魔女が秘密にした男   作:ケン3ヴァルデン

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第2話 幻肢痛

森に入ってどれほど歩いただろうか。

 

少年は何度も転びながら木々の間を進んでいた。

 

空腹は限界を超えている。

胃は痛み、足は震え、視界はぼやけていた。

 

もう何でもいい。

食べられるものさえあれば。

 

そんな時だった。

 

ふと視界の先に鮮やかな色が見えた。

 

赤とも桃色ともつかない、不思議な色。

木漏れ日の中で宝石のように輝いている。

 

少年は思わず足を止めた。

 

果実だった。

 

丸く艶やかな実が枝先にいくつも実っている。

 

森の中とは思えないほど美しかった。

 

少年はごくりと唾を飲み込む。

 

木は細い崖の途中から生えていた。

 

簡単には届かない。

 

何度も飛び跳ねる。

落ちていた枝を使う。

石を投げる。

 

失敗する。

 

それでも諦めなかった。

 

ようやく一つの果実が枝から外れ、地面へ落ちる。

 

少年は転がるように駆け寄った。

 

果実を拾い上げる。

 

傷一つない。

 

甘い香りが漂っていた。

その瞬間、腹が大きく鳴った。

 

少年は迷わなかった。

 

果実にかじりつく。

果汁が口いっぱいに広がった。

 

甘い。

 

今まで食べたどんな物より甘い。

果物などほとんど口にしたことがない少年ですら分かる。

 

これは特別だ。

 

果肉は柔らかく、蜜のような甘さが舌に絡みつく。

 

夢中になって食べた。

もっと欲しい。

もっと食べたい。

 

身体がそう訴えていた。

 

気が付けば落ちた果実を探し回っていた。

そして見つけたものを片っ端から口へ運んだ。

 

腹が満たされる。

久しぶりの満腹感だった。

 

少年は木の根元に座り込む。

 

幸福だった。

 

こんなに満たされたのはいつ以来だろう。

 

自然と笑みが零れる。

 

すると不思議なことに気付いた。

 

鳥がいない。

森に入ってから何度も聞いていた鳴き声が、この辺りだけ聞こえない。

 

小動物の気配もない。

虫の羽音すら遠かった。

 

静かだった。

 

まるで何かを避けるように。

 

だが少年は気にしなかった。

満腹感と安堵感が思考を鈍らせていた。

 

その夜。

 

少年は久しぶりに穏やかな眠りについた。

そして夢を見る。

 

懐かしい夢だった。

 

家の夢。

 

父がいる。

母がいる。

弟がいる。

 

食卓には温かな料理が並んでいた。

 

誰も少年を嫌っていない。

誰も少年を捨てていない。

皆が笑っている。

 

こちらを見ている。

 

おいで。

 

帰っておいで。

 

優しい声が聞こえた。

 

その声は夢が終わっても消えなかった。

 

歩いていても。

立ち止まっていても。

 

ずっと耳元で囁き続けていた。

 

おいで。

 

おいで。

 

こっちだよ。

 

まるで誰かが森の奥から呼んでいるかのように。

 

少年はその声に導かれるように歩き始めた。

 

知らないうちに。

 

まるでそれが当然であるかのように。

 

 

***

 

 

どれほど歩いただろう。

少年にはもう分からなかった。

 

ただ森の奥へ。

声に導かれるまま足を動かしていた。

 

おいで。

 

おいで。

 

優しい声が聞こえる。

母の声だった。

 

違う。

 

今度は父の声。

弟の声。

 

 

いつの間にか声は増えていた。

 

皆が笑っている。

皆が手を振っている。

 

もう寂しくないよ。

 

帰っておいで。

 

そんな言葉が耳に心地よかった。

 

足取りは軽い。

空腹も疲労も忘れていた。

不思議なほど身体が軽かった。

 

 

そして少年は何かに躓いた。

 

身体が前に投げ出される。

受け身も取れず地面へ叩きつけられた。

 

鈍い音が響く。

額に激痛が走った。

 

「あっ……」

 

思わず声が漏れる。

頭を打った衝撃で視界が揺れた。

 

同時に。

 

耳元で囁いていた声が遠ざかる。

 

おいで。

 

おいで。

 

その声は薄れ、やがて聞こえなくなった。

 

森の音が戻ってくる。

風が木々を揺らす音。

葉の擦れる音。

自分の荒い呼吸、頭の鈍い痛み。

 

まるで深い眠りから覚めたような感覚だった。

 

少年はしばらく地面に伏せたまま動けなかった。

 

やがて額を押さえながら身体を起こす。

 

そして、自分が何に躓いたのかを見た。

 

木の根だと思った。

森にはよくあることだ。

 

だが違った。

 

白かった。

 

細長かった。

 

地面から半ば露出しているそれは、動物の骨だった。

 

少年は息を呑む。

 

さらに周囲を見る。

 

そこにも。

あそこにも。

 

土に埋もれた骨。

砕けた頭蓋骨。

朽ちた肋骨。

 

今まで見えていなかった。

 

見えていたのに認識できていなかった。

 

そんな感覚だった。

 

まるで何かに目を塞がれていたかのように。

 

そして自分の歩いてきた道。

 

その先。

 

その奥。

 

どこを見ても同じ木が生えていた。

 

あの果実の木だ。

 

赤く艶やかな果実。

 

宝石のように美しい果実。

 

一本ではない。

二本でもない。

 

森の奥へ続く道筋に沿って無数に生えている。

 

まるで誘導するように。

まるで導くように。

 

少年の背筋を冷たいものが走った。

 

その時だった。

 

風が吹く。

枝葉が揺れる。

果実が擦れ合う。

 

そして一瞬だけ。

 

果実の甘い香りが鼻を掠めた。

途端に頭が重くなる。

 

また声が聞こえた気がした。

 

おいで。

 

その時、少年は本能的に理解した。

 

果実だ。

 

あれが原因だ。

理屈ではない。

証拠もない。

 

だが本能が叫んでいた。

 

あれを食べた後からだ。

 

あの声を聞くようになったのは。

あの夢を見たのは。

あの道を迷わず歩いていたのは。

 

すべてあの果実を食べてからだった。

 

少年は唇を噛む。

 

血の味がした。

 

その痛みが僅かに意識を繋ぎ止める。

 

知らなかった。

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