俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第19話 猿とジムとゼロ地点

 霞が関での面談、そして両親への電話から一夜明けた、土曜日の夜。

 

 佐藤健司は、アパートのローテーブルの上に広げられた膨大な契約書類の山と、絶望的なにらめっこを続けていた。

 

『特別任用職員採用条件説明書』『秘密保持契約書』『特殊事象対応服務規程』『公開情報発信ガイドライン』『報酬・手当規程』……。

 

 官僚特有の回りくどい文体と、びっしりと敷き詰められた小さな文字の羅列。読み進めれば進めるほど、頭の中に霧がかかったように理解力が低下していく。

 

「……これ、次回までに全部読むの無理だろ」

 

 健司は限界を迎え、書類の上に突っ伏した。

 

『読め』

 

 無情にも、スマートフォンから魔導書のテキストが飛んでくる。

 

『署名する書類を読まない猿は、契約という名の罠に自ら首を突っ込む愚か者だ』

 

「ヤタガラスの人たち、俺を騙す気はないだろ。昨日の面談でも、けっこうちゃんとしてたぞ」

 

『騙す気がなくとも、組織の論理は必ず個人を縛る。それがルールというものだ。隅から隅まで読め』

 

「分かってるけどさあ……頭痛いんだよ」

 

 健司がぼやきながら数ページをめくった、その時だった。

 

『まあいい。契約書は帰ってから続きを読め』

 

「え、助かった?」

 

 健司は顔を上げた。

 

『次のレッスンだ、猿』

 

「全然助かってなかった」

 

 健司は再び机に突っ伏した。

 

「何だよ、次のレッスンって。株か? それともまた予知か?」

 

『違う』

 

 魔導書は短い沈黙の後、語り始めた。

 

『お前は、これまで随分と手札を増やした。確率操作、予知、株式市場での実戦。政治、災害、インフラの予知。ヤタガラスとの接触。そして、身体強化』

 

「まあ、けっこう頑張ったよな。俺」

 

 健司は少しだけ胸を張った。底辺フリーターからの成り上がり具合を考えれば、自分でも驚くほどの成長速度だ。

 

『調子に乗るな』

 

「相変わらず出鼻をくじくのが早いな」

 

『特に身体強化の魔法は、現時点でも十分に有用だ。お前はリミッターを外し、常人を遥かに超える筋力、瞬発力、反射、耐久力を発揮できる。攻撃能力という一点だけを見れば、近距離戦においてお前はすでに十分な力を持っている』

 

「じゃあ、問題ないんじゃないのか? 万が一ヤバい奴に絡まれても、身体強化で殴れば勝てるだろ」

 

『大問題だ』

 

 魔導書の文字が、画面を冷たく叩き切る。

 

「なんでだよ」

 

『今のお前は、フェラーリのエンジンを積んだ赤子だ』

 

「例えがひどすぎるだろ」

 

『身体というハードウェアは、すでにオーバースペックだ。だが、それを動かすソフトウェアが完全に空っぽだ。腕を振る。足を出す。走る。跳ぶ。殴る。蹴る。今のお前は、それらをただ力任せに、野生の猿のようにやっているだけだ』

 

 健司はムッとした。

 

「野生の猿って……」

 

『無駄が多すぎる。重心が雑だ。間合いが分かっていない。相手の意図が読めない。攻撃と防御の切り替えも知らない。受け身の取り方すら知らない』

 

『要するに、お前には戦闘技術が一切ない』

 

「でも、身体強化すれば普通の人間相手なら余裕で勝てるだろ」

 

『勝つだけならな』

 

「何が違うんだよ」

 

『殺すな。壊すな。自分も壊れるな。必要な分だけ、的確に制圧しろ』

 

 魔導書のその言葉に、健司はハッとして黙り込んだ。

 

『それができなければ、お前は力を持っているのではない。ただ暴走する危険物なだけだ』

 

「…………」

 

『だから、格闘技を習え』

 

「……は?」

 

 健司は目を丸くした。

 

『総合格闘技だ』

 

「なんでいきなりMMAなんだよ!? ボクシングとか空手とか、もっととっつきやすいのがあるだろ!」

 

『打撃、投げ、寝技。あらゆる局面を想定した実戦的な戦闘術であり、現代においてその訓練体系は極めて科学的で合理的だ。今のお前には、それが最も効率がいい』

 

『新しい攻撃魔法を増やすより、今ある身体強化の運用効率を最大化した方が遥かに早い』

 

「いや、ちょっと待て。俺、国の裏組織に入ることになったばっかりなんだぞ。次は契約書の確認とか、能力検査とかじゃないのかよ」

 

『契約書で殴り合いには勝てん』

 

「勝つ必要あるのかよ! 俺は予知能力者だぞ!」

 

『いつか、必ずある』

 

 魔導書の断言に、健司は嫌な予感しか覚えなかった。

 

『お前のスマホに情報を送った』

 

 言われるがままに画面を見ると、ブラウザのリンクが表示されていた。

 

【SAITO MMA GYM】

 

 公式サイトを開く。

 

 黒地に白の無骨な文字。筋肉隆々の選手たちの紹介写真。血と汗が飛び散る試合の切り抜き。

 

 そして、画面の端に不釣り合いに踊る「初心者大歓迎!」のポップ。

 

「初心者歓迎って書いてるけど、写真の顔が全部怖すぎるんだけど」

 

『よかったな。歓迎されているぞ』

 

「絶対そういう意味の歓迎じゃない」

 

『体験予約は入れておいた。今日の20時からだ』

 

「入れる前に聞けよ!」

 

 健司は立ち上がって叫んだ。時計を見ると、すでに18時を回っている。

 

『聞いたら逃げるだろうが』

 

「逃げるよ!」

 

『だから聞かなかったのだ。さあ、行くぞ。遅刻は印象が悪いからな』

 

 有無を言わさぬ魔導書の圧力に屈し、健司は慌てて準備を始めた。

 

 問題は服装だった。まともなトレーニングウェアなど持っていない。

 

 仕方なく、健司はヤタガラスからの「年俸一千万円」という提示に背中を押される形で、近くのスポーツ用品店に駆け込み、有名ブランドの上下セットとトレーニングシューズを購入した。

 

 19時45分。

 

 健司は、繁華街から少し外れた裏通りにある、薄暗い雑居ビルの前に立っていた。

 

 地下へ続く階段。その入り口には、黒地に白文字で無骨に書かれた【SAITO MMA GYM】の看板が掛けられている。

 

 おしゃれなフィットネスクラブではない。ここは、汗と熱気と闘争心の匂いが染み付いた、本物の格闘技ジムだ。

 

 健司の格好は、浮いていた。

 

 新品のブランドウェア。ピカピカのシューズ。どこからどう見ても、タグを切ったばかりの体験入会者丸出しだ。

 

 階段の下から、重い音が響いてくる。

 

 ──バスンッ、バスンッ! 

 

 誰かが重いミットを本気で叩き潰している音。

 

 ──シュッ、シュッ! 

 

 鋭いシャドーボクシングの風切り音。

 

 低い呻き声。ロープの軋む音。そして、肉体がマットに激しく叩きつけられる音。

 

 健司はゴクリと喉を鳴らした。

 

(……本当に入るのか、ここ……)

 

 霞が関の無機質な13階とは全く別のベクトルで、ここは完全に「裏世界」だった。原始的な暴力の気配が満ちている。

 

『おい猿。入口で固まるな。邪魔だ』

 

 魔導書が冷たく急かす。

 

「いや、だって、明らかに俺の住む世界と違うだろ……」

 

『だから来たのだ。さっさと降りろ』

 

 健司は覚悟を決め、深呼吸をしてから地下への階段を下りた。

 

 分厚い防音扉を開ける。

 

 むっとする熱気が、健司の全身を包み込んだ。

 

 汗の匂い。ゴムマットの匂い。

 

 視界には、サンドバッグ、金網のケージ、そしてリング。壁には色褪せた大会のポスターが所狭しと貼られている。

 

 打撃練習をする男たち。寝技で激しく絡み合う練習生。黙々と縄跳びを跳ぶ女性選手。高校生くらいの若い男もいる。

 

 全員が、嘘みたいに真剣だった。

 

 完全に気圧されて入り口で突っ立っていると、受付にいた若いスタッフが声をかけてきた。

 

「あ、体験の佐藤さんですか?」

 

「あ、はい。佐藤です」

 

「代表! 体験の方、来ました!」

 

 スタッフがジムの奥に向かって叫ぶ。

 

 奥のリングから、一人の男がロープをくぐって降りてきた。

 

 四十代前半から半ばくらい。短く刈り込んだ髪、太い丸太のような首、そして、餃子のように潰れた耳。

 

 元プロの総合格闘家特有の、鋭く重い空気を纏っている。だが、その話し方は意外なほど穏やかだった。

 

「佐藤さん? 体験だね。斎藤です」

 

「あ、よろしくお願いします」

 

 健司は深く頭を下げた。

 

 斎藤は、健司の全身をスキャンするように上から下まで眺めた。

 

 新品のウェア。立ち姿は悪くない。体も変に緩んではいない。だが、格闘技経験者特有の「重心の据わり」がない。

 

「格闘技経験は?」

 

「ないです」

 

「運動経験は?」

 

 健司は答えに窮した。コンビニの夜勤と、最近始めた身体強化でのランニングくらいだ。

 

「……最近、少し鍛え始めたくらいです」

 

「なるほど」

 

 斎藤は短く頷いた。この時点では、斎藤はまだ健司の異常性に気づいていない。ただの「体力作り目的の初心者」だと思っている。

 

「じゃあ、まずは軽いウォームアップからやろうか。怪我しないようにね」

 

 斎藤の指示で、健司は基本的なメニューをこなし始めた。

 

 縄跳び、軽いランニング、スクワット、腕立て伏せ。

 

(身体強化は……使わない方がいいよな)

 

 健司が内心で迷っていると、魔導書が指示を出す。

 

『使え。ただし、出力を極限まで絞れ。基礎的な動作でお前のハードウェアがどう反応するかを見たい』

 

(出力を絞れって、簡単に言うけどさ……)

 

 健司は、ほんの数パーセントだけ、魔法の回路を開いて身体を強化した。

 

 すると、動きが異常なほど軽くなった。

 

 縄跳びはすぐにリズムを掴み、延々と跳び続けられる。スクワットは羽毛のように軽く、腕立て伏せも全く苦にならない。ランニングに至っては、どれだけペースを上げても息一つ上がらない。

 

 周囲の練習生たちが、チラチラと健司を見始めた。

 

「あいつ、初心者って言ってなかったか?」

 

「基礎体力、ヤバくないか?」

 

「なんか、動きが妙に軽いよな」

 

 斎藤の目つきが変わった。

 

「……佐藤さん、運動経験ないって言ったよね?」

 

「あ、はい。そんなには……」

 

 健司が焦って答える。

 

「ふーん……」

 

 斎藤は顎をさすりながら、健司の動きをじっと観察し始めた。

 

『身体能力だけはな』

 

 魔導書が冷たくツッコミを入れる。

 

(だけって言うなよ)

 

「よし、じゃあ次は構えと基本の打撃をやってみよう」

 

 斎藤がミットを持ち、健司の前に立った。

 

「足幅を肩幅に。前足と後ろ足を作って。顎を引く。ガードは顔の横。肩の力を抜いて……そう。じゃあ、まずはジャブから」

 

 健司は見よう見まねで左拳を突き出した。

 

 身体能力の恩恵で、そのパンチの速度は異常だった。

 

 ──バァンッ!! 

 

 ジム内に、乾いた破裂音が響き渡った。

 

 周囲の練習生たちが一斉に動きを止め、こちらを見た。

 

 ミットを持った斎藤の腕が、ドンッと後ろに弾かれている。

 

「……おお?」

 

 斎藤が目を丸くした。

 

「あ、すみません!」

 

 健司は慌てて拳を引っ込めた。

 

 斎藤の目が、完全に格闘家のそれに変わった。

 

「佐藤さん。今の、何割の力?」

 

 健司は困った。本気など出していない。むしろ、かなり抑えたつもりだった。

 

「えっと……そんなに強くは……」

 

「なるほど」

 

 斎藤はミットを構え直した。

 

「じゃあ、次はワンツー。ストレートまで打ってみて」

 

 健司は右のストレートを放った。

 

 威力と速度はすさまじい。だが、そこで彼の技術の無さが完全に露呈した。

 

 パンチが大振りすぎる。肩に力が入りすぎて、打った後にガードが完全にがら空きになる。拳を戻すのが遅く、体重移動で足が揃ってしまい、体が前に突っ込んでいる。重心が完全に浮き上がっていた。

 

「ストップ」

 

 斎藤がミットを下ろした。

 

「力はある。速い。でも、危ないな」

 

「危ない?」

 

 健司が首を傾げる。

 

「相手にも、自分にもだ」

 

 斎藤は厳しく指摘した。

 

「その打ち方だと、まともに当たれば相手を壊す。でも外せば、自分の体勢が完全に崩れる。それは格闘技のパンチじゃない。ただ力任せに、重い物をぶつけてるだけだ」

 

 健司は言葉に詰まった。

 

『聞いたか、猿。俺と全く同じことを言われているぞ』

 

 魔導書が嘲笑う。

 

(うるさいってば)

 

「次、マット運動と受け身をやろう」

 

 打撃を止められ、健司は少しホッとした。受け身なら殴られないから怖くない。

 

 そう思ったのが甘かった。ここで、彼の致命的な素人ぶりがさらに露呈する。

 

 前転、後転、柔道の受け身。

 

 健司は異常な身体能力で無理やり回ることはできる。だが、動きが致命的に硬い。首の守り方、背中の丸め方、衝撃を床に逃がす技術を全く知らないのだ。ドスンドスンと、痛々しい音を立ててマットに転がる。

 

「違う」

 

 斎藤が止める。

 

「力で無理やり回るんじゃない。体を丸めて、衝撃を外に流すんだ」

 

 健司は何度もやり直すが、うまくいかない。

 

『身体強化で誤魔化すな。筋肉ではなく、技術を覚えろ』

 

 魔導書の指示も飛ぶが、頭で理解しても体がついてこない。

 

「次は、軽い組みの体験だ」

 

 斎藤が、中級者らしき練習生を呼んだ。

 

「彼の腕を取って、崩してみて」

 

 練習生が健司の腕を掴む。

 

 健司は、身体強化の力任せにその腕を振り払おうとした。

 

 抜けた。

 

「えっ、強っ……」

 

 練習生が驚きの声を上げる。

 

 だが次の瞬間、健司の視界が反転した。

 

 力任せに腕を引いたせいで重心が完全に前に流れ、そこを練習生に軽く足を払われたのだ。

 

 健司は無様にマットに転がった。

 

「……え?」

 

「力はある。凄まじい力がな」

 

 見下ろす斎藤が、淡々と言う。

 

「でも、力の向きが完全に読まれてる。強い力を単調に出せば出すほど、その力を利用されて簡単に崩されるんだ」

 

 健司はショックを受けた。

 

 化物級の筋力はある。でも、技術者にはその「力の方向」を容易く利用されてしまうのだ。

 

(くそっ……次は、動きを読んでやる)

 

 健司は立ち上がり、予知能力を軽く起動した。

 

 相手の次の動きの気配を読む。

 

 見える。

 

 左から来る。右に重心が移る。腕が伸びてくる。

 

 だが、対人戦の現実は、株のチャートほど単純ではなかった。

 

 相手は意図的に「嘘」を混ぜてくる。

 

 フェイント。目線の誘導。肩の僅かな揺れ。足の細かい踏み替え。呼吸。

 

 未来の候補が、無数に割れていく。「来る」と思った場所に来ない。避けた先に、相手の次の手が置かれている。脳が処理を追いつかせようとした時には、すでに体勢が崩されている。

 

『予知は万能ではない』

 

 魔導書が冷徹に告げる。

 

『情報が多すぎる局面では、読めても肉体の処理が追いつかなければ意味がない。そして相手は生きている。相手もまた、お前を騙しに来るのだ』

 

(これ、株より面倒じゃないか……?)

 

『株も人間の欲望だ。格闘技も人間の欲望だ。違いは、物理的に殴られるかどうかだ』

 

(最悪だろ、それ)

 

「佐藤さん、少しだけマススパーをやってみようか」

 

 斎藤の提案に、健司は首を傾げた。

 

「マススパー?」

 

「軽いスパーリング。寸止めに近い力加減で、強くは当てない。危ないと思ったらすぐ止めるから」

 

 相手は、ジムの若い練習生だった。二十代前半。プロ志望ではないようだが、数年はやっている動きだ。体格は健司よりも少し小さい。

 

(この人相手なら、身体能力では俺の方が上のはずだ……)

 

『その考え方が、すでに猿なのだ』

 

 魔導書が呆れる。

 

 スパーリング開始。

 

 最初、健司は相手の動きをじっと見た。

 

 相手が軽くジャブを放ってくる。

 

 健司の異常な反射神経は、それを見切り、スッと避けた。

 

「おっ、反応速っ」

 

 周囲の練習生がどよめく。健司は少しだけ自信を持った。

 

 だが、相手はすぐに戦い方を変えた。フェイントを混ぜてきたのだ。

 

 左ジャブに見せて、素早く右のボディ。

 

 健司は右に避けようと体が流れたところに、軽く腹を叩かれた。

 

 ──ドンッ。

 

 寸止めに近いが、芯に響く重さがある。

 

(なんだ、今の動き……!)

 

『見え見えの陽動に引っかかったな。素人丸出しだ』

 

 次も同じだった。相手が前に出ると見せて、スッと下がる。

 

 健司が慌てて追いかけ、大振りのパンチを放つ。

 

 相手は僅かに角度を変え、健司のパンチは空を切る。

 

 そして、相手は軽く触るだけ。

 

 顔にタッチ。腹にタッチ。ローキックのフェイント。肩を軽く叩く。

 

 健司は反射神経で動くが、全てが後手後手だ。身体能力は明らかに健司が上。踏み込みも速く、パンチの威力も桁違い。

 

 だからこそ、相手はまともに打ち合ってくれない。フェイントと角度で健司の力を空転させ、力を使わせないのだ。

 

(くそっ、当たれば勝てるのに、当たらない!)

 

(見えてるのに、体が間に合わない!)

 

(速いのは絶対俺のはずなのに、なんで先に触られるんだ!)

 

 三分間のスパーリング終了。

 

 健司は、肩で激しく息をしていた。

 

 肉体的な体力が切れたわけではない。精神が削られ、情報処理で脳が疲弊し、何より「何もできない」という悔しさで呼吸が乱れていた。

 

 相手の若者が、グローブを外しながら苦笑した。

 

「……すげぇフィジカルっすね。正直、まともに一発でも当たったらヤバいと思いました」

 

 健司が少し顔を上げる。

 

「だけど……格闘技としては、ど素人っすね」

 

 その一言が、健司の胸に深く突き刺さった。何も言い返せなかった。

 

「どうだ、佐藤。分かったか?」

 

 リングサイドから、斎藤が声をかけてきた。

 

「……はい」

 

 健司は息を整えながら答えた。

 

「これが、格闘技だ」

 

 斎藤は淡々と告げた。

 

「身体能力はすごい。正直、普通じゃない。筋力、反応速度、瞬発力、どれも桁外れに高い。たぶん本気で暴れたら、ここの連中でも止めるのは難しいだろう」

 

 周囲の練習生たちも、無言で頷いている。

 

「でも、技術はゼロだ」

 

 健司は唇を噛んだ。

 

「構えがない。距離が分かってない。打った後の戻しがない。相手のフェイントに全部過剰に反応してる。力の出し方が雑。受け方も知らない。転び方も知らない」

 

 斎藤は厳しく指摘する。

 

「その異常な身体能力で、格闘技の技術を知らないのは、危ないんだよ」

 

「危ない……ですか」

 

「相手を壊すし、何より自分も壊す」

 

 斎藤の目は真剣だった。

 

「君はたぶん、その辺の普通の素人よりはずっと強い。でも、格闘技の世界では、技術を持たない『強い素人』が一番危ないんだ」

 

 健司は、自分が「強くない」と言われたのではなく、「扱いを誤れば危険な存在」だと言われていることを理解した。

 

「ちゃんと習う気があるなら、基礎からみっちりやる」

 

 斎藤が告げる。

 

「まずは構え、ステップ、受け身、ジャブの打ち方、タックルへの反応、寝技の基本からだ。やるか?」

 

 健司は少しだけ迷った。

 

 魔導書は黙っている。ここは、健司自身の意思で答える場面だ。

 

「……お願いします」

 

「本気で?」

 

「はい。本気で」

 

 健司は真っ直ぐに斎藤を見た。

 

 斎藤は深く頷いた。

 

「分かった。じゃあ、今日からここがゼロ地点だ」

 

「ゼロ地点……」

 

「身体能力の高さは、一旦置いておけ。格闘技としては、今日が君の最初の日だ」

 

 帰り道。

 

 健司は汗だくのまま、夜の風を浴びて歩いていた。

 

 身体はまだ動くが、心がひどく疲れている。新品だったブランド物のウェアは汗まみれで、ピカピカだったシューズにはマットの擦れ跡がついている。

 

「……めちゃくちゃ悔しい」

 

 健司はぽつりとこぼした。

 

『よかったな』

 

 魔導書が返す。

 

「何がだよ」

 

『悔しいと心底思えたなら、お前はまだ伸びる』

 

 健司は黙って歩き続けた。

 

『言っただろう。お前の身体というハードウェアはすでにオーバースペックだ。だが、ソフトウェアがない。今日、お前はその事実を骨身に刻んだはずだ』

 

「身体能力は絶対俺の方が勝ってるはずなのに、全然勝てなかった」

 

『それが技術というものだ』

 

 魔導書が珍しく丁寧に解説する。

 

『力をいつ出すか。どの方向に出すか。どこで抜くか。どこで相手を誘うか。どこで受けて、どこで逃がすか。それを知らない者は、いくら力があってもただの猿だ』

 

「猿猿うるさいな」

 

『だが、今日のお前は少しだけ良かったぞ』

 

「え?」

 

『自分が何もできない猿だと、素直に認めた』

 

「……褒めてるのか、それ?」

 

『褒めている』

 

 健司のスマホが震え、通知が表示された。

 

 ヤタガラスの橘からの事務連絡だ。

 

【次回正式契約面談と能力検査の日程について】

 

 健司はそれを見て、小さくため息をついた。

 

 ヤタガラスの仕事。分厚い契約書の確認。能力検査。デイトレード。予知者Kの運用。親への定期的な連絡。そして、格闘技ジム。

 

 やることが、あまりにも増えすぎている。

 

「なあ……俺、予知能力者だったはずだよな?」

 

『予知能力者であり、確率操作能力者であり、身体強化能力者であり、国家機関の特別任用職員であり、今日からは格闘技初心者だ』

 

「肩書きが増えすぎだろ」

 

『よかったな。履歴書が豪華になるぞ』

 

「全然うれしくない」

 

 アパートに帰宅した健司は、机の上に広げられたままのヤタガラスの契約書類を見た。

 

 その横には、SAITO MMA GYMでもらった体験申込書の控えと、母との通話履歴が残ったスマホ、そして予知者Kの独立スレを映したままのノートPCがある。

 

 自分の人生が、数ヶ月前とは比較にならないほど複雑になっている。

 

 でも、今日は少しだけ確かなことが分かった。

 

 能力があるだけでは駄目だ。

 

 社会的に評価されるだけでも駄目だ。

 

 金をもらうだけでも駄目だ。

 

 それらを正しく扱うための「技術」が必要なのだ。

 

「……ゼロから、か」

 

 健司が呟くと、魔導書が否定した。

 

『違う』

 

「違うのか?」

 

『身体はある。力もある。予知もある。社会的基盤もできつつある。だから、お前はゼロではない』

 

『だが、戦闘技術に関しては、今日が正真正銘のゼロ地点だ』

 

 健司は少し笑い、スマホのカレンダーアプリを開いた。

 

 SAITO MMA GYMの次回練習予定を入力する。週二回、まずは初心者用の基礎クラスからだ。

 

 年俸一千万円の予知能力者。

 

 ヤタガラスの特別任用職員予定者。

 

 ネット上で検証される予知者K。

 

 そのどれだけ大仰な肩書きを並べ立てても、総合格闘技のジムの中では、彼はただの初心者だった。

 

 けれど、それでよかった。

 

 今日、佐藤健司は初めて、自分がどこから始めればいいのかを知ったのだ。

 

 ここがゼロ地点。

 

 化物じみた身体能力を、戦うための確かな技術へと変えるための、最初の場所。

 

「……次は、もう少しマシに動いてやる」

 

『その意気だ、猿。まずは正しい受け身の練習からだな』

 

「地味だなあ」

 

『地味なものを地道に積み上げられん者に、派手な魔法など到底扱えん』

 

 健司は、痛む肩を軽く回しながら、小さく笑った。

 

 新しい日常に、また一つ、地獄のようなメニューが増えた。

 

 だが、逃げるつもりはなかった。

 

 佐藤健司の戦い方は、今日、ようやくゼロ地点に立ったのだから。

 




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