時は流れ、少年は生き延びた。
一日を。
一週間を。
一ヶ月を。
そして一年を。
最初は奇跡だった。
次は執念だった。
やがてそれは当たり前になる。
気付けば、森は少年を殺そうとしなくなっていた。
もちろん本当は違う。
森は何も変わっていない。
毒草は毒草のまま。
獣は獣のまま。
冬は寒く。
飢えは恐ろしい。
ただ少年が変わったのだ。
どれほどの年月が過ぎたのか。
正確には分からない。
だが少年はもう少年とは呼べなかった。
身体は伸び、肩幅も広がった。
かつて浮き出ていた肋骨は隠れ、細かった腕には筋肉が付いている。
それでも豪快な戦士のような体格ではない。
森を歩くための身体だった。
無駄な肉のない身体。
長く生き残るための身体。
青年へと成長しつつあった。
そして変わったのは身体だけではない。
知識だった。
青年は森を知っていた。
食べられる草。
食べられない草。
そのまま食べるべきもの。
火を通すべきもの。
毒を持つキノコ。
薬になるキノコ。
傷を塞ぐ葉。
熱を下げる樹皮。
腹痛を和らげる根。
誰にも教わらず。
何度も失敗し。
時には死にかけながら得た知識だった。
獣についても同じだった。
鹿はどこで水を飲むのか。
猪はどの季節に気が荒くなるのか。
狼はどんな時に群れから離れるのか。
鳥はどの時間帯に餌を探すのか。
どの足跡が新しいのか。
どの糞が危険を示しているのか。
どの鳴き声が警戒の合図なのか。
青年は知っていた。
観察したからだ。
何年も飽きることなく。
毎日のように。
罠も進化した。
最初はただの落とし穴だった。
次は枝を利用したもの。
獣道を利用したもの。
水場を利用したもの。
失敗する。
壊れる。
逃げられる。
また作る。
その繰り返し。
やがて青年は罠を見ただけで分かるようになる。
どこを通るか。
何が掛かるか。
どこを改良すべきか。
森の中には青年が残した工夫が無数に存在していた。
そして楽園の実。
かつて自分を殺しかけた植物ですら、今では重要な知識の一つだった。
どこに生えているのか。
どの時期に実るのか。
果肉は何に使えるのか。
種は何に使えるのか。
どの動物に効き。
どの動物に効きにくいのか。
青年は理解していた。
それは恐怖の対象であると同時に、有用な道具でもあった。
知らなければ殺される。
知っていれば利用できる。
世界とはそういうものだと学んでいた。
もし今。
街の狩人が森へ入ったなら。
青年の知識には驚くだろう。
もし学者が話を聞けば。
理解できず首を傾げるだろう。
もし貴族が見れば。
到底信じないだろう。
なぜなら青年の知識は本から得たものではない。
師から教わったものでもない。
森そのものから奪い取った知識だったからだ。
だが当の本人は気付いていない。
自分がどれほど異常なのか。
どれほど多くのことを知っているのか。
青年にとっては当たり前だった。
生きるために覚えただけ。
明日も生きるために知っただけ。
ただそれだけだった。
だから今日も森を歩く。
まるで自分の庭を歩くかのように。
風の匂いを嗅ぎ。
鳥の声を聞き。
獣の足跡を追いながら。
誰よりも森を知る男となった青年は、いつものように木々の間を進んでいく。
***
青年は森を知っていた。
だが、それでも近寄らない場所があった。
森のさらに奥。
木々が濃くなり。
空気が重くなる場所。
動物の足跡が途切れる場所。
鳥の鳴き声すら減る場所。
そこは魔物の縄張りだった。
この世界において魔物は珍しくない。
街道近くにも現れる。
農地を荒らすこともある。
兵士や冒険者が討伐することもある。
人々にとって身近な脅威だった。
もちろん強さは様々だ。
巨大な竜のような怪物もいれば。
兵士の一個中隊を壊滅させる怪物もいる。
その一方で。
子供でも倒せるような魔物も存在した。
例えばスライム。
半透明の粘液生物。
動きは遅く。
石を投げ続ければ子供でも倒せる。
例えば発火ネズミ。
掌ほどの大きさしかない魔物。
驚くと体内の魔力を暴発させ、小さな火花を散らす。
それだけなら脅威ではない。
だが乾燥した森では話が別だった。
一匹の火花が大火災へ繋がることもある。
どちらも低級魔物。
街では駆け出しの子供でも討伐対象になる。
しかし青年は近寄らなかった。
理由は単純だった。
自分が弱いからだ。
魔力がない。
剣もない。
槍もない。
鎧もない。
あるのは石。
木。
縄。
そして知識だけだった。
もしスライムの粘液が目に入ればどうなるか分からない。
もし発火ネズミが衣服へ飛び込めば火傷では済まないかもしれない。
街の人間からすれば笑われるだろう。
「そんな魔物を恐れるのか」と。
だが青年は知っていた。
死とはそういうものだ。
強大な怪物だけが人を殺すわけではない。
小さな失敗。
小さな油断。
小さな傷。
そういうものが人を死なせる。
楽園の実もそうだった。
ただの果実だった。
だが食べれば死ぬ。
だから青年は侮らない。
弱い毒蛇も。
小さな魔物も。
崖も。
川も。
火も。
全て同じだった。
危険は危険だ。
それ以上でも以下でもない。
だから彼は縄張りを覚えていた。
ここから先は発火ネズミが多い。
この谷にはスライムが棲む。
この岩場には夜になると別の魔物が現れる。
その境界線を正確に把握していた。
森を知るということは。
森を利用することではない。
森を恐れることでもある。
青年はそれを理解していた。
だからこそ長く生き残れた。
無謀ではない。
勇敢でもない。
ただ慎重だった。
生きるために。
明日も目を覚ますために。
そして今日もまた。
***
青年は知らない。
自分が噂になっていることを。
当然だった。
彼は街へ行かない。
市場も知らない。
酒場も知らない。
人々がどんな話をしているのかさえ知らない。
だが街では。
いつしか彼の存在が語られるようになっていた。
最初は些細な話だった。
森へ入った狩人が言う。
「誰かがいる」
獣道の途中。
見覚えのない罠がある。
木々には奇妙な目印。
人が住んでいるような痕跡。
だが誰も姿を見たことがない。
それだけの話だった。
ところが噂は人から人へ渡るうちに姿を変えていく。
「森にヌシがいるらしい」
誰かが言った。
すると別の誰かが付け加える。
「巨大な獣を素手で殺すらしい」
さらに別の誰かが言う。
「いや、人じゃない」
「魔物だ」
「人の姿をした魔物なんだ」
話はどんどん大きくなった。
実際の青年は違う。
鹿を捕まえるのにも苦労する。
罠を壊されて落ち込む。
寒い日は焚き火の前で震える。
そんな普通の人間だった。
だが街の人々は知らない。
知らないものは想像で補われる。
そして想像はいつだって事実より面白い。
いつしか森の青年は恐怖の対象になっていた。
中でも狩人たちの間では有名だった。
理由は単純である。
邪魔だからだ。
青年の罠は巧妙だった。
獣道を理解している。
地形を理解している。
獲物の行動を理解している。
だからよく獲物が掛かる。
だが時々。
狩人も掛かる。
「またあの罠だ!」
「足を取られた!」
「獲物が全部向こうへ逃げた!」
「絶対わざとやってる!」
もちろん違う。
青年は人間用に作っていない。
ただ獣を捕まえたいだけだ。
だが狩人たちからすれば迷惑極まりない。
結果として。
彼には新しい呼び名が付いた。
森荒らし。
狩人殺し。
獣の王。
人喰い。
森の魔人。
誰も本名を知らないからこそ。
好き勝手な名前が増えていく。
そしてある日。
その噂は街の有力者の耳へ届いた。
冒険者たちが利用する施設。
冒険者ギルド
そこでは以前から森の異変が報告されていた。
奇妙な罠。
正体不明の人影。
魔物の縄張りを横断する足跡。
そして何より。
長年森で生活しているらしい謎の存在。
普通ではあり得ない。
魔物かもしれない。
盗賊かもしれない。
密猟者かもしれない。
あるいは本当に人の姿をした魔物かもしれない。
誰にも分からない。
だが確認する必要はあった。
報告書が作られる。
依頼内容がまとめられる。
森の調査。
正体不明生物の確認。
危険度評価。
そんな文字が並ぶ。
そしてついに。
冒険者ギルドは動き出そうとしていた。
森の奥にいる正体不明の存在を調査するために。
青年はまだ知らない。
街では自分が怪物になっていることを。
森のヌシとして恐れられていることを。
そして近いうちに。
自分の平穏な生活へ、人間たちが踏み込んでくることを。
その出会いが。
彼の人生を大きく変える始まりになることもまた、知らなかった。