楽園の実の森。
そう呼ばれる広大な森林地帯は、人々から忌避される場所だった。
理由は単純である。
危険だからだ。
楽園の実。
魔物。
複雑な地形。
そして行方不明者。
危険な要素が揃い過ぎていた。
そのため森の利用価値は極めて低い。
木材を切り出すには危険過ぎる。
農地にするには広過ぎる。
住むには論外。
浅い所に狩猟に来るくらいしか用途がない。
結果として誰も近寄らなくなった。
盗賊すらいない。
盗賊にも生活がある。
獲物の来ない場所へ根城を構える意味はない。
密猟者もいない。
逃亡犯もいない。
誰も住まない。
誰も利用しない。
そんな森だった。
だからこそ森に長年住み続ける正体不明の存在という噂は異様だった。
人間なら生きられない。
そう考える者が大半だった。
冒険者ギルドも同じである。
もし人間なら保護が必要かもしれない。
もし魔物なら討伐が必要かもしれない。
放置する理由はなかった。
調査は驚くほど早く決定した。
依頼書が作成される。
参加者が募集される。
森の調査。
正体不明存在の確認。
危険度の測定。
報酬は悪くない。
興味を持つ冒険者も多かった。
そしてその中にはジーナ・アルヴェリアの姿もあった。
当時の彼女はまだ若い。
夜明けの魔女とも。
不死の魔女とも呼ばれていない。
ただ実力ある旅の魔法使いとして知られるだけだった。
「面白そうじゃない」
依頼書を見た彼女はそう言った。
他の冒険者たちは呆れる。
「正体不明の怪物かもしれないぞ」
「だからよ」
ジーナは笑った。
「怪物なら見てみたいし、人間ならもっと見てみたいわ」
好奇心だった。
それ以上でも以下でもない。
だから彼女は参加を決める。
それが後に人生を変える出会いになるとも知らずに。
***
一方その頃。
当の青年は何も知らない。
ギルドも知らない。
調査隊も知らない。
噂になっていることすら知らない。
いつものように森を歩いていた。
罠を見回る。
川を確認する。
獣の痕跡を探す。
変わらない日常だった。
だが何かがおかしい。
青年は足を止めた。
風が吹く。
匂いが流れてくる。
獣ではない。
魔物でもない。
この森では嗅ぎ慣れない臭いだった。
汗、油、煙。
様々な臭いが混ざっている。
青年は眉をひそめる。
人間だ。
しかも一人ではない。
かなり多い。
さらに耳を澄ませる。
遠くから音が聞こえる。
木々を踏む音。
金属の擦れる音。
話し声、笑い声。
荷物が揺れる音。
どれも聞き慣れない。
いつしか森で暮らすうちに青年の感覚は鋭くなっていた。
視力や聴力が特別優れているわけではない。
ただ知っているのだ。
森の音を。
森の匂いを。
だから異物が分かる。
水滴が落ちる音。
鳥が飛び立つ音。
獣が枝を踏む音。
それらと違うものはすぐ気付く。
今聞こえているのは異物だった。
人間。
しかも大勢。
青年は無意識に身を低くする。
警戒心が働く。
森の獣と同じだった。
知らないものは危険。
確認するまでは近付かない。
それが生き残るための鉄則だった。
青年は風下へ移動する。
足音を消す。
匂いを辿る。
そして静かに近付いていく。
まるで獲物を観察する狩人のように。
まるで森の中に潜む獣のように。
その先にいるのが、自分を探しに来た人間たちだとも知らずに。
***
調査隊は慎重に森を進んでいた。
噂の正体不明存在。
森のヌシ。
人型の魔物。
様々な呼び名があるが、その正体は未だ不明。
誰も油断はしていなかった。
特に楽園の実の森では。
何が起きても不思議ではない。
そして三日目のことだった。
先頭を歩いていた冒険者が足を止める。
「待て」
全員が動きを止めた。
周囲を警戒する。
だが冒険者の視線は森の奥ではない。
地面だった。
踏み固められている。
獣道ではない。
人間が繰り返し歩いた跡。
自然にはできない。
誰かが使っている道だった。
緊張が走る。
調査隊は慎重に進む。
やがて木々が開けた。
そこにあったのは小さな空間。
人の手が加わった痕跡だった。
「……なんだ、ここ」
誰かが呟く。
簡素な屋根。
雨を凌ぐための構造物。
木材を組み合わせた棚。
乾燥させた草。
加工された皮。
獣骨、石器。
人間の生活跡だった。
盗賊の隠れ家ではない。
狩人の小屋でもない。
それらよりもっと奇妙だった。
あるものは見たことがある。
あるものは見たことがない。
冒険者たちは次々と周囲を確認していく。
「これ、罠の部品か?」
「いや違うな」
「なんだこの形」
「用途が分からん」
木材を削って作られた器具。
骨を加工した道具。
蔦を編んで作られた網。
魚を捌くための石。
薬草を潰すための道具。
生きるためだけに最適化された品々。
街では見かけない。
だが合理的だった。
無駄がない。
まるで長い年月をかけて改良されたようだった。
さらに彼らを驚かせるものがあった。
「あれを見ろ」
視線が集まる。
棚の上。
乾燥台。
木箱。
そこに大量の果実があった。
赤い果実。
艶やかな果実。
誰もが知る果実。
楽園の実。
調査隊の空気が一変する。
思わず後退る者までいた。
「正気か?」
「こんな量……」
「全部楽園の実じゃないか」
普通なら有り得ない。
一個見つけるだけでも警戒する果実だ。
それが何十個。
いや百個近く保管されている。
まるで食料のように。
冒険者たちは理解できなかった。
もしここに住むのが人間なら狂人だ。
もし平然と扱えるなら魔物かもしれない。
そんな考えすら頭を過る。
だがジーナだけは違った。
彼女は近付いた。
棚を観察する。
果実を見る。
種を見る。
そして目を細めた。
「……おかしい」
「何がだ?」
仲間が尋ねる。
ジーナは答えない。
代わりに棚の奥を見る。
そこには小さな石の容器が並んでいた。
乾燥した薬草。
粉末、液体。
潰された植物。
そして砕かれた種。
「これ……」
ジーナは手を止める。
見覚えがあった。
薬の調合法に似ている。
いや正確には違う。
だが目的は同じだ。
何かを抽出している。
何かを混ぜている。
試している。
そんな痕跡だった。
さらに別の場所。
干された獣皮の横。
包帯のような布。
薬草を練り込んだ塊。
傷へ貼り付けた痕跡。
ジーナは静かに息を呑む。
理解した。
ここに住む何者かは。
楽園の実を恐れていない。
無知だからではない。
逆だ。
意図的に利用している。
危険性を理解した上で。
「あの果実を研究してる……?」
思わず呟く。
誰も返事をしない。
だが全員が同じことを考えていた。
有り得ない。
楽園の実を研究する人間など聞いたことがない。
食べればどこか消える。
だから誰も正体を知らない。
誰も調べられない。
それが常識だった。
なのに。
ここには明らかに研究の痕跡がある。
試行錯誤の跡がある。
そして何より結果がある。
傷薬。
用途別に分けられた材料。
誰かが長い時間をかけて積み上げた知識。
ジーナの胸が高鳴る。
恐怖ではない。
好奇心だった。
この森にいるのは怪物ではない。
少なくともただの怪物ではない。
考える者だ。
観察する者だ。
学ぶ者だ。
そしてもしかすると。
自分が今まで出会った誰よりも奇妙な人間かもしれない。
その頃。
木々のさらに奥。
風下の位置から。
青年は彼らを観察していた。
自分の拠点が見つかったことを知りながら。
何を話しているのか分からないまま。
「……こんなことになるなら塗るやつ、持ってくればよかったなぁ」
青年は手間のかかる傷薬を惜しんでため息をついた。