森に入ってどれほど歩いただろうか。
少年は何度も転びながら木々の間を進んでいた。
空腹は限界を超えている。
胃は痛み、足は震え、視界はぼやけていた。
もう何でもいい。
食べられるものさえあれば。
そんな時だった。
ふと視界の先に鮮やかな色が見えた。
赤とも桃色ともつかない、不思議な色。
木漏れ日の中で宝石のように輝いている。
少年は思わず足を止めた。
果実だった。
丸く艶やかな実が枝先にいくつも実っている。
森の中とは思えないほど美しかった。
少年はごくりと唾を飲み込む。
木は細い崖の途中から生えていた。
簡単には届かない。
何度も飛び跳ねる。
落ちていた枝を使う。
石を投げる。
失敗する。
それでも諦めなかった。
ようやく一つの果実が枝から外れ、地面へ落ちる。
少年は転がるように駆け寄った。
果実を拾い上げる。
傷一つない。
甘い香りが漂っていた。
その瞬間、腹が大きく鳴った。
少年は迷わなかった。
果実にかじりつく。
果汁が口いっぱいに広がった。
甘い。
今まで食べたどんな物より甘い。
果物などほとんど口にしたことがない少年ですら分かる。
これは特別だ。
果肉は柔らかく、蜜のような甘さが舌に絡みつく。
夢中になって食べた。
もっと欲しい。
もっと食べたい。
身体がそう訴えていた。
気が付けば落ちた果実を探し回っていた。
そして見つけたものを片っ端から口へ運んだ。
腹が満たされる。
久しぶりの満腹感だった。
少年は木の根元に座り込む。
幸福だった。
こんなに満たされたのはいつ以来だろう。
自然と笑みが零れる。
すると不思議なことに気付いた。
鳥がいない。
森に入ってから何度も聞いていた鳴き声が、この辺りだけ聞こえない。
小動物の気配もない。
虫の羽音すら遠かった。
静かだった。
まるで何かを避けるように。
だが少年は気にしなかった。
満腹感と安堵感が思考を鈍らせていた。
その夜。
少年は久しぶりに穏やかな眠りについた。
そして夢を見る。
懐かしい夢だった。
家の夢。
父がいる。
母がいる。
弟がいる。
食卓には温かな料理が並んでいた。
誰も少年を嫌っていない。
誰も少年を捨てていない。
皆が笑っている。
こちらを見ている。
おいで。
帰っておいで。
優しい声が聞こえた。
その声は夢が終わっても消えなかった。
歩いていても。
立ち止まっていても。
ずっと耳元で囁き続けていた。
おいで。
おいで。
こっちだよ。
まるで誰かが森の奥から呼んでいるかのように。
少年はその声に導かれるように歩き始めた。
知らないうちに。
まるでそれが当然であるかのように。
***
どれほど歩いただろう。
少年にはもう分からなかった。
ただ森の奥へ。
声に導かれるまま足を動かしていた。
おいで。
おいで。
優しい声が聞こえる。
母の声だった。
違う。
今度は父の声。
弟の声。
いつの間にか声は増えていた。
皆が笑っている。
皆が手を振っている。
もう寂しくないよ。
帰っておいで。
そんな言葉が耳に心地よかった。
足取りは軽い。
空腹も疲労も忘れていた。
不思議なほど身体が軽かった。
そして少年は何かに躓いた。
身体が前に投げ出される。
受け身も取れず地面へ叩きつけられた。
鈍い音が響く。
額に激痛が走った。
「あっ……」
思わず声が漏れる。
頭を打った衝撃で視界が揺れた。
同時に。
耳元で囁いていた声が遠ざかる。
おいで。
おいで。
その声は薄れ、やがて聞こえなくなった。
森の音が戻ってくる。
風が木々を揺らす音。
葉の擦れる音。
自分の荒い呼吸、頭の鈍い痛み。
まるで深い眠りから覚めたような感覚だった。
少年はしばらく地面に伏せたまま動けなかった。
やがて額を押さえながら身体を起こす。
そして、自分が何に躓いたのかを見た。
木の根だと思った。
森にはよくあることだ。
だが違った。
白かった。
細長かった。
地面から半ば露出しているそれは、動物の骨だった。
少年は息を呑む。
さらに周囲を見る。
そこにも。
あそこにも。
土に埋もれた骨。
砕けた頭蓋骨。
朽ちた肋骨。
今まで見えていなかった。
見えていたのに認識できていなかった。
そんな感覚だった。
まるで何かに目を塞がれていたかのように。
そして自分の歩いてきた道。
その先。
その奥。
どこを見ても同じ木が生えていた。
あの果実の木だ。
赤く艶やかな果実。
宝石のように美しい果実。
一本ではない。
二本でもない。
森の奥へ続く道筋に沿って無数に生えている。
まるで誘導するように。
まるで導くように。
少年の背筋を冷たいものが走った。
その時だった。
風が吹く。
枝葉が揺れる。
果実が擦れ合う。
そして一瞬だけ。
果実の甘い香りが鼻を掠めた。
途端に頭が重くなる。
また声が聞こえた気がした。
おいで。
その時、少年は本能的に理解した。
果実だ。
あれが原因だ。
理屈ではない。
証拠もない。
だが本能が叫んでいた。
あれを食べた後からだ。
あの声を聞くようになったのは。
あの夢を見たのは。
あの道を迷わず歩いていたのは。
すべてあの果実を食べてからだった。
少年は唇を噛む。
血の味がした。
その痛みが僅かに意識を繋ぎ止める。
知らなかった。