総合事業が軌道に乗り始めた頃。
街の一角では、もう一つの大きな計画が完成を迎えていた。
バロウズの屋敷。
外観は、貴族の館のような華美さはなかった。
飾り立てた彫刻も、黄金の装飾もない。
代わりに目立つのは実用性だった。
大きな窓。
荷車がそのまま入れる広い搬入口。
採取品を運び込むための倉庫。
雨の日でも作業できる広い軒。
誰が見ても、「暮らすため」ではなく「働くため」の建物だと分かる造りだった。
一階は、総合事業の中心となる場所だった。
入口を入ると最初にあるのは受付。
依頼を受ける者。
採取した薬草を持ち込む者。
薬を受け取る者。
仕事を求める者。
毎日のように多くの人が出入りする。
その奥には、大きな仕分け場。
森から運ばれた薬草。
香草、茸、果実。
魔物の素材。
それらが種類ごとに分けられ、加工場へ送られていく。
さらに奥には、薬の調合室。
壁一面へ並ぶ乾燥薬草。
大小さまざまな乳鉢。
煮沸用の大釜。
乾燥棚、保存庫。
森に点在していた施設が、そのまま一つの建物へ集約されていた。
そして二階。
そこは、完全にバロウズだけの空間だった。
誰にも邪魔されない研究室。
新しい薬を試作する実験室。
料理を研究する広い調理場。
保存食を作るための乾燥室。
魔物の素材を分解し、観察する解剖室。
植物の種子を保管する部屋。
びっしりと記録が並ぶ書庫。
壁一面には木の皮や羊皮紙へ書かれた観察記録が並び、棚には試作品が所狭しと置かれている。
失敗作すら捨てられていない。
バロウズにとって、失敗もまた次の答えへ繋がる記録だからだった。
しかし寝室だけは驚くほど質素だった。
机、椅子。
簡素な寝台。
衣服をしまう棚。
対照的に、研究室や調理場には惜しみなく広い空間が使われている。
ジーナは苦笑した。
「……どこが家なのよ」
バロウズは不思議そうな顔で答える。
「全部。」
「暮らして。」
「考えて。」
「作る場所。」
それが彼にとっての家だった。
屋敷が完成したその日も、バロウズは特別な感慨を抱かなかった。
「これで雨でも薬が作れる。」
「荷物も運びやすい。」
「便利。」
その程度だった。
しかし、ジーナは違った。
完成した屋敷を見上げながら、小さく呟く。
「ここから、世界が変わる。」
その予感は、誰よりも強かった。
そして数百年後。
不死となった彼女がなお住み続けるその建物は、人々から畏敬を込めてこう呼ばれるようになる。
――『夜明けの魔女の城』
世界に夜明けをもたらした知恵が生まれ、育まれ、受け継がれた場所として。
***
その頃。
街から遠く離れた王都では、別の形でバロウズの名が広まり始めていた。
だが、その噂は真実とは似ても似つかないものだった。
商人は荷を運ぶ。
荷と共に話も運ぶ。
一つの街で聞いた話は、次の街で少し姿を変える。
さらにその次では尾鰭が付き。
王都へ届く頃には、まるで別の話になっていた。
『地方の街で、とんでもない薬が作られているらしい。』
その話は、「どんな病でも治る秘薬がある。」
やがて、「死者すら蘇らせる薬がある。」
へと変わっていく。
『豊かになってスラム街が消えたらしい。』
その話も、「貧民が突然姿を消した。」
やがて、「どこかへ連れ去られた。」
そして、「秘密の軍隊を作っている。」
と、いつしか恐ろしい噂へ変わっていた。
『森へ毎日のように人が入っている。』
それだけの話が「大量の兵士を訓練している。」
「戦争の準備をしている。」という話へ発展する。
護衛を務める冒険者たちは、
いつの間にか精鋭部隊となり。
薬草の採取は兵糧の備蓄になり、
魚を運ぶ荷車は武器の輸送になっていた。
そして何より、人々の想像を掻き立てたのが、バロウズ本人だった。
彼はほとんど街へ姿を現さない。
商人とも積極的に会わない。
貴族へ挨拶もしない。
総合事業の現場にはいる。
だが、それ以外では研究室へ籠もる日も多い。
その姿を見た者は少なく、見てもすぐ仕事へ戻ってしまう。
結果として、
「誰も顔を知らない男」
という印象だけが独り歩きした。
王都では、様々な呼び名が生まれる。
『蘇った男』
死者を蘇らせる薬を持つという噂から。
『顔のない男』
誰もその正体を知らないことから。
『反乱の支度をしている男』
大量の人員と物資を集めているという誤解から。
どれも真実ではない。
しかし、人々は真実よりも刺激的な噂を好む。
ある貴族は酒の席で笑い飛ばした。
「地方の田舎者が英雄気取りか。」
別の貴族は眉をひそめる。
「もし本当なら危険だ。」
商人たちは顔を見合わせる。
「薬を独占されれば商売にならん。」
「食料まで押さえられたらどうする。」
それぞれが、自分たちの立場で噂を解釈していく。
そして誰一人として、真実へたどり着けない。
***
ある屋敷の一室。
窓辺で紅茶を口にしていた一人の女魔法使いは、商人たちの噂話へ静かに耳を傾けていた。
「――『顔のない男』だそうですよ。」
「死者を蘇らせる薬まで作っているとか。」
「今では兵まで集めているらしい。」
商人たちは面白半分に笑う。
その女だけは、くすりと微笑んだ。
「ふふ……。」
久しく忘れていた名前だった。
「バロウズ・セシアン。」
その名を、もう一度聞く日が来るとは思わなかった。
女はゆっくりと窓の外へ視線を向ける。
彼女は知っている。
初代バロウズ・セシアンを。
まだ一介の平民だった頃から。
未知へ挑み、誰も進まない道を歩き続けた男を。
そして、その帰還を誰よりも待ちながら、最後まで帰らなかったことも。
国は彼の死後、公爵位を贈った。
だが本人は、その栄誉を知ることなく眠りについた。
「懐かしいわね。」
ぽつりと漏らした声には、どこか郷愁が滲んでいた。
だが、すぐに口元は楽しげに緩む。
噂の中の二代目。
その話を聞けば聞くほど、初代を思い出しながらも違和感を覚える。
薬学、農業。
食文化、雇用。
魔物の利用。
どれも初代には成し得なかったことばかり。
未知を切り拓いたという一点では同じでも、その歩幅が違う。
女は静かに笑う。
「あの子より、とんでもないことをしているじゃない。」
初代が地図を残したのなら。
二代目は文明を残そうとしている。
比べることすら失礼かもしれない。
それほどまでに、その功績は大きかった。
「面白い。」
長い、不死の時を生きてきた彼女の心が、久方ぶりに躍る。
世界は停滞していた。
何十年。
何百年。
人は争い、奪い合い、少しだけ前へ進み、また止まる。
そんな歴史を何度も見てきた。
だからこそ分かる。
この噂は、ただの流行ではない。
本物だ。
誰かが世界の歯車を動かし始めている。
女は立ち上がる。
「少し、会いに行こうかしら。」
その瞳には、好奇心と期待が宿っていた。
***
総合事業が始まってからというもの、バロウズの日常は一変していた。
森では、一日に誰とも話さない日が当たり前だった。
必要なのは観察し考え、手を動かすこと。
言葉ではなかった。
だが今は違う。
朝になれば採取隊へ指示を出し。
昼には農家や職人から質問を受け。
夕方には薬を求める人々の相談に乗る。
一日で何十人もの人と話す生活になっていた。
その変化は、少しずつ彼自身を変えていく。
当初は、言葉が途切れ途切れだった。
思考の方が先に進み、言葉が追いつかない。
「あれ。」
「これ。」
「こう。」
身振り手振りで補いながら説明することも珍しくなかった。
しかし、人と話す機会が増えるにつれ、その舌足らずな話し方は少しずつ消えていく。
「この薬草は乾燥させてから使ってください。」
「魚は内臓を取り除いてから焼くと臭みが減ります。」
以前なら短い単語で済ませていた内容も、相手に伝わるよう順序立てて説明できるようになっていた。
ジーナはそれを見て笑う。
「最初に会った頃より、ずいぶん話せるようになったわね。」
バロウズは少し考えて答える。
「話した方が早いから。」
それもまた、森では学べなかった知識だった。
一方で、ナシムには別の悩みがあった。
「このままではまずい。」
屋敷が完成し、人の出入りが増えた今。
研究者としてだけではなく、一つの組織の代表として振る舞う場面も増えていた。
そのたびに、バロウズは困ったことをする。
椅子の上でうずくまる。
食事を五分もかからず平らげる。
気になった物があれば相手の話の途中でも触りに行く。
疲れると床へ座り込み、そのまま眠る。
森では何の問題もなかった。
だが、人前ではそうはいかない。
「これは教育が必要だな……。」
ナシムは頭を抱えた。
そこで屋敷へ数人の使用人を雇い、生活全般を教えることになった。
歩き方。
食事の作法。
衣服の着方。
来客への応対。
言葉遣い。
読み書きの作法。
礼儀。
最初の数日は、使用人たちも苦労した。
「旦那様、椅子はそう座るものではありません。」
「……床の方が楽。」
「楽でもダメです。」
「……そう。」
素直ではある。
だが常識がない。
森で20年近くも生きてきた男なのだから当然だった。
それでも、バロウズの覚えは驚くほど早かった。
一度理由を理解すれば、二度と間違えない。
「人を安心させるため。」
「不快にさせないため。」
そう説明されると、納得して実践する。
礼儀とは形式ではなく、相手への配慮だと理解したからだった。
数か月も経つ頃には、その変化は誰の目にも明らかだった。
背筋は自然と伸び。
無駄のない所作はどこか洗練され。
人の話を聞く姿勢にも落ち着きが生まれる。
もともと森で鍛えられた均整の取れた身体つきに加え、清潔な衣服と整えられた髪が合わさることで、その印象は見違えるほど変わっていた。
街の女性たちは思わず振り返り、冒険者たちは感心する。
「あれが、あの森の主か……。」
「最初に会った時とは別人みたいだ。」
ただ一つだけ。
何か新しい発見をした時に目を輝かせ、年相応の少年のような笑みを浮かべる癖だけは、最後まで変わることがなかった。
その無邪気さを知る者たちは皆、少しだけ笑う。
どれほど立ち居振る舞いが洗練されても。
彼の本質は、森で世界を知ろうと目を輝かせていた、あの少年のままだった。
***
総合事業が軌道に乗ったとはいえ、ジーナたちが常にバロウズの傍にいられるわけではなかった。
彼らには、それぞれ果たすべき役割があった。
アゼドは冒険者ギルドでも屈指の実力者であり、多くの冒険者を束ねる指揮官でもある。
魔物討伐。
隊商の護衛。
新人冒険者の育成。
そのどれもが彼でなければ務まらない仕事だった。
ナシムもまた、総合事業を優先したい気持ちはありながらも、ギルド長として街全体を見なければならない。
一人のためだけに組織を動かすことはできなかった。
ジーナも同じだった。
優秀な魔法使いである彼女には各地から依頼が舞い込み、魔物討伐や災害への対応、貴族からの要請など、長期間街を空けることも珍しくない。
そしてノエルもまた、冒険者として名を上げ始めていた。
剣の腕を見込まれ、高難度の護衛や討伐依頼へ呼ばれる機会が増えていく。
四人とも、バロウズを支えたいという思いは同じだった。
しかし、それぞれに守るべき責任があった。
もし全員が総合事業へ専念すれば、冒険者ギルドは大きく戦力を失う。
討伐依頼は滞り、街の安全は揺らぐ。
それでは本末転倒だった。
だから彼らは話し合い、一つの形へ落ち着く。
基本的な運営は、バロウズとナシム、そして総合事業で育った職員たちが担う。
アゼドたちは依頼の合間に屋敷へ立ち寄り、困り事があれば手を貸す。
誰か一人に頼るのではなく、皆で支える。
その仕組みは、総合事業そのものの考え方にもよく似ていた。
最初こそ、バロウズは少し寂しそうだった。
「今日はジーナがいない?アゼドも?」
そんな言葉を口にすることもあった。
森では孤独が当たり前だったはずなのに、一度仲間と過ごす時間を知ってしまうと、その不在を自然と感じるようになっていた。
そんな彼を見て、ナシムは苦笑しながら言う。
「安心しろ。お前が困った時は、あいつらは必ず帰ってくる。」
その言葉どおりだった。
どれほど遠くへの依頼でも。
どれほど危険な任務でも。
屋敷へ戻れば、必ず誰かが顔を見せる。
バロウズの隣には、いつしか森で過ごした孤独の時間ではなく、帰る場所を知る人々との日常が根付いていた。