査隊として出発した有名な冒険者たちだ。
当然の反応だ。
だがその隣に立つ青年を見ると表情が変わる。
怪訝そうな目。
訝しむ視線。
青年は気にしなかった。
服装は以前より遥かにまともになったとはいえ、今も森暮らしの名残がある。
日に焼けた肌。
鍛えられた身体。
獣のような気配。
そして何より魔力を持たない。
魔力を持つ人間は本能的にそれを感じ取る。
言葉にはしない。
しかし視線が語っていた。
「なんだあいつは」と。
ジーナは不快そうに眉をひそめる。
ノエルも視線を睨み返している。
だが青年自身は気にしていなかった。
そんなことより気になるものがあった。
路地裏、建物の陰。
一人の老人が座り込んでいる。
痩せている。
顔色も悪い。
近くには幼い子供。
母親らしき女性もいる。
皆やせ細っていた。
青年の足が止まる。
青年の視線が別の場所に。
今度は男が倒れていた。
誰も助けない。
人々は横を通り過ぎる。
見えていないかのように。
昔と同じだった。
青年の胸に何かが込み上げる。
苛立ちだった。
あの状態は危険だ。
放置すれば死ぬ。
助けなければならない。
考えるより先に身体が動く。
青年が路地へ向かおうとした瞬間。
肩を掴まれ、振り返る。
アゼドだった。
「待て」
低い声。
青年は不満そうに眉を寄せる。
「死ぬぞ」
「ああ」
「じゃあ」
「分かっている」
アゼドは静かに答える。
そして周囲を見回す。
街。
人。
貴族。
商人。
役人。
様々な思惑が渦巻く場所。
森とは違う。
善意だけでは動けない。
「だからこそ順番がある」
青年は理解できない顔をする。
アゼドは続けた。
「今のお前はただの身元不明の男だ」
「何を配っても怪しまれる」
「薬を渡しても捕まるかもしれん」
「食料を配っても取り上げられる」
青年は黙る。
それは知らない話だった。
森では考える必要がなかった。
「まずギルドへ行く、そして話を通す」
「お前を守れる立場を作る」
「その後なら動きやすい」
アゼドの声は真剣だった。
青年は再び倒れている老人を見る。
今すぐ助けたい。
だがアゼドも嘘を言っていない。
青年は拳を握る。
悔しかった。
目の前に困っている人がいるのに。
かつての自分と同じなのに。
助ける方法があるのに。
すぐには動けない。
それがどうしようもなく気に入らない。
アゼドは苦笑した。
「焦るな、お前は世界を変える」
「ただその変化は今の人々には早すぎる」
アゼドの言葉は最もだった。
たが青年は首を振る。
そして倒れている人々を見ながら答える。
「それでも、待てない」
その言葉に。
アゼドは返事ができなかった。
ジーナも、ノエルも。
誰も。
青年にとって。
飢えはもっとも避けるべきことだ。
助けられるなら助けるものだ。
だからこそ。
昔から続くこの光景が理解できない。
***
街の中心部。
人通りの多い大通りを抜けた先に冒険者ギルドはあった。
巨大な建物だった。
石と木材で造られた重厚な外観。
依頼掲示板。
武器を担いだ冒険者たち。
昼間だというのに酒を飲む者。
怪我人。
笑い声。
怒鳴り声。
青年は思わず足を止める。
うるさい。
森とは正反対だった。
「なんだここ」
「冒険者ギルドだ」
アゼドが当然のように答える。
「知ってる、でもうるさい」
「慣れろ」
「嫌だ」
即答だった。
アゼドは笑う。
ノエルは少し口元を緩めた。
ジーナは肩を震わせている。
そんなやり取りをしながら中へ入る。
すると一瞬だけ空気が変わった。
「おい」
「あれアゼドじゃねえか」
「調査隊が帰ってきたぞ」
「生きてたか」
「酒奢れ!」
「報告聞かせろ!」
野太い声が飛び交う。
椅子が動く。
何人もの冒険者が近寄ってくる。
だがアゼドは慣れたものだった。
「報告が先だ」
「酒は自分で買え」
「ちっ」
「相変わらずだな」
笑い声が上がる。
調査隊の面々も軽く手を振るだけで流していく。
しかし次第に冒険者たちの視線が別の方向へ向く。
青年だった。
「誰だ?」
「新人か?」
「いや違うだろ」
「森の奴じゃねえか?」
ひそひそ声が聞こえる。
青年は気にしない。
視線には慣れている。
だが少しだけ落ち着かない。
森の獣ならこんなに見てこない。
見てくるなら襲う時だけだ。
その方がまだ分かりやすかった。
アゼドはそのまま受付へ向かう。
受付嬢が顔を上げる。
そして固まった。
「アゼドさん!無事だったんですね!」
「報告書だ」
「は、はい!」
慌てて書類を受け取る。
だが処理を始めた後も。
ちらり。
青年を見る。
また書類を見る。
ちらり。
青年を見る。
また書類を見る。
青年は不思議そうに首を傾げた。
「見られてる」
「そりゃな」
アゼドが答える。
「なんで」
「気になるからだろ」
青年は納得できなかった。
すると受付の奥でも動きがある。
別の受付嬢。
書類係。
職員。
皆ちらちらとこちらを見ている。
中には露骨な者もいた。
身を乗り出している。
紙を持ったまま固まっている。
完全に聞き耳を立てている者までいた。
青年は少しだけ後ろを見る。
自分の後ろに何かあるのかと思った。
何もない。
前を向く。
職員たちと目が合う。
慌てて逸らされる。
また数秒後に見られる。
青年は困惑した。
「変な奴らだな」
ジーナが吹き出す。
「あなたが言う?」
「?」
青年は本気で分かっていなかった。
その頃受付嬢は必死だった。
調査隊。
森の主。
楽園の実。
そして連れて帰ってきた謎の青年。
昨晩戻った先行隊員から断片的な話は聞いている。
だが内容が信じられなかった。
森に住む人間。
楽園の実を食べる。
未知の薬を作る。
魚を育てる。
魔法を使わず火を起こす。
話が本当なら歴史的発見だ。
気になるなという方が無理だった。
やがて処理が終わる。
受付嬢は深呼吸して姿勢を正した。
「ギルド長から通達があります」
「応接室をご用意しておりますので」
アゼドが頷く。
「案内を頼む」
「はい」
青年は周囲を見回す。
まだ見られている。
冒険者も。
職員も。
全員だ。
まるで珍しい動物を見るような目。
少しだけ居心地が悪い。
「帰りたい」
ぼそりと呟く。
「まだ着いたばかりだぞ」
アゼドが苦笑する。
そんなやり取りをしながら一行はギルドの奥へ進む。
騒がしい酒場のような空間を抜け厚い木製の扉の前へ辿り着く。
受付嬢が扉を開く。
そこは静かだった。
外の喧騒が嘘のように消えている。
応接室。
ギルド長との面会用の部屋。
***
応接室の中は静かだった。
分厚い扉が閉まる。
外の喧騒が嘘のように遠ざかる。
室内には大きな机。
来客用の椅子。
壁に掛けられた地図。
そして書類の山。
青年は思わずそちらを見た。
机の上だけではない。
棚にも。
床にも。
積み上がっている。
まるで紙の砦だった。
その中心に一人の老人が座っている。
白髪。
深い皺。
年齢を感じさせる顔。
だが身体は鍛えられていた。
引退したとはいえ、かつて一線級だったことが一目で分かる。
冒険者ギルド長ナシム。
この街の冒険者たちを束ねる男だった。
ナシムは険しい顔で書類を睨んでいる。
何かを書き込み。
また別の紙を見る。
さらにため息。
また書き込む。
そんなことを繰り返していた。
受付嬢が咳払いをする。
「ギルド長」
老人の手が止まる。
顔を上げる。
「……ん?」
疲れ切った声。
そして視線がアゼドたちへ向く。
一瞬だけその表情が和らいだ。
「帰ったか」
「はい」
アゼドが答える。
ナシムは椅子へ深くもたれ掛かる。
「まずはご苦労だった」
「全員無事で何よりだ」
調査隊の面々が頭を下げる。
ナシムは手を振った。
形式ばった礼など必要ない。
そう言いたげだった。
それから視線が移る。
青年へ。
室内が少し静かになる。
青年も老人を見る。
互いに無言。
しばらくして。
老人は目を細めた。
話は聞いている。
昨晩から報告も届いている。
しかし実際に見るのは初めてだった。
森の主。
楽園の実の研究者。
未知の薬師。
未知の農夫。
未知の料理人。
報告書には好き勝手な肩書きが並んでいた。
正直半分は誇張だと思っていた。
しかし今こうして見ると。
何とも言えない。
ナシムは目頭を揉む。
疲れたように。
深く息を吐く。
「……頭が痛い」
ぼそりと呟く。
青年は少し身構えた。
何か問題でもあったのだろうか。
だがナシムは首を横に振る。
「勘違いするな」
「君のせいじゃない」
「むしろお前のせいなら楽だった」
青年はさらに分からなくなる。
ナシムは机の書類を指差した。
「昨日から君の報告書を読んでいる」
「十回は読んだ、読む度に内容が増えている気がする」
ジーナが吹き出す。
アゼドも苦笑した。
ナシムは無視して続ける。
「あの死をもたらす楽園の実」
「誰も食べたがらない魚の養殖」
「奇妙な保存食」
「誰も知らない薬学と農法」
「魔物を利用した火起こし」
「用途不明の未知の道具」
「現状不可能な未知の加工技術」
一つ一つ指を折る。
数が増える。
皺も増える。
最後には諦めたように天井を見上げた。
「頼むから報告書が嘘だと言ってくれ」
「今ならまだ眠れる」
青年は少し考える。
「多分本当」
いたって真面目に答えた。
ナシムは両手で顔を覆った。
「そうか……」
本当に疲れた声だった。
アゼドたちは笑いを堪えている。
ナシムはしばらくそのまま固まる。
やがて諦めたように手を下ろした。
そして改めて全員を見る。
「大勢ですることでもない、解散してくれ」
「アゼド、お前は残れ」
「私ここにいたいんだけど?」
「……好きにしろ」
ナシムは青年とアゼドを座らせる。
しかしジーナがすでに座ったので諦めていた。
ノエルは調査隊の面々を連れて部屋を出ていく。
「今日は長くなる」
ナシムは断言する。
それだけで全員が理解した。
これから始まるのは事情聴取ではない。
世界の常識を揺るがす報告会だ。
ナシムは再び書類の山へ目を向ける。
そして小さく呟いた。
「さて……」
「どこから手をつければいいんだ?」
その言葉と共に、
青年の第二の人生が本格的に始まろうとしていた。