バロウズ・セシアン。
青年にその名が与えられてから、幾つかの月日が流れた。
街は少しずつ変わり始めていた。
誰一人として、その変化が後に歴史の転換点と呼ばれるとは知らないまま。
***
アゼドとナシムは街の外れに新たな屋敷の建設を進めていた。
ただの屋敷ではない。
研究室。
薬の調合室。
保存庫、食料庫。
採取品の仕分け場。
そして人を雇うための受付。
住まいであり、工房であるその建物は、後の時代に”夜明けの魔女の城”と呼ばれる施設の原型だった。
ナシムはギルド長として各所との調整に奔走する。
土地の確保、建材の手配、職人の選定。
貴族への説明、商人との交渉。
毎日のように机へ向かい、山積みの書類と格闘していた。
一方のアゼドは現場を飛び回る。
職人との打ち合わせ。
警備の配置、資材の確認。
完成後を見据えた動線の設計まで、自ら足を運んで指示を出していた。
***
ジーナとノエルは、森へ通う日々を送っていた。
目的は、バロウズが長年蓄えてきた物資の回収。
森の各地に点在する拠点。
そこへ保管されている研究資料。
薬、保存食。
加工した素材。
種子、乾燥させた薬草。
そして木の皮へ記された観察記録。
その量は二人の想像を遥かに超えていた。
「また見つけた……。」
ジーナは苦笑する。
「まったく、多いなこれは…」
ノエルは呆れながら荷車へ荷物を積み込む。
彼が拠点ごとに役割を分けた事が、いまの彼女たちの作業を難航させた。
薬を作る場所。
魚を育てる場所。
乾燥庫。
燻製小屋。
果実畑。
薬草園。
どれも計画的に配置されている。
ノエルは何度も思った。
この男は、本当に一人で生きていたのか、と。
***
そして当の本人。
バロウズはナシムと共に、一枚の紙と向き合っていた。
そこへ並ぶのは薬の調合法ではない。
【雇用計画】
森で採取する植物。
危険度、報酬。
教育期間。
薬への加工手順。品質管理。
保管方法。
採取量の上限。
季節ごとの変動。
森の資源が枯渇しないための制限まで細かく書き込まれていく。
「全部必要なのか?」
ナシムが尋ねる。
「必要。」
バロウズは即答した。
「採りすぎたら無くなる。」
「教えないと毒草も採る。」
「急ぎすぎると死人が出る。」
森で生きてきた経験が、そのまま仕組みになっていく。
ナシムはその一つ一つを書き写しながら、小さく笑う。
「細かいな、お前は。」
バロウズは意味が分からず首を傾げた。
***
街でも少しずつ噂が広がり始めていた。
「ギルドが新しい仕事を始めるらしい。」
「薬草を集めるだけで食料がもらえるとか。」
「森へ入る仕事だって?」
「本当なのか?」
期待。
疑念。
嘲笑。
様々な声が飛び交う。
だが、その噂を最も真剣な表情で聞いていたのは、路地裏で暮らす貧しい者たちだった。
魔力がない。
仕事がない。
生きる術がない。
そんな彼らにとって、それは初めて与えらるかもしれない”施しではない生き方”だった。
その小さな計画が、後に国中へ広がる採取制度の始まりとなり、魔力を持たない者たちの暮らしを大きく変える第一歩になる。
***
屋敷の完成があと少しとなった頃。
バロウズとナシムは、新たな事業を動かし始めた。
「完成を待つ理由はない。やりながら直せばいい。」
森で生きてきた彼にとって、それは当たり前の考え方だった。
罠も、薬も、農地も。
一度で完成したものなど一つもない。
失敗して直す、また試す。
その積み重ねだけが正解へ辿り着く道だと知っていた。
冒険者ギルドでは、新たな依頼が掲示された。
『採取隊護衛依頼』
内容は単純。
森へ入る採取隊を護衛し、安全に帰還させること。
魔物への対処、荷物の運搬補助。
それだけだった。
「討伐より楽そうだ。」
「長期依頼なのは助かる。」
「報酬も悪くない。」
冒険者たちの反応は上々だった。
アゼドの声掛けもあり、それなりの人数が集まる。
一方で。
ナシムが募集をかけた新事業は、まるで様子が違った。
募集対象は以下の者達。
魔力を持たない者。
スラムで暮らす者。
日雇い仕事すら得られない者。
「森で薬草を採るだけで報酬?」
「そんな都合のいい話があるか。」
「どうせ危険な仕事を押し付けられる。」
「魔力なしを集めるなんて怪しい。」
疑う者ばかりだった。
これまで何度も騙されてきた。
甘い話の先に待っていたのは搾取ばかり。
だから誰も信じない。
それでもほんの数人だけ、来る者がいた。
痩せ細った青年。
幼い妹を連れた少女。
杖を突く老人。
子を抱えた母親。
どれも、生きることに疲れたような顔をしていた。
ナシムはその光景を見て胸が痛む。
一方、バロウズはいつも通りだった。
「これだけ?」
集まった人数を見て首を傾げる。
ナシムは苦笑する。
「これでも多い方だ。」
「そう。」
バロウズはそれ以上何も言わなかった。
少ないなら少ないなりに工夫すればいい。
森ではいつもそうだった。
魚が獲れなければ罠を変える。
畑が育たなければ土を変える。
薬が効かなければ配合を変える。
最初から上手くいくなど、一度もなかった。
だから今回も同じ。
「始めよう。」
その一言だけだった。
ナシムは確認する。
「本当にいいのか?」
「まだ制度も未完成だ。」
「人も少ない。」
「不満も出るぞ。」
バロウズは静かに頷く。
「知ってる、だから始める。」
「やってみないと何が悪いか分からない。」
森で学んだ唯一の正解。
失敗は終わりではない。
次に直すための材料でしかない。
その考え方は、薬作りにも、料理にも、そして社会の仕組みにも変わらず向けられていた。
ナシムは思わず笑う。
「……本当に、お前は変わっている。」
バロウズは不思議そうに首を傾げた。
そして翌朝。
たった数人の採取者と、それを護衛する冒険者たちは、朝靄の立ち込める森へと足を踏み入れた。
後世では、この日が「総合事業」の始まりとして記録される。
誰も見向きもしなかった森の恵みが、人々の生活を支える産業へと変わる、その最初の一歩だった。
***
街の外れ。
冒険者ギルドの前には、今回参加する者たちが集められていた。
護衛を務める冒険者。
採取を担当するスラムの住民たち。
人数は決して多くない。
期待よりも、不安の方が大きい顔ばかりだった。
「本当に森へ入るのか……。」
「魔物なんて見たこともねえぞ。」
「帰ってこれるんだろうな。」
そんな囁きがあちこちから聞こえる。
対照的に、バロウズはいつも通りだった。
「行こう。」
その一言で歩き始める。
森へ入ると、すぐに違いが現れた。
スラムで暮らす者たちは、想像以上に体力がなかった。
ろくに食べていない。
痩せ細った身体では、森の中を歩くだけでも苦しい。
息を切らし、足を止める者が次々と現れる。
それを見た冒険者たちは顔を見合わせた。
「おいおい……。」
「これじゃ採取どころじゃないぞ。」
バロウズは少し考えて指示を出すことにした。
「荷物を持てる人は代わりに持って。」
「歩けない人は他の人が支えて。」
屈強な冒険者たちが荷物を担ぎ、疲れた者へ肩を貸す。
最初は不満そうだった彼らも、事情を知ると黙って従った。
一方のバロウズだけは、森を歩く速度が変わらない。
木々の間を迷いなく進む。
枝を避け、獣道を選ぶ。
時折振り返っては全員が付いてきているかだけを確認する。
彼にとっては、見慣れた庭のようなものだった。
しばらく歩いたところで、バロウズが足を止める。
「今日はまず二つ。」
参加者たちへ振り返る。
「これ。」
地面を指差す。
そこには細長い葉が群生していた。
土の中から少しだけ白い部分が覗いている。
「臭い根っこ。」
冒険者たちは顔をしかめる。
一本抜いてみる。
皮を剥いた瞬間。
「くっさ!」
「なんだこれ!」
鼻を突く刺激臭に、思わず顔を背ける。
バロウズだけは平然としていた。
「臭いけど、食べると元気になる。」
「食べると身体が動く、疲れにくい。」
「美味しい。」
最後の一言だけは誰も信じなかった。
「絶対嘘だろ。」
冒険者の一人が小さく呟く。
バロウズは気にせず採取方法を教え始める。
「大きいのだけ、小さいのは残す。」
「根を全部取らない、来年また生える。」
採る者たちは不安そうに、だが真剣に頷く。
ただ集めるだけではない。
次も採れるように残す。
それも仕事の一部だった。
「終わったら魚。」
今度は川へ向かう。
透き通った水の中を魚が泳いでいる。
「今日のご飯。」
バロウズはそう言って川へ入った。
石を拾う。
流れを見る。
魚を見る。
パシャン。
一瞬だった。
魚が一匹、岸へ飛ぶ。
「え?」
冒険者が目を丸くする。
もう一匹。
また一匹。
まるで魚の動きが最初から見えていたかのように、次々と捕まえていく。
「すげぇ……。」
誰かが思わず呟く。
バロウズは首を傾げる。
「道具忘れた、けど慣れれば普通。」
彼にとっては、本当に普通だった。
採れた魚を籠へ入れながら、バロウズは満足そうに頷く。
「今日はこれでいい。」
冒険者が尋ねる。
「どうするんだ?」
バロウズは迷うことなく即答した。
「食べる。」
全員がきょとんとする。
「今日来た人、来なかった人。」
「みんなに食べてもらう。」
臭い根、にんにく。
魚。
そして森で採れる香草。
体を温め、栄養をつける料理を作る。
それが今日の目的だった。
飢えた身体では働けない。
元気がなければ明日も来られない。
だからまず食べる。
健康になる、その上で働く。
バロウズにとって、それは事業ではなく、ごく当たり前の順序だった。
だが誰もまだ気付いていない。
この「まず経験してもらう」という考え方が、後に総合事業最大の特徴となる。
労働だけではない。
食事、医療。
教育、雇用。
それらを一つの仕組みとして支えるからこそ、人々は後にこの事業を「総合事業」と呼ぶようになるのである。