魔女が秘密にした男   作:ケン3ヴァルデン

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第3話 奇跡の糸

もちろん少年はまだ知るはずもない。

 

その果実の正体を。

 

その植物は森の生き物たちから恐れられていながらも、羨望の眼差しで見られていた。

 

甘く。

瑞々しく。

 

この世のどんな果実より魅力的な味。

 

 

それは捕食されるために進化したものだった。

 

種を運ばせるため。

 

より遠くへ。

より広く。

より多くの土地へ。

 

植物は待っている。

 

空腹の獣を。

鳥を。

そして人間を。

 

魅了された者は種を運ぶ。

 

森の奥へ。

誰も辿り着かない場所へ。

自らの足で。

 

自ら望んでいると思い込みながら。

やがて力尽きて倒れる。

 

身体は土へ還り、骨は根に絡め取られる。

肉は養分となる。

 

そして残された種が芽吹く。

新たな果実の木となって。

 

次の獲物を待つ。

 

ただ一人。

 

少年だけがまだ生きていた。

 

毒に侵されながらも。

幻覚に囚われながらも。

 

ほんの僅かに残った理性で、その罠に気付き始めていた。

 

 

***

 

 

あの果実が原因だと気付いた瞬間だった。

 

少年は迷わなかった。

 

喉へ指を突っ込む。

胃の中のものを吐き出そうとした。

 

「あっ……ぐっ……!」

 

苦しい。

 

それでもやめない。

 

吐かなければならない。

そうしなければ死ぬ。

 

理屈ではなく確信だった。

 

胃が痙攣する。

 

酸っぱい液体が込み上げる。

しかし吐き出されたのは胃液ばかりだった。

 

果肉は出てこない。

 

当然だった。

 

少年は知らない。

 

あの果実の毒は果肉そのものにはない。

甘く瑞々しい果肉は無害。

獲物を油断させるための餌に過ぎない。

 

真に危険なのは種だった。

 

種と、その周囲を覆う薄い組織。

 

そこに強力な幻覚成分が凝縮されている。

そして果肉だけを先に消化させて、種だけを体内へ残す。

 

植物としては理想的な仕組みだった。

 

種は運ばれる。

獲物は遠くへ歩く。

 

そして倒れる。

 

少年はその仕組みを知らない。

 

ただ必死だった。

 

喉へ指を押し込む。

 

吐く。

また吐く。

何度も吐く。

 

胃は空っぽになり始めていた。

 

それでも種は出てこない。

 

腹の奥に重たい異物感が残っている。

 

まるで胃の底に石を飲み込んだようだった。

 

「考えろ……」

 

掠れた声が漏れる。

 

「考えろ……!」

 

返事はない。

 

代わりに聞こえてきた。

 

おいで。

 

おいで。

 

また声だ。

頭が痛い。

視界が歪む。

 

木々が揺れる。

地面が波打つ。

 

果実の木々が笑っているように見えた。

 

枝が父の腕に見える。

根が母の指に見える。

幹が人の身体に見える。

 

何十人もの人間が地中へ埋まりながら立っているようだった。

 

「ちがう……」

 

少年は頭を抱えた。

 

幻覚だ。

 

分かっている。

分かっているのに消えない。

 

気持ち悪い。

苦しい。

怖い。

 

吐くんだ。

吐けない。

 

胃が捻じ切れそうだった。

 

少年は地面を転がる。

 

土を掻き毟る。

額を何度も打つ。

 

息が荒くなる。

 

涙と涎で顔がぐしゃぐしゃだった。

 

死にたくない。

なら考えろ。

 

死にたくない。

なら考えろ。

 

その言葉だけが頭の中を回る。

 

そして不意に。

 

記憶が浮かんだ。

 

本当に些細な記憶だった。

 

幼い頃。

まだ家にいた頃。

 

食べ物があまり貰えず、水ばかり飲んでいた。

腹いっぱい飲もうとした時。

 

その時、全部吐いてしまった。

 

そんな記憶。

 

もう忘れていたはずの光景。

 

だが、その時。

 

少年の脳裏を一つの考えが駆け抜けた。

 

――たくさん腹に入れる。

 

少年の目が見開かれる。

 

胃が空なら出ない。

ならば水を飲む。

限界まで飲む。

 

胃を満たす。

そして吐く。

 

そうすれば。

 

種も一緒に出るかもしれない。

 

根拠などなかった。

成功する保証もなかった。

 

だが今の少年には、それが神から与えられた答えのように思えた。

 

生きるための方法。

まだ試していない方法。

 

少年はふらつきながら立ち上がる。

 

幸い、水の音が聞こえた。

近くに小川がある。

 

 

幻覚が強くなる。

声が呼ぶ。

 

森の奥へ。

 

おいで。

 

おいで。

 

だが少年は逆らう。

歯を食いしばる。

血が滲むほど唇を噛む。

 

生きるために。

 

ただ生きるために。

 

少年は小川へ向かって歩き始めた。

 

 

***

 

 

冷たい。

 

最初に感じたのは、それだった。

 

頬に、唇に、指先に。

冷たい感触が触れている。

 

少年はゆっくりと目を開いた。

 

視界いっぱいに水面が広がっていた。

さらさらと流れる川。

揺れる木漏れ日。

 

透き通った水の中を小さな魚が泳いでいる。

 

しばらくの間、自分がどこにいるのか分からなかった。

 

身体を動かそうとして激痛が走る。

 

「うっ……」

 

喉が焼けるように痛い。

胃はひっくり返されたような不快感がある。

頭も重い。

身体中が鉛になったようにだるかった。

 

少年は浅く息を吐く。

 

どうやら川辺に倒れていたらしい。

 

片手は水の中へ浸かり、身体はうつ伏せのまま横たわっていた。

 

いつから眠っていたのか。

どれほど気を失っていたのか。

全く分からない。

太陽の位置すら覚えていなかった。

 

小川へ向かった記憶はある。

だが、その後が思い出せない。

 

記憶が途切れていた。

 

少年はゆっくり身体を起こした。

 

視界が揺れる。

吐き気も残っている。

胃の奥が気持ち悪い。

 

だが、何かが違った。

 

少年は辺りを見回す。

 

木々がある。

森がある。

風が吹いている。

 

それだけだった。

 

誰もいない。

声も聞こえない。

 

囁く声はなかった。

 

母もいない。

父もいない。

弟もいない。

 

笑い声も。

呼び声も。

 

何もない。

 

ただ森があるだけだった。

 

少年はしばらく呆然とする。

 

耳を澄ませる。

 

もう一度周囲を見る。

 

それでも何も現れない。

そしてようやく理解した。

 

終わったのだ。

 

あの声が。

あの夢が。

あの幻覚が。

 

消えている。

 

「……あ」

 

掠れた声が漏れる。

 

信じられなかった。

本当に消えたのか。

また現れるのではないか。

 

そう思って待ってみる。

 

一分。

 

二分。

 

十分。

 

何も起こらない。

静かな森だけがそこにあった。

 

少年は震える手で顔を覆った。

 

涙が溢れそうになる。

 

生きている。

まだ生きている。

 

死んでいない。

 

あの果実に食われなかった。

森の化け物に負けなかった。

 

偶然か。

運か。

それとも執念か。

 

理由は分からない。

 

ただ一つだけ確かなことがあった。

 

助かったのだ。

 

少年はその場に座り込む。

 

身体は最悪だった。

胃は痛い。

喉も痛い。

頭も痛い。

 

立ち上がるだけで足が震える。

だが、それら全てが心地良かった。

 

苦痛を感じるということは生きている証だった。

 

少なくとも今は。

 

幻覚に支配されていない。

自分の意思で考えられる。

自分の意思で歩ける。

 

その事実だけで十分だった。

 

川の流れを見つめながら、少年は小さく笑う。

 

何日ぶりの笑顔か、自分でも分からなかった。

 

生き延びた。

 

 

 

誰も成し遂げられなかった生還を、たった一人の飢えた少年が成し遂げてしまったのである。




「楽園の実」

発見当初、楽園の実は「食べた者が姿を消す呪われた果実」として恐れられていた。
当時の記録によれば、摂取者は強い幸福感を示した後に失踪し、生還例は存在しなかったとされる。
また「彼らは楽園へ導かれた」と当時は言われていた。

そのため長きにわたり禁忌の植物として扱われていた。


現在では世界中で栽培される一般的な果樹の一つ。

果肉は甘く栄養価に優れ、生食のほかジュースや菓子の原料として広く利用されている。

種子および種子周辺組織から抽出される成分は、現代医療において欠かせない麻酔薬や鎮静剤の原料であり、その恩恵を受けたことのない者はいないとも言われる。

楽園の実もまたかの英雄がたいへん好んだとされる。
魔女が親愛として送り、かの英雄は笑顔で受け取ったと伝承に残っている。

ちなみに本当は魔女が嫌がらせで送りつけ、彼はトラウマから顔を引き攣らせていた。
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