俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第20話 猿と初任務と重いぬいぐるみ

 総合格闘技ジムでの凄惨な体験から一夜明けた朝。

 

 佐藤健司は、全身を軋ませる鈍い痛みに顔をしかめながらベッドから身を起こした。

 

 身体強化の魔法を使っている間は、リミッターが外れて限界以上の力を引き出せる。だが、魔法を解いた後の肉体には、その負荷が確実に蓄積されていた。

 

 慣れないステップ、大振りのパンチ、不格好な受け身。その全てが強烈な筋肉痛となって、健司の体に「技術ゼロ」という現実を容赦なく刻み込んでいる。

 

(予知もできる。身体強化もある。なのに、普通のフェイントにあっさり引っかかって転がされた……。俺、思ったより全然戦えないんじゃないか?)

 

 洗面所で顔を洗いながら、健司は小さく息を吐いた。

 

『ようやく身の程を弁えたか、猿。貴様はただ力だけを持った初心者にすぎん。道端に落ちているこん棒を拾い上げただけで、一人前の戦士になったつもりでいたのだ』

 

 脳内に直接響く魔導書の嘲笑は、筋肉痛よりも堪えた。

 

 健司はムッとしたが、返す言葉が見つからない。フィジカルで圧倒しているはずの相手に、まるでおもちゃのように翻弄された記憶が、まだ生々しく残っている。

 

「……うるさいな。今日からまた鍛え直すさ」

 

 健司は痛む肩を回しながら、身支度を整えた。

 

 今日は、ヤタガラスの東京支部への初出勤日だ。

 

 霞が関の中央合同庁舎。

 

 昨日と同じ裏口から入り、受付と厳重なセキュリティゲートを通過する。交付されたばかりの職員用IDカードをリーダーにかざす手が、少しだけぎこちない。

 

 首から提げたそのカードが、自分が本当に国家機関の裏組織に属してしまったという事実を、否応なく突きつけてくる。

 

 エレベーターで隠された十三階へ上がり、防音の効いた静かな廊下を歩く。

 

 何人かのヤタガラスの職員とすれ違った。彼らは一様に仕立ての良いスーツを着こなし、無表情で通り過ぎていく。

 

 だが、健司の鋭敏になった感覚は、すれ違いざまに交わされる微かな声や視線を逃さなかった。

 

「……あいつが、例の予知者Kか」

「もう本契約まで進んだのか?」

「いきなりTier3判定の新人だろ。扱いにくそうだな」

 

 健司は、居心地の悪さに背中を丸めそうになるのを必死でこらえた。

 

 ネット上でどれだけ「相場の預言者」と持て囃されようと、ここでは自分はただの得体の知れない新人にすぎない。

 

 予知者Kという巨大化したペルソナと、ただの元フリーターである佐藤健司。そして、国家機関の特別任用職員という新たな立場。

 

 その三つの間にある強烈なギャップに、健司は足元がふわふわと浮いているような戸惑いを覚えていた。

 

 橘真の執務室のドアをノックする。

 

「入れ」という短い声に応えて中に入ると、橘は相変わらず清潔感のあるグレーのスーツ姿で、デスクの上に山積みになった書類に目を通していた。

 

「おはようございます、佐藤君。コーヒーとお茶、どちらがいいですか?」

 

「あ、お茶でお願いします」

 

 健司がソファに座ると、橘自らが冷たい麦茶を差し出した。

 

「さて、佐藤君。さっそくで申し訳ないが、今日は君に、初任務をお願いしたい」

 

 橘が淡々と告げた。

 

 健司の背筋が、ピンと伸びた。

 

(来た……! 怪異の退治か? それとも他の秘密組織との戦闘か? 危険な能力犯罪者の追跡……)

 

 ジムでの手痛い敗北を思い出し、健司は無意識に拳を握りしめた。

 

 今の技術ゼロの状態で、実戦などこなせるのだろうか。

 

 だが、橘がテーブルの上に滑らせてきた薄いクリアファイルの中身を見て、健司は拍子抜けした。

 

 そこに挟まれていたのは、どこにでもいそうな、制服姿の女子中学生の顔写真だった。

 

「名前は、斎藤アスカ。中学三年生。都内在住の、受験を控えた学生です。数日前から、彼女の自室内にある物品が、異常なまでに重くなるという現象が発生しています。ご家族が我々の用意している裏の相談窓口に辿り着き、保護要請を出してきました」

 

 橘は静かに説明を始めた。

 

 健司は、目を瞬かせた。

 

「……えっと。俺の初任務って、これですか?」

 

「はい。新人覚醒者の保護、およびその補助です」

 

 橘は平然と頷いた。

 

「いや、あの……俺、この間の面談で『Tier3・戦術級』って判定されましたよね? いきなり戦闘任務とかじゃないんですか?」

 

 健司の率直な疑問に、橘は口元にわずかな笑みを浮かべた。

 

「戦闘任務は、必要になればこの先いくらでもあります。佐藤君の能力がそこに適性を持っていることも承知しています。ですが、ヤタガラスの第一の本分は、敵を倒すことではありません。能力者を保護し、社会に戻し、危険な存在にしないよう管理することです」

 

 その言葉の奥にある思想の重さに、健司ははっとした。

 

「君には、これを最初に現場で覚えてもらいます。能力者は、兵器である前に一人の人間です。特に彼女のような突然覚醒型の若年者は、最初の対応を一つでも誤ると、自分を『怪物』だと思い込み、社会から完全に孤立してしまう。それが結果として、悲惨な暴走を生むのです」

 

 自分を怪物だと思い込む。

 

 その言葉が、健司の胸の奥に深く突き刺さった。

 

 魔導書と出会い、確率を曲げ、未来を視るようになった時。健司自身もまた、「自分は人間ではなくなってしまったのではないか」という強烈な不安と孤独に苛まれた夜があったからだ。

 

「……でも、それなら、なおさら俺じゃない方がいいんじゃないですか? こういうのは、専門の心理カウンセラーとか、訓練担当のプロの人がやった方が……」

 

「もちろん、現場には経験豊富な調査員が同行します。ただ、どうしても君が必要なのです」

 

 橘は三つの指を立てた。

 

「理由は三つ。一つ目。君は、ヤタガラスの正規の訓練を受けていない、突然覚醒型に近い立場です。対象者である彼女にとって、我々のような制服組よりも『自分と同じ側の人間』に見えやすい。二つ目。君自身も力に目覚めてから日が浅く、まだ一般人としての感覚を失っていない。ベテランの能力者よりも、突然変異への恐怖に寄り添えるはずです」

 

 そして橘は、三本目の指を軽く動かした。

 

「そして三つ目。君は予知・観測系の能力者だ。対象者の能力が暴走する兆候を、我々よりも早く、事前に察知して防げる可能性がある」

 

 完璧な論理だった。

 

 健司は反論できなかった。

 

「ただし、佐藤君。今回の君の役割は戦闘員ではありません。決して無理はしないこと。対象者を安心させ、能力を一度意識的にオンにし、そして一度オフにすること。それだけが君の任務です」

 

 健司は、冷たいお茶を飲み干し、小さく頷いた。

 

 敵を殴り倒すより、怯える誰かを安心させる方が、遥かに難しく、責任の重い仕事のような気がした。

 

『よかったな、猿。栄えある初任務は子守りだ』

 

 魔導書が脳内で皮肉を飛ばしてくる。

 

(うるさい。たぶんこれ、戦闘よりよっぽどデリケートで大事なやつだぞ)

 

 健司は内心で言い返し、立ち上がった。

 

 ヤタガラスの専用車両であるワンボックスカーに乗り込み、健司は同行する担当調査員と共に現地へ向かっていた。

 

 同行者の名前は三枝という、三十代前半の若手調査員だった。

 

 現場対応が専門らしく、物腰は非常に丁寧だが、どこか事務的で感情の揺れを見せない男だ。

 

「こちらが、今回の対象者の詳細な資料です。目を通しておいてください」

 

 車内で、三枝がタブレット端末を健司に渡した。

 

 画面には、斎藤アスカのプロフィールが表示されている。

 

 中学三年生。成績は良好。友人関係にも目立ったトラブルはないが、最近は志望校の受験ストレスがかなり強かったようだ。

 

 両親はごく普通の一般人で、能力者としての登録はない。親族にも該当者はいないため、遺伝的な要因ではなく、完全な突然覚醒型の可能性が高いと記されている。

 

 健司は、発生した現象のリストに目を落とした。

 

『机が床板に沈み込むほど重くなる』

『ぬいぐるみが自重で潰れる』

『普通のノートが、持ち上がらなくなる』

『ドアノブが異常に重くなり、母親が部屋に入れなくなる』

『一度、水の入ったペットボトルが机の天板を突き破りかけた』

 

「……これって、重力を操ってるってことですか?」

 

 健司が尋ねると、三枝は無表情のまま答えた。

 

「現時点では、そのように推測されています。ただ、詳細な能力測定を行うまでは断定できません」

 

『まだ断定するな、猿。現象だけを見れば重力制御にも見えるが、それは結果にすぎん。対象を限定した“荷重付与”、対象者の認識を歪める“質量錯覚”、物理的な“空間圧縮”、あるいは不可視の力場による“念動拘束”の可能性もある』

 

 魔導書が、横槍を入れてきた。

 

(……そんなに候補があるのかよ)

 

 健司は内心で驚きを隠せなかった。

 

『貴様ら猿の能力分類は、あまりに雑すぎるのだ。重くなったから重力魔法、燃えたから火魔法、冷たいから氷魔法。幼稚園児が読む怪獣図鑑並みの知能だな。世界の理は、そんなに単純なものではない』

 

 魔導書の容赦ないウンチクに、健司はただ相槌を打つしかなかった。

 

 能力の奥深さ。

 

 自分はまだ、その入り口に立ったばかりなのだと痛感する。

 

 車は、都内の閑静な住宅街にある、ごく普通の一軒家の前に停まった。

 

 あえて周囲の目を引かないよう、ヤタガラスの車両は一般的な黒いミニバンに偽装されている。

 

 玄関のチャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。

 

 出迎えた母親は、ひどく顔色が悪く、目の下には濃い隈ができていた。何日もまともに眠れていないことが一目で分かる。

 

 リビングに通されると、父親が不安げな顔で待っていた。仕事を早退してきたらしく、スーツのネクタイを緩めている。

 

 無理に落ち着こうとしているようだが、差し出されたマグカップを受け取る手が、微かに震えていた。

 

 両親は、ヤタガラスという組織の本当の正体を完全には理解していないようだった。

 

 表向きには「国が設置している、特殊な精神・物理的現象の専門相談機関」とだけ説明されているらしい。

 

 母親は、三枝の後ろに立つ健司の顔を見て、一瞬だけ不安そうに目を泳がせた。

 

 無理もない。

 

 健司はまだ二十代の若造だ。襟付きのシャツにジャケットを羽織っただけの格好は、どう見ても国家機関の専門家には見えない。健司自身も、自分がひどく頼りなく見えている自覚があった。

 

 だが、三枝が一歩前に出て、澱みない口調で紹介した。

 

「ご安心ください。こちらは佐藤健司さんです。彼自身も、突然能力に目覚めた当事者であり、対象者に近い立場から補助に入れる人物です」

 

 健司は両親に向かって深く頭を下げた。

 

「……佐藤です。よろしくお願いします。アスカさんの力になります」

 

 二階にあるアスカの自室。

 

 彼女は、そこにもう二日間も閉じこもっているという。

 

 部屋の前に立つと、異様な光景が健司の目に飛び込んできた。

 

 ドアノブは、強い力でねじ曲げられたようにひしゃげている。

 

 ドアの下のフローリングの床には、何かとてつもなく重いものが長期間置かれていたような、深いへこみの跡があった。

 

 そして廊下の隅には、おそらく部屋から弾き出されたのであろう、ウサギのぬいぐるみの一部が、まるでプレス機にかけられたようにぺしゃんこになって転がっていた。

 

「最初は……あの子が受験のストレスで、物を投げたり落としたりしてるだけだと思ったんです。でも、あの子が部屋の中で泣くたびに、ミシミシって、家全体が軋むような嫌な音がして……」

 

 母親が、ハンカチで口元を押さえながら震える声で説明する。

 

「昨日、様子がおかしいから無理に入ろうとしたんです。そうしたら、ドアがまったく開かなくなりました。鍵はかかっていないはずなのに、まるで内側に何トンもの重りが立て掛けられているみたいに……」

 

 父親が青白い顔で続ける。

 

 健司は、閉ざされた木製のドアをじっと見つめた。

 

 そして、目を閉じ、意識を軽く前へ飛ばす。

 

 予測予知。

 

 もし今、自分が強引にこのドアを開けようとしたら、どうなるか。

 

 ──ビジョンがフラッシュする。

 

 ドアのノブに手をかけた瞬間、内側から凄まじい反発力が生まれ、ドアそのものが内側へ倒れ込む。

 

 その衝撃で、部屋の壁際に置かれていた重い学習机のバランスが崩れ、数トンの重さと化した脚の一本が、床板を完全に突き破り、一階の天井を破壊する。

 

「っ……!」

 

 健司は目を開け、三枝がドアノブに手を伸ばそうとするのを素早く制止した。

 

「待ってください。無理に開けない方がいいです。たぶん、今は部屋の中の物のバランスが、かなり不安定な状態で固定されてます。外から力を加えると、机が床を突き破るかもしれない」

 

 その一言で、両親と三枝はハッとして健司を見た。

 

 彼を見る目が、明確に変わった。

 

 ただの若い付き添いではない。この青年には、間違いなく「何か」が見えているのだと。

 

 健司は深呼吸をして、ドア越しに優しく声をかけた。

 

「斎藤アスカさん。佐藤健司です。……ヤタガラスというところから来ました」

 

 中からは、何の反応もない。静まり返っている。

 

 三枝が前に出て、事務的な声で説得を試みようとしたが、健司は手でそれを制した。

 

 大人が正論を振りかざしても、怯えきった子供の心は開かない。

 

 健司はドアに軽く背中を預け、少し考えてから、言い方を変えた。

 

「えっと……アスカさん。実は俺も、ちょっと前までただの普通の人間でした。……でも、急に変なことができるようになっちゃって、毎日けっこう困ってました」

 

 部屋の中から、衣擦れのような微かな物音がした。

 

 健司は、自嘲気味に笑いながら続ける。

 

「俺の場合は、スマホのソシャゲのガチャを引いてる時に、変なことが起きました。自分が欲しいキャラが出るまで、確率を曲げちゃったんです」

 

 隣に立っていた三枝が、目を丸くして健司を見た。

 

 廊下で聞いていた両親も、訳が分からないという顔で困惑している。

 

 だが、ドアの向こう側の少女は、その突拍子もない言葉に初めて声を絞り出した。

 

「……ガチャ?」

 

 か細く、かすれた声だった。

 

「うん。ガチャ。最初は、ゲームで当たりを引くくらいの、ちょっと便利な力だと思ってました。でも、そのうち競馬で大穴を当てたり、株の動きが分かったり、地震が起きる場所が分かったり、決済アプリが止まるのが見えたり……なんか、どんどん変な方向に力が広がっていって」

 

 健司は、あのオカルト板での重圧を思い出しながら、正直な気持ちを吐露した。

 

「……正直、俺もめちゃくちゃ怖かったです。自分がどうなっちゃうのか分からなくて」

 

 アスカが、少しだけ反応した。

 

「……怖いの?」

 

「怖いよ。今でも怖い。だから、君が自分の力が分からなくて、怖がるのは普通のことだと思う」

 

 その飾らない言葉が、固く閉ざされていたアスカの心に、小さな針穴を開けたようだった。

 

 ドアの向こうから、震える声が響く。

 

「……私、怪物なんですか」

 

 健司は、即答しなかった。

 

 ここで安易に「違うよ」と慰めるのは、嘘になると感じたからだ。

 

 数秒の間を置き、健司は静かに言った。

 

「……違うと思う。少なくとも、俺は自分のことを怪物だとは思いたくない。ただの人間として、明日も生きていきたいと思ってる。だから、君も、自分が怪物だなんて、まだ決めなくていいよ」

 

 ドアの向こうから、抑えきれないようなすすり泣く声が漏れ聞こえてきた。

 

「少しだけ、ドアを開けてくれるかな? 怖いなら、俺一人で入るから」

 

 健司が促すと、カチャリと鍵の開く音がした。

 

 だが、アスカが内側からドアノブを回そうとした瞬間。

 

 健司の脳内の予知が、強烈な警告音を鳴らした。

 

 ドアのすぐ内側の机の上に置かれている、金属製のペン立て。

 

 それがアスカの恐怖心と連動して急激に重さを増し、床に落下してフローリングを叩き割る未来のビジョン。

 

「待って。ストップ! 君の右側の机の上に、重そうなペン立て、あるよね?」

 

 健司はドア越しに叫んだ。

 

 ドアの向こうで、アスカが息を呑む気配がした。

 

「……ある」

 

「それ、絶対に床に置かないで。そのまま両手で持って、ベッドの上に移動させて。たぶん今、すごく危ない状態になってる」

 

 アスカは半信半疑ながらも、言われた通りに動いたようだ。

 

 数秒後。

 

 ペン立てが置かれていたはずの机の天板の一部が、自重に耐えかねたようにミシッと嫌な音を立てて軋んだ。

 

 アスカが、震える声で尋ねる。

 

「……なんで、分かったの?」

 

 健司は少しだけ笑って答えた。

 

「俺は、少しだけ先が見えるから」

 

 ドアが、ゆっくりと内側に開いた。

 

 健司は、三枝に目で「ここで待っていてくれ」と合図を送り、一人で部屋の中へと足を踏み入れた。

 

 両親は廊下で息を詰めている。

 

 部屋の中は、一見するとどこにでもある普通の女子中学生の部屋だった。

 

 机には参考書が積まれ、ベッドにはぬいぐるみが並び、壁にはアイドルのポスターが貼られている。

 

 だが、その空間のあちこちが、異様な形に「潰れて」いた。

 

 ベッドの横にある大きなクマのぬいぐるみは、見えないプレス機で上から押しつぶされたように、ぺしゃんこになってひしゃげている。

 

 学習机の四本ある脚のうち一本が、床板に数センチほどめり込んでいる。

 

 積み上げられた参考書の束が、本棚の板を危険な角度に湾曲させていた。

 

 アスカは、ベッドの隅にうずくまり、両膝を抱えて震えていた。

 

 泣きはらした目で、健司を見上げる。

 

「近づかないで。私が怖くなると……周りのものが、急に重くなるかもしれないから……潰しちゃうかもしれない」

 

 アスカが身をすくめた。

 

 健司は立ち止まり、ふっと微笑んだ。

 

「大丈夫だよ。俺、ちょっとだけ頑丈にできてるから」

 

『ちょっとではない。普通の人間なら即死する重量でも耐えられる。だが、今はそう言っておけ』

 

 魔導書が脳内で冷静な指示を飛ばす。

 

 健司は、悟られないように薄く身体強化の魔法を展開した。

 

 戦闘のためではない。

 

 万が一、周囲の家具が重力異常で飛んできた時に、アスカを守りつつ自分の体幹を維持するための、絶対的な防御の盾として。

 

 健司は、ベッドから少し離れた床に胡坐をかいて座った。

 

 目線をアスカと同じ高さにする。

 

「アスカさん。この現象、いつ起きるか自分でも分かる? 泣いた時? 怒った時? それとも、怖い時?」

 

 健司は静かに質問した。

 

 アスカは膝に顔を埋めたまま、小さな声で答えた。

 

「分からない……。でも、お母さんたちが部屋に入ってこようとした時……見られるのが怖いって思うと、近くの物が、急にズンって重くなる気がする……」

 

 恐怖。

 

 健司は理解した。

 

 彼女の能力は、本人の恐怖心や防衛本能と密接に結びついて暴走しているのだ。

 

『能力そのものの性質というより、対象者の自己認識の問題だな。“私は危険だ”、“近づくな”という強迫観念が、無意識に周囲の物質の質量を書き換え、物理的な障壁となる危険物に変えているのだ』

 

 魔導書が分析する。

 

 健司はその言葉を噛み砕き、アスカに向き直った。

 

「たぶん、君の力は、君が『怖い』と思った時に勝手に出ちゃうんだと思う。だから、まず、その力に名前をつけよう」

 

「……名前?」

 

 アスカが顔を上げる。

 

「うん。名前がない得体の知れないものは、怖いからね。何が起きてるか分からないから。でも、名前をつければ、それは『呼べる』ものになる。呼べるものは、自分の意思で『止められる』んだ」

 

 健司は、ヤタガラスの資料にあった言葉を思い出した。

 

「今は仮の名前でいいよ。ヤタガラスの人たちは、君のこういう現象を『荷重増幅』って呼んでる」

 

 アスカは難しそうな顔をした。

 

「かじゅう……ぞうふく?」

 

「難しく聞こえるけど、簡単に言うと『重くする力』。そのままだね」

 

 健司が言うと、アスカの口元から、ふっと小さな笑みが漏れた。

 

 その小さな笑いで、部屋に充満していた張り詰めた空気が、わずかに緩んだ気がした。

 

「よし。じゃあ、ちょっとだけ練習してみようか」

 

 健司は、部屋の隅に落ちていた、まだ潰れていない小さなネコのぬいぐるみを拾い上げた。

 

 あえて、お気に入りではなさそうなものを選ぶ。

 

「これを、俺の手の上で、君の意思で重くしてみよう」

 

 アスカはビクッと体を震わせた。

 

「だめ……壊れちゃう」

 

「壊れたら俺が謝る。あと、できれば壊れないくらいに、優しくやってみよう」

 

 健司は、手のひらにネコのぬいぐるみを乗せ、アスカの前に差し出した。

 

「さあ、言葉に出してみて」

 

 アスカは震えながら、ぬいぐるみの方へ手を伸ばした。

 

「か、荷重増幅……オン」

 

 何も起きない。

 

 ぬいぐるみは、軽いまま健司の手の上に乗っている。

 

 アスカの目に、再び涙が浮かぶ。

 

「やっぱり無理……私、どうやったらいいのか……」

 

「大丈夫。失敗は普通だから。俺なんか最初、リセマラでSSRを引くタイミングすらまともに掴めなくて、何十回もゲームのデータ消してやり直したからね」

 

 健司は焦るアスカを止めた。

 

『事実だな。あの時の貴様は、タダで引ける石に血眼になる、本当に浅ましい猿だった』

 

 魔導書が冷酷に事実を突きつけるが、健司は完全に無視した。

 

「もう一回。今度は、焦らなくていい。目を閉じて」

 

 健司の静かな声に、アスカは深呼吸をして、ゆっくりと目を閉じた。

 

「荷重増幅……オン」

 

 ズンッ。

 

 空気が一瞬だけ歪んだような錯覚。

 

 次の瞬間、健司の手の上のぬいぐるみが、信じられないほどの重さを持った鉛の塊のように変化した。

 

 健司の手が、重みに負けて下へ沈み込む。床板がギリッと不気味な音を立てた。

 

 廊下に控えていた三枝が、入口で息を呑む気配がした。

 

 健司は身体強化の出力を上げ、その異常な重さを腕一本で耐え抜いた。

 

 だが、わざと少しだけ重そうに顔をしかめてみせる。

 

「おおっ……重い。すごいな、これ」

 

 アスカは目を開け、怯えるよりも先に、驚きで目を見開いた。

 

「……壊れてない」

 

「うん。壊れてない。君、ちゃんと力を加減できてるよ」

 

 これは極めて重要なプロセスだった。

 

 アスカに、「私はただ周囲を壊すだけの怪物ではない」「力をコントロールできる」と認識させることが、暴走を止める鍵になる。

 

「よし、次はオフだ。今度は元に戻す。大事なのは、無理に力を抑え込もうとすることじゃなくて、止めること」

 

 健司は言う。

 

 アスカは真剣な表情で頷き、ぬいぐるみに向かって念じた。

 

「荷重増幅……オフ!」

 

 ……何も変わらない。

 

 ぬいぐるみは、何十キロもの重りを持ったまま、健司の手の上に鎮座している。

 

「戻らない……!」

 

 アスカがパニックを起こし始めた。

 

 途端に、部屋の空気が一気に不安定に波打ち始める。学習机がミシッと悲鳴を上げ、ベッドの上の他のぬいぐるみたちが、不自然に沈み込み始めた。

 

「大丈夫! 焦らないで! 今のは失敗じゃない。オフの練習は、オンにするより何倍も難しいんだ」

 

 健司がすぐに声を張り上げた。

 

『猿。焦らせるな。力を強引に消そうとさせるのではない。力が自然に抜ける状態を、身体に思い出させろ』

 

 魔導書の的確なアドバイスが飛ぶ。

 

 健司は頭を回転させた。

 

「アスカさん。これ、力を『消そう』って頑張らなくていいんだ。重くしなきゃ、って無意識にずっと強く握りしめてるその手を、ただフワッと離す感じ」

 

「手を、離す……」

 

「そう。怖いからって、ずっとぎゅっと握りしめてる心の拳を、ゆっくり開く感じだ」

 

 アスカは、自分の両手を見つめた。

 

 無意識のうちに、爪が白くなるほど固く握りしめられていた拳。

 

 彼女は深く息を吐きながら、その強張った指を、一本、また一本と、ゆっくりと開いていった。

 

「荷重増幅……オフ」

 

 ふっ、と。

 

 健司の手の上のぬいぐるみが、本来の軽さを取り戻した。

 

 重力から解放され、健司の手が自然にふわりと持ち上がる。部屋の中で軋んでいた家具の音も、完全に消え去った。

 

 沈黙。

 

 アスカは、呆然と健司の手の上のぬいぐるみを見つめていた。

 

「……戻った」

 

「うん。戻ったね」

 

 健司は、ネコのぬいぐるみをアスカの膝の上にそっと置いた。

 

 アスカの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ落ちた。

 

 恐怖の涙ではない。張り詰めていた糸が切れ、安堵と解放感からくる涙だった。

 

 彼女はぬいぐるみを抱きしめ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

 

 廊下で息を潜めていた両親も、たまらず部屋に入ろうとした。

 

 だが、三枝が静かに、しかし毅然とした態度でそれを制止する。まだ完全に安全が確保されたわけではない。

 

 健司はアスカに優しく問いかけた。

 

「お母さんとお父さん、呼んでも大丈夫かな?」

 

 アスカは、涙を拭いながら、小さく、しかししっかりと頷いた。

 

 三枝の合図で、両親が部屋に転がり込むように入ってきた。

 

 アスカは母親の顔を見るなり、何度も謝った。

 

「ごめんなさい……怖かったの。私、お母さんたちまで潰しちゃうかもしれないって思って……ずっと出られなくて……」

 

 母親は娘を抱きしめようとしたが、やはり心のどこかで「未知の力」に対する恐怖がわずかに残っているのか、一瞬だけ躊躇してしまった。

 

 それを見た健司は、小声で助言した。

 

「今は、無理に抱きしめなくていいです。まずは、手を握るところから始めてあげてください」

 

 母親はハッとして、アスカの小さな手を、両手でしっかりと握りしめた。

 

 何も起きない。

 

 手は温かく、ただの女の子の手だった。

 

 父親も近づき、アスカの肩を不器用に撫でた。家族三人が、不格好に寄り添って涙を流している。

 

 ここで「完全に普通の日常に戻る」わけではない。

 

 彼らはこれから、能力者という新しい現実と向き合っていかなければならない。

 

 だが、これは「普通に近い生活に戻るための、確かな第一歩」だった。

 

 三枝が一歩進み出て、両親に事務的だが丁寧な口調で説明を始めた。

 

「斎藤アスカさんは、現時点を持ってヤタガラスの保護対象として登録手続きに移行します。今後は正式な能力検査と、専門の制御訓練を定期的に受けていただきます。学校の出席日数等についても、必要であればこちらから教育機関へ調整を行いますので、ご安心ください」

 

 両親はまだ戸惑いを見せていたが、アスカが落ち着きを取り戻したことで、ヤタガラスの介入を素直に受け入れたようだった。

 

 帰り際。

 

 玄関先で、アスカが健司の服の袖を軽く引いた。

 

「佐藤さんは……もう、自分の力が怖くないんですか?」

 

 健司は少しだけ考えた。

 

 ここで余裕ぶって格好をつけるのは違う。

 

「怖いよ。昨日もジムで、普通に年下っぽい相手にフェイントかけられて、あっさり転がされて悔しい思いをしたし。自分の能力だって、まだ全然使いこなせてない。失敗ばっかりだ」

 

 アスカが、少しだけ安心したようにふふっと笑った。

 

「でも、怖いままでも、練習することはできる。俺もまだ、絶賛練習中の身だからさ」

 

「……私も、練習すれば、佐藤さんみたいになれますか?」

 

「うん。たぶん、それでいいんだと思う」

 

 その言葉は、アスカにとっての希望であると同時に、健司自身への言い聞かせでもあった。

 

 健司は、アスカにとっての「絶対的な師匠」ではなく、「ほんの少しだけ先を歩いている、不器用な先輩」として、彼女に手を振った。

 

 ヤタガラス東京支部への帰路。

 

 橘の執務室に戻った健司と三枝は、初任務の報告を行っていた。

 

 三枝が、タブレットを見ながら事務的に成果を述べる。

 

「対象者、斎藤アスカ。荷重増幅能力の意図的なオンおよびオフに、一度成功しました。家族との接触も問題なく行われ、現時点で家屋への軽微な損傷以外の人的被害はなし。保護対象として、予定通り登録手続きに移行可能です」

 

 橘は報告を聞き終えると、満足げに健司を見た。

 

「上出来です。初任務としては、十分以上の成果ですね」

 

 健司はホッと胸をなでおろした。

 

「俺、結局ほとんど喋ってただけですけどね。戦闘とか、派手な魔法を使ったわけじゃないし」

 

「それこそが、最も重要で必要な任務でした」

 

 橘の静かな言葉に、健司は黙った。

 

 ヤタガラスという巨大な組織の仕事が、少しだけ腑に落ちた気がした。

 

 敵を圧倒的な力で倒すだけではない。

 

 守ることも任務。何かが決定的に壊れてしまう前に、対話で止めることが、最も尊い仕事なのだ。

 

『猿にしては上出来だ。あのガキは、放置しておけば恐怖に呑まれ、自分自身を呪う制御不能の危険な能力者になっていたかもしれん。事前の芽を摘んだという意味では評価できる』

 

 魔導書が脳内で総括する。

 

(……助けられて、よかったよ)

 

 健司は内心で素直に答えた。

 

『勘違いするな。助けたのは貴様ではない。あのガキが、恐怖に打ち勝ち、自分で拳を開いたのだ。お前はただ、そのやり方を口出ししたに過ぎん』

 

 健司は少し考え込んだ。

 

 自分の能力も同じだ。予知や確率操作という強大な力を、恐怖や欲望から握りしめすぎると、いずれ暴走する。

 

 適切にオンにし、必要な時にオフにする制御。

 

 それを覚えることは、アスカだけでなく、自分自身にも絶対に必要なのだと気づかされた。

 

「さて……」

 

 報告を終え、三枝が退室しようとドアに手をかけたところで、ふと立ち止まった。

 

 彼は手元のタブレットの資料をもう一度見直し、少しだけ眉をひそめた。

 

「そういえば……一つだけ、引っかかる点がありまして」

 

 三枝が振り返る。

 

「どういうことです?」

 

 橘が顔を上げた。

 

「対象者の能力発症日についてです。本人は『受験ストレスが限界に達して、急に重い物が持てなくなった』と話していましたが、先ほどの聞き取りの中で、一つ妙なことを言っていました」

 

 健司も反応して三枝を見た。

 

「妙なこと?」

 

 三枝は資料の隅のメモを指でなぞる。

 

「能力の異常が出始める前日の夕方。彼女は塾の帰りに、見覚えのない古い自動販売機で飲み物を買ったそうです」

 

「自販機?」

 

 健司が首を傾げる。

 

「ええ。本人の記憶では、その古い自販機で当たりが出て、もう一本飲み物をもらったと」

 

 会議室に、わずかな沈黙が落ちた。

 

 ここではまだ、それを「大事件」としては扱わない。

 

 橘も即座には断定せず、ペンを置いた。

 

「……念のため、現地確認を」

 

「はい。すでに別班の調査員に、その通学ルートの調査を依頼してあります」

 

 三枝は一礼して退室していった。

 

 健司は、「古い自販機で当たりが出た」というありふれた言葉に、なぜか少しだけ、背筋を撫でられるような嫌な予感を覚えた。

 

 ただ、この時点ではまだ、その違和感の正体が何なのかは分からない。

 

『……ほう』

 

 魔導書が脳内で、いつもより少しだけ低く、底冷えのするような声を出した。

 

「なんだよ」

 

『いや。ただの偶然ならよいな、猿』

 

 その意味深な一言に、健司は窓の外を見た。

 

 霞が関のビルの群れに、夜の帳が下りようとしている。

 

 初任務は無事に成功した。

 

 一人の少女を恐怖から救い出し、能力のオンオフを手伝い、家族の元へ返した。

 

 自分にも、ヤタガラスでできる仕事があると分かってホッとした。

 

 だが、最後の「自販機で当たりが出た」という言葉が、どうにも耳にこびりついて離れない。

 

(今日の任務は、これで無事に終わったはずだった)

 

 健司は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

 

(けれど、なぜか俺は、あの言葉を忘れられなかった)

 

 自販機。

 

 当たり。

 

 もう一本。

 

(それが、ただの偶然の出来事ではないのだと知るのは……もう少し後のことになる)




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