魚を捕るようになってから、少年の身体は目に見えて変わり始めた。
腕に力が付いた。
足取りが軽くなった。
以前なら持ち上げられなかった倒木も動かせるようになった。
理由は分からない。
だが魚を食べるようになってからだということだけは理解していた。
だから少年は魚を研究した。
捕まえては開く。
食べては確かめる。
また捕まえては開く。
その繰り返しだった。
やがて幾つかのことに気付く。
腹の中の柔らかい袋。
長い管。
黒っぽい塊。
それらは食べられないことはない。
飢えているなら十分食料になる。
だが不味い。
臭いも強い。
食べた後に気分が悪くなることもある。
逆に腹の周囲の肉。
背中の肉。
尻尾の付け根の肉。
そうした部分はどの魚でも美味しかった。
大きい魚も小さい魚も同じだ。
腹の中の構造は違っても、基本的な形は似ている。
頭があり。
口があり。
腹があり。
骨があり。
内側に柔らかい何かが詰まっている。
少年は考える。
魚だけではない。
鳥もそうだった。
偶然見つけた他の死骸もそうだった。
皆どこか似ている。
ならば。
人間も同じではないか。
自分にも骨がある。
腹がある。
口がある。
魚と全く同じではないだろう。
だが似ている気がした。
身体というものには共通した形がある。
少年はそんなことを漠然と考え始めていた。
もちろん学問ではない。
ただの直感だった。
だが世界中の学者たちが何百年もかけて辿り着いた考えへ、少年は独学で片足を踏み入れていた。
***
ある日のことだった。
魚を追いながら川辺を歩いていた少年は、ふと立ち止まる。
思い出したのだ。
あの果実を。
忌々しい果実を。
あの甘い果実。
自分を殺しかけた果実。
だが同時に別のことも思い出す。
食べた動物たちの骨。
森の奥へ続く獣道。
そして幻覚に導かれていた自分自身。
「あれを食べると……ふらふらする」
少年は呟く。
考える。
魚は警戒心が強い。
近付けば逃げる。
棒を使っても難しい。
だがもし魚もあの果実を食べたら?
逃げなくなるのではないか。
もっと捕まえやすくなるのではないか。
その発想は突然だった。
だが少年は妙に納得してしまう。
良い考えに思えた。
少なくとも試す価値はある。
もちろん少年はまだ知らない。
あの果実の正体を。
危険なのが果肉ではないことを。
種だということを。
幻覚を見せるのが種の周囲の組織だということを。
彼の認識では、あの果実そのものが危険だった。
だから果肉だけを切り分ける。
種を取り除く。
これならいけるだろうと考えた。
少年は川辺に座り込む。
水面の下では魚たちが泳いでいる。
少年の口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
罠という言葉を知らなくても。
工夫という概念を知らなくても。
その瞬間の少年は間違いなく狩人だった。
獲物を理解し、利用し。
より確実に手に入れる方法を考えていたのだから。
***
少年は早速試した。
果実を採る。
石で割る。
種を取り出す。
果肉だけを細かく潰す。
そして川へ投げ入れた。
白く濁った果肉が流れに乗る。
魚たちは警戒する様子もなく集まってきた。
つつく。
食べる。
また食べる。
少年は息を潜めて見守った。
これでふらふらになるはずだ。
そうなれば簡単に捕まえられる。
だが何も起こらなかった。
魚たちは普通に泳いでいる。
しばらく待っても変わらない。
半日待っても変わらない。
逃げる速度も同じ。
警戒心も同じ。
少年は首を傾げた。
おかしい。
確かに食べていた。
それなのに自分のようにならない。
しばらく考えた末、一つの結論に辿り着く。
量が足りない。
自分はあの時、一つや二つではなく夢中で食べた。
魚が食べた量とは比較にならない。
だから効かないのだろう。
そう考えた。
少年は再び果実を集め始める。
一つ。
二つ。
十。
二十。
気付けば大量の果実を運んでいた。
種を取り除く。
果肉を潰す。
川へ投げる。
また投げる。
翌日も。
その翌日も。
何日も続けた。
魚たちは喜んで食べているように見えた。
だが相変わらず普通だった。
幻覚に囚われる様子もない。
ふらふらと泳ぐ様子もない。
何も変わらない。
――いや。
変わっている。
少年は違和感に気付いた。
魚が大きい。
正確には太い。
以前より胴が丸い。
肉付きが良い。
気のせいかと思った。
だが数日観察して確信する。
魚が太っている。
少年は何とか一匹捕まえた。
棒で突き。
岩へ追い込み。
苦労して手に入れた魚だった。
いつものように石で腹を開く。
そこで少年は目を見開いた。
肉が厚い。
明らかだった。
以前と違う。
骨と皮の間に詰まっている肉の量が増えている。
魚は確実に大きくなっていた。
その夜。
少年は魚を焼く。
火が脂を炙る。
香りが立つ。
そして口へ運ぶ。
噛む。
思わず目を見開いた。
美味い。
今までより美味い。
柔らかい。
旨味も強い。
同じ魚とは思えなかった。
少年は魚と果実を交互に見た。
理解できない。
だが何か関係がある。
それだけは分かった。
あの果実は危険だ。
少なくとも人間には。
だが魚は平気だった。
それどころか元気になっているように見える。
なぜだろう。
何が違うのだろう。
少年は考える。
そしてあることを思い出した。
種だ。
果肉ばかり気にしていた。
だが種はどうなったのだろう。
少年は立ち上がる。
果実を処理していた場所へ向かう。
そこには何日分もの種が捨てられていた。
土の上。
落ち葉の中。
その光景を見て少年は足を止める。
虫がいた。
一匹や二匹ではない。
何十匹も。
羽虫。
甲虫。
名も知らぬ小さな虫たち。
それらが種の周囲を回っていた。
ぐるぐると。
何かに取り憑かれたように。
離れない。
飛び去らない。
種の周囲を回り続けている。
少年は眉をひそめる。
奇妙な光景だった。
少年はしゃがみ込む。
種を一つ拾い上げる。
虫たちの様子を見て。
種を見て。
少年の背筋に冷たいものが走った。
どこかで見た。
その光景を。
どこでだったか。
ほんの少し前。
自分自身が。
同じような事をしていなかっただろうか。
何かに呼ばれるように。
何かを求めるように。
森の奥へ歩いていなかっただろうか。
少年の視線が種へ落ちる。
***
種の周りを飛び続ける虫たちの姿が頭から離れなかった。
あれは偶然ではない。
そんな気がした。
あの忌々しい果実。
自分を殺しかけた植物。
何かがおかしい。
今まで少年は果実そのものが危険だと思っていた。
だが魚は平気だった。
果肉を食べても平気だった。
むしろ太った。
元気になった。
美味しくなった。
それは事実だ。
ならば危険なのは別の部分なのではないか。
少年は火の前で考え続けた。
持ち帰ったいくつかの種を見る。
乾いた種。
まだ新しい種。
ふと何かに突き動かされ、石の上へ置く。
そして砕いた。
硬かった。
思った以上に硬い。
石で何度も叩く。
割る。
潰す。
細かくする。
すると中から独特の匂いが漂った。
少年は顔をしかめる。
甘くもない。
美味しそうでもない。
どちらかといえば不快な臭いだった。
魚は食べるだろうか。
少年は半信半疑のまま川へ向かった。
砕いた種を水へ流す。
小さな欠片が流れに乗る。
魚たちはいつものように集まってきた。
食べる。
また食べる。
少年はじっと見守った。
しばらく何も起きない。
やはり違うのだろうか。
そう思った時だった。
一匹の魚がふらりと向きを変えた。
泳ぎ方がおかしい。
石にぶつかる。
また方向を変える。
ぐるりと回る。
何かを追いかけるように。
何かに呼ばれるように。
さらに別の魚も。
また別の魚も。
泳ぎ方が乱れ始める。
ぐるぐると。
ふらふらと。
一定の場所を回り続ける。
少年は息を呑んだ。
見覚えがあった。
自分だ。
あの日の自分と同じだった。
森の奥へ歩いていた時。
頭の中に声が響いていた時。
現実と夢の境界が曖昧になっていた時。
まさにあんな感じだった。
魚たちはどこかを見ている。
だが何もない。
追いかけている。
だが何も存在しない。
それでも泳ぎ続ける。
何かに導かれるように。
少年は立ち尽くした。
砕かれた種。
その欠片。
間違いない。
果肉ではない。
種だ。
あの甘い果実ではなかった。
本当に恐ろしいのは。
その中に隠れている種だった。
少年はしばらく黙っていた。
胸の奥が冷える。
もしあの日。
吐けなかったら。
もしあの日。
種が胃に残り続けていたら。
自分もあの魚と同じになっていた。
笑いながら。
幸せな夢を見ながら。
どこかへ歩いていた。
そして二度と帰らなかった。
少年は砕いた種を見つめる。
恐ろしい。
だが同時に。
別の感情も芽生えていた。
興味だった。
なぜ種だけなのか。
なぜ果肉は平気なのか。
なぜ魚と虫と人間は同じように幻を見るのか。
なぜ植物がこんなものを持っているのか。
答えは分からない。
だが確かなことが一つだけあった。
この植物は危険だ。
だが危険なのは果実ではない。
種だ。
種こそが人を惑わせる。
種こそが生き物を操る。
その事実へ辿り着いた瞬間。
少年は知らず知らずのうちに、人類で初めて楽園の実の正体を解き明かした者となっていた。
***
少年はしばらく魚たちを観察していた。
泳ぎ方は明らかにおかしい。
逃げようともしない。
少年は川へ手を伸ばした。
驚くほど簡単だった。
普段なら何度も逃げられる。
それなのに今は違う。
魚は抵抗らしい抵抗もなく捕まった。
少年は魚を見つめる。
いつものように石で腹を開く。
内臓を取り出す。
肉を切り分ける。
そして焚き火へ向かった。
魚が焼ける。
脂が弾ける。
香りが立ち上る。
だが少年はすぐには食べなかった。
警戒していた。
魚は種を食べた。
幻覚を見ていた。
ならばその魚を食べた自分も同じになるかもしれない。
少年は慎重に一口だけ齧る。
待つ。
何も起きない。
もう一口。
待つ。
やはり何も起きない。
さらに食べる。
半分食べる。
全部食べる。
声は聞こえなかった。
視界も歪まない。
森の木々も普通のままだ。
幻覚は現れない。
少年は首を傾げる。
魚は確かにおかしくなっていた。
だが自分は平気だ。
なぜだろう。
少年は食べ終えた魚の残骸を見る。
そして取り除いた内臓へ視線を向けた。
まだ捨てていない。
いつもの癖だった。
食べ物を無駄にしないため。
そして観察するため。
少年は内臓を持ち上げる。
柔らかい袋状の器官。
魚が食べたものが入る場所。
石で切り開く。
すると中から見慣れた物が現れた。
砕いた種。
黒い欠片。
まだ残っていた。
魚は種を食べた。
その種はこの袋の中に残っていた。
肉の中にはない。
骨の中にもない。
ここだけだ。
少年は考える。
ゆっくりと。
何度も。
魚を見て。
種を見て。
また魚を見る。
そしてある答えへ辿り着く。
「……ここか」
掠れた声が漏れる。
種がある場所。
種が触れている場所。
そこが危険なのだ。
だから肉は平気だった。
だから食べても平気だった。
だから自分は幻覚を見なかった。
少年は再び内臓を見る。
今まで不味いと思っていた部分。
臭いと思っていた部分。
何となく避けていた部分。
それが偶然にも正解だった。
もし美味しいと思って全部食べていたら。
もし内臓ごと焼いていたら。
またあの声を聞いていたかもしれない。
少年は無意識に背筋を震わせた。
そして次第に興奮が込み上げてくる。
点と点が繋がった。
魚は種を食べる。
魚は幻覚を見る。
だが肉は平気。
危険なのは種。
あるいは種が触れている部分。
それだけ取り除けば安全。
少年は焚き火の前で考え込む。
誰も教えてくれない。
本もない。
先生もいない。
それでも少しずつ分かっていく。
世界の仕組みが。
生き物の仕組みが。
毒の仕組みが。
それは学問ではなかった。
生きるための知識だった。
だが後の時代の学者が見れば驚くだろう。
飢えた孤児が一人。
森の片隅で。
魚の解剖と観察だけを頼りに。
人類で初めて楽園の実の毒の正体へ辿り着こうとしているのだから。
そして少年自身もまだ知らない。
この発見がやがて。
薬学。
医学。
魔物学。
さらには世界そのものを変える第一歩になっていくことを。