俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第2話 猿と師匠と脳破裂

 泥の底から引き上げられるような、深い深い眠りだった。

 

 佐藤健司が重い瞼をこじ開けると、遮光カーテンのわずかな隙間から、血のように赤い夕日が差し込んでいた。壁掛け時計の針は午後六時を回っている。

 

 昨夜──いや、日付が変わっていたから今朝方か。狂ったように繰り返したスマートフォンのリセマラ作業。その果てに訪れた、ありえない奇跡の光景。

 

「……身体、軽……」

 

 声に出して驚いた。

 

 普段なら、夜勤明けの睡眠後は身体に鉛が詰まったように重く、頭痛と吐き気でしばらく動けないのが常だった。しかし今は違う。何時間眠っていたのか分からないが、全身の筋肉が驚くほど弛緩し、疲労感がない。

 

 いや、完全に無傷というわけではない。

 

 こめかみの奥に、焼け焦げたような鈍い痛みが居座っている。目の奥はひどく熱く、頭の芯の部分だけが、まるで乾いた鉄板を火にかけられているようにじんじんと疼いていた。

 

 健司はベッドの上で身を起こした。

 

 狭いワンルームのアパート。床には脱ぎ捨てられたコンビニの制服が転がり、ローテーブルの上には空になった弁当の容器が放置されている。

 

 そして、その傍ら。

 

 充電ケーブルに繋がれたスマートフォンの隣に、あの胡散臭い『猿でも分かる魔法の使い方!!!』が、昨日と同じ無様な姿で横たわっていた。

 

 健司は唾を飲み込み、恐る恐るその本に手を伸ばした。

 

 チープな表紙をめくる。

 

 ──真っ白だった。

 

 昨日、あれほど饒舌に彼を煽り、罵倒し、そして世界の理をハッキングする方法を書き連ねた黒いインクの文字は、どこにもない。シミ一つない純白の紙が、ただそこにあるだけだった。

 

(……やっぱり、夢だったのか?)

 

 強烈な不安と、それ以上の落胆が胸をよぎる。

 

 疲労困憊の脳が見せた、都合の良すぎる幻覚。時給千二百円の現実に押し潰されそうになった精神が生み出した、ただの防衛機制。

 

 そうだ、普通に考えればそんな馬鹿な話があるわけがない。「確率を操作する」などという中二病全開の妄想で、人生が逆転するはずがないのだ。

 

 健司は自嘲気味に笑い、充電ケーブルからスマートフォンを引き抜いた。

 

 とりあえず、昨日のソシャゲのデータでも確認しよう。どうせ最低保証のRカードが並んでいるはずだ。

 

 指紋認証でロックを解除する。

 

 通知欄に、昨夜インストールしたゲームアプリからの通知が残っていた。

 

 そして、そのアイコンをタップして開かれた画面には。

 

「……マジで、残ってる」

 

 最高レアリティであるSSRのキャラクターが、画面狭しと十体、燦然と輝いていた。

 

 夢ではない。

 

 少なくとも、排出率1%の壁を十連続でぶち破ったというデータ上の結果は、現実としてここに残っている。

 

 呆然と画面を見つめていると、不意に画面上部にバナー通知が降りてきた。

 

 メッセージアプリ『LINE』からの新規通知。

 

 友人などほとんどいない健司にとって、それは珍しいことだった。だが、彼の目を何よりも釘付けにしたのは、その送り主の名前だった。

 

『魔導書様』

 

 アイコンは、あの本の表紙に描かれていた、気の抜けた猿のイラスト。

 

「は?」

 

 健司は完全に固まった。

 

 本が、LINEを送ってきた? どうやって? 

 

 震える指で通知をタップし、トーク画面を開く。そこには、数件のメッセージが届いていた。

 

『おい、猿1号。ようやく起きたか』

 

『よく寝てたな。猿のくせに』

 

 健司はベッドの上で跳ね起きた。

 

「なんで本がLINEしてくるんだよ!?」

 

 誰もいない部屋に向かって叫ぶ。

 

 だが、メッセージには即座に『既読』の文字がつき、間髪入れずに返信が飛んできた。

 

『いちいち紙に文字を浮かべるより、こっちの方が楽だからだ。文句あるか?』

 

『あと、お前の現代文明、思ったより便利だな。特にこの“インターネット”とかいう巨大な落書き帳、なかなか使えるぞ』

 

 健司は混乱の極みに達していた。

 

 どうやってアカウントを作った? どこから通信している? 俺のスマホ、乗っ取られてるのか? 本体は目の前の机の上に転がっているのに、なぜ画面の中から話しかけてくる? 

 

「どういう原理だ……」

 

 呟くようにメッセージを打ち込むと、魔導書はあっさりと返してきた。

 

『理解するな。受け入れろ』

 

『お前の猿頭で原理を理解しようとすると、今日のレッスンに入る前に日が暮れるぞ。いや、もう暮れてるか』

 

 相変わらずの尊大な態度。

 

 だが、その適応能力の高さは異常だった。ただの古めかしい本かと思いきや、一夜にして現代のネットワークインフラを把握し、使いこなしている。不気味さを通り越して、ある種のギャグにすら思えてくる。

 

『お前がよだれ垂らして寝てる間、俺様はこの世界の情報網を一通り覗いていた』

 

 魔導書からのメッセージが続く。

 

『低次元の猿にしては、なかなか面白い文明を作っているじゃないか。金融、通信、軍事……どれも原始的だが、システムとしては悪くない』

 

「ちょっと待て、覗いてたって……それ、ハッキングとかじゃないだろうな? 犯罪だぞ!」

 

 健司が慌てて打ち込むと、魔導書は一蹴した。

 

『猿の法律を、高位魔導書様に適用するな。俺様はただ、“情報の川”を眺めていただけだ』

 

 価値観が、根本的に人間社会のそれとは違っている。

 

 健司は背筋に薄ら寒いものを感じたが、それ以上に、手元のスマホに表示されたままになっている『SSR十枚抜き』の画面が、彼の理性を麻痺させていた。

 

 夢じゃなかった。

 

 確率操作は本物だ。

 

 なら、次だ。

 

 健司の脳内に、再びどす黒く、しかし純粋な欲望が渦巻き始める。

 

 彼は画面をスワイプし、魔導書のトーク画面に文字を打ち込んだ。

 

「なあ、これって、宝くじにも使えるんだよな?」

 

「競馬とか、株とか、FXとか。確率が絡むものなら何でも」

 

「ていうか、今日から俺、金持ちになれるんじゃないか?」

 

 送信ボタンを押す。

 

 すぐに既読がつく。だが、返信は来ない。

 

 数秒、十数秒。

 

 沈黙が続く。

 

 やがて、画面に短いメッセージが一つだけ表示された。

 

『馬鹿』

 

 健司はカチンときた。

 

「なんでだよ! 昨日できただろ! 確率1%の壁を十回連続で越えたんだぞ!」

 

『だから猿なんだよ』

 

 魔導書の言葉は冷ややかだった。

 

『お前は今、幼児が包丁を握っただけで、三ツ星レストランのシェフになった気になっている状態だ』

 

『いいか、よく聞け。今日のレッスン2だ』

 

 空気が変わった。

 

 画面越しの文字から、先程までの軽口とは違う、圧倒的な圧力のようなものが伝わってくる。

 

『まず言っておく。魔法に“MP”なんて便利なゲージはない』

 

「MP……?」

 

『そうだ。お前ら猿が作ったゲームみたいに、MPが減ったから今日はここまで、なんて親切設計じゃないってことだ』

 

「じゃあ、魔法を使うコストって何なんだよ。昨日あんなに疲れたのに」

 

『魔法とは、世界に干渉するための“スイッチ”だ』

 

『お前の脳が「こうなれ」と命令し、世界の理に干渉する。そのスイッチを入れること自体には、本来疲労なんてものは存在しない。部屋の電気をつけるのに、指の筋肉は疲れないだろ?』

 

 健司は納得しかけた。

 

 確かに、意志を持つこと自体にエネルギーはほとんど使わない。

 

 だが、すぐに昨日の異常な疲労感を思い出す。

 

「でも、昨日めちゃくちゃ疲れたぞ。頭も痛かったし、今もなんか頭の奥が熱いんだけど」

 

『そこだ』

 

 魔導書の文字が、画面上で一段と大きく、太く表示されたように感じた。

 

『それが、お前が最初に理解しないと“死ぬ”部分だ』

 

「死ぬ……?」

 

『魔法の本当の負荷。それはMPの消費じゃない。お前の脳の“情報処理負荷”だ』

 

 魔導書の説明は続いた。

 

『世界の確率を書き換えるってのはな、単に「当たれ」って願うだけじゃない。例えば昨日のガチャでもそうだ。乱数の結果、サーバー側の処理、お前の端末の入力タイミング、そこに関わる無数の電気信号。お前の脳は、それら全ての因果をほんの一瞬で計算し、書き換えたんだ』

 

『ゲームの中のガチャ程度なら、現実への影響は小さいから練習台に使えた。だがな』

 

『現実の大きな出来事に干渉しようとすれば、処理する因果の量は桁違いに跳ね上がる。宝くじの一等、競馬の万馬券、あるいは誰かの生死。規模が大きくなればなるほど、お前の脳に流れ込む情報量は爆発的に増大する』

 

 健司は息を呑んだ。

 

『お前の脳は、所詮は人間の脳だ。どれほど才能があっても、今はまだ初心者。昨日のリセマラでさえ、限界ギリギリの綱渡りだったんだよ』

 

『お前は昨日、ガチャを回していたんじゃない。世界のソースコードに、素手で触っていたんだ。手袋も工具もなしにな』

 

 健司は血の気が引くのを感じた。

 

 自分は、そんな恐ろしいことをしていたのか。ただのゲームだと思って。

 

『理論上、お前にも世界を壊すことはできる』

 

「……は?」

 

『例えば、お前が本気で「地球の自転を止めろ」と魔法を使ったとする。世界は、その意志を受け取ろうとする。だが、それを実行するには、膨大すぎる情報処理が必要になる』

 

『地球の自転エネルギー、海と大気の慣性、地殻変動、生命体への影響、重力、熱、気圧、地磁気……ありとあらゆる無数の因果。お前の脳は、それらを一瞬で処理しようとする』

 

『結果、どうなると思う?』

 

 魔導書は一拍置いて、最も残酷な事実を突きつけた。

 

『ポンッ、だ。耐えきれなくなったお前の脳みそは、スイカをコンクリに叩きつけたみたいに破裂する』

 

「……っ」

 

 健司は思わず自分の頭を押さえた。

 

 リアルな痛みを錯覚し、吐き気がこみ上げてくる。

 

「やめろ、想像させんな」と打ち込もうとしたが、指が震えてうまく動かない。

 

『想像しろ。しないと死ぬぞ』

 

『調子に乗った猿は、大体ここで死ぬ。魔法は打ち出の小槌じゃない。扱いを間違えれば、使用者が先に壊れる爆弾だ』

 

 昨日の頭痛。目の奥の熱。

 

 あれがもし、ガチャではなく、現実の数百万円、数千万円が絡む宝くじの確率操作だったら。

 

 俺の頭は、あの夜の時点で吹き飛んでいたかもしれない。

 

 恐怖で、背中に冷たい汗が伝った。

 

「でも……」

 

 健司はなんとか文字を打ち込んだ。

 

「もし本当に、俺が世界を壊しかけたら、どうなるんだ?」

 

『世界そのものは、たぶん直される』

 

「直される? 誰に?」

 

『世界には、異常を修正する仕組みがある。そして、その修正を行える存在がいる。それが、“上位者”だ』

 

 上位者。

 

 初めて聞く単語だった。

 

『魔法を極め、個の限界を超え、世界の外側に立つ者たち。人間の言葉で言えば、神に近い存在だな。奴らにとって、お前みたいな初心者が世界を壊しかけることは、ゲームのバグ修正に近い。世界が破綻しかければ、ロードするように直すだろう』

 

 健司は少しだけ安堵しかけた。

 

 世界が壊れても、誰かが直してくれるなら。

 

『だが、勘違いするなよ』

 

 魔導書は、その安堵を即座に粉砕した。

 

『壊れかけた世界は直る。だが、脳を破裂させたお前は直らない』

 

「──」

 

『世界は助かる。でもお前は死ぬ。ただそれだけだ』

 

 健司はスマホを握りしめたまま、完全に沈黙した。

 

 怖い。

 

 自分はとんでもない力を手に入れてしまった。一歩間違えれば、金持ちになるどころか、脳が破裂して無様に死ぬ。

 

 昨夜、虹色のガチャ画面を見た瞬間に芽生えた、「この力があれば何でもできる」という万能感は、粉々に打ち砕かれた。

 

 だが。

 

 恐怖で震える心臓の奥底で、別の感情が鎌首をもたげているのを、健司は確かに感じていた。

 

 興奮。

 

 上位者。世界の修正。魔法を極めた存在。世界の理。

 

 自分が昨日まで知らなかった、いや、知る由もなかった、巨大すぎる世界の裏側。

 

 時給千二百円で深夜のコンビニに立ち、小銭を数えていただけの自分の人生。そのすぐ裏側に、神のような存在がバグを修正する、途方もないシステムが隠されていた。

 

 怖い。引き返すべきだ。

 

 そう警鐘を鳴らす理性を、抑えきれない好奇心が塗り潰していく。

 

 この爆弾の中身を、もっと深く覗き込んでみたい。

 

 健司は震える指で、ゆっくりとLINEを打ち込んだ。

 

「……なあ」

 

「その、“上位者”って、一体なんなんだ?」

 

 送信。

 

 既読がつく。

 

 しかし、すぐには返信が来ない。

 

 沈黙。

 

 それはまるで、魔導書が画面の向こう側で、健司という人間の本質を見定めているかのような、重苦しい数秒間だった。

 

 やがて。

 

『……脳が破裂する話を聞かされて、最初に聞くのがそれか』

 

『金の話でも、助かる方法でもなく、上位者か』

 

『やっぱりお前、ただの猿じゃないな』

 

 そこには、ほんのわずかだが、これまでの見下したような態度とは違う、奇妙な評価の念が混じっているように見えた。

 

『いいだろう』

 

『今のお前の猿頭で理解できる範囲だけ、教えてやる』

 

 健司はごくりと息を呑んだ。

 

 時給千二百円の退屈な世界は、すでに彼の背後に遠ざかっている。

 

 目の前に口を開けたのは、狂気と死と、そして圧倒的な力に満ちた別世界の入り口だ。

 

 彼は恐怖に震えながらも、その闇の奥を覗き込まずにはいられなかった。

 




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