俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第18話 猿と契約書と親不孝

 無機質で清潔な霞が関の面談室。

 

 橘真の真っ直ぐな視線を受け止めながら、佐藤健司は乾いた喉を鳴らした。

 

「ただ登録だけを済ませ、一市民として我々の監視下で静かに暮らすか。それとも、我々の一員となり、その力をこの国のために振るうか」

 

 その問いは、ただの就職の面接ではない。これから先の自分の人生が、世界の表側にとどまるか、裏側へと完全に足を踏み入れるかの分水嶺だった。

 

 魔導書は何も言わない。沈黙することで、健司自身に選ばせようとしていた。

 

 健司は膝の上で軽く拳を握り、ゆっくりと口を開いた。

 

「……僕は、登録だけで終わらせるつもりはありません」

 

 橘は表情を変えず、ただ静かに続きを促すように瞬きをした。

 

「正直に言えば、怖いです。自分の能力のことも、ネット上で勝手に肥大化していく『予知者K』という名前も、もう自分一人では扱い切れないと思っています。……でも、だからといって、見えたものから目を逸らして、ただ監視されながら静かに怯えて暮らすだけというのも、違う気がするんです」

 

 健司は、自らの内にくすぶっていた思いを言葉にしていく。

 

「神にも、教祖にもなるつもりはありません。だからこそ、ちゃんとした場所で、この力を扱いたいです」

 

 少しの間の後、健司ははっきりと告げた。

 

「ヤタガラスに、協力します」

 

 その言葉を聞いて、橘の目元が初めて、ほんのわずかに和らいだように見えた。

 

「ありがとうございます、佐藤君」

 

 橘は静かに、だが確かな重みを持って頷いた。

 

「その返答を、我々は歓迎します」

 

 健司は胸の奥で張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じ、無意識に深く息を吐いた。ここから感動的な握手でも交わすのか、あるいは熱い歓迎の言葉が続くのか。そう思った矢先だった。

 

「では、入職意思ありということで、具体的な手続きに進みましょう」

 

 橘は手元にあったアタッシュケースから、事務的な手つきで分厚いクリアファイルを取り出した。

 

「えっ……もうですか?」

 

 健司は拍子抜けして声を上げた。

 

「はい。明確な意思確認が取れましたので」

 

 橘は当然のように答える。

 

(今、俺の人生のかなり重大な決断をしたはずなのに、切り替えが早すぎないか?)

 

 戸惑う健司の脳内に、魔導書の呆れたような声が響く。

 

『官僚組織とはこういうものだ、猿。いちいち個人の決断に感傷で応えたりはせん。動くのは書類と手続きだけだ』

 

「とはいえ、本日ここで全ての契約を完了させるわけではありません」

 

 橘はクリアファイルから数枚の書類を抜き出しながら説明を続ける。

 

「正式な雇用契約には、法務、人事、そして能力管理部門の最終確認が必要です。今日は、雇用条件の概要説明と、契約書類一式のお渡し、そして秘密保持に関する初期同意までを行います」

 

 健司は姿勢を正した。

 

「はい、お願いします」

 

「まず、佐藤君の雇用区分ですが、内閣情報調査室特殊事象対策課の『特別任用職員』となる予定です」

 

 橘が淡々と語る。

 

「一般的な国家公務員試験を経た採用ではありません。特殊技能保有者としての任用です。簡単に言えば、公務員としての身分と厳格な守秘義務を持ちつつ、能力者としての特殊任務に従事していただく形になります」

 

「公務員……俺が?」

 

 健司の目が点になった。

 

「はい。国家公務員です」

 

 数ヶ月前まで、時給千二百円で深夜のコンビニのレジを打ち、廃棄弁当をもらって喜んでいた男だ。それが突然、内閣情報調査室の特別任用職員。

 

(人生、何がどうなったらこうなるんだよ……)

 

『俺様のおかげだな』

 

 魔導書がすかさずドヤ顔で割り込んでくる。

 

(お前は黙ってろ)

 

「次に、待遇についてですが」

 

 橘が手元の資料をめくる。

 

「佐藤君の場合、能力の希少性、すでにネット上で形成された公開実績、それに伴う社会的影響力、そして今後の協力頻度を加味しまして……初年度は年俸換算で、おおよそ一千万円を予定しています」

 

 健司の思考が、完全に停止した。

 

「……はい?」

 

「初年度年俸、おおよそ一千万円です」

 

 橘はもう一度、はっきりと同じ言葉を繰り返した。

 

「いっせん、まん……?」

 

 健司は口を半開きにしたまま固まった。

 

「もちろん、税引き前の額面です。これに加えて、特殊任務手当、危険対応時の追加報酬、定期的な能力検査への協力費などは、別途規程に基づいて支給されます」

 

 健司の脳内処理能力が限界を超えた。

 

 家賃の支払いに怯え、奨学金の返済残高を見るたびに胃を痛めていた。武田さんから百万円を受け取った時でさえ、人生がひっくり返ったと手が震えたのだ。

 

 それが今、年俸一千万円。

 

「……年収、一千万……」

 

 健司の口から、魂の抜けたような変な声が漏れた。

 

「あなたの能力の内容を考えれば、決して高すぎるとは考えていません」

 

 橘は、動揺する健司を見ても顔色一つ変えない。

 

「むしろ、今後あなたが関わる可能性のある危険性や、予知能力がもたらす社会的影響の重さを加味すれば、抑えめな額だとすら言えます」

 

 健司はさらに固まった。

 

『ほう。悪くない額だ』

 

 魔導書が満足げに呟く。

 

(お前、すぐ金に反応するなよ)

 

『金は因果を動かすための強力な燃料だ。決して軽視するな。資本主義社会において、金とはお前の影響力を担保する魔力そのものだぞ』

 

「ただし」

 

 橘の声が一段低くなり、会議室の空気が引き締まった。

 

「高額な報酬には、当然ながら相応の責任が伴います。絶対的な守秘義務、24時間の緊急連絡義務、危険情報の即時報告義務、そして単独での公開予知の制限など、いくつかの厳格な制約も発生します。その点はご理解ください」

 

「……はい」

 

 健司はゴクリと唾を飲み込み、頷いた。

 

 橘は机の横から、ずしりと重そうな分厚い茶封筒を取り出し、健司の前に置いた。

 

「……それ、全部ですか?」

 

 封筒の異常な厚みに、健司は引きつった笑いを浮かべた。

 

「はい。こちらが本日お渡しする書類一式です」

 

 橘が淡々と中身を読み上げる。

 

「『特別任用職員採用条件説明書』、『秘密保持契約書』、『特殊事象対応服務規程』、『能力使用に関する届出規程』、『公開情報発信に関するガイドライン』、『緊急連絡体制同意書』、『報酬・手当・危険対応加算規程』、『能力検査同意書』、『個人情報保護に関する説明書』、そして『ヤタガラス登録者向けハンドブック』です」

 

 そして橘は、最後に一枚の薄いパンフレットを取り出した。

 

 表紙には、あのふざけた三本足の烏が満面の笑みで羽を広げている。

 

 極太のポップ体で書かれた文字は、「こまったら担当官に相談するッピ!」。

 

「…………」

 

 健司は頭を抱えた。

 

「急に現実に戻された気分です……」

 

「重要事項が網羅されていますので、必ず目を通しておいてください」

 

 橘は真面目な顔で言う。

 

「これ、今日ここで全部読むんですか?」

 

「いいえ。今日は持ち帰っていただいて構いません。正式な署名と押印は次回の面談時です」

 

 健司は少しだけほっとした。

 

「ただし、こちらの『初期秘密保持同意書』だけは、本日この場でサインをお願いします。今日ここで聞いたヤタガラスの概要や、神々に関する情報を外部に漏らさないためのものです」

 

 差し出された書類には、難解な法律用語がびっしりと並んでいた。

 

 要するに、ヤタガラスの存在、橘との面談内容、神が二十人いるという事実、既存世界破壊禁止のルール、そして13階への入り方や提示された雇用条件を、一切外部に漏らしてはならないということだ。

 

 健司は用意されたボールペンを手に取った。指先が、微かに震えている。

 

 自分が知ってしまった情報は、もう絶対にネットの掲示板にログとして残すことはできない。これまでの「予知者K」としての気楽な行動とは、完全に次元が違うのだ。

 

(ここから先は、何でもかんでも面白半分に書けばいいわけじゃないんだな……)

 

『ようやく理解したか。情報もまた、世界を動かす強大な力だ。扱いを間違えれば自らを滅ぼすぞ』

 

 健司は息を詰め、署名欄に『佐藤健司』と書き込んだ。

 

 その名前を記した瞬間、自分はもうネットの怪異ではなく、佐藤健司という生身の人間として、この国の裏側と決定的に繋がってしまったのだという重い現実感が押し寄せてきた。

 

「ありがとうございます」

 

 橘は書類を受け取り、丁寧にファイルへ収めた。

 

「佐藤君。一つ確認しておきますが、予知者Kとしてのネット上での発信を、今すぐ全て停止しろとは言いません」

 

「えっ……止めないんですか?」

 

 健司は驚いた。

 

「ええ。急に発信を止めれば、逆に不自然です。オカルト板の独立スレも、Xのフォロワーたちも、すでにあなたを注視しています。突然消えれば、無用な憶測と混乱を招くだけです」

 

 橘は説明する。

 

「ただし、今後は大きな社会的影響を持つ予知……特に災害や大規模事故、インフラに関わるものについては、書き込む前にできる限り我々へ相談してください」

 

「それは……やっぱり、検閲ってことですか?」

 

「違います。運用です」

 

 橘のその言葉に、健司はハッとした。魔導書が使ったのと同じ表現だった。

 

「未来をただ当てることだけが目的ではありません。被害を減らすこと、混乱を避けること、そして必要な機関に事前に備えさせること。そのために、あなたが得た情報をどう社会に公開するか、その仕方を調整する必要があるのです」

 

「……分かりました」

 

 予知の扱いが、「ネットの投稿」から「社会インフラとしての運用」へとフェーズを変えたのだ。

 

「当面、佐藤君の担当官は私が務めます」

 

 橘が告げた。

 

「副局長クラスの人が、直接ですか?」

 

「あなたは通常の新規登録者ではありません。すでに公開による影響力が大きすぎます。少なくとも初期段階において、あなたの運用は私が直接見ます」

 

 健司は胃の辺りがキリキリと痛むのを感じた。

 

「緊急時の連絡方法などについては書類に入っていますが、次回正式契約の際に、専用の通信端末のアプリ等を設定します。本日はここまでにしましょう」

 

 橘が立ち上がった。

 

「次回、正式な署名と、詳細な能力検査の日程調整を行います」

 

 健司も、分厚い封筒を抱えて立ち上がる。

 

 重い。紙の束としての物理的な重さだけでなく、これから自分が背負う責任の重さがそこにあった。

 

「佐藤君」

 

 退室しようとした健司を、橘が呼び止めた。

 

 健司が振り返ると、橘は静かに一礼した。

 

「改めて、ようこそ。ヤタガラスへ」

 

 その一言で、健司は自分が本当に引き返せない一線を越えたのだと痛感した。

 

「……よろしくお願いします」

 

「こちらこそ」

 

 二人は握手を交わした。先ほどよりも、少しだけ対等に近い、実務者同士の握手だった。

 

 霞が関を出ると、夕暮れの空が官庁街のビル群をオレンジ色に染めていた。

 

 健司は重い茶封筒が入ったリュックを背負い、地下鉄の駅へと歩き出した。

 

 頭の中では、橘の言葉が何度もエコーのように反響している。

 

 年俸一千万円。特別任用職員。秘密保持。ヤタガラス。国家機密。神が二十人。

 

 地下鉄へ降りる階段の途中で、健司はふと足を止めた。

 

「……年収一千万って、単純に月にいくらだ? 八十万ちょっとか?」

 

『税金と社会保険料を計算に入れろ、猿。額面を単純に十二で割るな』

 

 魔導書が冷や水をぶっかけてくる。

 

「なんだよ、急に妙に現実的なこと言うなよ……」

 

『金に浮かれる猿ほど破滅しやすいものはない。年収が上がった瞬間に生活レベルを上げるような馬鹿な真似はするな。まずやるべきは、借金と奨学金の整理、まともな生活基盤の構築、税金対策、そして……親への説明だ』

 

「親……」

 

 その単語を聞いて、健司の足取りは途端に重くなった。

 

 アパートの自室に帰ると、そこはいつものままの、狭くて古びたワンルームだった。

 

 霞が関で世界の裏側の秘密を聞き、年俸一千万を提示された後でも、部屋の景色は何も変わらない。安いローテーブル、酷使しているノートPC、そこらへんに転がっている魔導書、昨日の夜に食べたカップ麺の空き容器、そして干しっぱなしの洗濯物。

 

 その強烈なギャップに、健司はため息をついた。

 

 リュックから分厚い封筒を取り出し、テーブルの上に置く。

 

 どさり、と重い音が響いた。

 

「……俺、本当にヤタガラスに入るんだな」

 

『まだ正式署名前だがな。だが、ほぼ決まりだ』

 

「年俸一千万……」

 

『三回も言うな。猿の脳が完全に金額でバグを起こしているぞ』

 

 健司は苦笑した。

 

 一瞬だけ、底辺フリーターから人生が逆転したという強烈な快感が全身を駆け巡っていた。

 

 だが、魔導書はすぐに話の矛先を変えた。

 

『ところで、猿』

 

「何だよ」

 

『親には連絡したのか?』

 

 健司は、ピタリと動きを止めた。

 

「……は?」

 

『親だ。お前を産み落とした者たちだ』

 

 健司は気まずそうに目を逸らした。

 

「いや……してないけど」

 

『なぜだ』

 

 健司は黙り込んだ。魔導書の追及は容赦がない。

 

『答えろ』

 

「……別に。忙しかったし。デイトレとか、予知のことで頭がいっぱいだったから」

 

『嘘だな』

 

「うるさいな。いいだろ別に。親なんて後回しで」

 

『よくない』

 

 魔導書のテキストは、いつになく威圧感を持っていた。

 

 健司は渋々、口を開いた。

 

「……俺さ、親にとっては、たぶん『失敗した息子』なんだよ」

 

 地方から東京の大学まで行かせてもらい、まともな会社に入ったはずが、ブラック企業の激務で心身をすり減らして逃げるように辞めた。その後はフリーターで、貯金もなく、奨学金の返済に追われ、連絡もろくにしない。

 

「心配かけてたのは分かってる。でも、自分が情けなくて、フリーターやってるなんてちゃんと言えなくて……連絡が来ても『仕事が忙しい』って適当に誤魔化してた。コンビニ夜勤の生活なんて、とても言えなかった」

 

 健司は自嘲気味に笑った。

 

「そんな情けないやつが、いきなり『国の裏組織に年俸一千万で雇われることになりました』なんて、言えるわけないだろ」

 

 魔導書は少しの間、沈黙した。

 

 そして、いつものような嘲笑ではなく、低く、重々しい声で告げた。

 

『猿』

 

「何だよ」

 

『それは、ただの逃げだ』

 

 健司の肩がビクッと跳ねた。

 

『お前は因果を扱う者だ。確率を曲げ、未来を観測し、事象の連鎖を読む。ならば、自分自身の因果を軽んじるな』

 

 健司は反論できなかった。

 

『親とは、お前という存在の“因果の始点”に最も近いものだ』

 

『お前が今ここに存在しているのは、親がいたからだ。その親にも親がいて、そのまた親にも親がいる。無数の偶然と選択と生存の連鎖の果てに、佐藤健司という猿が生まれた。お前が操ろうとしている確率など比べ物にならないほど、はるかに長く、はるかに細い奇跡のような因果の糸だ』

 

 魔導書の論理的な、しかし本質を突く説教が、健司の胸に深く突き刺さる。

 

『その根っこを無視して、未来の枝葉だけを弄ろうとするな。親を神聖視して崇めろとは言わん。親が完全な存在だとも言わん。だが、少なくとも、お前が今どこに立っているのかを伝える義務くらいはあるはずだ』

 

「……義務、か」

 

『そうだ。親を安心させるのも、お前自身の因果の整理だ。お前は今日、人生の大きな分岐点を越えた。ならば、過去から伸びている未処理の因果も、ここで少しは精算しておけ』

 

 健司は抵抗するように口を尖らせた。

 

「でも、電話して何を言うんだよ」

 

『就職したと言え』

 

「内閣情報調査室に?」

 

『言える範囲で言え』

 

「仕事の内容は?」

 

『守秘義務があって言えない、で通せ』

 

「年収は?」

 

『言いたければ言え。だが自慢するな』

 

「魔法のことは?」

 

『言うな、馬鹿猿』

 

「だよな……」

 

 健司は深いため息をついた。

 

『全部を正直に話す必要はない。だが、何も話さない理由にはならん』

 

 健司はスマートフォンを手に取った。

 

 実家からの不在着信や、母親からの「元気にやってるの?」という短いメッセージがいくつも残ったまま放置されている。

 

 父親からの連絡は少ないが、母親経由で心配していることは痛いほど分かっていた。

 

「……気が重い」

 

『それが因果の重さだ。持て』

 

 健司は覚悟を決め、母親の番号をタップした。

 

 呼び出し音が鳴る。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回鳴る前に、電話はすぐにつながった。

 

『健司!? あんた、健司なの!?』

 

 受話器の向こうから、切羽詰まったような母親の声が飛び込んできた。

 

「あー……うん。俺」

 

『うんじゃないわよ! 何回電話したと思ってるの! ちゃんと生きてるの!? ニュースで物騒な事件ばっかりやってるし、あんた何か変なことに巻き込まれてない!?』

 

 矢継ぎ早に飛んでくる怒声に、健司は苦笑した。

 

「生きてるよ。変なことには……まあ、ちょっと巻き込まれてるけど、危ないやつじゃないから」

 

『何それ怖いんだけど!? ちょっと、ちゃんと説明しなさいよ!』

 

 健司は言葉を探しながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「えっと……仕事が、決まった」

 

『仕事? コンビニのバイトじゃなくて?』

 

「うん。ちゃんとした仕事。国関係の仕事」

 

『国関係? 何それ。公務員ってこと?』

 

「まあ……かなり特殊な部署だけど、公務員みたいなものかな」

 

 電話の向こうで、母親が絶句するのが分かった。

 

『あんた、何を言ってるの? いつの間に公務員試験なんて受けてたの?』

 

「試験は受けてない。特殊採用というか……ちょっとした実績が認められて、スカウトみたいな感じで……」

 

『……詐欺じゃないでしょうね!?』

 

 母親の声が鋭くなった。

 

「俺も最初そう思った」

 

『思ったの!?』

 

「でも大丈夫。今日、霞が関の庁舎で面談してきたし、ちゃんとしたところだから。詳しい仕事内容は守秘義務があって言えないけど、危ない仕事じゃない。たぶん」

 

『最後の「たぶん」が一番怖いんだけど!』

 

 健司は小さく笑った。いつもの母の調子だ。

 

 ひとしきり疑いと怒りをぶつけた後、母親の声が少しだけ柔らかくなった。

 

『それで、あんた、本当に大丈夫なの? ちゃんとご飯食べてる? 夜は寝てる?』

 

 いつもなら「食べてるよ」と適当に流す小言が、今日は妙に胸に刺さった。

 

 健司は言葉に詰まった。

 

「……ごめん」

 

『何が?』

 

「今まで、ちゃんと連絡しなくて」

 

 健司はスマホを強く握りしめた。

 

「会社辞めてから、ずっと自分が情けなくてさ。フリーターしてるってちゃんと言えなくて、連絡来ても適当に誤魔化してた。心配かけてたのは分かってた。でも、電話に出るのが怖かったんだ。……ごめん」

 

 電話の向こうで、母親が静かに息を呑む音が聞こえた。

 

 少しの間があって、母親は言った。

 

『……馬鹿ね』

 

「うん」

 

『そんなこと、とっくに分かってたわよ』

 

「え?」

 

『親を何だと思ってるの。声聞けばだいたい分かるのよ、あんたが無理してることくらい』

 

 母親の声は、優しかった。

 

『情けないとか、失敗したとか、そういうのはいいの。生きてて、ちゃんと連絡してくれれば、それでいいのよ』

 

 健司の胸が、熱いものでいっぱいになった。

 

 魔導書は静かに沈黙を守っている。

 

『ちょっと代われ』

 

 背後で、父親のくぐもった声が聞こえた。

 

『お父さんが話すって』

 

 ガサガサと音がして、電話の主が代わる。健司は緊張した。

 

『健司か』

 

「……うん」

 

『仕事、決まったんだってな』

 

「うん。まだ手続き中だけど」

 

『そうか』

 

 沈黙。不器用な父親特有の、気まずい間。

 

『無理はするな』

 

「……うん」

 

『困ったら、連絡しろ』

 

「うん」

 

『以上だ』

 

『ちょっと、それだけ!?』

 

 背後で母親がツッコミを入れる声が聞こえ、健司は思わず吹き出した。

 

 短い言葉だったが、父親の不器用な心配は十分に伝わってきた。

 

 再び電話口に母親が戻る。

 

『それで、ちゃんと生活できるの? お給料は?』

 

 健司は迷った。

 

(……言うか?)

 

『言ってもいい。安心材料だ』

 

 魔導書が助け舟を出す。

 

「初年度で……だいたい年俸一千万くらいって言われた」

 

『……はい?』

 

「俺も今日、同じ反応した」

 

『絶対に詐欺じゃないでしょうね!?』

 

「だからちゃんとしたところだってば」

 

『国がそんなに出すの? あんた一体何するの!?』

 

「守秘義務」

 

『守秘義務って便利ね!?』

 

 母親の呆れた声に、健司は笑った。

 

「とにかく、お金のことは大丈夫だから。奨学金もちゃんと返すし。今まで借りた分とか、心配かけた分も、少しずつ返していくから」

 

『お金を返せなんて言ってないでしょ』

 

「分かってる。でも、俺がそうしたいんだ」

 

 健司の言葉に、母親は少し黙った。

 

『……そう。じゃあ、まずはちゃんと寝なさい』

 

「そこ?」

 

『そこよ。声がすごく疲れてる』

 

「うん。……ありがとう。落ち着いたら、一回帰るよ」

 

『待ってるわ。体に気をつけてね』

 

 電話を切る。

 

 健司はしばらく、通話終了の画面が表示されたスマホを見つめていた。

 

 胸の奥にずっとつかえていた重い塊が、すっと消えて軽くなっている。

 

 完全に全てが解決したわけではない。ヤタガラスでの仕事も、予知者Kとしての立ち回りも、これからが本番だ。

 

 でも、ずっと避けていた親への連絡をした。それだけで、過去の未処理タスクが一つ片付き、地に足がついたような感覚があった。

 

「……疲れた」

 

 健司はベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 

『よくやった、猿』

 

 魔導書からのメッセージ。

 

「珍しく褒めるな」

 

『因果の根を一つ整えただけだ。浮かれるな』

 

「素直に褒めろよ」

 

『調子に乗るな』

 

 いつものやり取りに、少しだけ日常感が戻る。

 

『いいか、猿。未来を見る者は、未来ばかりを見ていればいいわけではない』

 

 魔導書が諭すように言う。

 

『未来は、過去から伸びている。親、家族、借金、仕事、自分の名前。そういう足元の因果を雑に扱う者は、いずれ未来の重圧に潰される』

 

『お前は今日、ヤタガラスに入ると決めた。そして親に連絡した。表の社会での立場と、過去から続く因果の根。その両方を、少しだけ整えたのだ』

 

『これでようやく、次へ進める』

 

「次って?」

 

『明日からの地獄だ』

 

「言い方」

 

 健司は身を起こし、机の上を見た。

 

 そこには、ヤタガラスから渡された分厚い契約書類の入った封筒、年俸一千万円の条件が書かれた紙、秘密保持同意の控え。

 

 そして、予知者Kの独立スレを映したままのノートPCと、母との通話履歴が残ったスマートフォンが並んでいた。

 

 今の健司の人生の全てが、そこにある。

 

 元フリーター。株のK。予知者K。ヤタガラス特別任用職員予定者。親不孝者で、それでも少しだけ前に進もうとしている息子。

 

 健司は、深く、清々しい息を吐き出した。

 

「……よし」

 

『何だ』

 

 健司は背伸びをして、少しだけ笑った。

 

「明日も頑張るか!」

 

『その前に契約書を読め、猿。百ページ以上あるぞ』

 

「明日から頑張る!」

 

『逃げるな』

 

 窓の外では、東京の夜景が静かに灯っていた。

 

 世界の裏側を知ってしまった佐藤健司の新しい日常は、まだ始まったばかりだった。

 




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