俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第3話 猿と神々と競馬場

 佐藤健司は、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。

 

 無機質なガラス板の向こう側に、彼が昨日まで生きてきたちっぽけな常識とは全く比較にならない、壮大で、そしてあまりにも危険な真実が横たわっている。

 

 脳の破裂。世界の修復。そして──上位者。

 

 恐怖と、それ以上に抗いがたい好奇心に突き動かされ、彼は震える指で問いを投げかけた。

 

「……なあ。その、“上位者”って、一体なんなんだ?」

 

 数秒の間。

 

 健司には、それが永遠のように長く感じられた。スマートフォンの画面の向こう側で、魔導書が自分という存在を吟味しているかのような、濃密な沈黙。

 

 部屋は夕方から夜へと移り変わり、カーテンの隙間から差し込んでいた赤い光は完全に消え去った。暗い室内で、スマホのバックライトだけが健司の顔を青白く照らしている。

 

 やがて、画面に新たなメッセージが、こともなげに表示された。

 

『……ほう? 脳が破裂する話を聞かされて、最初に抱く興味が、それか。やはり、お前はただの猿じゃないな。面白い』

 

 その言葉は罵倒でありながら、ほんのわずかな賞賛の色を帯びているように感じられた。

 

『いいだろう。教えてやる。だが、今の、お前の猿頭で理解できる、ごくごくさわりの部分だけだぞ?』

 

 健司は固唾をのんで、次の言葉を待った。

 

『上位者っつーのは、まあ、分かりやすく言えば“神”だな』

 

 神。

 

 あまりに大きすぎる、突拍子もない単語だった。だが、脳破裂や世界修正の話を聞かされた後では、完全に荒唐無稽とも言い切れない。

 

『この世界、いや、無数に存在する世界を自由に行き来する権能を持つ連中のことさ。元は、お前と同じようなちっぽけな存在だったのかもしれん。だが、気の遠くなるような時間をかけ、魔法を、世界の理への理解を極めに極め抜いた。その果てに、個としての限界を超越し、概念そのものに近しい存在へと至った連中だ』

 

『お前らの言葉で言えば、神。もう少し正確に言うなら、世界というゲームの“プレイヤー側”に近づいた元キャラクター、ってところだな』

 

「プレイヤー側……」

 

 健司の口から、乾いた声が漏れた。

 

 昨日まで、コンビニで酔客に頭を下げ、時給千二百円にすり減っていた自分が。今、ゲームの枠組みそのものを超える存在の話を聞かされている。

 

 あまりのスケールの差に、軽い眩暈を覚える。

 

『そいつらが出来ること? そうだな……せいぜい、この単一世界における“全能”、程度か』

 

 その言葉に、健司は少し引っかかった。

 

「単一世界……?」

 

『そうだ。世界は一つじゃない。無数にある。上位者は、その一つ一つの世界を渡り歩くことができる。だが、全ての世界を同時に、完全に支配できるわけじゃない』

 

『だから、人間から見れば神でも、上位者同士の間には序列や力の差が存在するってことだ。まあ、今のお前に詳しく説明しても、脳が熱暴走するだけだ。猿は猿らしく、まずは足元を見ろ』

 

 そこまで言って、魔導書は上位者についての説明を打ち切った。

 

 健司の頭の処理が追いつかないことを見越してのことだろう。だが、それでも健司は、どうしても聞かずにはいられなかった。

 

「俺も……そうなれるのか?」

 

 少しの間があった。

 

 すぐに否定されるかと思ったが、魔導書は健司を煽りつつも、その可能性を完全に断ち切ることはしなかった。

 

『理論上は、な』

 

 ドクン、と。

 

 健司の心臓が大きく跳ねた。

 

『だが、勘違いするなよ猿1号。そこまで登り詰めるには、魔法の修練を、それこそ血反吐を吐きながら、永遠とも思える時間続けていかないと無理だ。脳のキャパシティを、それこそ銀河サイズまで拡張していくようなもんだからな』

 

『今の、ガチャの確率を少し弄っただけで頭を焼きかけたお前じゃ、神どころか、魔法使い見習いの入口に立ったばかりの赤子同然だ』

 

『まあ、なんだ。上を知っておくのは悪いことじゃない。お前にも、いつか、出来るようになる“かも”しれないからなッ!!』

 

 その、妙にテンションの高い一文。

 

 自分が、神になれるかもしれない。馬鹿げている。そんなことがあるはずがない。

 

 だが、背筋がぞくぞくするような悪寒と共に、抗いがたい熱が胸の奥で渦を巻くのを、健司は止めることができなかった。

 

『さて、と。上は見せてやった。話を戻すぞ』

 

『──で、お前は何がしたい?』

 

 唐突な問い。

 

 健司は固まった。神になる。世界を渡る。魔法を極める。そんな壮大な答えを返すのが正解なのだろうか。

 

 彼が返答に窮していると、魔導書はすぐに先回りした。

 

『おっと、言いたいことは分かる。どうせ、こうだろ?』

 

『“金”だろ?』

 

 図星だった。

 

 あまりに的確に、最も卑近で切実な欲望を言い当てられ、健司は顔が熱くなった。

 

『別に悪いことじゃない。むしろ健全だ。腹が減っている猿に、世界の真理を説いても意味がないからな。金がなければ、飯も食えん。家賃も払えん。魔法の修行どころじゃない』

 

 その通りだった。

 

 神だの全能だの言われても、今の彼にとって一番リアルな脅威は、今月末の家賃の支払いと、奨学金の引き落としだ。

 

 健司は開き直った。

 

「ああ、そうだよ。金だ。金が欲しい。このクソみたいな生活から抜け出せるだけの金が。奨学金も返したいし、あの馬鹿みたいな深夜バイトも辞めたいんだ」

 

 自暴自棄に近い思いで打ち込むと、魔導書は呆れるどころか、満足げな反応を返してきた。

 

『よろしい。実に猿らしくて結構』

 

『なら、まずはその俗な目標を達成しつつ、お前の能力の基礎訓練を並行して行う方法を教えてやる』

 

『お前の「確率操作」の能力と一番相性がいい金稼ぎ。まあ、手っ取り早いのはギャンブルだな』

 

『“パチンコ”でもしとけ』

 

「パチンコ……?」

 

 健司は眉をひそめた。

 

 パチンコ店に入ったことはないが、うるさくて、煙草臭くて、鉄の玉が弾ける音が絶え間なく鳴り響く場所だというイメージはある。

 

『そうだ。あれは確率の塊みたいなもんだからな。お前の能力の訓練にはうってつけだ。大量の試行回数があって、当たり外れが分かりやすい』

 

『それに、重要なのは“少し運がいい素人”程度に能力を使うことを覚えることだ。毎回毎回、大当たりを連発してみろ。すぐに店員にマークされて出禁だ。パチンコなら、少額から目立たずに始められる』

 

 魔導書の言っていることは理にかなっていたが、健司は気乗りしなかった。

 

「いや、パチンコはちょっと……行ったことないし、ルールもよく分からん。それに、あの騒音が苦手だ」

 

『注文の多い猿だな。お前みたいな貧弱な神経じゃ、あの光と音の暴力は刺激が強すぎるかもしれんな』

 

『なら、“競馬”だ』

 

 競馬。

 

 その単語に、健司の目が少し見開かれた。

 

 ニュースやネットで見たことはある。馬券が当たれば、パチンコとは比べ物にならないほど一発で大きな金が動く。

 

『競馬は、パチンコと違ってある程度の種銭が必要になるが、その分、一発で稼げる額がデカい。それに、何より、お前の脳への負荷が、ちょうどいい訓練になる』

 

『競馬ってのは、ガチャやパチンコみたいに、機械が弾き出す単一の乱数じゃない。馬の状態、騎手の心理、馬場のコンディション、天候、他の馬との駆け引き、観客の熱気……。膨大な因果が絡み合い、最終的に「一着」という結果に収束する。それを読むのは、ガチャより遥かに難しい』

 

『パチンコでちまちま小銭を稼ぎながら感覚を養うか。競馬で脳に汗をかきながら、一発デカいのを狙いつつ、より高度な訓練をするか』

 

『好きな方を選べ、猿1号』

 

 迷う必要などなかった。

 

 ちまちました日常には、もううんざりしていた。どうせ魔法という規格外の力を使うなら、一気に人生をひっくり返したい。

 

「……競馬だ。競馬でやる。それなら、一発でガツンと稼げるだろ?」

 

 健司が前のめりに打ち込むと、魔導書は即座に冷や水を浴びせてきた。

 

『馬鹿。いきなり馬券を買うな』

 

「なんでだよ。金稼ぎって言っただろ」

 

『今の、ノイズだらけの猿頭のまま馬券を買っても、大火傷して終わるだけだ。いきなり自分の金を賭ければ、お前の“当てたい”という欲望が強烈なノイズになって、世界の因果を正確に読み取れなくなる』

 

『まずは買わずに当てろ。財布を開くな。欲望を混ぜるな。ただ、目の前の結果を観測する訓練だけをしろ』

 

 健司は不満だったが、脳破裂の警告を受けた直後である。強く逆らうことはできなかった。

 

『幸い、明日も中央競馬の開催日だ』

 

「明日?」

 

『当たり前だろうが。今から行ってどうする。馬も騎手も、とっくに帰ってるわ』

 

 健司は何も言い返せなかった。

 

 壁掛け時計を見れば、時刻はすでに夜。午後六時に目を覚まし、そこから魔導書と会話し、脳破裂だの上位者だの神だのという話を聞かされていたのだ。今から競馬場に向かったところで、開催が終わっているのは当然だった。

 

『今日は寝ろ。脳を焼きかけた猿が、睡眠不足のまま現実の因果を覗きに行っても、馬を見る前に自分の頭痛を見ることになるぞ』

 

「……寝ろって、またかよ」

 

『修行の第一歩は、死なないことだ。覚えておけ』

 

 魔導書の言葉は、いつになく実用的だった。

 

 健司は不満を抱えつつも、反論できなかった。こめかみの奥にはまだ熱が残っている。身体は軽いのに、脳だけが焼けた鉄板のようにじんじんと疼いていた。

 

 今の自分が無理をすれば、ろくなことにならない。

 

 健司はスマートフォンを充電ケーブルに繋ぎ、ベッドに倒れ込んだ。

 

 神に近い存在。世界の外側。確率操作。競馬。

 

 頭の中に渦巻く単語は、どれも昨日までの自分の人生とはあまりにも遠い。だが、その遠さが、どうしようもなく甘かった。

 

 瞼を閉じる直前、スマホが一度だけ震えた。

 

『起きたら行け。現場で観ろ』

 

 その短い命令を最後に、健司の意識は再び眠りの底へ沈んでいった。

 

 翌朝。

 

 健司は、いつもより早い時間に目を覚ました。

 

 遮光カーテンの隙間から差し込む光は、昨夜の闇とは違う、白く乾いた朝の光だった。頭の奥にはまだ鈍い熱が残っていたが、それでも昨日よりはずいぶんましになっている。

 

 スマートフォンを手に取ると、すでに魔導書からメッセージが届いていた。

 

『起きろ、猿。今日は競馬場だ』

 

『財布とスマホとモバイルバッテリーを持て。本体は置いていけ。外でそのクソ本を持ち歩くと、ただの痛い猿にしか見えん』

 

 健司は寝癖だらけの頭をかきながら、短く息を吐いた。

 

「……本当に行くんだな」

 

『当たり前だ。現実の因果は、部屋で寝転がっていても見えん。行け。現場で観ろ』

 

 健司はなけなしの貯金から数千円だけを財布に入れ、着古したパーカーを羽織った。

 

 魔導書本体は机の上に置いたままだ。

 

 アパートのドアを開ける。

 

 外の世界は、駅へ急ぐ人々、通り過ぎる車、生ぬるい朝の空気と、昨日までと何も変わらない平凡な風景だった。

 

 だが、健司にはその全てが全く違って見えていた。

 

 世界は、昨日まで彼を底辺に縛り付け、押し潰すだけの牢獄だった。

 

 しかし今は、攻略すべき巨大な盤面、無数の確率と因果が流れるシステムとして、彼の目の前に広がっていた。

 

 電車を乗り継ぎ、京王線の府中競馬正門前駅に降り立つ。

 

 健司は、まずその人の多さに圧倒された。

 

 家族連れ、カップル、そして、新聞を片手に険しい顔で歩く無数のおじさんたち。彼ら全員が、一つの目的に向かって巨大な建物へと吸い込まれていく。

 

 東京競馬場。

 

 彼が想像していたような薄暗く殺伐としたギャンブル場ではなく、広大なテーマパークのように整備され、巨大なガラス張りのスタンドが威圧感と共にそびえ立っていた。

 

「うわ……広……」

 

 スタンドから見下ろした光景に、健司は思わず声を漏らした。

 

 眼下に広がる美しい緑色の芝生。その向こうには都市のビル群が霞んで見える。そして、スタンドを埋め尽くす数万人の観客。その熱気が渦を巻き、肌に張り付くように感じられた。

 

『ほう。猿の欲望を集める施設にしては、なかなか立派じゃないか』

 

 ポケットのスマホが震え、魔導書からのメッセージが表示される。

 

 健司はまず、売店で競馬新聞を一冊買った。

 

 開いてみるが、馬名、騎手、過去成績、オッズ、印、血統、タイムと、情報量が多すぎて暗号にしか見えない。

 

「何見ればいいんだ、これ……」

 

 その瞬間、LINEが通知を鳴らした。

 

『閉じろ』

 

『お前の猿頭で予想するな。その数字は、今のお前にはノイズだ』

 

「でも、競馬ってこういうの見て予想するんじゃないのか?」

 

『普通の猿はな』

 

『お前が鍛えるべきなのは、知識じゃなく“観測”だ。過去成績を読んで当てるんじゃなく、今この場に流れている因果を読め』

 

『いいから、まずパドックへ行け。これから走る馬がそこにいる』

 

 健司は新聞を丸めてポケットに突っ込み、案内に従ってパドックと呼ばれる円形の広場へと向かった。

 

 そこでは、次のレースに出走する十数頭の馬たちが、厩務員に引かれてゆっくりと周回していた。

 

 健司は初めて、間近でサラブレッドを見た。

 

 思っていたより遥かに大きい。しなやかで力強い筋肉。磨き上げられたように光る毛並み。細い脚。どこか神経質で、知的な光を宿した瞳。

 

 ギャンブルの駒ではなく、一つの完成された生き物としての圧倒的な美しさに、健司はしばし見惚れた。

 

『どうだ、猿。美しいだろう?』

 

『だが、感動はそこまでだ』

 

 魔導書が冷徹に告げる。

 

『その中から、“勝つ”馬を感じろ』

 

 健司はパドックの柵の前に立ち、目を閉じた。

 

 心の中で問いかける。

 

「このレースで、一着になる馬はどれだ?」

 

 分からない。

 

 ガチャの時とは違いすぎる。ガチャはスマホの画面の中だけで完結していたが、ここは無数の生き物、人間、天候、地面、偶然が絡み合っている。

 

 情報量が多すぎて、脳の奥がじんじんと熱を持った。

 

 十八頭の馬が、全部同じように見える。

 

(だめだ。全然分からない)

 

 健司は焦り、頭で考え始めた。

 

 人気馬はどれだ? 強そうな馬は? 筋肉が良さそうなのは? 騎手が落ち着いているのは? 

 

『馬鹿野郎』

 

 LINEが震え、痛烈な叱咤が飛んできた。

 

『思考を混ぜるなと言っただろうが! お前の願望、知識、印象、全部ノイズだ!』

 

『見るな。考えるな。流れを感じろ!』

 

 健司ははっとして、もう一度深く深呼吸をした。

 

 目を閉じ、思考を消す。

 

 勝ちたい、当てたい、金が欲しいという欲望も、一旦胸の奥に押し込める。

 

 ただ、周囲の音を聞いた。

 

 観客のざわめき。馬の蹄の音。風が吹く音。

 

 それらがただの音ではなく、一つの流れのように感じられ始める。

 

 健司の意識の中に、無数の細い糸のようなものが見え始めた。それぞれが、レースの結果という未来へ向かって伸びている。途中で絡み、ほどけ、切れ、別の糸と結びつく。

 

 ガチャの時のような強烈な確信ではない。もっと複雑で、曖昧で、揺らいでいる。

 

 だが、その中で。

 

 一本だけ、他より少しだけ太く、わずかに明るい光を放っている糸があった。

 

 数字が浮かぶ。

 

 7。

 

 健司はゆっくりと目を開けた。

 

 ちょうど、ゼッケン7番をつけた栗毛の馬が、彼の目の前を通り過ぎていくところだった。特別に派手な様子もなく、観客の注目を集めているようにも見えない。

 

 しかし、健司の脳裏には、その「7」という数字が焼き付いて離れなかった。

 

『ほう』

 

 魔導書からのメッセージは、それだけだった。

 

 健司はスタンドへ移動し、レースが始まるのを待った。

 

 馬券は買っていない。一円も賭けていない。それでも、心臓が痛いほど高鳴っていた。

 

 もし外れたら、やはり気のせいだったことになる。もし当たれば、ゲームではない現実の因果も読めるという証明になる。

 

 ファンファーレが鳴り、ゲートが開いた。

 

 十八頭の馬が一斉にターフへ飛び出す。地響きのような蹄の音と、数万人の歓声が空気を震わせる。

 

 7番の馬は中団にいた。先頭ではなく、むしろ目立たない位置で馬群の中に埋もれている。

 

(本当に……7番なのか?)

 

 健司の胸に疑念が広がる。

 

 レースは進み、向こう正面から最後のコーナーへ。先頭争いには別の馬が立っており、7番はまだ抜け出せない。

 

 外れたか。

 

 そう思いかけた、最後の直線だった。

 

 突然、7番の馬の前の進路が、ぽっかりと開いた。

 

 前の馬が少し外へ膨らみ、隣の馬がわずかに遅れる。ほんの些細な偶然の連鎖。騎手はその隙間を逃さず、馬を外へ持ち出した。

 

 そこから、7番は一気に加速した。

 

 一頭、また一頭と抜き去り、先頭に迫る。

 

 観客の声が爆発し、実況が7番の名前を叫んだ。

 

 健司は息をするのも忘れ、その光景に見入った。

 

 そして。

 

 ゴール板を駆け抜けたのは、まさしく7番の馬だった。

 

 ほんのクビ差の接戦。

 

 だが、間違いなく、健司が「感じた」馬が、一着になったのだ。

 

「……当たった」

 

 呆然と呟く。

 

 馬券は買っていないから、金は一円も増えていない。

 

 それでも、健司の全身は激しく震えていた。ガチャの時とは違う。これは現実の生き物と人間と偶然が絡み合った、途方もない情報量の現実世界の結果だ。

 

 その中から、彼は一つの未来を読み取った。

 

 ポケットのスマホが震えた。

 

『……ふん』

 

『猿にしては、上出来だ』

 

 魔導書が初めて、少しだけ彼を認めるような言葉を送ってきた。

 

 健司は笑いそうになるのを堪え、返信した。

 

「今の、当たったよな? 俺、分かったんだよな?」

 

『一回だけなら、まぐれかもしれん』

 

『次もやる。その次もやる。今日は行けるところまで観測しろ』

 

『勘違いするなよ、猿。訓練は、まだ始まったばかりだ』

 

 厳しい言葉だったが、健司の心の奥では確かに何かが燃え上がっていた。

 

 その後も、健司は魔導書に言われるまま、馬券を買わずにパドックとスタンドを往復した。

 

 すべてが当たったわけではない。

 

 自信を持って感じた数字が、最後の直線で沈むこともあった。逆に、ほとんど確信がないまま呟いた馬が、二着に滑り込むこともあった。勝ち馬を読み切れず、頭の奥に熱だけが残るレースもあった。

 

 それでも、ただの偶然では済まされない程度には、健司の感覚は現実の結果に触れていた。

 

 流れが見える瞬間がある。

 

 未来へ向かう糸のようなものが、確かに存在する。

 

 それを掴める時と、掴めない時がある。

 

 夕暮れの競馬場。

 

 馬券を外して嘆く人、当てて喜ぶ人。その中で、健司だけは一円も得ていないのに、全く別の種類の興奮に包まれていた。

 

 彼はまだ金を手に入れていない。だが、金に至るための確かな道筋を、自分の目で見たのだ。

 

『しばらく、開催日はここに通え』

 

『お前の猿頭に、現実の因果の流れを徹底的に叩き込んでやる』

 

 時給千二百円のフリーターだった猿は、生まれて初めて、自分の中にある「才能」の輪郭をはっきりと見た。

 

 そしてその輪郭は、あまりにも危険で、あまりにも甘美な輝きを放っていた。

 




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