魔女が秘密にした男   作:ケン3ヴァルデン

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第25話 降り立つ英雄

 

 

それから一通りの話が終わる頃には机の上には書類が何枚も積み重なっていた。

 

ナシムは最後の一枚を手に取る。

 

羽根ペンを持ちさらさらと文字を書いていく。

そして、ふとペンが止まった。

 

「ああ、そうだ。」

 

ナシムは青年を見る。

 

「一番大事なことを聞き忘れていた。名前だ。」

「報告書にも身分証にも登録にも必要になる。」

「お前の名前を書かねばならん。」

 

部屋が静かになる。

 

青年は少しだけ考えた。

そして静かに首を横へ振る。

 

「ない。」

 

ナシムの手が止まる。

 

「……ない?」

 

「うん。もう使わない。」

 

その返事はあまりにも自然だった。

ナシムは慎重に尋ねる。

 

「事情を聞いてもいいか。」

 

青年はしばらく黙っていた。

 

思い出している。

昔のことを。

 

「小さい頃、家族がいた。」

「父さんと母さんと弟。」

 

ジーナもアゼドも静かに耳を傾ける。

 

「弟は魔力があったけど、俺にはなかった。」

 

その一言だけで十分だった。

 

この時代では珍しくない。

あまりにもありふれた話。

 

青年は続ける。

 

「捨てられた。」

 

声に怒りはない。

悲しみもない。

ただ事実を話しているだけだった。

 

「最初は名前を覚えていたけど……」

 

少しだけ視線を落とす。

 

「考えた。」

「もし僕が何か悪いことしたら。弟まで悪く言われる。」

 

青年は苦笑した。

 

「だから捨てた。もう使わないし。」

「名前がない方が楽だった。」

 

部屋の空気が重くなる。

 

ナシムは青年の覚悟に言葉を失った。

ジーナは虚しさから唇を噛む。

アゼドは青年の優しさに静かに目を閉じた。

 

誰も責められない。

 

この時代では決して珍しい出来事ではない。

魔力のない子供が捨てられる。

名前ごと消える。

戸籍も記録も。

存在そのものが失われる。

 

何度も見てきた。

 

だからこそ青年が平然と話すことが余計に胸を締め付けた。

 

しばらく沈黙が流れる。

 

やがてナシムが静かにペンを置いた。

 

「……そう、か。」

 

その一言しか出てこない。

青年は逆に困った顔をする。

 

「名前って。そんなにいる?」

 

ナシムは少し笑う。

 

「いるさ。少なくとも今後はな。」

 

青年は腕を組む。

 

「じゃあ付ける?」

 

「そうなるな。」

 

ナシムは頷く。

 

「これからお前は森だけで生きる人間じゃない。」

「世界へ出る。外ではお前を名前で呼ぶ。」

 

青年は少しだけ考え込む。

 

名前。

 

何年も使っていないもの。

もう二度と呼ばれることはないと思っていたもの。

 

それをもう一度持つ。

青年にはまだ実感が湧かなかった。

 

しかしジーナだけはどこか嬉しそうに微笑んでいた。

 

名前を持つということはこの青年がようやく世界に「存在する人間」として認められる、その第一歩なのだから。

 

 

***

 

名前の話が出た瞬間から応接室の空気は妙な方向へ転がり始めていた。

 

ナシムは筆を置いたまま腕を組む。

ジーナは机に身を乗り出し、アゼドはすでに少し諦め顔。

青年だけが変わらず首を傾げている。

 

「名前が必要なのはわかる」

 

「そうだ」

 

ナシムは即答する。

 

「じゃあ、どうする」

 

その一言から始まった。

 

しばらく沈黙。

 

そして最初に口を開いたのは、青年だった。

 

「……森に住んでいたなら」

「フォレストマン、とか?」

 

ナシムの眉がぴくりと動く。

ジーナが即座に顔をしかめる。

 

「それはちょっと……」

 

アゼドは天井を見た。

青年は真顔で首を傾げる。

 

「なんで?」

 

「……適当すぎる」

「そのままだな」

「やめた方がいいよ」

 

青年の提案は3人に即座に切り捨てられた。

 

ナシムは深く息を吐いた。

 

「発想が単純すぎる」

 

ジーナが机を叩く。

 

「もう少しこう!」

「こう、かっこよく!」

 

アゼドがぼそっと呟く。

 

「あるなら最初から苦労してないだろ」

 

青年は話を聞きながら、真面目に考えている顔をしていた。

しかし考えれば考えるほど分からなくなるタイプだった。

 

「名前は大事だ。呼ばれるためのもの、記録に残るためのものだ」

「お前はもう“森の青年”じゃない」

 

青年は少しだけ視線を落とす。

 

森の青年。

 

それでもいい気はした。

しかしそれでは困るらしい。

 

候補は無限に増え続けた。

 

「グリーン」

 

「ビースト」

 

「ハンター」

 

「アダム」

 

青年は途中から静かに聞いているだけになった。

 

自分のことなのにまるで他人の話のようだった。

 

 

 

やがてナシムがペンを止める。

長い沈黙の末。

ナシムが口を開いた。

 

「……一人だけいる。」

 

全員の視線が集まる。

 

「今はもう、あまり知られていない名前だ。」

 

ナシムは椅子へ深く腰掛ける。

 

どこか懐かしむように目を細めた。

 

「バロウズ・セシアン。」

 

青年が首を傾げる。

 

「誰?」

 

「探検家だ。」

 

ナシムは静かに語り始める。

 

「今から幾百年以上前の男だ。」

「平民として生まれ、誰も足を踏み入れたことのない土地ばかりを目指した。」

「誰も行こうとしない場所へ、一人で進み続けた。」

 

帰ってくる度に地図を描き。

危険な場所を記録し。

新しい植物や鉱石を持ち帰る。

 

それが彼の人生だった。

 

ナシムは静かに息を吐く。

 

「だが最後の探検で帰ってこなかった。」

 

誰も遺体を見つけられなかった。

 

どこで死んだのか。

何を見たのか。

最後まで分からない。

 

残ったのは。

 

彼が描いた地図。

そして膨大な記録だけだった。

 

青年は黙って聞いている。

 

「国はその功績を称えた。彼の死後、公爵位を授けた。」

「バロウズ・セシアン公爵。」

 

ナシムは苦笑する。

 

「もっとも本人は平民のまま死んだ。公爵になったことも知らない。」

 

部屋が少し静かになる。

 

「名誉だけが後から与えられた。だから当時は名ばかりの公爵なんて皮肉を言う者もいた。」

 

それでも誰も彼の功績は否定しない。

 

彼が切り拓いた道を通り、彼が描いた地図で命を救われた者は数え切れないからだ。

 

ナシムは青年を見る。

 

「お前も似ている。」

「未知を恐れない。誰も考えなかったことを考える。」

「そして自分のためではなく、後に残るものを作っている。」

 

着火剤、望遠鏡。

薬、農法、保存技術。

 

そのどれもが、世界を変える。

誰かが使い、誰かが受け継ぐものだった。

 

ナシムは静かに言う。

 

「だから、お前にこの名を継いでほしい。」

「バロウズ・セシアンの名を。」

 

青年はしばらく考え込む。

 

別に名前に思い入れはない。

 

だが、知らない誰かが命懸けで遺した名前なら嫌ではない。

 

「……いいよ。」

 

短く答えた。

 

ナシムは静かに頷く。

 

羽根ペンを手に取る。

 

ゆっくりと紙へ書き記した。

 

『バロウズ』

 

その瞬間。

 

森で名を捨てた少年は。

 

初めて、自らの意思で新しい名を受け入れた。

 

 

***

 

 

後世の歴史家を最も悩ませた人物。

 

それが、バロウズ・セシアンである。

 

正確には二人。

 

『未開の地を切り拓いた探検家』

 

『人類の文明を押し上げた発明家』

 

そのどちらも同じ名を持っていた。

 

しかも二人の歩んだ道は驚くほどよく似ている。

 

誰も足を踏み入れない場所へ向かい。

常識に囚われず、未知を持ち帰り、後世へ遺した。

 

そのため古い文献では両者の功績が頻繁に混同される。

 

「薬学を広めたのは初代か、二代目か。」

 

「魔物利用論を提唱したのはどちらか。」

 

「失われた大陸を発見したという記録は、探検家のものか、それとも後年の英雄の旅か。」

 

歴史家たちは何百年にもわたり議論を重ねてきた。

 

しかし決定的な答えは出ない。

 

二代目バロウズ自身が、自らを語る記録をほとんど残さなかったからである。

 

彼が遺したもの全て。

研究書、技術書。

農法、薬学、料理。

魔物の観察記録。

 

どれも「何を作ったか」は克明に記されている。

 

だが「自分がどんな人間だったか」は驚くほど書かれていない。

 

そのため後世では、本名で呼ばれることは少ない。

 

『あの英雄』

 

『かの偉人』

 

あるいは単に『英雄』

 

そう呼ばれることの方が圧倒的に多かった。

 

その呼び名にはもちろん理由がある。

 

彼の功績は、一人の人間にはあまりにも多すぎた。

 

薬学の祖。

近代農業の祖。

魔物利用学の祖。

保存食文化の祖。

近代料理の祖。

雇用制度の改革者。

衛生学の先駆者。

発明家。

探検家。

教育者。

 

そのどれもが彼を指す。

 

だからこそ、人々は一つの名前では呼びきれなかった。

 

「あの英雄ならば。」

 

その一言だけで誰もが理解する。

 

それほどまでに、彼は時代そのものを象徴する存在となっていたのである。

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