俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】 作:パラレル・ゲーマー
前日の夜。地方都市の駅前にあるビジネスホテルの一室。
佐藤健司は、硬いベッドに腰掛けたまま、ほとんど眠れずにいた。
頭の奥には、昼間に見た中学校の黒板の文字が、白く不気味な残像としてこびりついている。
『明日、放課後、二年一組で血が流れる。』
『明日、予知者Kは間違える。』
健司のスマートフォンは、彼の手の中で暗い画面を保っている。
X(旧Twitter)の「予知者K」のアカウントは開かれているが、当然、今回の件について何も投稿することはできない。中学校の名前も、黒板の予言のことも、ヤタガラスが動いていることも、すべてが機密事項だ。
だが、画面をスクロールすれば、彼を盲信するネットの信者スレやSNSの反応が滝のように流れてくる。
「予知者Kなら何でも見える」
「Kが言うなら間違いない」
「Kは絶対に外さない」
健司は無言でスマホを伏せ、ベッドに投げ出した。
「外さない、ね……」
健司は自嘲気味に呟いた。
今回の黒板の怪異は、まさにそのネットの狂信の逆を突いてきた。
予言の内容は『予知者Kは間違える』。
しかもタチの悪いことに、今の健司の知名度そのものが、その予言の強力な燃料になっているのだ。ネット上で予知者Kが「絶対視」されていればいるほど、その絶対者が「間違える」という予言には、強烈な因果の重みが生じてしまう。
健司は苛立ちと不安で頭をガシガシと掻いた。
(俺が『何を』間違えるのかが分からないのが、一番嫌なんだよな。重大なミスを誘発されたら、誰かが死ぬかもしれない)
『指定が曖昧な予言ほど、危険であり、同時に逃げ道でもある』
脳内で、魔導書が静かに告げた。
(逃げ道?)
『そうだ。予言の文言は“予知者Kは間違える”だ。何を間違えるか、どのような被害が出るかまでは指定されていない』
健司はハッとして顔を上げた。
『重大な現場判断を間違えれば、大事故になる。だが、極めて軽微な事柄を間違えただけでも、文面上の因果は成立する』
「……つまり、どうでもいい間違いで済ませろってことか」
『そうだ。ただし、完全な演技では因果への杭は打てん。貴様自身が、本当に一瞬でも“間違えた”と認識する必要がある』
「そんな都合よく、コントロールして間違えられるか?」
『貴様ならできる』
「……褒めてないだろ、それ」
『褒めてはいない。猿の浅知恵を活用しろと言っているのだ』
健司は苦い顔をしたが、心の中で攻略の糸口が見え始めていた。
予言を強引に外すのではない。安く成立させるのだ。
健司はベッドの上で、明日の行動のフローチャートを組み立てる。
まずは『予知者Kは間違える』の予言を、被害の出ない軽いミスで処理して消化する。
それを確実に済ませてから、本命の『血が流れる』の安全な処理に入る。
この順番を間違えると、本命の処理という一番重要な場面で、自分の致命的な判断ミスが強制的に発生する可能性がある。
最初の目的は決まった。
予知者Kの間違いを、無害な場所で意図的に消費する。
翌朝。
学校近くにヤタガラスが確保した、公的施設の会議室。
三枝はすでに大量の資料を広げ、無表情でタブレットを操作していた。
健司が入室すると、三枝は手を止めずに淡々と状況を報告した。
「昨夜以降、黒板に新たな予言は確認されていません」
「監視は?」
「二年一組の教室内には、すでに監視カメラを設置済みです。現場の保存のため、教室への立ち入りは制限しています」
三枝の説明によると、学校側には「施設設備の緊急安全点検」という名目で誤魔化しているらしい。
二年一組の生徒は、今日の放課後までの間、特別教室で授業を受ける。教職員への情報共有は最小限に留め、生徒への追加説明は一切しない。黒板の文字を撮影・拡散しないよう、関係者には強い箝口令が敷かれている。
健司は頷いた。
「今日の方針は、予言を外すんじゃなくて、安全に成立させる。……これで合ってますよね」
三枝は即答した。
「はい。昨日あなたが見た未来の分岐から判断しても、完全回避より、被害を最小化して成立させる方が現実的です」
健司は少しだけ肩の力を抜いた。
三枝は魔導書の存在を知らない。だから、彼が判断の根拠にするのは、あくまで「佐藤健司の未来視」だけだ。健司もそれを理解しているため、魔導書の入れ知恵であることは飲み込んだ。
「最初に処理すべきなのは、あなたに向けられた予言です」
三枝が確認するように言った。
「『予知者Kは間違える』ですね」
「はい。この因果を残したまま本命の処理に入ると、重要な局面であなたの判断ミスが誘発される危険性があります」
「先に、軽いミスで成立させて消化する」
「その方針で進めます」
健司は、少し嫌そうに首の後ろを掻いた。
「なんというか……自分から進んで間違えに行くのって、変な気分ですね」
三枝は淡々と返す。
「正確には、“危険の少ない場面で予言の成立先を誘導する”、です」
「言い方がプロですね」
「仕事ですので」
午前。
二人は再び中学校へと足を踏み入れた。
校門前は、いつもの長閑な朝の風景に見えた。だが、一歩校舎に入ると、まとわりつくような空気の重さが違う。
教師たちは平静を装っているが、明らかに視線が落ち着かない。
登校してくる生徒たちの間にも、消え残った不安が澱のように溜まっている。
「今日、二年一組使えないらしいよ」
「昨日の黒板、まだそのままなのかな……」
「血が流れるって、マジで何が起きるんだろ」
「誰か大怪我するんじゃね?」
小さな囁きが、廊下のあちこちから不協和音のように聞こえてくる。
健司は胃がキリキリと痛むのを感じた。
予言は、すでに現実を侵食している。まだ事故は何も起きていないのに、学校の当たり前の日常は完全に歪められているのだ。
(予言って……未来だけじゃなくて、今この瞬間の日常も壊すんだな)
『当然だ』
魔導書が冷徹に答える。
『未来を信じ込み、恐怖した人間は、現在の行動を変える。そしてその怯えた行動が、さらに未来の選択肢を狭めていくのだ』
健司は声に出さず、小さく息を吐いた。
最初に処理するのは、『予知者Kは間違える』という予言だった。
三枝は、健司を先導して二年一組がある階へと向かった。
ただし、最初から二年一組の前に直行するわけではない。廊下には、手前から二年三組、二年二組、二年一組と教室が並んでいる。ドアの造りも、窓の配置も、見た目はどれもほぼ同じだ。
三枝は、わざと少し手前で立ち止まり、健司に口頭だけで説明した。
「二年一組は、この廊下の奥から二番目です」
「奥から二番目ですね」
健司は頷いた。
だが、彼は昨夜からの緊張と睡眠不足で、頭が重く、思考が少し鈍っていた。さらに、頭の中では常に黒板の二つの予言が点滅するようにちらついている。
健司は廊下を進んだ。二年一組の前で止まるつもりだった。
しかし、一瞬だけ、ドアの上の表示札をぼんやりと見間違えた。
彼が自然に手をかけたのは、手前にある隣の二年二組のドアだった。
「ここが二年一組……」
三枝が即座に、背後から声をかけた。
「違います。佐藤さん。そこは二年二組です」
健司は、本当に一瞬だけハッと固まった。
そして、自分の手をかけたドアの表示札を見直す。
「あ、すみません。……教室、間違えました」
その瞬間。
廊下の奥、完全に封鎖された二年一組の教室内で、キィ、と小さくチョークが擦れる音が響いた。
三枝の手元の端末に、教室内を映す監視カメラの映像が表示される。
黒板に書かれていた文字。
『明日、予知者Kは間違える。』
その白い文字が、端の方からポロポロと崩れるように薄くなっていく。やがて、完全に黒板から消え去った。
三枝が、淡々と告げた。
「……成就を確認しました」
健司はドアノブから手を離し、呆然とした。
「……教室のドアを間違えただけで?」
「予言の文面には、間違いの種類や重大さまでは指定されていませんでしたから」
健司は全身から力が抜けるのを感じた。
「こんなので、いいのかよ……」
『いいのだ。安い間違いで済んだな、猿』
魔導書が愉快そうに笑う。
(うるさい。でも……助かった)
健司は、はっきりと理解した。
予言は、強引に外そうとしなくても、成立する先を安全な場所へ誘導できるのだ。そして、成立する形が軽ければ、被害は一切出ない。
この小さな成功体験が、健司の心に確かな道筋を灯した。
本命の処理の前に、二人は二年一組の教室内の最終確認に入った。
教室内は、昨日健司が未来視をした時よりも、はるかに整理されていた。三枝たちが、夜のうちに考え得る限りの危険物を取り除いていたのだ。
割れる可能性のある花瓶は撤去。ガラスで覆われた掲示物も外されている。カッター、画鋲、金属製の定規、ハサミなどの刃物類は教卓の中からすべて回収済み。
生徒の机の角には簡易的な保護クッションが貼られ、窓ガラスには飛散防止の透明フィルムが急遽施工されていた。床は念入りに清掃され、躓くような障害物はない。
それでも。
黒板の中央には、まだ本命の呪いのような文字が、くっきりと残っている。
『明日、放課後、二年一組で血が流れる。』
健司は深呼吸をして、未来視を起動した。
視界が歪み、分岐する未来の情景が脳内にフラッシュする。
――誰も教室に入れない未来。放課後、見回りに来た教師が廊下で転び、教室のドアに手をついた拍子に、ドアの隙間で指を切って出血する。
――教室を完全に封鎖した未来。窓の点検に来た用務員が、二年一組の窓枠のサッシで手を切る。
――机や椅子をすべて外へ出した未来。運搬中に、「二年一組の備品」である机を落とし、作業員が怪我をする。
――健司自身が教室に残って警戒する未来。緊張で急に立ち上がった拍子に机へ膝をぶつけ、擦り傷から血が出る。
――三枝だけが残る未来。作業中に手袋越しでも、何らかの拍子に小さな切り傷を負う。
どんなに対策を徹底しても、必ずどこかで「二年一組」と「血」が因果の糸で繋がってしまう。
健司は重い瞼を開け、能力を止めた。
「……やっぱり駄目です。血が流れる未来そのものは、ほぼ消えません」
三枝が静かに確認する。
「出血の規模は?」
「大きくはできます。でも……極限まで小さくすることもできます」
三枝は一つ頷いた。
「では、小さく成立させます」
健司が三枝を見ると、彼は医療用の小さなランセット、採血用穿刺器具と、滅菌ガーゼを用意していた。
「……まさか、それで?」
健司が尋ねる。
「はい。完全に管理された状態で、一滴だけ出血させます」
「それ、三枝さんがやるんですか」
「現場の責任者として妥当な判断です。一般の生徒や教師を巻き込むより、遥かに安全ですから」
健司は抵抗を感じた。
「でも、怪我は怪我ですよね」
「この程度なら、軽微な医療処置の範囲内です。事故ではありません」
三枝の表情には、一片の迷いもなかった。
健司は言葉を飲んだ。
『合理的だ』
魔導書が冷徹に同意する。
『予言は“血が流れる”としか言っていない。誰の血が、どれほどの量、いかなる理由で流れるかまでは指定していない』
(でも、嫌なものは嫌だろ)
『嫌で済むなら安いものだ。この程度の出血を惜しんで予言を放置すれば、因果はより凶悪な形で、大量の血を取りに来るぞ』
健司は再び未来視に意識を向けた。
三枝がランセットで自分の指先を刺す未来。
血が一滴、白い滅菌ガーゼに染み込む。
その瞬間、黒板の文字が消える。
窓は割れない。生徒は怪我をしない。教師も無事だ。不測の連鎖事故も起きない。
健司はゆっくりと目を開けた。
「……それが、一番安全な未来です」
三枝は迷わず言った。
「実行します」
放課後のチャイムが鳴る時刻。
二年一組の周辺は完全に封鎖され、生徒の姿は一人もない。
立ち会うのは、健司、三枝、そして校内責任者としての教頭と、万が一に備えた保健担当の養護教諭のみだ。
教頭はひどく不安そうに額の汗を拭っているが、三枝の指示に従って廊下で待機している。
三枝は、黒板の文字を静かに見据えていた。
健司は未来視を起動し、最も安全に予言が成立する「タイミング」を探る。
早すぎると、予言が完全に「放課後」という時間条件を認識しきれず、成立が不完全になってやり直しになる。
遅すぎると、因果が痺れを切らして別の事故の分岐を立ち上げてしまう。
校庭の遠くから、部活動の生徒たちの声が微かに聞こえ始めた。
校内の空気が、授業から「放課後」へと完全に切り替わった、その刹那。
「今です」
健司が短く告げた。
三枝が、左手の指先にランセットを押し当て、軽くカチリと音を立てて刺した。
赤い血がぷくりと滲み出し、一滴、彼が用意していた滅菌ガーゼへと落ちる。
教室内に、耳鳴りのような妙な圧が走った。
全員の視線が黒板に集中する。
『明日、放課後、二年一組で血が流れる。』
その白いチョークの文字が、風に吹かれた砂のようにサラサラと崩れ、薄れていく。
数秒後、文字は完全に黒板から消失した。
三枝は指先をガーゼで押さえたまま、淡々と告げた。
「成就、確認」
教頭が、信じられないものを見るような目で黒板を見つめている。
「これで……終わったのですか?」
「少なくとも、この予言は安全に処理されました」
三枝が答える。
健司は、大きく、深く息を吐き出した。
予言は当たった。血は流れた。
だが、事故は起きなかった。誰も大怪我をしなかった。
健司は、今更ながらに自分のやったことの大きさを実感していた。
(これも、未来を変えたって言っていいのか?)
『言っていい』
魔導書が珍しく肯定した。
『予言の文面は満たした。だが、予言が引き寄せようとしていた恐怖の形は見事に潰してやった。見事な因果のすり抜けだ』
健司は、少しだけ肩の力を抜いて笑った。
黒板の文字が消えた後、二年一組の教室に澱んでいた空気が明らかに軽くなった。
完全に日常に戻ったわけではないが、黒板から放たれていた強制力のような呪縛が弱まっているのが分かる。
健司は、未来視の視界を覆っていたノイズが減ったことに気づいた。これなら、隠れている術者候補の未来を視ることができる。
三枝がタブレットを開いた。
そこには、昨日絞り込んだ数名の候補者のリストが表示されている。
その中で、健司の視線が、一人の女子生徒の写真に止まった。
白石未羽。
二年一組の生徒。
クラスで特別目立つタイプではない。いじめられて孤立しているわけでもない。
だが、黒板周辺の出来事が起きた時、彼女はいつもその近くにいた。
最初の予言を見つけた日も。二度目の予言が出た朝も。三度目の予言の前日も。彼女は黒板のそばにいたのだ。
健司は、彼女の写真を通して未来視を重ねた。
見えるのは、ただただ何かに怯えている少女の姿だった。
自分が、良くない未来を見てしまう。誰かが怪我をする未来を見てしまう。黙っていたら、それは本当に起きてしまうと思う。だから、誰かに知らせたい。でも、知らせたことで、それは『予言』として確定し、本当に起きてしまう。
その恐怖のループ。
健司は静かに呟いた。
「……悪意じゃないです」
三枝が顔を上げる。
「白石未羽さんですか」
「はい。この子、たぶん誰かを守ろうとしてます。でも、恐怖が強すぎるせいで、見た未来を黒板に書き出して、因果を固定してしまってる」
三枝は即座に判断を下した。
「接触します」
放課後の静かな教育相談室。
余計な大人は入れず、面談に入るのは三枝と健司の二人だけだ。
白石未羽は、小さな丸椅子に座り、肩を縮めて両手を膝の上で固く握りしめていた。
顔面は蒼白で、すでに自分が疑われ、呼び出されたことは十分に感じ取っている様子だった。
三枝は淡々と、しかし圧迫感をかけすぎないような声で話し始めた。
「白石さん。あなたを責めるために呼んだのではありません。いくつか確認したいことがあるだけです」
未羽は小さく首を横に振った。
「私、何もしてません……」
三枝はすぐに否定せず、言葉を続ける。
「分かりました。では、黒板に文字が出る前に、何か変わったことを感じたり、見えたりしたことはありますか」
「ありません」
声が微かに震えている。
健司は未来視で、彼女の感情の反応を視ていた。
このまま事務的な質問を重ねると、未羽は完全に追い詰められる。そして、感情の負荷が閾値を越えた瞬間、あの黒板が再び激しく反応する未来が見えた。
健司は口を開いた。
「白石さん。君、誰かを守ろうとしたんだよな」
未羽の肩が、ビクッと跳ねた。
三枝はスッと質問を止め、その後の対応を健司に任せた。
健司は、できるだけ柔らかい、日常の延長にあるような声で続けた。
「最初に佐伯先生が階段で転ぶのを見た時、怖かったんじゃないか。黙ってたら本当に先生が怪我をすると思って、誰かに知らせて、止めたかった」
未羽の大きな瞳に、みるみると涙が浮かんだ。
「……見えたんです」
消え入りそうな、小さな声だった。
「先生が転ぶところが、頭の中に出てきて……。でも、誰にどう言えばいいか分からなくて……。そしたら、次の日の朝、黒板に文字が出てて……」
健司は口を挟まず、黙って彼女の言葉を聞いた。
「本当に、先生が転んで……。私、すごく怖くて。でも、次も見えてしまって……。窓が割れるのも、田村くんが学校に来なくなるのも……」
未羽は震える両手で顔を覆った。
「私、書いてないんです。チョークなんて触ってないんです。でも、私の頭に浮かんだことが、黒板に出るんです。みんなが怖がって、でも本当に当たって……」
「知らせたかったんだな。危険なことが起きるって」
健司の言葉に、未羽は涙をこぼした。
「だって、知ってたら、避けられると思ったんです。でも、避けられなくて……。全部、私が見たから、起きたんですか? 私が、みんなを怪我させてるんですか?」
健司は、安易な慰めで否定しなかった。
ここで同情して嘘をついても、自分の力に怯える彼女の心には届かない。
「全部が君のせいじゃない。でも、君の力が、見えた未来を強く固定していた可能性はある」
未羽の顔が恐怖で歪む。
健司はすぐに言葉を継いだ。
「でも、今日分かったことがあるんだ。見えた未来は、最悪の形にしないことができる」
未羽が、涙に濡れた目で健司を見上げた。
「最悪の形に、しない……?」
「うん。予言の力が強すぎると、完全に外せないこともある。でも、それが“どういう形で起きるか”は、選べることがあるんだ」
健司は、今日起きた出来事を、未羽に分かるように噛み砕いて説明した。
予知者Kが間違えるという予言は、教室のドアを間違えるだけで済ませたこと。
血が流れるという予言は、管理された安全な状況で、大人から一滴の血をもらうだけで済ませたこと。
どちらも、予言の言葉通りに当たった。でも、誰も大きな事故に巻き込まれなかったし、誰も傷つかなかった。
未羽は、信じられないものを見るように呆然とした。
「そんなこと……できるんですか」
「できた。今日、実際にやった。だから、君が見たものも、全部が最悪の事故になるとは限らないんだ」
未羽は、そこで初めて、大きく息を吸い込み、少しだけ呼吸を整えた。
しかし、未羽の感情が大きく安堵へと振れたことで、無意識に抑え込んでいた能力が再び反応を示した。
廊下の向こう、二年一組の教室内。
誰もいない黒板に、キィ、とチョークの音が走る。
三枝の端末に、監視カメラからの異常検知の通知が届いた。
三枝が画面を確認し、短く息を吐く。
黒板には、新しい文字が浮かんでいた。
『白石未羽は黒板の前で倒れる。』
健司はすぐに未来視を行った。
この予言は、まだ見た人間が監視カメラ越しの三枝だけだ。学校中には広まっていない。だから強度はさっきの「血が流れる」より遥かに弱い。
しかし、未羽本人が自分自身の未来を強く恐れているため、本人に対する拘束力だけは強烈に働いている。
健司が視る未来の分岐。
未羽が黒板の前で過呼吸を起こして倒れる。
足がもつれて頭を床に強く打つ。
能力の反動で意識を失って崩れ落ちる。
黒板に近づけないようにすると、廊下の硬い床で倒れる。
校外へ連れ出そうとすると、校門前のコンクリートで倒れる。
どの未来でも、「未羽が倒れる」という事象は残る。
ただし、倒れる場所と、倒れ方は調整できる。
健司は未羽に向き直って言った。
「白石さん。君が倒れる未来が残っています。でも、怪我しない形にはできます」
三枝が即座に無線で指示を飛ばす。
「二年一組の黒板の前に、体育用のマットを敷きます。保健担当者を廊下で待機させてください。それ以外の見学者は入れません」
未羽は青ざめた。
「私……倒れるんですか?」
健司は正面から答えた。
「たぶん。でも、倒れても絶対に大丈夫なようにするから」
「それって、結局未来は変わってないじゃないですか……」
「倒れること自体は変えられないかもしれない。でも、君が痛い思いをしないようにはできる」
未羽は泣きそうな顔のまま黙り込んだ。
健司は彼女の目を真っ直ぐに見た。
「さっきの予言もそうだった。血は流れた。でも、誰も事故で怪我しなかっただろ? 全部を完全に消せなくても、最悪にはしない。それは俺たちにできる」
未羽は、震えながら小さく頷いた。
二年一組の教室。
教室の中央から黒板の前にかけて、分厚い体育用のマットが何枚も敷き詰められていた。机と椅子は壁際に寄せられている。
窓際、教卓の周辺、黒板の下など、危険な障害物がないか最終確認が行われた。
保健担当者はドアの外の廊下で待機。中に入るのは、未羽、三枝、健司の三人だけだ。
黒板には、まだ白い文字が残っている。
『白石未羽は黒板の前で倒れる。』
未羽は、マットの上に立ち、黒板の前に進み出た。
足がガクガクと震えている。
三枝は、彼女が倒れた時にすぐ支えられる位置に立った。
健司は未来視を極限まで集中させ、倒れるタイミングと安全な方向を見極める。
未来のビジョンが何度も揺れる。
未羽が前に倒れる未来。横に崩れる未来。後ろへよろめく未来。
三枝が支えるタイミングが早すぎて予言が成立せず、やり直しになる未来。支えが遅すぎて、未羽が肩を打ってしまう未来。
その無数のノイズの中で、一番安全な、完璧な一点が見えた。
健司は指示を出した。
「三枝さん、半歩右。白石さん、足を少し開いて。膝に力を入れすぎないで、リラックスして」
三枝が音もなく動く。
未羽は震えながらも、言われた通りに姿勢を整えた。
健司は、彼女の呼吸に合わせるように息を吸った。
黒板の文字が、因果の力を集めてわずかに白く濃くなる。
未羽の膝から、ふっと力が抜けるのが視えた。
健司が鋭く告げる。
「今です」
未羽の体が崩れ落ちる。その瞬間、三枝が滑り込むように未羽の肩と背中を支えた。
倒れるスピードと重力を完全に殺し、そのままゆっくりと、彼女を柔らかいマットの上へ横たえる。
未羽は、確かに「倒れた」。
だが、頭も肩も一切打っていない。過呼吸気味に肩を上下させているが、意識ははっきりしている。
黒板の文字が、サーッと薄れていく。
『白石未羽は黒板の前で倒れる。』
完全に、消えた。
教室から、張り詰めていた嫌な空気が一気に抜けていく。
未羽はマットの上に横たわったまま、ポロポロと泣き出した。
「本当に……痛くなかった」
健司はしゃがみ込み、彼女と同じ目線になった。
「うん。最悪にはならなかっただろ」
未羽は泣きながら言った。
「私、ずっと、怖い未来が見えたら、もうそれで終わりだと思ってました」
「俺も、少し前まではそう思ってたよ」
健司は、ただの黒板に戻りつつある緑色の盤面を見上げた。
「でも、違うみたいだ。見えた未来にも、まだ変えられる幅がある」
未羽が落ち着きを取り戻すと、黒板はそれ以上何も書かなくなった。
チョークの擦れる音もない。白い文字も二度と浮かばない。
三枝が監視映像と教室内の呪的反応を確認し、短く報告する。
「現象の完全な沈静化を確認しました」
未羽は、まだハンカチで涙を拭っている。
健司は彼女に言った。
「次にまた何か怖い未来が見えても、一人で抱え込まないでください。黒板に出ちゃう前に、誰かに言う。ヤタガラスの窓口でも、三枝さんでもいいから」
三枝が静かに続ける。
「あなたは保護対象です。処罰の対象ではありません」
未羽は不安そうに三枝を見た。
「私、この学校にいられますか」
三枝は即答しなかった。
「しばらくは休養と、能力の観察が必要です。ですが、あなたが悪意を持ってこの事件を起こしたとは判断していません」
その言葉に、未羽は少しだけ安堵の表情を見せた。
健司は、未羽の未来を視た。
まだ少し不安定だ。だが、黒板の前で恐怖に怯え続けるだけの未来ではなくなっている。
ヤタガラスのカウンセラーに相談する未来。能力の制御訓練を受ける未来。少しずつ、日常の学校に戻っていく未来。
細いが、確かな別の線が見え始めている。
健司は、小さく息を吐いた。
校長室での最終報告。
校長は疲労困憊していたが、学校内で大事故が起きなかったことに心底安堵しているようだった。
三枝は、説明できる範囲の事実だけを事務的に伝える。
「本件は、校内の噂と特定生徒の精神的負荷が結びついた特殊事案として、当方で継続して対応・管理します」
校長は全容を理解しきれていないようだったが、頷くしかない。
「あの……他の生徒たちには、どう説明すれば……」
「黒板の件は、施設点検と安全確認が完了したため、これ以上騒がないよう指導してください。オカルトめいた詳細な説明は一切不要です」
「白石さんは……」
「体調不良による休養として扱ってください。無用な憶測が出ないよう、学校側で最大限の配慮をお願いします」
校長は深く頭を下げた。
健司は、その様子を見て少し複雑な気持ちになった。
学校側からすれば、何が起きたか分からないまま、ただ厄介な騒動が終わったようにしか見えないだろう。
でも、実際には白石未羽という一人の少女が、自分の能力と周囲の恐怖に押し潰されかけていたのだ。怪談の正体は、悪霊でも呪いでもなく、助けを求める孤独な能力の暴走だった。
夕方。二人は学校を出た。
校庭からは、少しだけ活気のある部活動の声が戻ってきている。昨日よりも、校舎を包む空気が明らかに軽い。
健司は振り返り、二年一組のある窓を見上げた。
「結局、黒板の予言は全部当たりましたね」
三枝は前を向いたまま言った。
「はい」
「でも、大きな怪我は出なかった」
「はい」
健司は少し黙り、歩きながら言った。
「こういうのも、解決って言っていいんですかね」
三枝は淡々と答えた。
「我々の現場では、被害を出さずに終えることが最優先です。予言を外したかどうかは、結果の一部に過ぎません」
健司は、その実務的な言葉を重く受け止めた。
『未来を変えるとは、起きたことを全て無かったことにする魔法ではない』
脳内で、魔導書が静かに言う。
『残された条件の中で、最もマシな成就の形を選ぶこと。それもまた、立派な未来の制御だ』
健司は小さく笑った。
「お前、今日は珍しくまともなこと言うな」
隣を歩いていた三枝が、怪訝そうに横を見た。
「……何か?」
健司は慌てて手を振る。
「あ、いえ! 独り言です!」
三枝は少しだけ沈黙してから、無表情のまま言った。
「佐藤さんは、集中すると独り言が増えますね」
「……気をつけます」
夜。ヤタガラス東京支部への通信報告。
橘真が、ディスプレイ越しに三枝からの報告を受けている。
予知者Kへの予言は、軽微な教室誤認で処理。
血が流れる予言は、管理下の一滴の出血で処理。
白石未羽の能力暴走は、本人保護と安全な予言成就により沈静化。
校内での追加被害なし。情報拡散は現時点で抑制中。
橘は小さく頷いた。
「よく処理した」
三枝は淡々と返す。
「佐藤さんの未来視が非常に有効でした」
健司は少し居心地悪そうに身をよじった。
「俺は見てただけです。実際に動いて血まで流したのは三枝さんですし」
橘が健司を見る。
「補助要員は、現場のミッション成功率を上げるためにいる。今回、君は十分にその役割を果たした」
健司は黙った。
補助要員。前は、その言葉が「戦力外」と言われているようで少し引っかかっていた。
でも今回、補助だからこそできたことがある。未来の分岐を読んで、三枝の行動を支えた。未羽を追い詰める前に止めた。倒れる安全な方向とタイミングを読んだ。
派手な魔法をぶっ放したわけではない。けれど、確かに人を守ったのだ。
その夜。
ホテルに戻った健司は、ベッドに寝転んでスマホを開いた。
予知者Kのアカウントには、何も投稿しない。
今回の件は、ネットの信者たちには知られることはない。
予知者Kが、地方の中学校の黒板の怪談と戦ったことも。予知者Kが、本当に教室のドアを間違えたことも。予言を外せずに、すべて当てたまま終わらせたことも。
誰にも知られない。それでいい。
健司はスマホを伏せ、天井を見た。
「予言を外さずに、未来を変える、か」
『ようやく少しは、魔法使いらしい合理的な考え方を覚えたな』
魔導書が言う。
「そこは普通に褒めろよ」
『猿にしては上出来だ』
「それ褒めてないだろ」
健司は苦笑した。
黒板の予言は、すべて当たった。
予知者Kは間違えた。血も流れた。白石未羽も倒れた。
それでも、誰も大きく傷つかなかった。最悪の未来だけは、選ばせなかった。
佐藤健司はその日、初めて、予言を外さずに未来を変えたのだった。
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