俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】 作:パラレル・ゲーマー
夜。
佐藤健司の住む六畳一間のアパートは、安い蛍光灯の光に照らされ、異様な惨状を呈していた。
フローリングの床一面に、無数のコピー用紙が散乱している。
だが、そのどれもが「切れた紙」ではない。指で強引にこすられ、ふにゃりと曲げられ、折られ、あるいは爪でミミズが這ったような跡をつけられただけの、哀れな紙の残骸たちだった。
そのゴミの山の中心で、健司はあぐらをかいて座り込んでいた。
顔は完全に死んでいる。
右手は、人差し指と中指を伸ばしたチョキの形――魔導書が言うところの『手ハサミ』の形を作ったまま固まっていた。
目の前には、最後の一枚に近い、まだ綺麗なコピー用紙が一枚置かれている。
健司は、その紙を親の仇のように睨みつけていた。
(切れる……)
(この指はただの指じゃない。鋭利な刃物だ……)
(こんな薄い紙なんて、豆腐みたいに簡単に切れる……)
(これはハサミだ。いや、カッターだ。日本刀だ……!)
これまで三日間、何千回と繰り返してきた自己暗示。
健司は深く息を吸い、手ハサミを紙の端に当て、鋭く振り下ろした。
結果。
紙は切れない。
指先の力に負けて、ふにゃりと無様に折れ曲がっただけだった。
健司はゆっくりと右手を下ろし、深く、ひどく深く息を吐き出した。
三日間。
ヤタガラスの初任務を終えたあの夜から、日中の最低限のデイトレードや業務連絡の時間を除き、健司はひたすらにこの同じ動作だけを繰り返してきた。
だが、成果は完全なるゼロだ。紙の繊維一本すら断ち切れていない。
最初の夜、「魔法は技術だ。なら泥臭く練習するしかない」と気合を入れ直した。
リセマラの時のように、繰り返せばいつか感覚を掴めるはずだと思っていた。
しかし、三日経っても何一つ起きないとなると、さすがに心が削れていく。
健司は、自分の右手を見つめた。
「……もう無理だろ、これ」
『おい、猿。また溜息か。貴様の吐く息は、二酸化炭素と敗北主義だけで構成されているのか?』
魔導書が、相変わらずの皮肉で脳内を小突いてくる。
「……うるさい」
健司は力なく返した。
いつもなら反発して言い返すところだが、今の彼にはその気力すら残っていなかった。
「三日だぞ。三日間、ずっと同じことやったんだぞ。飯食って寝る以外、ずっとこの手ハサミで紙を切ろうとし続けてきたんだぞ。成果ゼロだぞ。紙一枚切れない。……これ、俺に才能がないんじゃないのか?」
健司は、床に散らばる無数の失敗作を見渡した。
「予知とか確率操作は、たまたま俺の感覚と相性が良かっただけなんじゃないのか。こういう、物理的に直接干渉するような攻撃系の魔法は、根本的に俺には向いてないんじゃないのかよ」
健司は本気で心が折れかけていた。
今までの失敗は、どこかギャグのような笑いがあった。
だが、三日間、寝食を忘れて没頭しても「一切の成果がない」という事実は、彼を焦燥の沼に沈めていく。
予知には、未来のビジョンという明確なフィードバックがあった。
ガチャならSSRという結果が出る。
競馬なら当たり外れが分かるし、株なら口座の数字が増える。
しかし、斬撃魔法は違う。
紙が切れない。
ただそれだけだ。
「できない」という冷徹な事実だけが、目の前に山のように積み上がり、健司の心をヤスリのように削り続けていた。
『才能だと?』
魔導書の声が、冷ややかな色を帯びた。
健司は黙った。
『魔法の世界において、“才能”などという便利な言い訳は存在しない。あるのは、“やるか”、“やらんか”。ただそれだけだ』
「やったよ! 三日間、頭がおかしくなるくらいずっとやっただろうが!」
健司がたまらず声を荒らげた。
『ならば聞こう』
魔導書は、その反発を静かに受け流し、問いの角度を変えた。
『貴様は、この三日間、右手でチョキを作りながら、頭の中で何を考えていた?』
「何をって……切れろ、って。俺の指は鋭い刃物だって。この手ハサミが本物のハサミになって、紙を切り裂くんだって……そういうイメージを、ずっと頭の中で……」
魔導書は少し間を置いて、ひどく冷たく言い放った。
『それだけか?』
健司はカチンときた。
「何が悪いんだよ。最初に『手ハサミで紙を切れ』って言ったのはお前だろ!」
『俺は、手でハサミの形を作れとは言った。だが、己の肉体の“手をハサミに変えろ”とは一言も言っていない』
健司は固まった。
そこが、彼にとって最初の強烈な違和感だった。
健司はこの三日間、ずっと自分の「手」を「ハサミという道具」に変化させようとしていた。
だが魔導書は、そのアプローチ自体がそもそも浅はかだと言っている。
「……は?」
健司は意味が分からず、間抜けな声を出した。
『貴様は、自分の“手”を“ハサミ”に変異させようとしている。そのアプローチが、そもそも根本的に間違っているとしたらどうだ?』
「俺に手ハサミを作って紙を切れって言ったのはお前だろ!」
『そうだ』
「じゃあ、手をハサミにするんじゃないのかよ!」
『だから猿なのだ』
「ふざけんな!」
健司がキレかけたその時、魔導書が唐突に言った。
『少し休憩しろ。茶でも淹れて飲め』
健司は完全に拍子抜けした。
いつもの魔導書なら「つべこべ言わずに続けろ」と罵倒してくるはずなのに、急に休めと言い出したのだ。
「……お前が急に休憩しろって言うの、逆に不気味で怖いんだけど」
『煮詰まった猿の脳みそをこれ以上乱暴にかき回しても、濁った泥水しか出ん。一旦、視点を切り替えろ』
健司は文句を言いながらも、床から立ち上がった。
狭いキッチンへ行き、電気ケトルに水を注いでスイッチを入れる。
湯が沸くまでの数分間。
健司は、キッチンの入り口からリビングの惨状をぼんやりと眺めていた。
床一面の紙のゴミ。
ローテーブルの上に無造作に置かれている本物の事務用ハサミ。
しわくちゃのコピー用紙。
健司の視線が、その『本物のハサミ』に引き寄せられた。
(そういえば……)
一番最初、魔導書に「切断の感覚を覚えろ」と言われた時、自分はあのハサミで普通に紙を切った。
あの時は、当たり前のようにできたのだ。
ジョキリという乾いた音。
金属の刃が紙の繊維に入り込む感触。
紙の僅かな抵抗。
そして、切断が完了した瞬間にスッと抜けるような軽さ。
あれは簡単にできた。
なぜなら、自分が『ハサミという道具』を使ったからだ。
ここで、健司の思考が引っかかった。
(……ハサミを、使った?)
あの時、自分の手がハサミになったわけではない。
自分はただ、ハサミという完成された道具を手に『持っていた』。
ハサミのグリップを握り、ハサミの刃を使って紙を切ったのだ。
切ったのは自分の手ではない。
自分が持っていた『ハサミ』だ。
健司の脳内で、バラバラだったパズルのピースが急速に繋がり始めた。
(『手をハサミに変える』んじゃない。……『ハサミを持つ』んだ)
だが、今は本物のハサミは使えない。
なら、自分は何を持つべきなのか?
(……概念としてのハサミ、か)
この世界に、物理的な刃物は存在しない。
しかし、自分の頭の中の『認識』の世界には、確かにハサミという概念が存在している。
物理的な実体はない透明なハサミ。
それを、自分の右手に重なるように『持っている』と、強く、絶対的に認識すればいいのではないか。
『……ほう?』
この思考が生まれた瞬間、魔導書が脳内で低く反応した。
健司の肩がビクッと跳ねる。
『猿の泥水みたいな脳みそにも、ようやく一本の火が灯ったか』
健司は、まだ言葉として明確には言語化できていない。
だが、間違いなく何かの『本質』を掴みかけていた。
カチッ。
電気ケトルのスイッチが切れ、湯が沸いた音がした。
しかし健司は、茶を淹れるのも忘れ、そのまま無言でリビングへと戻った。
健司は再び、床に散らばる紙の真ん中に座り込んだ。
目の前の、最後の一枚に近い綺麗なコピー用紙と向き合う。
右手で、ゆっくりとチョキの形を作る。
だが、頭の中の意識の向け方は、これまでと全く違っていた。
今までは、
『俺の手がハサミになる』
『俺の指が刃になる』
『この肉体を鋭利な刃物に変える』
という、肉体変化への無茶な自己暗示だった。
だが今回は違う。
『俺の手は、ハサミになる必要なんて全くない』
『俺は今、ハサミを手に持っている』
『物理的には目に見えないが、俺の認識の中には、間違いなくある』
『自分の右手の動きに重なるように、“概念としてのハサミ”がここに存在している』
健司は静かに目を閉じた。
一番最初に使った、あの黒いプラスチックグリップの事務用ハサミを、脳裏に極限まで鮮明に思い描く。
指をグリップに通した時の、プラスチックの硬い感触。
二枚の金属の刃が重なり合う冷たさ。
全体の重み。
刃と刃が交差する構造。
紙を間に挟んだ時の、微かな抵抗。
そして、切る時の『ジョキリ』という確かな感触。
それらの情報の全てを、自分の右手にピタリと重ね合わせる。
右手のチョキは、ただのチョキだ。
だが、その指の先には、透明なハサミがある。
見えないが、確実にあるのだ。
健司は、自分自身に強く言い聞かせた。
(俺が今持っているのは、手ハサミじゃない。ハサミそのものだ。だから、当然のように切れる)
健司は、自分の肉体を無理やり変えようとするのを完全にやめた。
自分の強固な『認識』の中で、道具の概念を外付けする。
これは、確率操作の時に使っていた「ジンクス」や「ルーティン」の考え方にも通じるものだった。
自分の中で絶対に揺るがないルールを作り上げ、その「俺は今ハサミを持っている」という認識を、強引に世界へ押しつけるのだ。
健司が、ゆっくりと目を開いた。
呼吸は深く、静かだった。
指先には、もう無駄な力は全く入っていない。
紙の端に、指を当てる。
これまでのように、肉の指で紙を押し切ろうとはしない。
右手に重ね合わせた『概念のハサミ』の刃を閉じるような、そんなイメージの感覚だけで、紙の上をスッと滑らせる。
スッ。
小さな音。
いや、音というよりは、指先に伝わる極めて微細な感覚だった。
紙の抵抗が、フッと消える。
まるで、最初からそこに切れ目が入っていたかのように、紙が何の抵抗もなく、綺麗に二つに分かれていく。
健司の指は空を切り、動きを止めた。
彼は数秒間、目の前で起きた現象を理解できなかった。
切れた。
本当に、切れている。
手元にあった一枚の紙が、完全に二つに分断されている。
切断面は、今までのように指や爪で強引に引き裂いたギザギザの跡ではない。
本物のハサミを入れたように、真っ直ぐで滑らかな切断面だった。
健司は、切れ端を両手に持ち、間抜けな顔でそれを見比べた。
「…………うーん」
思考が、現実に追いつかない。
「…………おっ」
数秒遅れて、ようやく理解の波が押し寄せてきた。
「…………切れた……!」
健司の声は、歓喜の叫びというよりは、完全に呆然とした呟きだった。
三日間、何千回やっても全くできなかったことが、認識を切り替えただけで、今、あっさりとできてしまったのだ。
『――猿!』
脳内で、魔導書が弾かれたように声を上げた。
少しの間。
『早いな!』
魔導書が、珍しく――いや、初めてと言っていいほど、本気で驚愕している声だった。
今まで健司を煽り、猿と罵倒し、常に遥か上から目線で導いてきた魔導書。
その声に、純粋な驚きの色が混じっている。
健司はその反応に、逆に少し驚いた。
「……早いのか?」
魔導書はしばらく沈黙してから、真剣なトーンで答えた。
『早い。たった三日で、魔法における“認識の切り替え”という本質に自力で辿り着いた。猿にしては、異常なほどに早い』
健司は少しだけ照れくさくなったが、調子に乗りすぎないように努めた。
「……自分の手をハサミにするのは、いくらやっても無理だったからさ。だから、俺の手がハサミになるんじゃなくて、俺自身が『見えないハサミを持っている』ってことにしたんだ。目には見えないけど、俺の中では、確かにハサミを握ってる。だから切れたんだと思う」
『いいぞ、猿』
魔導書が、静かに、だが確かな評価を下した。
『見事な発想の転換だ。それこそが、魔法というものの本質に極めて近い』
『物理的な現実を、自らの強固な認識の下に捻じ曲げ、上書きする。貴様は今、無意識のうちにその一端を掴み取ったのだ』
魔導書が、ちゃんと健司を褒めた。
普段は罵倒しかしない魔導書が、ここで一切の皮肉を交えずに素直に評価したことで、健司の中でこの小さな成功の重みが一気に増した。
『一度でも切れたということは、お前の脳は“魔法で切断した”という成功体験を、確かに記録したということだ』
魔導書はすぐにいつもの教師モードに戻り、解説を続ける。
『これが途方もなく大きい。今までは、貴様の脳内に“魔法で切る”というテンプレートが全く存在しなかった。だが、今はある』
『このたった一回の成功体験で、お前の中に斬撃魔法を構築するための絶対的な足場ができたのだ』
健司は、手に持った紙の切れ端を見つめた。
三日前から、ずっとずっと求め続けていたもの。
「魔法で切れた」という、たったそれだけの結果。
それが、今、確かに自分の手の中にある。
『では、次だ』
魔導書が、容赦なく次の指示を出す。
健司は固まった。
「え、もう次に行くの?」
『当然だ』
「少しは余韻に浸らせろよ。三日ぶりの成功なんだぞ」
『余韻に浸っている暇などない。余韻で魔法は上達せん』
魔導書は冷酷に切り捨てる。
『その“ハサミ”のイメージを、完全に捨てろ』
健司は驚いて声を上げた。
「は?」
『ハサミのイメージを捨てて、ただ貴様の指先で紙に触れろ』
『そして、“切れろ”とだけ念じろ。触れるだけで、切れ』
健司は困惑した。
せっかく掴んだばかりの「概念のハサミ」という感覚を、今すぐ捨てろと言われているのだ。
だが、魔導書の意図はこうだった。
ハサミのイメージは、健司が斬撃という概念を理解するための、ただの最初の補助輪に過ぎない。
いつまでもハサミのイメージに依存していては、永遠に「ハサミで切れる程度の物」しか切断できない。
健司が本当に覚えるべきなのは、ハサミという道具の再現ではなく、「切断」という結果の発生そのものなのだ。
だから今度は、道具という概念のクッションを外し、「触れたものが切れる」という結果そのものをダイレクトに現実に発生させる。
「……鬼かよ」
健司は嫌そうな顔をしながらも、魔導書の指示に従った。
健司は、さっき切れた紙の片割れを手に取った。
その紙の端に、人差し指の先端をそっと触れさせる。
今度はチョキではない。
人差し指一本だけだ。
健司は目を閉じた。
さっきの成功の感覚を思い出す。
概念のハサミが紙を切った時の感覚。
抵抗がフッと消え、紙が二つに分かれた時の、あの絶対的な確信。
その結果の感覚だけを抽出して、指先に集める。
今度は、ハサミの形や金属の冷たさは想像しない。
ただ、現象の結果だけを見る。
(切れる)
(俺の指が触れた場所から、紙の連続性が断たれる)
(一枚だった紙が、二つになる)
健司が、鋭く念じた。
(――切れろ)
スッ。
紙が、裂けた。
音はほとんどしなかった。
健司の人差し指が触れたその一点から、紙が静かに、そして滑らかに二つに分かれた。
健司は再び固まった。
「…………うん」
「…………おっ」
「……切れた……」
間抜けなリアクションが、全く同じトーンで繰り返される。
『よしよし!』
魔導書が、心底満足げに声を上げた。
『触れたものが“切れる”という結果を、純粋な認識として発生させることには成功したな』
『この第一ステップは、文句なしの合格だ』
その言葉を聞いた瞬間、健司の全身からドッと力が抜けた。
三日間溜まりに溜まっていた精神的な疲労が、一気に押し寄せてくる。
だが、その疲労感は信じられないほど心地よかった。
ずっとできなかったことが、ついにできた。
しかも偶然の一回ではない。
二度、違うアプローチで意図的に切った。
これは、彼の中で完全に「成功体験」として定着したのだ。
『よく聞け、猿!』
魔導書が、急に声のトーンを強くした。
『貴様は今、ただ紙っ切れを切っただけではない』
『お前は今夜、“攻撃魔法という概念そのもの”を覚えたのだ』
健司は目を丸くして聞き返した。
「……攻撃魔法?」
『そうだ』
魔導書が力強く説明する。
『予知は、未来を視るだけの魔法だ。確率操作は、有利な結果を寄せる魔法。身体強化は、己の肉体を変質させる魔法』
『だが、斬撃魔法は違う。対象に対して、強制的に変化を押しつける魔法だ。“切れる”という破壊の結果を、対象に直接発生させる。つまり、完全なる外部への攻撃だ』
『今、貴様は人生で初めて、この世界に対して能動的な“破壊”の事象を発生させたのだ』
これは、ただ斬撃が使えるようになったというだけの話ではない。
健司は今、「何かを攻撃する」「対象を破壊する」という意志の引き金を引く感覚を覚えたのだ。
このトリガーの感覚こそが、今後のあらゆる攻撃魔法の基礎となる。
炎をぶつける。
氷の槍で刺す。
雷を落とす。
見えない圧力で潰す。
どれも本質的には、対象へ「変化」や「損傷」という結果を押しつける魔法だ。
斬撃魔法は、その広大で物騒な領域への、最初の入り口だったのだ。
健司は、自分の人差し指を見つめた。
何の変哲もない、ただの元フリーターの指だ。
だが、この指で、物理法則を無視して紙を切った。
自分の意志だけで、外部の物体に傷をつけたのだ。
その事実に、健司の胸が少しだけざわついた。
それは恐怖ではない。
自分が、確実に強くなれるという、熱を帯びた実感だった。
健司はしばらく指先を見つめた後、ふと、極めて現実的で素朴な疑問を口にした。
「……で、これ、今の段階で一体何に使えるの?」
紙一枚しか切れない、触れないと切れない魔法。
魔導書は、満面の笑みを浮かべているような気配で、高らかに答えた。
『ハサミの代わりになるッ!!!』
健司は沈黙した。
「…………」
次の瞬間、健司は渾身の力で叫んだ。
「じゃあ本物のハサミ使えば良いじゃんッ!!!!」
当然すぎる大ツッコミだった。
三日間、寝食を忘れて地獄のような苦労をして覚えた魔法の、現時点での実用的な用途が「ハサミ代わり」。
健司の虚しさと怒りが爆発する。
『愚か者めが、猿ッ!』
魔導書がすかさず叱り飛ばす。
『魔法とは、既存の道具で簡単に代替可能なことを、あえて己の魔力に置き換えて実行する訓練も極めて重要なのだ!』
『その一見無駄で不毛に見える反復作業こそが、魔力の精密な操作、認識の強度、出力の制御、そして魔力総量そのものを着実に増大させるのだ!』
『つまり、ハサミの代わりになることは偉大な第一歩なのだ!』
健司は完全に脱力した。
「へーへー、分かったよ。よく分かりましたよ。つまり俺は、三日かけてようやく『ハサミになった男』ってことね」
『ハサミになったのではない。ハサミを概念として握ったのだ。何度言わせる』
「どっちでも虚しいわ!」
健司はため息をつきながら、話を前に進めることにした。
「で、斬撃魔法の第一歩とやらは覚えたんだろ。次は何するんだよ」
魔導書が、待ってましたとばかりに満足げに言う。
『よくぞ聞いた。次は、一気に難易度が上がるぞ』
健司は嫌な顔をした。
「……だろうな」
『遠距離から、斬撃を飛ばす』
魔導書が告げる。
健司は聞き返した。
「飛ばす?」
『そうだ』
魔導書が説明する。
今の健司の斬撃は、指先で直接触れて切るものだ。
つまり、射程距離は完全に「ゼロ」。
これでは、実戦では使い物にならない。
対象に接近し、触れなければならない上に出力はハサミ程度。
紙は切れても、怪異や悪意ある能力者相手には全く話にならない。
だから次に必要なのは、「威力」の向上と、「射程」の延長だ。
『まずは威力の向上だ。いつまでもハサミのイメージでは駄目だ。カッター、包丁、ナイフ、日本刀、工業用カッター、レーザーカッター。そうやって“切断”のイメージをより強く、鋭く、硬くアップデートしていく』
『だが、段階を踏め。紙、厚紙、段ボール、布、ペットボトル、薄い木片、プラスチック。……最終的には分厚い金属を両断する。一気に硬いものを切ろうとすれば、脳への負荷で貴様がショートする』
健司はそれを聞いてドン引きした。
「いや、最終的に金属を切るとか、普通に物騒すぎないか?」
『攻撃魔法だと言っただろうが』
『そして、第二段階が“射程”だ。斬撃を飛ばす』
魔導書が続ける。
『切断という概念を、手元から離す。空間に乗せ、目標まで飛ばす。目標に到達したその瞬間に、そこに“切れる”という結果を発生させるのだ』
『正直に言えば、斬撃を飛ばすというのは、射出系魔法の中でもトップクラスに難易度が高い。炎を飛ばす、石を飛ばす、水を飛ばす。そういう物理現象の延長にある魔法の方が、猿の脳には遥かに分かりやすい』
『だから、どうしても斬撃を飛ばすのが無理なら、先に別の分かりやすい属性の魔法を覚えた方が、戦力化は早いかもしれんな』
魔導書が、珍しく「難しい」「無理なら別を」と妥協案を提示してきた。
だが、その言葉が、逆に健司の心に火をつけた。
「……やってやるよ」
健司が、低く言った。
『ほう?』
魔導書が反応する。
健司は、さっき紙を切った自分の指先を見つめた。
「斬撃を飛ばすってやつをな。絶対習得してやる」
『言うじゃないか、猿。さっきまで泣き言を喚いていたくせに』
健司は悪態をついた。
「お前に『難しい』って言われたら、逆にやってみたくなっただけだ」
三日前なら、間違いなく「そんなの無理だろ」と諦めていただろう。
だが今の健司は、確かな成功体験を一つ得た。
たかが紙一枚を切っただけ。
だが、「絶対にできない」と思っていたことができたのだ。
だから、次の難題にも、彼は逃げずに前を向くことができた。
『まあいい。今日のところはここまでだ』
魔導書が満足そうに締めくくる。
『切断魔法の第一歩は習得した。これは、極めて大きな一歩前進だぞ、猿』
健司は、床の紙の山を見た。
三日間の格闘の残骸。
しわくちゃの紙。
そして、その中心にある、綺麗に二つに切れた数枚の紙。
その真っ直ぐな切断面は、小さな小さな成果だが、今の健司にとっては途方もなく大きなトロフィーだった。
『今夜はもう休め』
魔導書が言う。
健司は少し不安になった。
「……お前が素直に休めって言うと、逆に怖いんだけど」
『明日から、また新しい地獄の訓練が始まるからな。たっぷりと休んでおけ』
健司は深いため息をついた。
「……だと思ったよ」
魔導書はそれきり沈黙した。
健司は一人、静かになった部屋に取り残された。
彼は改めて、自分の指先を見つめた。
何も変わっていない。
ただの元フリーターの指だ。
だが、その指先で、物理法則を無視して紙を切った。
自分は今夜、初めて「攻撃魔法」を覚えたのだ。
まだハサミの代わりになる程度。
まだ触れないと切れない。
だが、確かに一歩、前に進んだ。
健司は、床に散らばった紙の残骸を片付け始めた。
ぐしゃぐしゃの紙。
折れた紙。
爪で傷ついた紙。
そして、綺麗に切断された紙。
その明確な差が、自分の三日間の苦闘の結果だった。
健司は少しだけ、自嘲気味に笑った。
疲労は鉛のように重い。
でも、気分は悪くなかった。
その指先には、まだ鋭い刃など見えない。
だが佐藤健司は知っていた。
自分は今夜、確かに世界を切り裂いたのだと。
そして、その鮮烈な感覚が、これから彼をさらに厄介で、さらに物騒な魔法の深い領域へと引きずり込んでいくことを。
彼の長く、そして果てしない魔法使いとしての道は、今、また確かな新たな一歩を踏み出したのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!