俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第23話 猿とオラクルと最初のファン

 橘からの呼び出しを受け、五年間沈黙していた伝説の予知能力者『オラクル』との面談を告げられてから、数日が経過した。

 

 その日、佐藤健司は橘と三枝の二人に同行され、都内の表通りから一本奥に入った細い路地に立っていた。

 

 指定された会談場所は、ヤタガラスの厳重な関連施設などではない。どう見ても昭和の匂いを色濃く残す、レンガ造りのレトロな古い喫茶店だった。

 

 色褪せた看板がかかり、ドアには「OPEN」の木札が下がっている。一見すると普通に営業しているように見えるが、奇妙なことが一つあった。

 

 目の前の道を歩く通行人たちが、誰一人としてその店に視線を向けないのだ。まるで、そこに空間が存在していないかのように、ごく自然に視線を滑らせて通り過ぎていく。

 

 健司が手元のスマホで地図アプリを開いても、GPS上のその場所には空白があるだけで、店名は一切表示されなかった。検索エンジンに住所を打ち込んでも、該当する店舗は出てこない。

 

(ここ……本当に喫茶店か?)

 

 健司は、薄暗いガラス扉を見つめながら眉をひそめた。

 

『空間の位相がわずかにずれているな』

 

 脳内で、魔導書が冷静に分析する。

 

『一般の猿どもが視覚で認識しても、脳の処理段階で強制的に忘却させる類の結界だ。物理的な隠蔽ではなく、認識の阻害だな』

 

(怖いこと言うなよ……)

 

『安心しろ。お前の貧弱な魔力探知でも分かるだろうが、今のところ、あの中に貴様を殺すための攻撃的な術式は編まれていない』

 

(『今のところ』ってなんだよ)

 

 店の前で、橘が足を止めた。彼と三枝は中には入らず、ここで待機するらしい。

 

「佐藤君。彼女の言葉を、すべて真に受ける必要はない。だが、絶対に聞き流していい相手でもない」

 

 橘が、静かな、しかし有無を言わせぬ声で最後の忠告を行った。

 

「はい。未来を見てもらおうとしない。予知を止めた理由を勝手に聞き出そうとしない。でしたよね」

 

「そうだ。それと、彼女が君に対してどれほど親しげに接してきたとしても、君たちにとっては今日が『初対面』であることを、絶対に忘れないように」

 

 健司は首を傾げた。

 

「親しげに……ですか?」

 

「会えば分かる」

 

 橘はそれ以上は語らず、ただ顎でドアをしゃくった。

 

 健司は深呼吸をして、真鍮のドアノブを引き下げた。

 

 カラン、コロン。

 

 レトロなドアベルが鳴り、むっとした焙煎珈琲の深い香りが健司を包んだ。

 

 店内は、驚くほど「普通」の喫茶店だった。

 

 使い込まれた木製の椅子とテーブル。壁には古びた振り子時計がかかり、チクタクと静かに時を刻んでいる。琥珀色の柔らかい照明が、店内を穏やかに照らしていた。

 

 カウンターの向こうでは、初老の店主らしき老人が、布巾で丁寧にティーカップを磨いている。だが、老人は入ってきた健司を見ても、「いらっしゃいませ」の一言も発さず、ただ黙々と作業を続けていた。

 

 そして、店の最も奥の席。

 

 そこに、一人の女性が座っていた。

 

 年齢は、十五歳から二十歳くらいに見える。少女のようなあどけなさと、大人の女性の静謐さを併せ持った、非常に曖昧な年頃だった。

 

 艶やかな黒髪を肩口まで伸ばし、服装も神秘的な巫女服などではなく、街中を歩いていても全く違和感のない、ごく普通の白いワンピースに淡い色のカーディガンを羽織っている。

 

 ただ、その「視線」だけが異様だった。どこまでも透き通るような、世界のすべてを鏡のように反射しそうなほど澄み切った瞳。

 

 健司は、少し拍子抜けしていた。

 

(……普通の人に見えるな)

 

 だが、魔導書は即座に強い警告を発した。

 

『普通に見えるように、自らの存在の波長を極限まで精密に整え、偽装しているだけだ。気を抜くな、猿。あれは紛れもない“本物”だぞ』

 

 健司がその場に立ち尽くしていると、奥の席に座っていたオラクルが顔を上げた。

 

 健司と目が合う。

 

 その瞬間だった。

 

 彼女の顔が、文字通り「ぱっ」と花が咲いたように明るくなった。

 

 オラクルは、弾かれたように椅子から立ち上がった。

 

 そして、満面の、一切の陰りもない笑顔を浮かべた。

 

「来ましたね!」

 

 健司は、そのあまりのテンションの高さに一瞬動きを止めた。

 

「え?」

 

「来ましたね、佐藤健司さん!」

 

 彼女の声は、五年間も外界との接触を絶っていた謎多き予知能力者のそれとは思えなかった。

 

 まるで、待ち合わせに少し遅れてきた親しい友人を迎えるような、いや、それ以上に――ずっと、ずっと長い間待ち焦がれていた『推し』に、ようやく生で対面できたファンのような、弾むような声だった。

 

 オラクルは小走りで健司のテーブルの向かいまで来ると、カーディガンの裾を軽くつまんで、ひどく優雅にお辞儀をした。

 

「はじめまして。私は、託宣の巫女。ヤタガラスやARCの皆様からは、オラクルと呼ばれています」

 

 それから、顔を上げて再びぱっと笑う。

 

「今後とも、よろしくお願いしますね、健司さん!」

 

 健司は完全に戸惑っていた。

 

「え、あ、はい。佐藤健司です。よろしくお願いします……?」

 

 この『よろしくお願いしますね、健司さん』という響き。

 

 絶対に、初対面の人間同士が交わす距離感ではない。

 

 だが、不思議と不快感はなかった。彼女から向けられる視線には、悪意や値踏みするような気配が一切なく、ただひたすらに、純度百パーセントの「好意」と「期待」だけが詰まっている。

 

 橘が言っていた「親しげに」という意味が、健司にも痛いほど分かった。

 

 対面の席に座るよう促され、健司はぎこちなく腰を下ろした。

 

 オラクルは、テーブルに両肘をつき、両手で頬杖をつきながら、健司の顔をじーっと、本当にじーっと見つめている。

 

 顔が、とてつもなく嬉しそうだ。

 

 完全に「憧れのアイドルを最前列で見つめるファン」の目である。

 

(見られてる……めちゃくちゃ見られてる……)

 

 健司は冷や汗をかきながら、視線のやり場に困っていた。

 

『極めて上質な観察対象として、余すところなく見られているな』

 

 魔導書が面白そうに言う。

 

(それはそれで、すごく居心地が悪いんだけど)

 

 健司は耐えきれなくなり、単刀直入に尋ねた。

 

「あの、それで……今日は、なんで俺を呼んだんですか?」

 

 オラクルは、目を細めて少し考えるふりをした。

 

 そして、にっこりと悪戯っぽく笑う。

 

「うーん。今はまだ、秘密です」

 

「秘密」

 

「はい。秘密です」

 

 健司は眉をひそめた。

 

「えっと、それだと俺、何のために呼ばれてここに来たのか、全く分からないんですけど」

 

「そうですよね。そこは本当に、とても申し訳ないと思っています」

 

 謝っているはずなのに、彼女の顔は底抜けに楽しそうだ。

 

 オラクルは、言葉を紡ぐようにゆっくりと続ける。

 

「でも、今ここで私が理由をすべて話してしまうと、これから貴方が歩く『道の形』が、少し変わってしまう危険があるからです」

 

「道の形……?」

 

「ええ」

 

 オラクルの澄んだ瞳が、健司を真っ直ぐに射抜く。

 

「これから貴方は、色々な出会いや別れを経験します。色々な戦いを経験し、痛みを伴う失敗もします。たくさん笑って、深く迷って、激しく怒って、大切なものを守って……そして、失います」

 

 彼女の言葉は、まるで何かのあらすじをなぞるように滑らかだった。

 

「そして貴方は、常に何かを『選び』ます」

 

 オラクルは、うっとりするように両手を胸の前で組んだ。

 

「貴方がこれから紡いでいく、その素晴らしいタペストリーを……私は、純粋なまま、一番間近で観察したいのです」

 

 健司は固まった。

 

「……あの、ごめんなさい。全然答えになってない気がします」

 

 オラクルは、ぱちぱちと瞬きをした。

 

 そして、はっとしたように小さく吹き出し、コロコロと笑い始めた。

 

「ふふふふ。ごめんなさい。そうですね。私としたことが、今日は少しばかり舞い上がっているようです!」

 

 健司はますます困惑した。

 

「舞い上がる?」

 

「だって」

 

 オラクルは、目をきらきらと輝かせて言った。

 

「私は、貴方の『ファン』ですから」

 

 健司の思考が、完全に停止した。

 

「……ファン?」

 

「はい。ファンです」

 

「俺の?」

 

「ええ、健司さんの」

 

 健司は言葉に詰まった。

 

 伝説の予知能力者。ARCの神々の円卓に関わる存在。五年間沈黙していた女。

 

 それが、自分のファン?

 

『ククク……ハハハハハ!』

 

 脳内で、魔導書が盛大に爆笑し始めた。

 

『よかったな、猿! ついに貴様にも、熱狂的なファンが現れたぞ!』

 

(やめろ。絶対になんか違うだろこれ)

 

 健司は内心で魔導書を黙らせ、恐る恐るオラクルに尋ねた。

 

「俺……オラクルさんのファンになるようなこと、今まで何かしましたっけ?」

 

 オラクルはにこにこして首を振った。

 

「もちろん。これからします」

 

「これから?」

 

「はい。これからです」

 

 その言葉に、健司は薄ら寒いものを感じた。

 

 彼女の時間感覚がおかしい。

 

 健司にとってはまだ訪れていない「未来」の出来事を、オラクルにとっては、すでに何度も読み返して熟知している「物語」のように語っているのだ。

 

「えっと……俺、まだ何も偉大なことなんてしてないですよね?」

 

「健司さんにとっては、そうかもしれませんね」

 

「俺にとっては?」

 

「ええ。時間というものは、観測者が立つ位置によって、その形を全く変えてしまうものですから」

 

 オラクルは、さらっと恐ろしいことを言い放った。

 

「私は、世界で最初の、貴方のファンなんです」

 

 オラクルは、少しだけ誇らしげに胸を張った。

 

「正確に言えば、私はあらゆる事象のファンです。この世界で起きる出会い、別れ、過酷な戦い、痛ましい失敗、苦渋の選択、そして奇跡。……そのどれもが、本当に素晴らしい芸術作品だと思っています」

 

 そこで彼女の、人ならざる「観客」としての本性が垣間見えた。

 

 運命や因果の激流を、安全な特等席から眺めることを愛する存在。

 

 だが、オラクルの言葉は続く。

 

「でも、その無数の素晴らしい物語の中でも……私は、貴方の物語が一番好きなんです」

 

 オラクルは、頬をわずかに紅潮させて健司を見つめた。

 

「誰よりも早く、貴方という存在を見つけました。誰よりも早く、貴方の物語を好きになりました。だから、今日こうして生で会えて、直接お話しできて、本当に、本当に嬉しいんです」

 

 その熱量は、まさに本物だった。

 

 恋愛感情ではない。推しのアイドルのライブで、最前列のチケットを引き当てた古参ファンのような、純粋で圧倒的な熱狂。

 

「アイドルのライブの最前列で、推しを見つめるファンの気持ちが、今日ようやく少し分かった気がします!」

 

「アイドルって……俺がですか?」

 

 健司は思わず声に出してツッコミを入れた。

 

「はい。少なくとも、私にとっては最高に輝く一番星です」

 

 健司は頭を抱えそうになった。

 

「あの……俺、ただの元フリーターですよ?」

 

「知っています」

 

「今もヤタガラスに入ったばっかりの新人です」

 

「知っています」

 

「まだ魔法も能力も、全然使いこなせてないし、この間もジムでボコボコにされたばっかりなんですけど」

 

「ええ、知っていますとも」

 

「じゃあ、なんでそんなに期待してるんですか!?」

 

 オラクルは、楽しそうにクスクスと笑った。

 

「それも、今はまだ秘密です」

 

「また秘密ですか……」

 

「秘密がある方が、物語は先が気になって楽しいでしょう?」

 

「俺、物語の登場人物じゃなくて、生きてる本人なんですけど」

 

 健司が半ばやけくそで言うと、オラクルは嬉しそうに頷いた。

 

「ええ。だからこそ、素晴らしいんです」

 

 悪気はないのだ。

 

 彼女は健司の人生を「物語」として消費しているように見えるが、決して健司を道具扱いしているわけではない。むしろ、彼の自由意志による選択を、誰よりも尊重し、愛している。

 

 ただ、彼女の視座が、人間の一生という枠組みからあまりにも高すぎるだけなのだ。

 

 オラクルはふと、健司の顔から視線を外し、彼の内側の奥深く――何もない空間へ向かって、穏やかな視線を向けた。

 

「それと、貴方の中にいる高位の魔導書さんも、はじめまして」

 

 健司はぎょっとして肩を揺らした。

 

「えっ」

 

『ほう。この俺の存在が、はっきりと視認できるか』

 

 魔導書が、興味深そうに声を上げた。

 

 オラクルは、健司の頭上あたりを見つめて嬉しそうに微笑んだ。

 

「視える、というより、貴方のその存在の因果の波長は、この世界においてとても目立ちますから」

 

『貴様も大概目立つぞ、予知猿。その澄み切った眼、視えすぎて逆に不便だろうに』

 

「ふふ。ご心配ありがとうございます」

 

『褒めてはいない』

 

 健司は内心で焦りまくっていた。

 

(え、ちょっと待て。こいつら、魔導書相手に普通に雑談してる……!)

 

 オラクルは健司に向き直り、にっこりと笑った。

 

「とても良い師匠をお持ちですね、健司さん」

 

 健司は微妙な顔をした。

 

「……良い師匠?」

 

『当然だ』

 

「性格は最悪ですけどね」

 

『黙れ猿』

 

 オラクルは、二人のやり取りを見て楽しそうに声を上げて笑った。

 

「ふふふ。そこも含めて、本当に良い関係です」

 

 健司は、どうしても気になっていた核心の質問をぶつけた。

 

「オラクルさんは……俺の未来のことを、どこまで知ってるんですか?」

 

 オラクルは、紅茶のカップを指先でなぞりながら、何でもないことのように答えた。

 

「全てです」

 

 健司は固まった。

 

「……全て?」

 

「ええ。全て」

 

 その言い方は、明日の天気を語るくらいに軽かった。だが、だからこそ恐ろしい。

 

「じゃあ、俺がこれからどうなるかも?」

 

「はい」

 

「俺が、どんな選択をするのかも?」

 

「はい」

 

「俺が今、何を言おうとしてるかも?」

 

「ええ、ある程度は」

 

 健司は深い沈黙に落ちた。

 

 自分がこれから必死に悩み、もがいて出す答えすら、彼女にとっては「すでに読了済みの結末」に過ぎないというのか。

 

 だが、オラクルはすぐに首を振り、健司の目を見つめた。

 

「でも、私は貴方の口から、直接聞きたいんです」

 

「……え?」

 

「知っていることと、本人から直接聞くことは、全く別のものです」

 

 オラクルは真剣な声で言った。

 

「記録として脳内に流れ込んでくる物語と、目の前で本人が、その時の感情や体温を伴って語ってくれる物語は、まったく別の価値があるものですから」

 

 そこで健司は、彼女がなぜ自分を呼んだのかを理解した。

 

 彼女は「全てを知っている」から会う必要がない、のではない。

 

 全てを知っていても、それでもなお、健司本人の口から、その生き様を聞きたいのだ。まさに、熱狂的なファンそのものの心理だった。

 

「私は、貴方のこれからの選択を知っています。貴方の迷いも、失敗も、勝利も、たぶん、その多くを知っています。でも……それでも私は、貴方が今、自分の言葉で語る『今』を聞きたいんです」

 

 健司は少しだけ圧倒されていた。

 

 この人は、怖い。だが、微塵も敵意はない。

 

 オラクルは、健司をじっと見つめ、少しだけ声の調子を変えた。

 

「頑張ってくださいね、健司さん」

 

 健司は反射的に聞き返した。

 

「何を、ですか?」

 

「これからの、全部です」

 

 オラクルは優しく笑った。

 

「私は貴方に期待しています。貴方なら、決められた運命すら変えるに違いありません」

 

 健司は苦笑するしかなかった。

 

「運命って、そんな簡単にホイホイ変えられるもんじゃないでしょ」

 

「ええ。決して簡単ではありません」

 

 オラクルは、本当に楽しそうに言った。

 

「だからこそ、私は、貴方がそれをする瞬間を楽しみにしているんです」

 

 健司は、少しだけ背筋が冷たくなるのを感じた。

 

 彼女の言葉は、熱烈な応援のようでありながら、同時に恐ろしい未来への予告のようでもあった。

 

「それって、どういう――」

 

 健司が具体的な内容を聞き出そうとした瞬間。

 

 オラクルが、スッと人差し指を自分の唇に当てた。

 

「秘密です」

 

 また秘密。

 

 健司は小さく息を吐いた。この人から情報を引き出すのは不可能だと悟った。

 

「それで、健司さん。今日は私から、一つお願いがあります」

 

 オラクルが少し姿勢を正した。

 

 健司は緊張して身構えた。

 

「お願い?」

 

「今後も、こうして時々、私と会ってくれませんか?」

 

 健司は拍子抜けして肩透かしを食らった。

 

「……それだけ、ですか?」

 

「それだけ、とはひどいですね。私にとっては、この世界で一番大事なことです」

 

 オラクルは、少しだけ頬を膨らませて不満そうにした。

 

 外見相応の、普通の少女のような反応だ。だが、相手は五年沈黙していた託宣の巫女。そのギャップが健司を狂わせる。

 

「私は未来の全てを知っています。でも、貴方から直接お話を聞きたいんです。今日は何をしたのか。何に迷ったのか。誰と出会い、何に怒り、何を選んだのか。……貴方の言葉で、聞きたいんです」

 

 健司は困ったように頭を掻いた。

 

「俺の日記帳みたいな話でいいんですか?」

 

「最高です!」

 

「最高なんだ……」

 

「はい。ファンですから」

 

 オラクルが、今日一番の輝くような笑顔を見せた。

 

 健司は困惑しながらも、決して悪い気はしていなかった。

 

 むしろ、底辺で誰にも期待されずに生きてきた自分の存在を、ここまで全肯定されるのは、生まれて初めての経験に近い。

 

(どうする?)

 

 健司は少し考えた。橘の忠告が頭をよぎる。

 

 この人は危険かもしれない。全てを知っていると言う。五年間も沈黙し、ARC以外との連絡を絶っていた。

 

 だが、目の前のオラクルは、ただ純粋に楽しそうに自分を見つめているだけだ。健司に何かを強制しているわけではない。未来を変えろと命じるわけでも、戦えと強要するわけでもない。

 

 ただ、「会って話を聞かせてほしい」と言っているだけだ。

 

「……分かりました。俺にできることがあるなら、今後も時々会いましょう」

 

 健司が承諾すると、オラクルの表情がさらにぱっと明るく輝いた。

 

「ふふふ。その答えすら既知のことでしたが……ええ、とても、とても嬉しいです」

 

 健司は苦笑した。

 

「既知なら、わざわざ聞かなくてもよかったんじゃ……」

 

「違います」

 

 オラクルは即答した。

 

「知っていることと、貴方が今ここで、自分の意思でそう言ってくれることは、まったく違う価値があるんです」

 

 その言葉に、彼女がただの「未来のネタバレ装置」ではない、確かな人間らしさを健司は感じ取っていた。

 

 会談は、それ以上長くは続かなかった。

 

 オラクルは必要以上に情報を出さないし、健司も聞きたいことは山ほどあったが、ほとんど答えてもらえないと分かっていたからだ。

 

 最後に、オラクルが静かに立ち上がった。

 

「では、健司さん。今後とも、よろしくお願いします」

 

 健司も立ち上がり、頭を下げた。

 

「こちらこそ……でいいんですかね」

 

「ええ。とても良いです」

 

 オラクルは、テーブルを回り込み、少しだけ健司に近づいて、彼を見上げた。

 

 十五歳にも、二十歳にも見える、不思議な顔立ち。澄んだ瞳。

 

 けれど、その瞳の奥には、人間一人の時間感覚では到底届かないほど、途方もなく長い時間を観測してきた者の、静かで重い気配が宿っていた。

 

「健司さん」

 

「はい」

 

「貴方の物語は、まだ始まったばかりです」

 

 健司は何も言えなかった。

 

「だから、どうか最後まで、貴方の足で歩き抜いてください。私も、できる限り一番近くの特等席で、見ていますから」

 

 健司は、少しだけ体が震えるのを感じた。

 

 純粋な応援の言葉のはずなのに、そこに乗せられた「因果の重さ」が尋常ではないのだ。

 

 オラクルは、最後にまた、ふわりと明るく笑った。

 

「それでは。また会いましょうね」

 

 彼女がそう言った瞬間。

 

 店内の振り子時計の針が、チッ、と一秒だけ止まったように見えた。

 

 健司が思わず瞬きをすると、目の前にいたはずのオラクルの姿は、かき消すようにどこにもいなくなっていた。

 

 向かいの席には、ほんの少しだけ口をつけられた紅茶のカップだけが残されている。

 

 カウンターの奥では、店主の老人が何事もなかったかのように、ただ黙々とカップを磨き続けていた。

 

 カラン、コロン。

 

 健司が店を出ると、外の路地では橘と三枝が静かに待機していた。

 

 橘が、健司の顔を見て短く尋ねた。

 

「どうだった?」

 

 健司はしばらく考え込み、そして、ひどく疲れた顔で言った。

 

「……俺、ファンができたらしいです」

 

 橘が、一瞬だけピタリと固まった。

 

 横にいた無表情な三枝も、完全にフリーズしている。

 

『クハハハハハ!』

 

 脳内で、魔導書が腹を抱えて爆笑する気配がした。

 

『傑作だな、猿! 神々の円卓に関わる伝説の予知猿が、貴様のファンクラブ第一号だそうだ!』

 

(全然よく分からないんだけど……)

 

 健司がげんなりしていると、橘は頭痛をこらえるように深く眉間を押さえた。

 

「……彼女らしいと言えば、いかにも彼女らしい」

 

 健司は驚いて橘を見た。

 

「橘さん、オラクルさんの性格、知ってたんですか?」

 

「……彼女は昔から、核心をつくような分かりにくいことを、底抜けに明るく言う人だった」

 

 橘はそれ以上、オラクルの過去については語ろうとしなかった。

 

 帰り道。

 

 健司は、頭の中でオラクルの言葉を反芻していた。

 

『世界で最初の貴方のファン』

 

『貴方なら、運命すら変える』

 

『私は全てを知っています。でも、貴方から直接話を聞きたいんです』

 

 健司は、嬉しいのか、それとも途方もなく怖いのか、自分でもよく分からなかった。

 

『猿。どうやら貴様は、随分と面倒で厄介な観客に見つかってしまったようだな』

 

 魔導書が言う。

 

(観客っていうか、熱狂的なファンらしいぞ)

 

『どちらも同じだ。貴様の人生が常に“見られている”という点においてな』

 

 健司は、夕暮れの空を見上げた。

 

 いつも通りの、見慣れた東京の空。

 

 だが、自分のこれからの人生の選択が、誰かにずっと上から見下ろされているのだと思うと、足元が少しだけ不安定に揺らぐような気がした。

 

 それでも、オラクルのあの純粋な笑顔には、一片の敵意もなかった。

 

 むしろ、過剰なまでの期待と、圧倒的な好意だけがあった。

 

 ――だからこそ、怖いのだ。

 

 佐藤健司はその日、世界で最初の自分のファンを名乗る、全てを知っている少女と出会った。




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