楽園の実から生還した翌日。
少年は新たな問題に直面していた。
腹が減った。
当然だった。
幻覚から逃れるために吐き続け、胃の中は空っぽだった。
身体も衰弱している。
このままでは結局死ぬ。
少年は森を歩き回った。
食べられるものを探すために。
とはいえ、知識などない。
どの草が食べられるのか。
どの実が毒なのか。
どのキノコが安全なのか。
何一つ知らなかった。
だから試すしかなかった。
まずは草だった。
柔らかそうな葉を摘む。
少し齧る。
苦い。
だが死ぬほどではない。
しばらく様子を見る。
何も起きない。
なら少しだけ食べる。
それでも何も起きない。
少年はその草を覚えた。
次の日。
別の草を試す。
食べてしばらくすると腹が痛くなる。
慌てて吐く。
半日ほど苦しむ。
二度と食べないと心に決める。
また別の日。
鮮やかな色のキノコを見つけた。
綺麗だった。
だが楽園の実を思い出し、警戒する。
ほんの少しだけ口に入れる。
舌が痺れた。
即座に吐き出した。
それ以降、綺麗な色のキノコは避けるようになった。
***
そんな失敗を何度も繰り返した。
腹を壊した。
吐いた。
熱を出した。
立てなくなったこともあった。
それでも諦めなかった。
少年には頼れる大人がいない。
教えてくれる者もいない。
だから自分で学ぶしかなかった。
草を摘む。
臭いを嗅ぐ。
少しだけ食べる。
待つ。
問題なければ量を増やす。
危険なら覚える。
それを何度も繰り返した。
やがて気付く。
そのままでは硬くて食べにくい草も、水に浸すと柔らかくなる。
苦味の強い葉も、温めると少し食べやすくなる。
木の実の中には砕いてから焼いた方が良いものもある。
火を使う方法も覚えた。
最初は偶然だった。
落雷で燃えた木の残り火。
それを恐る恐る枝へ移した。
何度も失敗した。
消えた。
火傷した。
煙で咳き込んだ。
それでも続けた。
火は食べ物を変える。
それを知ったからだ。
硬い物は柔らかくなる。
臭い物は食べやすくなる。
腹を壊しにくくなる。
少年は夢中になった。
生きるためだった。
食べられる草を覚える。
危険な草を覚える。
安全なキノコを覚える。
危険なキノコを覚える。
誰も教えてくれない知識を、自分の身体を使って覚えていった。
失敗の数だけ知識が増えた。
苦しんだ回数だけ生存率が上がった。
そしていつしか。
少年は森で生きる術を身に付け始めていた。
貴族の学者が持つ知識ではない。
魔法使いが誇る知恵でもない。
飢えた孤児が、死にたくない一心で積み上げた知識だった。
だがその知識は確かだった。
少なくとも。
森の中で生きるという一点においては、誰にも奪えない財産となっていた。
***
季節がいくつ過ぎただろうか。
少年は森で生きていた。
最初の頃とは比べものにならないほど多くのことを知っている。
食べられる草。
危険な草。
安全なキノコ。
危険なキノコ。
火の扱い方。
水の確保。
雨を凌ぐ場所。
森で生きるための知識は確実に増えていた。
だが、それでも問題は残っていた。
身体が大きくならない。
むしろ痩せていく。
少年は腕を見る。
細い。
森へ来た頃より多少筋肉は付いた気がする。
だが肉付きが悪い。
肋骨は浮いている。
頬もこけたままだ。
腹は満たされている。
少なくとも以前のような飢餓状態ではない。
毎日何かしら食べている。
それなのに身体が弱々しい。
力が足りない。
走ればすぐ疲れる。
重い枝も持ち上がらない。
なぜだろう。
少年には分からなかった。
栄養などという言葉も知らない。
肉と草の違いを説明できる知識もない。
ただ感覚だけが訴えていた。
決定的に何かが足りない。
何かが。
***
その日も川辺に座っていた。
拠点としている場所だった。
楽園の実の群生地から少し離れた場所。
水があり、食べられる草も生える。
今では最も安心できる場所だった。
少年は焚き火の側で葉を煮ていた。
湯気が立ち上る。
いつもの食事だ。
その時だった。
ぱしゃり。
水音が響いた。
少年はふと顔を上げる。
川面が揺れている。
何かが飛び出した。
銀色の影。
それは空中で光を反射しながら弧を描き、再び川へ落ちた。
少年は瞬きをした。
魚だった。
小さな魚。
だが確かに魚だった。
もう一度。
今度は別の場所。
ぱしゃり。
また跳ねる。
さらに別の場所でも。
川には魚がいた。
今まで何度もこの川を見ていた。
水も飲んだ。
顔も洗った。
その近くで眠った。
なのに気付かなかった。
いや、気にしていなかったのだ。
魚を食べるという発想そのものがなかった。
少年は立ち上がる。
川へ近付く。
水面を覗き込む。
透明な流れの中。
石の影。
揺れる水草。
その隙間を魚たちが泳いでいた。
思ったより多い。
ずっとここにいたのだろう。
少年は唾を飲み込んだ。
それが何を意味するのか理解していたわけではない。
だが本能が囁く。
あれを食べろ。
身体が求めている。
そんな感覚だった。
***
魚を捕まえようと思い立った少年は、まず観察から始めた。
川辺に腹這いになり、水面を見つめる。
魚たちは決まった場所を泳いでいた。
流れの緩やかな場所。
石の陰。
水草の近く。
しばらく見ていると、それぞれに好みの場所があることが分かってくる。
しかし捕まえる方法は分からなかった。
少年は考える。
そして最初に思いついた方法を試した。
手で掴む。
極めて単純だった。
魚が近付いてきた瞬間。
ばしゃり。
手を突っ込む。
逃げられる。
また挑戦する。
逃げられる。
何度も繰り返す。
全身びしょ濡れになる。
転んで石に膝をぶつける。
それでも続けた。
そして偶然だった。
魚が石陰から飛び出した瞬間。
反射的に手を動かした。
ぬるりとした感触。
少年は驚く。
両手の中で魚が暴れていた。
捕まえた。
本当に捕まえてしまった。
少年はしばらく呆然と魚を見つめる。
生きている。
跳ねている。
やがて魚は動かなくなった。
少年は恐る恐るその魚を口へ運ぶ。
一口齧る。
「……まずい」
思わず顔をしかめた。
臭い。
ぬるぬるする。
食感も気持ち悪い。
噛むたびに生臭さが広がる。
頑張ったのに嬉しくない。
葉や木の実の方がまだ食べやすい。
少年は魚を見る。
捨てようかと思った。
だが、その時ふと思い出す。
草もそうだった。
そのままでは食べにくかった。
火を通したら変わった。
ならば魚も同じではないか。
少年は焚き火へ向かった。
木の枝に魚を刺す。
火の上へかざす。
最初は何も起こらない。
じゅう。
小さな音が鳴った。
魚の表面から透明な雫が落ちる。
香りが漂う。
その瞬間。
少年は目を見開いた。
身体が反応した。
腹が鳴る。
唾液が溢れる。
頭で考えるより先に身体が求めていた。
食べろ。
それを食べろ。
本能が叫んでいた。
今まで感じたことのない感覚だった。
香りだけで腹が減る。
香りだけで身体が熱くなる。
焼き上がるのを待つ時間が苦痛なほどだった。
そして少年は魚へ齧り付いた。
熱い。
だが構わなかった。
噛む。
肉がほぐれる。
旨味が広がる。
脂が舌に溶ける。
少年は固まった。
今まで食べたどんな物より美味しかった。
木の実より。
草より。
キノコより。
あの忌々しい果実ですら。
あれとは違う種類の美味しさだった。
身体が喜んでいる。
細胞一つ一つが歓声を上げているような感覚。
夢中で食べた。
骨の周りの肉まで削る。
残さず食べる。
しかし。
途中で顔をしかめた。
苦い。
臭い。
変な味がする。
腹の中から腐ったような臭いが広がる。
慌てて吐き出す。
見れば黒っぽいものだった。
少年は眉をひそめる。
同じ魚なのに味が違う。
美味しい場所と不味い場所がある。
そんなことさえ知らなかった。
その日。
少年は久しぶりに満足して眠った。
***
翌朝。
目覚めるなり川へ向かった。
魚を捕るために。
だが素手では上手くいかなかった。
昨日は偶然だった。
何度やっても逃げられる。
そこで今度は棒を使った。
尖った枝。
魚が近付いた瞬間に突き刺す。
当然失敗する。
また失敗する。
十回失敗する。
二十回失敗する。
それでも時々。
本当に時々だけ成功した。
数回に一度。
運が良ければ捕れる。
だが効率が悪い。
もっと良い方法があるはずだった。
少年は考え続ける。
観察する。
失敗する。
また考える。
その繰り返しだった。
さらに魚を捕まえるたびに新しいことを始めた。
石で切り開く。
腹を割る。
中を見る。
何が入っているのか調べる。
骨はどこにあるのか。
あの黒いのはどこにあるのか。
どこが美味しいのか。
どこが不味いのか。
最初は食べるためだった。
だが次第に興味が湧いてくる。
なぜ魚は泳げるのか。
なぜ骨があるのか。
なぜ腹の中はこうなっているのか。
少年は知らなかった。
学問というものを。
研究というものを。
だが後に多くの学者たちが驚嘆することになる。
世界で最も偉大な発見を成した男の最初の研究対象は、川で捕まえた一匹の魚だったのだから。
この当時は魚を食べる文化は無く、あったとしても海岸周辺の地域のみで捕まえる方法も網か釣竿のどちらかだった。
また魚の消費方法もそのまま焼くか、またぶつ切りにして野菜などと煮るものが多かった。
「魚は生存のために必要だが不味いもの」
それが当時の魚に対する見方だった。