俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第21話 猿とジムと消えた自販機

 ヤタガラスでの初任務を終え、斎藤アスカという一人の少女を保護した翌日。

 

 佐藤健司は、全身の筋肉が軋むような痛みを抱えながらも、どこか晴れやかな気分で夕方の街を歩いていた。

 

 アスカの部屋で起きていた異常な重力現象──荷重増幅。

 

 暴走しかけていた彼女の恐怖心に寄り添い、能力のオンとオフを成功させた。怯えきっていた家族の間に、再び手を繋ぐだけの温もりを取り戻すことができたのだ。

 

 ヤタガラスの橘からも「初任務としては上出来」と明確な評価を受けた。

 

(俺、ちゃんと役に立ったんだよな)

 

 健司は、ポケットに手を入れたまま小さく息を吐いた。

 

 大学卒業後にブラック企業で潰れ、深夜のコンビニバイトで日銭を稼ぐだけだった自分が、国家機関の人間として誰かの日常を救った。

 

 その事実が、心地よい熱となって胸の奥に灯っている。浮かれるべきではないと分かってはいても、口元が自然と緩んでしまう。

 

『浮かれるな、猿』

 

 不意に、脳内へ冷や水を浴びせるような魔導書の声が響いた。

 

『小娘が抱えていたぬいぐるみを持って、少しばかりそれらしい会話をした程度で英雄面とはな。実に安い自尊心だ』

 

「……別に英雄気取りなんてしてないだろ。でも、俺が役に立って、あの子を助けたのは事実だろ」

 

『そこは否定せん』

 

 魔導書はあっさりと認めた。

 

『少なくとも、何もできずに部屋の前で右往左往していた無能な猿どもよりは、幾分かマシな働きをした。お前が言葉をかけなければ、あの小娘は己の力に潰されていたかもしれんからな』

 

 健司は少しだけ嬉しくなった。

 

 この口の悪い魔導書が、皮肉交じりとはいえ自分の行動を「マシだった」と認めている。それは、どんな高額な報酬よりも、健司に奇妙な自信を与えていた。

 

「よし。じゃあ、今日も行くか」

 

 健司が向かっているのは、繁華街の裏手にある地下の雑居ビルだ。

 

 SAITO MMA GYM。

 

 昨日、自分が「技術ゼロ」の素人であることを骨の髄まで思い知らされた場所。

 

 だが今日の健司の足取りは、昨日ほど重くない。

 

 自分の手札を増やし、戦えるようになるための前向きな一歩だった。

 

 地下への階段を降り、防音扉を開ける。

 

 むっとした熱気と汗の匂い。サンドバッグを叩く重い音、ロープを跳ぶ軽快な音、そしてミット打ちの鋭い破裂音が入り混じる。

 

 健司がジムに足を踏み入れた瞬間、リングサイドやマット周辺にいた数人のジム生たちが、ヒソヒソと視線を向けてきた。

 

「あ、あの人また来たぞ」

 

「昨日、斎藤さんのミット飛ばしかけた人だろ?」

 

「あれで初心者ってマジなのかよ……」

 

「斎藤さんが珍しく楽しそうにしてたやつだ」

 

 健司は居心地の悪さを感じつつも、受付を済ませて着替えた。

 

 フロアに出ると、ミットを持った斎藤コーチが彼を見つけて、ニヤリと笑った。

 

「来たな。正直、あのまま逃げるかと思ってたぞ」

 

 健司は苦笑しながら頭を下げる。

 

「逃げたかったですけど……強くなりたいんで」

 

 斎藤は満足そうに深く頷いた。

 

「いい返事だ。昨日、俺はお前のことを『技術ゼロ』って言った。だが、別にお前を見込みなしのダメな奴だと言ったわけじゃない。むしろ逆だ」

 

「逆、ですか?」

 

「ああ。身体能力はとんでもない化け物だ。踏み込みのスピード、相手の動きに対する反応、そして瞬間的な出力。どれを取っても普通の人間じゃない」

 

 斎藤は、健司の全身を鋭い目で舐め回すように見た。

 

「素材だけ見れば、かなり面白い。だからこそ、技術がないまま我流で振り回すのが危ないんだ。お前は、化け物みたいなエンジンを積んでるのに、ハンドルとブレーキが素人のまま走ってる状態だ。今日はそこを教える」

 

 健司の胸が高鳴った。

 

(ちゃんと、期待されてる……)

 

 魔導書からは「猿」と呼ばれ、ヤタガラスでは「戦術級の危険な新顔」として扱われている。

 

 だが、この汗臭いジムでは、斎藤という指導者が純粋に健司を「伸びしろのある素材」として真っ当に評価してくれているのだ。

 

「まずは構えてみろ」

 

 斎藤の指示で、健司は昨日教わった基本的なステップの構えを取る。

 

 その際、ごく薄く身体強化を通した。魔法を隠すのではなく、自分の身体の一部として自然に出力を回す。

 

 斎藤は健司の構えを見て、小さく頷いた。

 

「いい。昨日より重心が落ちてる。けど、まだ肩が固いな。あと、お前は前に踏み込む力が異常に強い分、戻りが遅れる」

 

「戻り……ですか?」

 

「そうだ。前に出る力が強い奴ほど、戻れないと致命的になる。殴った後、避けられた後、組まれた後。自分の体勢をフラットに戻す技術がないと、その桁外れの身体能力が、そっくりそのままお前の巨大な『隙』になるんだ」

 

 斎藤の言葉は明確だった。

 

 身体能力を否定しているのではない。その異常な出力を、格闘技という枠組みの中で機能させるためのパズルのピースを提示しているのだ。

 

「まずはステップからだ。前後左右への移動」

 

 斎藤が実際に動いて見せる。

 

「前に出る時は、前足から。後ろに下がる時は、後ろ足から。絶対に足を揃えるな。重心を浮かせるな。すり足で、常に次の動作に移れる位置をキープしろ」

 

 健司は見よう見まねでステップを踏む。

 

 最初は、頭で考えているせいで動きがぎこちなく、どうしても足が揃いそうになる。

 

 だが、すぐに健司の予知が働き始めた。

 

 斎藤の滑らかな動きを見た瞬間、健司の脳内に「正しい重心移動の線」が、未来の残像のような形で浮かび上がる。

 

 さらに、自分が今のアプローチで動いた場合に発生する「失敗の未来」も同時に視える。

 

(あ、ここで足を揃えると、横から押された時に簡単に崩れる)

 

(ここで肩が上がると、踏み込みの初動がコンマ数秒遅れる)

 

(なるほど、この角度で膝を抜けば、次の一歩が出やすいのか)

 

 失敗する未来を視ては、現実の動きを修正する。

 

 健司は二、三回不恰好なステップを踏んだ後、四回目で急激に動きが変わった。

 

 スッ、スッ、と。

 

 床を滑るような滑らかなステップ。前に出て、戻る。斜めに入り、すぐに横へ抜ける。

 

 それを見ていた斎藤の目つきが、スッと細められた。

 

「……お前、飲み込み早いな」

 

 健司は内心でガッツポーズをした。

 

(よし! 飲み込み早いって言われた!)

 

『調子に乗るな。だが、まあ、今の修正速度は悪くない』

 

 魔導書が脳内で茶々を入れてくる。

 

(お前に『悪くない』って言われると、逆にかなり良い気がするんだけど)

 

『予知能力の才能は元々あるとは思っていた。だが、貴様はどうやら、見たものや失敗の未来の情報を、己の身体の最適解へと高速で変換する才能も多少はあるらしいな』

 

(それって……)

 

『ラーニングの才能、というやつだな。猿にしては極めて珍しい』

 

 健司はハッとした。

 

 自分は単に「未来を見る」だけではない。視た動き、視た技術、そして自分が失敗して殴られる未来を、瞬時に自分の肉体の動かし方にフィードバックしているのだ。

 

 予知能力と、圧倒的な出力を持つ身体強化。その二つが組み合わさることで、「技術の習得」という面においてとんでもないシナジーを生み出している。

 

「一回見て、二回ミスって、三回目で形が変わる。……これは才能だな」

 

 斎藤が、わざと周囲のジム生たちにも聞こえるような声で言った。

 

「マジか」

 

「斎藤さんが才能って言ったぞ」

 

「あの人、昨日体験で来たばっかりの初心者だよな?」

 

「身体能力だけじゃなくて、覚えるのもあんなに早いのかよ」

 

 周囲のざわめきに、健司は表情を引き締めようと必死だったが、口角が上がりそうになるのを止められなかった。

 

 ヤタガラスでは危険視され、魔導書からは猿と蔑まれる日々。

 

 そんな中で、純粋な努力と技術の場で、プロから真っ当に評価される。

 

 それがたまらなく気持ちよかった。

 

「次はミットだ」

 

 斎藤が分厚いミットを両手にはめて構えた。

 

「今日は力を抜けとは言わん。お前の全力の出力込みで見る。ただし、雑に腕だけで振るな。足から腰、肩、そして拳へと力を一本の線で通せ。そして、殴ったら必ず元の位置に戻せ」

 

 健司の馬鹿力を封じるのではなく、それを武器として研ぎ澄ませるための指導。

 

「その力は間違いなくお前の武器だ。だが、武器はただ力任せに振り回すだけじゃ、相手には当たらない」

 

 まずは左のジャブ。

 

 健司は昨日の大振りを反省し、フォームを意識する。

 

 踏み込みを小さく鋭くし、肩の力を抜き、拳を出してすぐに引く。

 

 パンッ! 

 

 重く鋭い音が、ジムの中に響き渡った。普通の初心者がミットを叩く音ではない。

 

 斎藤が短く頷く。

 

「いいぞ。今のは速い。威力も十分だ。だが、戻しがまだコンマ数秒甘い」

 

 次にもう一度。

 

 健司は予知の感覚を研ぎ澄ませる。拳の戻しが遅れた場合、相手の右のオーバーハンドが自分の顔面に直撃する未来のビジョンが脳裏を掠める。

 

 その恐怖感が、健司の拳を弾かれたように元のガードの位置へと引き戻させた。

 

 バチンッ!! 

 

 先ほどとは違う、空気を叩き割るような鋭い破裂音が鳴った。

 

 斎藤が嬉しそうに笑う。

 

「そうだ! それだ。今の戻しの感覚を体に叩き込め」

 

(これ……ちゃんと強くなってる実感があるぞ……!)

 

 健司は興奮で息を弾ませた。

 

『ようやく、ただ腕をデタラメに振り回す野生動物から、拳を使う猿へ進化したようだな』

 

(褒めてんのかそれ)

 

『もちろんだ。猿から拳猿への輝かしい進化だ。喜べ』

 

 相変わらずの毒舌だが、健司はもはや気にならなかった。

 

「次はワンツーだ。ジャブから右ストレート」

 

 斎藤がミットの位置を変える。

 

「右を打つ時、絶対に腕だけで打つな。後ろ足で床を強く押せ。その力を腰の回転に変えろ。ただし、頭は前に突っ込ませず残す。打ったらすぐに元のスタンスに戻れ」

 

 健司はジャブを放ち、続けて右ストレートを打ち込んだ。

 

 最初は身体強化の出力が拳にだけ集中してしまい、体全体が前に流れてしまった。

 

 しかし二回目。

 

 健司は予知で「拳だけで打った場合」と「足腰から連動させた場合」の威力の違いをシミュレートする。後者の方が、ミットに対して力が無駄なく綺麗に浸透していくのが視えた。

 

 その未来のイメージに合わせて、後ろ足で床を蹴り、腰を回す。

 

 ドンッッ!! 

 

 ミットの奥から、くぐもった爆発音が鳴った。

 

 百キロ近い体重があるはずの斎藤の体が、ミット越しに数センチ後ろへ押された。

 

 ジムの空気が、一瞬静まり返る。

 

「うわ、なんだ今の音……」

 

「あれ、初心者の右ストレートの音じゃないだろ」

 

「斎藤さんのミット、完全に押されてたぞ」

 

 斎藤は少し痺れた腕を振りながら、目を輝かせた。

 

「いいぞ。お前、やっぱり覚えが桁違いに早いな」

 

 健司は無表情を装いながら、心の中で特大のガッツポーズを決めた。

 

「次はローキックだ」

 

 斎藤の指導は続く。MMAにおいて、蹴りは必須の技術だ。

 

「足だけで振るな。軸足をしっかり返せ。腰を入れろ。そして、蹴った足をそこに置きっぱなしにするな。すぐ戻すか、バランスを保ったまま別の位置に置け」

 

 健司は最初、蹴りのスピードが速すぎて、遠心力で自分のバランスを崩しかけた。

 

 だが、身体強化による異常な体幹と筋力が、強引に軸足を安定させる。

 

 斎藤がそれを見逃すはずがなかった。

 

「お前、下半身の出力もヤバいな。普通の人間なら、今の崩れ方で絶対に転んでるぞ。筋力で無理やり軸を戻したな?」

 

 健司は誤魔化すように頭を掻いた。

 

「まあ、昔から足腰はわりと丈夫でして……」

 

「嘘つけ。まあいい。なら、その化け物みたいな足腰を、ちゃんと蹴りの威力に使え」

 

 三回目。健司はローキックのフォームのコツを掴んだ。

 

 バツンッ! 

 

 斎藤が太ももに当てていたキックミットが、悲鳴のような音を上げた。

 

 斎藤がすぐに手で制止する。

 

「よし、ストップ。今の威力で十分だ。フォームが完全に固まるまで、これ以上出力を上げるな。お前の蹴りは、まともに当たれば普通に相手の骨を壊す」

 

(普通に壊すって言われた……)

 

 物騒な評価に引きつつも、健司は自分の火力が格闘技の枠組みの中で確実に形になりつつあるのを感じていた。

 

『よかったな。ただ走り回るだけだった猿の脚にも、少しは実用的な使い道があったようだ』

 

「次はディフェンスだ」

 

 斎藤がミットを外し、素手で軽く健司の顔面に向かってパンチを放ってきた。

 

 健司は予知でその軌道を完全に視取っている。

 

 昨日までは、視えていても体がついていかず、フェイントに過剰反応してしまっていた。

 

 だが今は、ステップとガードの基礎を頭に入れた後だ。

 

 健司はパンチを避けるために、大きく後ろにスウェーした。

 

「避けすぎだ」

 

 すかさず斎藤の檄が飛ぶ。

 

「そんなに大げさに動くと、次の攻撃が打てない。必要な分だけ、ミリ単位で外せ」

 

 健司は頷き、次に来たジャブに対して、首をわずかに傾けて最小限の動きで避けた。

 

 拳が頬のすぐ横をかすめる風圧。怖いが、予知が「当たらない」と告げている。

 

 そして、避けた直後に、教わったばかりのジャブをスッと返す。

 

 パンッ。

 

 斎藤が手のひらでそれを受ける。

 

「そう。今のはいい。避けて終わりじゃない。避けた後に、すぐさま自分の攻撃を打て」

 

 その瞬間、健司の中で、点と点が繋がったような感覚があった。

 

 今までは「攻撃を避ける」という単発の未来しか視ていなかった。

 

 だが今は。

 

 避ける。

 

 スタンスを戻す。

 

 打つ。

 

 距離を取る。

 

 その一連の動作の連鎖が、フローチャートのように未来のビジョンとして繋がり始めている。

 

『ようやく、単なる点ではなく、連鎖として世界を視始めたか』

 

 魔導書が感心したように言う。

 

(連鎖?)

 

『一発の攻撃を避けるだけなら、野生の猿でもできる。だが戦闘とは、次の一手、その次の一手、相手の反応、自分の反応が複雑に絡み合う因果の網だ。貴様の予知は、本来その網全体を俯瞰するために向いている』

 

「よし、次は受け身だ」

 

 斎藤が言う。昨日、健司が最も苦戦した分野だ。

 

「お前は馬鹿力がある。だから、投げられそうになっても無理やり踏ん張って耐えようとする。でもな、耐えられる奴ほど受け身を覚えた方がいい。なぜなら、普通の奴より遥かに派手に投げ飛ばされる危険があるからだ」

 

 健司は、昨日の若手練習生、高村と組まされた。

 

 最初は、柔道のような軽い崩し合い。

 

 高村が襟と袖を掴み、体重をかけて健司を崩そうとする。

 

 だが健司は、身体強化の力でピタリと踏ん張った。普通なら体勢が崩れる場面で、微動だにしない。

 

「うわ、止まった」

 

「今の崩しを耐えるのかよ」

 

「あいつの体幹、どうなってんだ……?」

 

 周囲のジム生が驚きの声を上げる。

 

「そうだ。お前は耐えられる。それはお前の最大の武器だ」

 

 斎藤が傍から声をかける。

 

「でも、耐えるだけだと、相手が自分より技術が上だった時に、逆に関節を持っていかれるか、より危険な角度で投げられる。崩される前に足を出すか、崩されたら無理に耐えずに受け身で衝撃を逃がせ」

 

 健司は、わざと力を抜き、高村に投げられる感覚を覚えることにした。

 

 最初は背中からドスンと落ちてしまい、息が詰まった。

 

 だが、予知が「この角度で落ちると背中を痛める」「ここで顎を引けば頭を守れる」「腕でマットをこう叩けば衝撃が分散する」と、正しい受け身の未来を教えてくれる。

 

 三回目の投げ。

 

 健司は空中で体を丸め、バンッ! と見事なタイミングでマットを叩き、衝撃を逃がしてすぐに立ち上がった。

 

 斎藤が目を細める。

 

「……やっぱり早い。普通の初心者は、頭で理屈が分かっても体がついてこない。お前は、脳と体が直結してるみたいについてくる」

 

『身体強化による肉体の再現性能が高いのだろうな』

 

 魔導書が分析する。

 

『見た動きを自分の体で真似る時の誤差が、常人より極めて少ない。未来視と非常に相性が良い』

 

(それ、戦闘においてかなり便利じゃないか?)

 

『便利だ。ゆえに調子に乗るな。学習が早い猿ほど、自分の限界を見誤って取り返しのつかない事故を起こす時も早い』

 

「最後は、タックルへの対応だ」

 

 斎藤が告げる。

 

「高村、軽くタックルに入ってやれ。佐藤は倒されてもいい。今はタックルの軌道を見る練習だ」

 

「お願いします」

 

 高村が、少し緊張した面持ちで構えた。彼は昨日、健司の異常な出力を見ているからだ。

 

 高村がフェイントをかけ、鋭い低い姿勢でタックルに入ってくる。

 

 健司は予知でそれが見えている。

 

 だが昨日とは違う。今日は斎藤から「腰を落とす」「足を引く」「相手の頭を押さえる」「横へ回る」という対処法を教わっている。

 

 視えるだけではなく、対応するための技術の引き出しがある。

 

 一回目のタックル。

 

 健司は腰を引くのがわずかに遅れ、半分倒されかけた。だが、そこから身体強化で強引に耐え、高村を押し返した。

 

「今の耐えたのかよ……!」

 

「高村のタックル、止めかけたぞ」

 

 ジム生たちがざわつく。

 

「力で止めようとするな!」

 

 すかさず斎藤の指導が飛ぶ。

 

「いや、力で止められるのは確かに凄い。でも、それだと上手い奴には角度を変えられてテイクダウンされる。もっと腰を引け。頭を押さえろ。そして横に回れ!」

 

 二回目。

 

 高村が再びタックルに入る。

 

 健司は未来を見る。高村の肩の入り方、足の運び、手の伸びる角度。

 

 同時に、斎藤の「腰を引け、回れ」という言葉が脳内でフラッシュする。

 

 健司の体が、反射的に動いた。

 

 スッ、と後ろに腰を引き、高村の手が伸びてくる空間を空け、上から後頭部を押さえ込む。そして、高村の突進の勢いを利用するようにして、横へクルリと回り込み、背中側へ半歩入り込んだ。

 

 完全なバックポジションを取れたわけではない。だが、初心者としてはあり得ないほど滑らかなタックル切りだった。

 

「えっ……今ので回るの?」

 

「嘘だろ、二回目だぞ?」

 

「反応速度おかしいって」

 

 タックルを空振りした高村本人が、一番驚いていた。

 

「速っ……!」

 

 斎藤が、隠しきれない笑みを浮かべて言った。

 

「いい。今のはかなりいいぞ。佐藤、お前、やっぱり才能あるよ」

 

 健司は顔に出さないように必死だったが、内心ではガッツポーズを連打していた。

 

(っしゃあ! 才能あるって言われた!!)

 

『よかったな。ただの猿から、才能のある猿に昇格だ』

 

(もうちょっとマシな褒め方ないのかよ)

 

『貴様には十分すぎる栄誉だ』

 

「最後に、軽くスパーリング風の確認をして終わろう」

 

 斎藤が告げる。

 

「打撃は軽く当てるだけ。タックルも浅く。今日は勝ち負けじゃなく、動きの確認だ」

 

 相手は引き続き高村。

 

 三分間の軽いスパーリング。

 

 健司は、昨日とは別人のように動けた。

 

 身体強化で反応速度の底上げができている。予知で高村のフェイントの先が少しだけ見える。ステップを覚えたことで、無駄に大振りせず距離を保てる。

 

 高村がフェイントをかけてきても、半分引っかかりつつ予知で修正し、致命的な被弾を避ける。

 

 タックルに入られても、腰を引いて一度は耐え、倒されても今日教わった受け身を取って、ノーダメージですぐに立ち上がる。

 

 もちろん、技術の引き出しは圧倒的に高村の方が上だ。完全勝利などできない。

 

 だが、昨日のおもちゃのように翻弄された姿は、もうそこにはなかった。

 

「……佐藤さん、立つの早いっすね……!」

 

 高村が、息を切らしながら驚きの声を上げる。

 

 健司も肩で息をしながら、汗だくの顔で笑った。

 

「昨日よりは、ちょっとだけマシになった気がします」

 

「ちょっとどころじゃない」

 

 リングサイドの斎藤が、満足げに言い放った。

 

「今日一日だけで、かなり変わった。もちろん、まだ試合ができるとかそういう段階じゃない。でも、お前は伸びる。異常な身体能力がある。反応の良さがある。そして何より、飲み込みが早い。あとは、正しい技術をちゃんと積めば、お前は確実に化ける」

 

 健司は、真正面からの評価に胸が熱くなるのを感じた。

 

 ヤタガラスでは「危険な管理対象」として値踏みされ、魔導書には常に小馬鹿にされている。

 

 でも、このジムでは、斎藤が格闘技の指導者として、純粋に健司を「伸びる素材」として認めてくれているのだ。

 

 練習後。

 

 健司はロッカールームのベンチに座り、ぐったりと壁にもたれかかっていた。

 

 全身が汗びっしょりで、筋肉は悲鳴を上げている。だが、気分は最高だった。

 

(俺、ちゃんと強くなってるよな)

 

 健司が心の中で問いかけると、珍しく魔導書が素直に答えた。

 

『ああ。今日の貴様は、昨日の無様な貴様よりは確実にマシだ』

 

(お前がそんなこと言うの、珍しくないか?)

 

『事実を述べているだけだ。予知能力の才能は元々ある。確率操作も、貴様の適性としては悪くない。だが、それとは別に……貴様には【ラーニング】の才能があるかもしれん』

 

(ラーニング?)

 

『そうだ。見た他者の動作、失敗した未来、成功した未来。それらの事象を観測し、自分の身体へ最適な形で反映させる情報変換速度が異常に早い。さらに身体強化の恩恵で、肉体の再現精度も高い。つまり、お前は技術習得そのものに特段向いているのだ』

 

 健司の胸が高鳴る。

 

(それって……他の格闘技とか、武器の扱いとか、魔法の技術全般も覚えやすいってことか?)

 

『可能性はある。ただし、万能ではない。猿は猿なりに、基礎を地道に積み重ねねばならんことに変わりはない』

 

(でも、才能はあるんだよな?)

 

『あるかもしれん、と言ったのだ。だが、今のところは少しだけ期待してもよい』

 

 その言葉だけで十分だった。

 

 未来予知、確率操作、身体強化。そこに「高速学習」という新たな成長の軸が加わったのだ。

 

 着替えを終えてジムを出ようとすると、斎藤に呼び止められた。

 

「佐藤。しばらくは、週に二日か三日で来い。打撃、受け身、タックルの防御、寝技の入り口。まずはそこを徹底的に回す」

 

「行ける日は来ます。仕事の時間が不規則になるかもしれないんですけど……」

 

「構わん。来た日は濃くやる。お前は普通の初心者メニューだけじゃ物足りないし、身体能力がバカ高い分、変な我流の癖がつくと危ないからな」

 

 斎藤は、健司の目をまっすぐに見た。

 

「今日の動きを忘れるなよ。お前は、力だけで勝てる場面もあるだろう。だが、技術を覚えれば、その力を何倍にも活かせる。そこを間違えるな」

 

「はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」

 

 健司は深く頭を下げ、ジムを後にした。

 

 夜の冷たい風が、火照った体に心地よかった。

 

 今日、確かに自分は強くなった。昨日より動ける。予知と身体強化が、格闘技の技術というソフトウェアと噛み合い始めている。

 

 最高の気分のまま駅へ向かおうとした時。

 

 ポケットの中のスマートフォンが、無機質な振動を始めた。

 

 画面を見ると、発信者は『橘真』。ヤタガラスの担当官からだ。

 

 健司は少し驚きながら、通話ボタンを押した。

 

「はい、佐藤です」

 

『佐藤君。今、少しいいですか』

 

 橘の声は、いつも以上に硬く、冷たかった。

 

 健司は無意識に足を止めた。脳内で、魔導書もスッと静かになる。

 

「どうしました?」

 

『昨日の、斎藤アスカさんの件で、追加の報告があります。彼女が聞き取りで話していた、塾の帰りに飲み物を買ったという古い自動販売機ですが……』

 

 橘は、一拍置いてから重々しく告げた。

 

『現地には、存在しませんでした』

 

 健司の全身の汗が、夜風に吹かれて急激に冷たくなっていくのを感じた。

 

「……存在しなかった? 撤去されてたってことですか?」

 

『いえ。少なくとも、周辺の設置記録、管理会社のデータ、道路使用に関する記録、さらには防犯カメラの映像。いずれを照合しても、該当する自動販売機は確認できません。過去数年分を遡っても、その場所に自販機が置かれていた形跡は一切ないのです』

 

 健司は絶句した。

 

 初任務の最後に聞いた、「古い自販機」「当たりが出た」「もう一本もらった」というアスカの言葉が蘇る。

 

『さらに、看過できない問題があります』

 

 橘の声が低くなる。

 

『アスカさんがその自動販売機を見たと証言している時間帯。通学路の一部防犯カメラに、数秒間の“映像の欠落”が確認されました』

 

「映像の、欠落……」

 

『ええ。単なる故障ではありません。前後の路地のカメラにも、全く同じタイミングで同様の欠落が発生しています。これを偶発的な機材トラブルとして処理するには、少々不自然すぎます』

 

 健司の頭の中で、パズルのピースが不吉な形に組み上がっていく。

 

 あの自販機は、ただの自販機ではない。

 

 存在しないはずの場所に、一時的に現れた『何か』。

 

 それが、アスカに飲み物を渡し、その翌日に彼女の能力が暴走を始めた。

 

「……それって」

 

 健司は声をひそめた。

 

「誰かが意図的に、アスカさんを能力者にしたってことですか?」

 

『現時点では、可能性の一つに過ぎません』

 

 橘は慎重に言葉を選んだ。

 

『ですが、我々はこの件を自然覚醒ではなく、“外部要因による覚醒誘発案件”として再分類しました』

 

「覚醒、誘発……」

 

『はい。何者かが、特定の人物に異能を発現させている疑いがあります。そして、斎藤アスカさんが最初の一例とは限りません』

 

 健司の中で、昨日の「初任務成功」の意味が完全に反転した。

 

 アスカは、偶然能力に目覚めて苦しんでいた可哀想な少女ではない。何者かの手によって、人為的に怪物に仕立て上げられようとしていた被害者だったのだ。

 

 あの任務は、終わってなどいなかった。

 

『……面白い』

 

 電話の最中、脳内で魔導書が低く呟いた。

 

(お前、何か分かるのか?)

 

 健司は内心で問いかける。

 

『断定はせん。だが、存在しない物体を一時的に認識させ、飲料という媒介を通じて対象の因果を強制的に書き換える。もし本当にそれが起きたのだとしたら……それは、ただの能力者の小細工ではない』

 

(じゃあ、何なんだよ。魔法か?)

 

『魔法、呪術、異界の技術、あるいは神性由来の奇跡。もしくはそれらを模倣した何か。いずれにせよ、貴様ら猿どもの通常分類からは大きく外れる事象である可能性がある』

 

 魔導書の言葉が、事態の異常性をさらに色濃くする。

 

『佐藤君。君には近日中に、改めてアスカさんへの聞き取りと、現場確認の調査に同行してもらう可能性があります』

 

 橘が電話越しに要請してきた。

 

「俺が、ですか?」

 

『君はアスカさんと直接接触し、彼女の能力発動直後の因果の流れを観測しています。さらに、君の予知能力なら、現場に残された微かな違和感を拾い上げることができるかもしれない』

 

 健司は、ジム帰りの疲れた体で、暗い夜道に立ち尽くした。

 

 さっきまで、ジャブが上手く打てた、タックルに反応できた、才能があると言われたと、子供のように喜んでいた。

 

 だが今、自分が求めている「強さ」が、急に全く別の重みを持って肩にのしかかってきた。

 

 強くなければならない。

 

 これは、誰かを理不尽な悪意から守るために、本当に必要な力なのだ。

 

「……分かりました。必要なら、いつでも呼んでください」

 

 健司は迷いなく答えた。

 

『頼りにしています』

 

 橘の一拍置いたその言葉に、健司は自分がもう、ただ巻き込まれているだけの部外者ではないことを悟った。

 

 ジムでは斎藤コーチに評価され、ヤタガラスでは橘に頼りにされる。自分は組織の一員として、確実に必要とされ始めているのだ。

 

 電話を切る。

 

 夜の街に一人。健司はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 

『よかったな、猿。格闘技ごっこで褒められて浮かれていたところに、ちょうどよい重さの現実が降ってきたぞ』

 

「……性格悪いな、お前」

 

『現実は、いつだって性格が悪いものだ』

 

 健司は夜空を見上げた。

 

 ジムで教わったステップ。ジャブの戻し。タックルへの反応。受け身。

 

 飲み込みが早いと言われたこと。ラーニングの才能があるかもしれないと言われたこと。

 

 それら全てが、ただの自己満足ではなくなる。次に襲いかかってくる得体の知れない事象に立ち向かうための、絶対に必要な準備となるのだ。

 

「……もっと、早く強くならないとな」

 

 健司は小さく息を吐き出した。

 

『そうだ。貴様はまだ圧倒的に未熟だ。だが、今日の学習速度を見る限り、磨けば多少は使い物になるかもしれんな』

 

「それ、褒めてるんだよな?」

 

『猿にしては、最大級の賛辞だ』

 

 健司は苦笑した。

 

 その直後、脳裏にふと、アスカが泣きながら抱きしめていたネコのぬいぐるみが浮かんだ。

 

 そして、その前日に彼女が飲んだという、存在しない自販機のジュース。

 

 もし誰かが、あの子を意図的に能力者へと変異させたのだとしたら。

 

 もし全く同じことが、この街のどこかで、他の誰かにも起きているのだとしたら。

 

 これは、アスカ一人の問題ではない。

 

 健司は、夜の街を見渡した。

 

 どこにでもある街灯。

 

 どこにでもあるコンビニ。

 

 そして、どこにでもある自動販売機。

 

 その見慣れた日常の景色の中に、存在しないはずのものが紛れ込んでいるかもしれない。

 

 そう思った瞬間、いつも通っていたはずの街並みが、急に不気味で底知れない迷宮のように感じられた。

 

 その夜から、佐藤健司は、街角に立つ自動販売機を、ただの自動販売機として見ることができなくなった。




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