俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第1話 猿と魔導書とリセマラ

「いらっしゃいませ。温めますか」

 

 自動ドアの無機質なチャイムが鳴るたびに、条件反射で口が動く。深夜三時。都内の幹線道路沿いにあるコンビニエンスストアの店内は、生命の気配から切り離された巨大な冷蔵庫のようだった。

 

 蛍光灯の白々しい光が、陳列棚とホコリ一つない床を容赦なく照らし出している。絶え間なく鳴り続ける陳列棚のモーター音が、耳鳴りのように脳の裏側にこびりついて離れない。

 

 ピッ、ピッ、と一定のリズムでスキャナーがバーコードを読み取る。

 

 深夜帯の客層は決まっている。顔色の悪い作業着の男、アルコールの臭いを撒き散らす酔客、あるいは焦点の定まらない目で栄養ドリンクを見つめる若者。彼らは一様に生気を欠き、まるでシステムの一部として組み込まれた歯車のように、無言で小銭をトレイに落として去っていく。

 

 佐藤健司、二十五歳、フリーター。

 

 この清潔な四角い箱の中で、彼の人生は時給千二百円という絶対的な数字に還元され、一秒ごとにすり減っていた。

 

(俺、何やってんだろうな……毎晩毎晩)

 

 Fランクと揶揄される大学を卒業し、なんとか滑り込んだ零細企業は、絵に描いたようなブラック企業だった。連日のサービス残業と理不尽なパワハラ。心身の限界を迎え、二年で逃げるように退職した。

 

 その後、まともな職を探す気力すら湧かず、ずるずるとこの深夜バイトに流れ着いてしまった。

 

 毎月口座から引き落とされる奨学金の返済。実家の親からかかってくる、無言のプレッシャーに満ちた着信履歴。通帳の残高は常に底を這いつくばり、何かを買うことも、どこかへ行くことも許されない。

 

 自分が社会の底辺を這い回る虫けらになったような、圧倒的な閉塞感。

 

「……ありがとうございました」

 

 最後の客を見送り、健司は重い溜息を吐き出した。

 

 自分の人生は、もう詰んでいるのではないか。いや、とっくに詰んでいるのに、惰性でゲームオーバーの画面を見せられ続けているだけではないのか。

 

 そんな考えが頭をよぎるたび、彼は胸の奥に鉛を飲み込んだような鈍い痛みを覚えるのだった。

 

 午前八時。

 

 交代のスタッフが到着し、ようやく健司は拘束から解放された。

 

 制服から私服に着替え、裏口から外へ出た瞬間、初夏特有の暴力的な朝日が目に突き刺さった。

 

「っ……まぶし」

 

 思わず顔をしかめ、手で日差しを遮る。

 

 普通に生きている人間にとって、朝の光は希望や新しい一日の始まりを象徴するものだろう。だが、体内時計が完全に狂い切った夜行性の健司にとって、それは自らの惨めな現実を白日の下に晒す、拷問器具でしかなかった。

 

 これから安アパートに帰り、遮光カーテンを引いて泥のように眠る。そして夜になれば、またあの白い箱の中へ出勤する。

 

 昨日と全く同じ明日。その無限ループが続くという絶望。

 

 駅へ向かう足取りは重かった。このまま帰って寝てしまえば、また何一つ変わらない一日が終わる。

 

 改札の手前で足を止め、健司は空を見上げた。

 

「……神保町、行くか」

 

 ぽつりとこぼれた声は、ひび割れていた。

 

 神保町の古本屋巡り。それが、今の健司に残された唯一にして、人間らしさを保つための最後の防波堤だった。

 

 金はない。目当ての専門書や希少本を買う余裕などあるはずがない。

 

 だが、ただあの街に身を置き、埃とインクの匂いが染み付いた迷路のような本棚の間を歩くだけで、自分がまだ「思考する人間」なのだと錯覚することができた。

 

 電車を乗り継ぎ、神保町の駅に降り立つ。

 

 大通りから一本路地に入ると、そこはまるで別世界のようだった。近代的なビルの谷間に、戦前から続くような木造の古書店がひっそりと軒を連ねている。

 

 健司はその中でも、特に店主のやる気が微塵も感じられない、薄暗い店舗へと吸い込まれていった。

 

 カラン、と古びたベルが鳴る。

 

 店内は息が詰まるほど本で埋め尽くされていた。天井まで届く本棚、足元には平積みされた本の塔が崩れそうな角度でそびえ立っている。

 

 歴史、哲学、オカルト、純文学。さまざまなタイトルの背表紙を指先でなぞりながら、健司はゆっくりと奥へ進んでいく。

 

 そして、店の最奥。

 

 色褪せたアダルト雑誌と、誰も読まないであろう古びた歴史全集の間に挟まれた、最も雑然とした「一〇〇円均一」のワゴン。

 

 その底の底で、彼はそれを見つけた。

 

「……なんだこれ」

 

 他の古めかしい装丁の本とは明らかに異質な、A5サイズの薄っぺらい本。

 

 まるで素人が作った同人誌のようなチープさだった。表紙は安っぽい光沢紙で、そこには筆ペンで殴り書きしたような、気の抜けた猿のイラストが描かれている。

 

 そして、その上に踊るふざけきったタイトル。

 

『猿でも分かる魔法の使い方!!! ~今日から君も世界の(ルール)をハックしよう! ~ 限定生産版』

 

 手にとってパラパラとめくろうとしたが、ご丁寧に四方をセロハンテープで厳重に封がされており、中身を窺い知ることはできない。

 

 胡散臭い。

 

 圧倒的に胡散臭い。

 

 怪しい新興宗教の勧誘パンフレットか、あるいは痛々しい中二病患者の黒歴史ノートか。

 

 だが、なぜか健司の目はその本から離れなかった。

 

「限定生産版」という無駄に仰々しい響きが、底辺フリーターの妙なコレクター心をくすぐった。それに、一〇〇円だ。もし中身がただの白紙だったとしても、缶コーヒー一本我慢すれば済む話だ。

 

 健司はその薄い本を手に、レジの奥で居眠りしている白髪頭の店主のもとへ向かった。

 

「すみません、これお願いします」

 

 声をかけると、店主はビクッと肩を揺らし、分厚い眼鏡を押し上げながら本を覗き込んだ。

 

 そして、怪訝そうに眉をひそめた。

 

「……ん? なんだいこれは」

 

「え、ワゴンにあったんですけど。一〇〇円の」

 

「いやね、ちょっと待ってくれ。こんなふざけた本、うちで仕入れた記憶がないんだよ。見たこともない」

 

「でも、ここに値札貼ってありますよ?」

 

 健司が裏表紙の角に貼られた色褪せた値札を指差すと、店主は面倒くさそうに頭を掻きむしった。

 

「本当だ。一〇〇円って書いてあるな……。うーん、誰かが勝手に置いていったのかねえ。まあいいや、一〇〇円でいいよ。よく分からんが、在庫が一つ減るならそれに越したことはない」

 

 チャリン、と硬貨をトレイに落とす。

 

 店主が知らない本が、なぜか店のワゴンにある。その気味の悪さよりも、店主のあまりに投げやりな態度に苦笑しながら、健司は茶色い紙袋に入れられた戦利品を持って店を出た。

 

 ボロアパートの自室に帰り着いたのは、昼前だった。

 

 途中スーパーで買った見切り品の弁当を無心で胃に詰め込み、ペットボトルの茶で流し込む。

 

 満腹感と共に急激な睡魔が襲ってきたが、健司は机の上に置かれた例の本に目を向けた。

 

「さて、と……」

 

 カッターナイフを取り出し、厳重に貼られたセロハンテープを慎重に切り裂いていく。

 

 チープな表紙を開く。

 

 どんな電波な文章が書かれているのか。あるいは、意味不明な魔方陣でも描かれているのか。

 

 だが、現れたのは──圧倒的な虚無だった。

 

「は……?」

 

 真っ白だった。

 

 ページを一枚めくる。白。もう一枚めくる。白。

 

 乱暴に中盤を開くが、やはりシミ一つない純白の紙が綴じられているだけだった。

 

「なんだこれ、白紙って……マジかよ」

 

 印刷ミスか、あるいは本当に誰かの悪質な悪戯か。

 

 たかが一〇〇円。されど一〇〇円だ。夜勤明けで疲労困憊の頭に、「騙された」という事実が地味に、しかし確実にダメージを与えてくる。

 

「クソが。ふざけんなよ」

 

 健司は舌打ちをすると、忌々しい本をゴミ箱へ向けて放り投げようと腕を振りかぶった。

 

 ──その瞬間だった。

 

 開かれたままの真っ白なページの中央に。

 

 まるで裏側から黒いインクが滲み出してくるように、すぅっと文字が浮かび上がったのだ。

 

『──はー。これだから猿はダメなんだよなぁ』

 

「うわっ!?」

 

 健司は悲鳴を上げ、反射的に本を取り落とした。

 

 バサッという音と共に床に落ちた本。だが、そこに刻まれた黒い文字は消えることなく、はっきりと健司の目に焼き付いていた。

 

 幻覚か? 

 

 寝不足で頭がおかしくなったのか? 

 

 後ずさりしながらも、健司の視線はページに釘付けになっていた。すると、最初の文章のすぐ下に、次々と新しい文字が、まるで透明な人間がリアルタイムでペンを走らせているかのような速度で書き連ねられていく。

 

『おいおい、腰抜かしてんじゃねえよ。猿のくせにビビりか? いいか、よく聞けよ猿1号。俺はただの紙束じゃねえ。お前みたいな、才能はあるのに底辺で燻ってるどうしようもない猿を導くために作られた、超絶親切で偉大な魔導書様だ』

 

「ま、魔導書……?」

 

 健司の喉から、かすれた声が漏れる。

 

 文字は止まらない。尊大で、ひどく口が悪く、それでいて妙に馴れ馴れしい言葉の羅列。

 

『魔法の“ま”の字も理解できない猿のために、特別に教えてやる。魔法ってのはな、奇跡でもなければ、神様が起こす御業でもない。ただの技術だ。このクソみたいな現実(クソゲー)を、ちょっとだけ有利に進めるための、ハッキング技術のことさ』

 

 ハッキング技術。

 

 その現代的すぎる言葉のチョイスに、健司の恐怖は少しだけ薄れ、代わりに奇妙な好奇心が頭をもたげ始めていた。

 

「俺に……才能があるってのか?」

 

 床に座り込んだまま問いかけると、本は即座に反応した。

 

『当たり前だろ! 才能がない奴の手に俺様が渡るわけねえだろ。感謝しろよ? じゃあ、早速だがレッスン1だ。魔法を使う上で、絶対に、ぜぇぇったいに守らなきゃならんことがある』

 

 健司は無意識のうちに息を呑んでいた。

 

『“信じる”ことだ。あるいは“ジンクス”を作ること。“これをやれば、必ずこうなる”っていう、お前だけの絶対のルールを、お前自身の中に作り上げるんだ。それが、この世界の理に干渉するための第一歩になる』

 

「ジンクス……?」

 

 スポーツ選手が試合前に行うルーティンや、靴は右足から履くといった迷信めいたもの。

 

 そんなもので、現実が改変できるというのか。まるで自己啓発セミナーの怪しい教義だ。だが、目の前でリアルタイムに文字が浮かび上がるという圧倒的な超常現象を見せつけられている以上、それを全否定することはできなかった。

 

『お前にはな、“確率を操作する魔法”が備わっている』

 

 ドン、と。

 

 心臓を素手で鷲掴みにされたような衝撃が走った。

 

 確率を操作する。

 

 その言葉が意味するものを、健司の脳は瞬時に計算し始めていた。

 

(宝くじ……競馬……いや、株か? FXか?)

 

 もし本当に、世の中の「確率」に干渉できるのなら。

 

 それはつまり、金だ。

 

 莫大な富だ。

 

 もう二度と、時給千二百円のために頭を下げる必要はない。奨学金など一括で叩き返せる。親からの着信に怯える必要もない。

 

 ドクン、ドクンと、血管を巡る血が熱を帯びていくのを感じる。

 

『おいおい、よだれ垂らしそうな顔してんじゃねえよ。言っとくが、いきなり現実のデカい確率に手を出すなよ? お前の脆弱な猿の脳みそがショートして廃人になるぞ』

 

 冷や水を浴びせられたように、健司はハッとした。

 

 本は、見透かしたように言葉を続ける。

 

『まずは練習だ。その感覚を体に覚えこませるためのな。お前のスマホに入ってる、無料のガチャゲーを開け。それでリセマラをやるんだよ』

 

「ガチャ……?」

 

 健司はポケットから使い古したスマートフォンを取り出した。

 

 画面には、暇つぶしに入れてほとんど手をつけていない、量産型の美少女ソーシャルゲームのアイコンがある。

 

『そうだ。ガチャなら確率が数字で出てるし、失敗しても現実のサイフは痛まねえ。最高レアのSSRを引き当てる感覚を、その猿の脳みそに刻み込め!』

 

「……分かった」

 

 半信半疑。いや、疑いが九割。

 

 それでも、健司はスマホのロックを解除し、ゲームアプリを起動した。

 

 長いダウンロード画面を終え、チュートリアルをスキップする。たどり着いたのは、最初に与えられる無料の十連ガチャの画面。

 

 提供割合を確認すると、最高レアリティであるSSRの排出率は、わずか「1%」だった。

 

「確率を操作する……俺にはできる……」

 

 自分に言い聞かせるように呟き、ガチャの実行ボタンをタップする。

 

 派手な演出と共に、キャラクターのカードが十枚並ぶ。

 

 結果は、最低レアのRが九枚。最低保証のSRが一枚。

 

 お決まりの、見飽きたクソみたいな結果だ。

 

「……だよな。念じただけで当たるわけねえよな」

 

 自嘲気味に笑い、アプリを落とそうとした時だった。

 

『だーかーらー! 猿は話を聞かねえな! ただ念じるだけじゃ弱いって言ってんだろ!』

 

 本に怒涛の勢いで文字が浮かぶ。

 

『お前だけの勝利の儀式(ルーティン)を作れって言っただろ! どんな馬鹿馬鹿しいことでもいい。「ガチャを引く前に、左足の小指を三回掻く」とか、「画面に向かって土下座する」とか! 形から入れ、形から!』

 

「儀式……俺だけのルール……」

 

 健司はアプリをアンインストールし、再びインストールしながら考えた。

 

 あまりに真面目な儀式だと、逆に「こんなことで」という疑念が勝ってしまう。馬鹿馬鹿しく、けれど自分の中で妙に納得できる手順。

 

「……よし」

 

 再インストールが終わったスマホを机に置き、健司は深呼吸をした。

 

 まず、近くにあった眼鏡拭きを手に取り、スマホの画面をピカピカになるまで丁寧に拭き上げる。

 

 次に、右手親指の爪の表面を、左手の親指の腹で三回、キュッ、キュッ、キュッとこする。

 

 最後に。目を閉じ、神仏に祈る「お願いします」ではなく。

 

(……いただきます)

 

 すでにそれは自分の手の内にあるものだという、強欲な確信。

 

 目を開き、ガチャボタンをタップする。

 

 画面が光る。

 

 結果は──Rが七枚、SRが三枚。

 

 まだSSRは出ない。

 

 だが。

 

「……あれ?」

 

 最低保証だった先ほどより、明らかに結果が上向いている。

 

 気のせいか? ただの乱数の偏りか? 

 

 だが、健司は確かに感じていた。儀式を終えて画面をタップした瞬間、ほんの一瞬だけ、スマホの画面の縁が、いつもよりチカッと明るく発光したような錯覚を。

 

『お? 少しは掴んだか? そうだ、その“気配”だよ』

 

 本が煽るように文字を紡ぐ。

 

『世界がお前の願いに応えようとする瞬間には、必ず“前兆”がある。ノイズが走る、光が見える、熱を感じる。それは、世界のソースコードが書き換わる時に生じる、ほんの僅かな軋みだ。それを逃すな』

 

 前兆。

 

 その言葉が、健司の中の何かに火をつけた。

 

 ただの苦行だったリセマラが、明確な意味を持つ「修行」へと変貌する。

 

 アンインストール。インストール。

 

 画面を拭く。爪を三回こする。「いただきます」と唱える。タップする。

 

 外れ。

 

 だが、引く瞬間に、耳の奥で「キーン」という微弱な電子音が鳴った。

 

 もう一度。

 

 儀式を繰り返す。

 

 外れ。

 

 今度は、スマホの裏側が、バッテリーの熱とは違う、妙に生温かい熱を帯びた。

 

 十回、二十回、五十回。

 

 時計の針が進む。部屋は完全に暗くなり、スマホのバックライトだけが健司の青白い顔を照らしている。

 

 目は血走り、頭痛がガンガンとこめかみを叩く。

 

 だが、健司の集中力は途切れるどころか、異常なまでに研ぎ澄まされていった。

 

 世界のバグを感じ取る感覚。その微かな波長に、自分の意識をチューニングしていく作業。

 

 そして。

 

 日付が変わろうとする、その瞬間。

 

 リセマラの回数が、およそ百回に届こうかという時だった。

 

 画面を拭く。

 

 爪を三回こする。

 

「いただきます」と念じる。

 

 指を振り下ろそうとした、その時。

 

 ──空気が、重くなった。

 

 部屋全体が、まるで水で満たされたように強い粘性を帯びた。

 

 冷蔵庫のモーター音が、遠くの海底で鳴っているようにくぐもって聞こえる。

 

 手の中のスマートフォンが、まるで生き物のように脈打ち、画面の縁からオーラのような淡い光が漏れ出している。

 

 健司の脳裏に、言葉を超えた絶対的な「理解」が落ちてきた。

 

 ──イケる。

 

 それは希望的観測ではない。こうなってほしいという願望でもない。

 

 これから起こる未来が、1+1が2になるのと同じくらい、揺るぎない事実として確定しているという確信だった。

 

 震える親指が、画面に触れる。

 

 次の瞬間、スマホの画面が爆発的な虹色の光に包まれた。

 

 けたたましい祝福のファンファーレが、静まり返ったアパートの部屋に鳴り響く。

 

 次々とめくられる十枚のカード。

 

 一枚目、SSR。

 

 二枚目、SSR。

 

 三枚目、SSR。

 

 ──十枚目、SSR。

 

 排出率1%。

 

 それが十連続で出現する天文学的な確率。

 

 理屈の上では起こり得る。だが、普通に生きていて目にすることなどまずない、奇跡としか呼べない画面。

 

「は……」

 

 健司は、呼吸を忘れたまま、その輝く画面を食い入るように見つめていた。

 

 やがて、ゆっくりと自分の右手に視線を移す。

 

 少し震えているその手は、つい数時間前まで、時給千二百円のためにレジのスキャナーを握らされていた、何の価値もない手だ。

 

 だが今、この手は。

 

 世界の確率という巨大な理に、確かに干渉したのだ。

 

 机の上の魔導書に、インクが染み出す。

 

 それは、今日一番の、鮮やかな文字だった。

 

『──ようこそ猿。魔法使いの世界へ』

 

「くっ……ふふ、あははははは!」

 

 健司は笑った。

 

 腹の底から、絞り出すように。何ヶ月ぶり、いや、何年ぶりか分からない、純粋で強欲な歓喜の笑い声だった。

 

 脳裏に去来するのは、金、金、金。

 

 競馬の万馬券、宝くじの一等、株の爆上がり、カジノのジャックポット。

 

 この力があれば、全てが手に入る。底辺の泥水から抜け出し、人生というクソゲーをひっくり返すことができる。

 

 暗い部屋の中で、スマートフォンの虹色の光に照らされた健司の顔は、狂気じみた歓喜に歪んでいた。

 

 彼はまだ知らない。

 

 世界の理を書き換えるという行為が、どれほどの代償を伴うものなのかを。

 

 これが、決して後戻りのできない、狂った世界の裏側への片道切符であることを。

 

 だが今はただ、目の前の勝利に酔いしれるだけだった。

 

 時給千二百円のフリーターは今夜、魔法使いになったのだから。

 




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