もちろん少年はまだ知るはずもない。
その果実の正体を。
その植物は森の生き物たちから恐れられていながらも、羨望の眼差しで見られていた。
甘く。
瑞々しく。
この世のどんな果実より魅力的な味。
それは捕食されるために進化したものだった。
種を運ばせるため。
より遠くへ。
より広く。
より多くの土地へ。
植物は待っている。
空腹の獣を。
鳥を。
そして人間を。
魅了された者は種を運ぶ。
森の奥へ。
誰も辿り着かない場所へ。
自らの足で。
自ら望んでいると思い込みながら。
やがて力尽きて倒れる。
身体は土へ還り、骨は根に絡め取られる。
肉は養分となる。
そして残された種が芽吹く。
新たな果実の木となって。
次の獲物を待つ。
ただ一人。
少年だけがまだ生きていた。
毒に侵されながらも。
幻覚に囚われながらも。
ほんの僅かに残った理性で、その罠に気付き始めていた。
***
あの果実が原因だと気付いた瞬間だった。
少年は迷わなかった。
喉へ指を突っ込む。
胃の中のものを吐き出そうとした。
「あっ……ぐっ……!」
苦しい。
それでもやめない。
吐かなければならない。
そうしなければ死ぬ。
理屈ではなく確信だった。
胃が痙攣する。
酸っぱい液体が込み上げる。
しかし吐き出されたのは胃液ばかりだった。
果肉は出てこない。
当然だった。
少年は知らない。
あの果実の毒は果肉そのものにはない。
甘く瑞々しい果肉は無害。
獲物を油断させるための餌に過ぎない。
真に危険なのは種だった。
種と、その周囲を覆う薄い組織。
そこに強力な幻覚成分が凝縮されている。
そして果肉だけを先に消化させて、種だけを体内へ残す。
植物としては理想的な仕組みだった。
種は運ばれる。
獲物は遠くへ歩く。
そして倒れる。
少年はその仕組みを知らない。
ただ必死だった。
喉へ指を押し込む。
吐く。
また吐く。
何度も吐く。
胃は空っぽになり始めていた。
それでも種は出てこない。
腹の奥に重たい異物感が残っている。
まるで胃の底に石を飲み込んだようだった。
「考えろ……」
掠れた声が漏れる。
「考えろ……!」
返事はない。
代わりに聞こえてきた。
おいで。
おいで。
また声だ。
頭が痛い。
視界が歪む。
木々が揺れる。
地面が波打つ。
果実の木々が笑っているように見えた。
枝が父の腕に見える。
根が母の指に見える。
幹が人の身体に見える。
何十人もの人間が地中へ埋まりながら立っているようだった。
「ちがう……」
少年は頭を抱えた。
幻覚だ。
分かっている。
分かっているのに消えない。
気持ち悪い。
苦しい。
怖い。
吐くんだ。
吐けない。
胃が捻じ切れそうだった。
少年は地面を転がる。
土を掻き毟る。
額を何度も打つ。
息が荒くなる。
涙と涎で顔がぐしゃぐしゃだった。
死にたくない。
なら考えろ。
死にたくない。
なら考えろ。
その言葉だけが頭の中を回る。
そして不意に。
記憶が浮かんだ。
本当に些細な記憶だった。
幼い頃。
まだ家にいた頃。
食べ物があまり貰えず、水ばかり飲んでいた。
腹いっぱい飲もうとした時。
その時、全部吐いてしまった。
そんな記憶。
もう忘れていたはずの光景。
だが、その時。
少年の脳裏を一つの考えが駆け抜けた。
――たくさん腹に入れる。
少年の目が見開かれる。
胃が空なら出ない。
ならば水を飲む。
限界まで飲む。
胃を満たす。
そして吐く。
そうすれば。
種も一緒に出るかもしれない。
根拠などなかった。
成功する保証もなかった。
だが今の少年には、それが神から与えられた答えのように思えた。
生きるための方法。
まだ試していない方法。
少年はふらつきながら立ち上がる。
幸い、水の音が聞こえた。
近くに小川がある。
幻覚が強くなる。
声が呼ぶ。
森の奥へ。
おいで。
おいで。
だが少年は逆らう。
歯を食いしばる。
血が滲むほど唇を噛む。
生きるために。
ただ生きるために。
少年は小川へ向かって歩き始めた。
***
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
頬に、唇に、指先に。
冷たい感触が触れている。
少年はゆっくりと目を開いた。
視界いっぱいに水面が広がっていた。
さらさらと流れる川。
揺れる木漏れ日。
透き通った水の中を小さな魚が泳いでいる。
しばらくの間、自分がどこにいるのか分からなかった。
身体を動かそうとして激痛が走る。
「うっ……」
喉が焼けるように痛い。
胃はひっくり返されたような不快感がある。
頭も重い。
身体中が鉛になったようにだるかった。
少年は浅く息を吐く。
どうやら川辺に倒れていたらしい。
片手は水の中へ浸かり、身体はうつ伏せのまま横たわっていた。
いつから眠っていたのか。
どれほど気を失っていたのか。
全く分からない。
太陽の位置すら覚えていなかった。
小川へ向かった記憶はある。
だが、その後が思い出せない。
記憶が途切れていた。
少年はゆっくり身体を起こした。
視界が揺れる。
吐き気も残っている。
胃の奥が気持ち悪い。
だが、何かが違った。
少年は辺りを見回す。
木々がある。
森がある。
風が吹いている。
それだけだった。
誰もいない。
声も聞こえない。
囁く声はなかった。
母もいない。
父もいない。
弟もいない。
笑い声も。
呼び声も。
何もない。
ただ森があるだけだった。
少年はしばらく呆然とする。
耳を澄ませる。
もう一度周囲を見る。
それでも何も現れない。
そしてようやく理解した。
終わったのだ。
あの声が。
あの夢が。
あの幻覚が。
消えている。
「……あ」
掠れた声が漏れる。
信じられなかった。
本当に消えたのか。
また現れるのではないか。
そう思って待ってみる。
一分。
二分。
十分。
何も起こらない。
静かな森だけがそこにあった。
少年は震える手で顔を覆った。
涙が溢れそうになる。
生きている。
まだ生きている。
死んでいない。
あの果実に食われなかった。
森の化け物に負けなかった。
偶然か。
運か。
それとも執念か。
理由は分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
助かったのだ。
少年はその場に座り込む。
身体は最悪だった。
胃は痛い。
喉も痛い。
頭も痛い。
立ち上がるだけで足が震える。
だが、それら全てが心地良かった。
苦痛を感じるということは生きている証だった。
少なくとも今は。
幻覚に支配されていない。
自分の意思で考えられる。
自分の意思で歩ける。
その事実だけで十分だった。
川の流れを見つめながら、少年は小さく笑う。
何日ぶりの笑顔か、自分でも分からなかった。
生き延びた。
誰も成し遂げられなかった生還を、たった一人の飢えた少年が成し遂げてしまったのである。
「楽園の実」
発見当初、楽園の実は「食べた者が姿を消す呪われた果実」として恐れられていた。
当時の記録によれば、摂取者は強い幸福感を示した後に失踪し、生還例は存在しなかったとされる。
また「彼らは楽園へ導かれた」と当時は言われていた。
そのため長きにわたり禁忌の植物として扱われていた。
現在では世界中で栽培される一般的な果樹の一つ。
果肉は甘く栄養価に優れ、生食のほかジュースや菓子の原料として広く利用されている。
種子および種子周辺組織から抽出される成分は、現代医療において欠かせない麻酔薬や鎮静剤の原料であり、その恩恵を受けたことのない者はいないとも言われる。
楽園の実もまたかの英雄がたいへん好んだとされる。
魔女が親愛として送り、かの英雄は笑顔で受け取ったと伝承に残っている。
ちなみに本当は魔女が嫌がらせで送りつけ、彼はトラウマから顔を引き攣らせていた。