俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第31話 猿と原っぱと念動力

 都内某所。駅から徒歩十五分ほど離れた裏通りに、その古い廃ビルはあった。

 

 佐藤健司は、ヤタガラスから支給された安物のスポーツバッグを肩にかけ、そのビルの前に立っていた。

 

 外見は、ただの古びた雑居ビルだ。一階部分にはシャッターの閉まりきった店舗の跡があり、壁の塗装は剥がれ落ち、屋上の看板は文字が読み取れないほど色褪せている。

 

 だが、その薄暗い入り口には、明らかに一般の警備会社ではない、黒い防刃ベストを着込んだ屈強な警備員が一人、鋭い目つきで立っていた。

 

 廃ビルに厳重な警備員がいる時点で、ここが「普通ではない」場所であることは明白だった。

 

 健司は少し緊張しながら、警備員に近づいた。

 

「認定証を」

 

 警備員が、事務的な、しかし警戒を解かない声で言った。

 

 健司は財布から、ヤタガラスから渡されたばかりの黒いカード型の認定証を取り出して提示した。

 

 警備員はそれを手元の専用端末で読み取り、画面と健司の顔を見比べる。

 

「……佐藤健司さんですね。初心者区画への入場許可、確認しました」

 

 健司は少し驚いた。

 

「あ、本当にこれだけで中に入れるんですね。もっと厳重な検査とかあるのかと」

 

 警備員は淡々と返す。

 

「ここは低位の初心者向け区画ですので。目的の階層は五階です。単独で深部へは絶対に進まないでください。異常があれば、すぐに引き返すこと。ご武運を」

 

「分かりました」

 

 健司は頷き、ビルの薄暗い入り口へと足を踏み入れた。

 

 一階から四階までは、本当にただの気味の悪い廃ビルだった。

 

 埃っぽいコンクリートの階段。べらりと剥がれ落ちた壁紙。割れて破片が散乱した蛍光灯。ところどころに、ヤタガラスの『立入禁止』と書かれた簡易的な封鎖テープが張られている。

 

 だが、四階の踊り場を過ぎ、五階に近づくにつれて、明らかに周囲の『空気』が変わり始めた。

 

 湿った土の匂い。

 

 青臭い草の匂い。

 

 そして、どこからか吹き抜けてくる、柔らかな風の音。

 

 健司は、階段の途中で思わず足を止めた。

 

「……え? 草の匂い?」

 

『近いぞ、猿』

 

 脳内で、魔導書が楽しげに言う。

 

 健司は警戒しながら、五階の防火扉の重いハンドルを押し下げた。

 

 ギィィ、という軋む音とともに扉が開く。

 

 その瞬間、健司の視界が一気に開けた。

 

「……は?」

 

 健司は、あまりの光景に呆然と立ち尽くした。

 

 そこにあったのは、ビルのコンクリートのフロアではない。

 

 見渡す限りの、広大で青々とした『原っぱ』だった。

 

 天井の代わりに、どこか薄く曇ったような、しかし確かに青空に近い空が広がっている。足元には膝ほどの高さまである雑草が生い茂り、遠くにはなだらかな低い丘が見え、ぽつぽつと見知らぬ種類の木が立っている。

 

 風が吹き抜け、足元の草がザワザワと波打つように揺れた。

 

 どう見ても、完全に屋外の風景だ。

 

 しかし、健司はたった今、間違いなく廃ビルの五階に上がってきたはずなのだ。

 

 背後を振り返ると、そこには原っぱの空間にポツンと切り取られたように、先ほどくぐってきた『廃ビルの階段室の扉』が立っていた。

 

 その扉の四角い枠の向こう側だけが、現実の薄暗いビルへと繋がっている。

 

「うお……」

 

 健司は感嘆の声を漏らした。

 

「本当に、ビルのフロアが原っぱに繋がってる……!」

 

 健司は、恐る恐る一歩踏み出した。

 

 足元は硬いコンクリートではなく、間違いなく柔らかい土の感触だ。草の匂いも本物。吹き抜ける風の冷たさも、幻覚ではない。

 

「広々としてて……屋内? いや、これ完全に外の原っぱだろ。これ、どうなってんだよ物理的に」

 

『恐らく、過去の原っぱという概念そのものが具現化した空間だろうな』

 

 魔導書が、教授のように解説を始める。

 

『この土地に、遥か昔にかつて存在した風景、人々の記憶、あるいは霊的な残滓。そういったものが因果の歪みに結びつき、一つの異界として空間に固定されたのだろう』

 

「過去の原っぱ……」

 

『奇妙に思うだろうが、異界の内部では、広さが外見のビルの容積と全く一致しないことなど、珍しくもなんともない日常茶飯事だ』

 

 健司は、遠くの丘を見つめた。

 

 どう考えても、あの廃ビルの五階のフロア面積に収まる広さではない。下手なサッカースタジアムより広いかもしれない。

 

「……ビルの五階って、こんなに広かったっけ」

 

『外見の三次元の寸法など、異界という四次元以上の歪みの中では、何の保証にもならんのだよ』

 

 健司は小さく笑った。

 

「なるほどね。そりゃあ、ダンジョンって呼ばれるわけだ」

 

 健司は原っぱの中をゆっくりと歩き始めた。

 

 すると、広大な原っぱのあちこちに、自分以外にも何人かの人影が点在していることに気がついた。

 

 巨大なリュックを背負った若い男。

 

 動きやすいジャージ姿で、周囲を警戒している能力者らしき人物。

 

 プロの探索者なのか、安全靴に作業服という出立ちの男たち。

 

 そして——。

 

「……ん?」

 

 健司は首を傾げた。

 

 遠くに見える人影の中に、明らかに学生服を着た少年少女たちが何人も混ざっていたのだ。

 

「……なんか、学生多くないか? 今日、普通に平日の昼間だよな?」

 

『サボりだろ』

 

 魔導書が即答した。

 

「言い方」

 

『事実だ。能力に目覚めた者は、大抵どこか社会性が破綻していることが多い』

 

 魔導書は冷ややかなトーンで続ける。

 

『自分には、一般人にはない特別な力がある。この異界で怪異を倒せば、それなりの金も手に入る。そんな全能感を手にした者が、何の力もない凡人の子供たちと一緒に、朝から夕方まで窮屈な机に座って、退屈な授業を大人しく受けると思うか?』

 

 健司は黙った。

 

 なんとなく、納得してしまったからだ。

 

「……まあ、そういうもんなのかなあ」

 

『そういうものだ』

 

 健司は、遠くで談笑している制服姿の学生たちを眺めた。

 

 楽しそうにゲーム感覚で小遣い稼ぎをしている者もいれば、妙に慣れた、洗練された動きで怪異を狩っている者もいる。

 

(あとで、ヤタガラスの三枝さんにでも、この辺の未成年能力者の実情を聞いてみるか……)

 

 そんなことを考えながら草むらを歩いていると、突然、健司の前方の空間がじわりと不自然に滲んだ。

 

 空気が、水面に出た波紋のように大きく揺れる。

 

 その空間の歪みの中から、泥が固まったような灰色がかった小柄な怪異が、にじみ出るように姿を現した。

 

 背丈は小学校低学年くらい。ガリガリに痩せ細った体躯。不気味に尖った耳。爬虫類のように濁った黄色い目。

 

 その手には、どこで拾ったのか、粗末で太い木の棒が握られていた。

 

 子鬼(ゴブリン)。

 

 初級ダンジョンの定番とも言える、最もありふれた低位怪異だ。

 

 健司は反射的に足を止め、身構えた。

 

『出たぞ、猿』

 

 魔導書が楽しげに言う。

 

「え、あれが本物の怪異?」

 

 健司は、初めて見る明確な『敵』の姿に、思わず声が上ずった。

 

『低位のありふれた子鬼だな。おおよそ、ヤタガラスの基準でTier5相当といったところか。特殊能力らしい特殊能力も持たない、ただの物理的な雑魚だ』

 

「俺の初実戦の相手に雑魚とか言うなよ! こっちは普通に怖いんだよ!」

 

「ギャギィッ!!」

 

 子鬼が健司の存在に気づき、耳障りな甲高い声を上げて、短い足で猛然と突進してきた。

 

 手に持った木の棒を、力任せに大きく振り上げる。

 

 健司は、一瞬だけ恐怖で足がすくみそうになった。

 

 だが、すぐに深く呼吸を整える。

 

 SAITO MMA GYMで斎藤コーチに叩き込まれたステップ。

 

 魔力を薄く全身に循環させる、身体強化。

 

 そして、未来視。

 

 健司の目に、子鬼が振り下ろす木の棒の軌道が、赤い残像のようにハッキリと視えた。

 

 子鬼の突進は、あまりにも単調で直線的だ。未来の分岐が少なすぎて、逆に拍子抜けするほど読みやすい。

 

 健司は、棒が振り下ろされる直前、最小限の動きで一歩だけ横へ外れた。

 

 ブォンッ、と空を切る木の棒。

 

 子鬼の体勢が前のめりに崩れる。

 

 健司はそのまま、MMAで習った無駄のない踏み込みで、一気に距離を詰める。

 

 相手の腕の外側、完全に死角となる位置へ入り込む。

 

 左手で、子鬼のざらついた肩口に触れる。

 

 そして、右手の指先を、子鬼の無防備な胴体にピッタリと押し当てた。

 

(切れろ)

 

 斬撃魔法の発動。

 

 健司の意志が、指先を通して対象に『切断』という物理的結果を強制的に押し付ける。

 

 子鬼の胴体に、スッと見えない鋭利な線が入った。

 

 紙を切るのとは比べ物にならない、泥の塊を無理やり引き裂くような重く嫌な抵抗感。

 

 しかし、確かに『切れた』。

 

「ギャッ……!?」

 

 子鬼が、声にならない短い悲鳴を上げ、次の瞬間、黒い煙のようにボロボロと崩れ落ち、虚空へと消滅した。

 

 健司は、少し遅れて大きく息を吐き出した。

 

「ふー……。なんだ、意外とあっさり行けそうだな」

 

『当然だ。おおよそTier5相当の、ロクな能力もない貧弱な子鬼だぞ。三日間血反吐を吐いて魔法を覚えた今の貴様なら、楽勝だろう』

 

「いや、楽勝って言うほど、心臓は落ち着いてないんだけどな」

 

 健司は、バクバクと早鐘を打つ心臓を押さえた。

 

 ふと視線を落とすと、子鬼が消滅した跡地の草むらに、ひらりと一枚の紙切れが落ちていた。

 

 健司は怪訝に思いながら、それを拾い上げる。

 

 野口英世の顔が印刷された、見慣れた千円札だった。

 

 健司は完全に固まった。

 

「……現金落とすのかよ」

 

『低位異界における、最も分かりやすいドロップ報酬だな』

 

 魔導書がこともなげに言う。

 

「まんまゲームの仕様かよ」

 

『だから言っただろう。人間の作ったゲームという概念が、現実の異界の法則を真似た側面も多大にあるのだと』

 

 健司は千円札を太陽の光に透かして見た。どう見ても本物の日本銀行券だ。

 

 周囲を見ると、他の学生たちも、怪異を倒しては地面から何かを拾い集めている。

 

「……なるほど。そりゃあ、学生が入り浸るわけだわ」

 

 健司は深く納得した。

 

 子鬼一体を倒せば、千円。

 

 確かに怪我のリスクはある。だが、コンビニで時給千円で一時間レジ打ちをするよりも、能力を使って五分で子鬼を狩る方が、圧倒的に効率がいい。

 

 健司は、未成年の能力者たちが置かれている歪な現状に、少しだけ複雑な気分になった。

 

 健司がさらに原っぱの奥へと歩を進めていると、遠くで、一人の少女が子鬼と相対しているのが見えた。

 

 黒髪のショートボブ。小柄な体格。背中には少し大きめのリュックを背負っている。

 

 着ているブレザーの制服は、少しだけ着崩されているが、決して派手な不良という感じではない。ごく普通の、どこにでもいそうな女子高生だ。

 

 彼女の名前は、瀬尾梓(せお・あずさ)。

 

 梓は、子鬼と完全に一対一で向き合っていた。

 

 子鬼が奇声を上げながら、木の棒を振り回して威嚇している。

 

 梓は冷静に距離を取りながら、手足を一切動かさずに、自分の『能力』を使っていた。

 

 だが、健司から見ると、その戦い方はひどく危なっかしく見えた。

 

 子鬼との距離が近すぎるのだ。彼女の能力の射程の問題なのか、わざわざ二メートル以内の危険な距離まで子鬼を引き寄せてから、能力を発動しようとしているように見える。

 

 健司は思わず足を止めた。

 

『どうした、猿。よそ見か?』

 

 魔導書が尋ねる。

 

「いや……あの子、なんか戦い方が危なっかしいなと思って。普通の学生っぽいし、一人だし」

 

『黙って見ていろ』

 

 魔導書は軽く答えた。

 

 梓の目の前で、痺れを切らした子鬼が大きく跳びかかった。

 

 健司が「危ない」と思わず駆け出そうとした。

 

 しかし、その必要はなかった。

 

 梓は全く表情を変えず、跳びかかってきた子鬼をジッと見つめた。

 

 次の瞬間。

 

 子鬼の身体が、空中でピタリと不自然に静止した。

 

 まるで、見えない巨大な手に首根っこを掴まれたように、空中でぎこちなく持ち上げられる。子鬼がパニックを起こし、手足をジタバタとばたつかせた。

 

 梓が、目をスッと細める。

 

 そのまま、見えない力で子鬼を真下の地面へと激しく叩きつけた。

 

 ドンッ!

 

 鈍い音が響き、子鬼が地面に潰れるように激突し、あっけなく黒い煙になって消滅した。

 

 後に残された千円札を、梓は淡々とした動作で拾い上げる。

 

 健司は目を丸くした。

 

「……なんだ、今の」

 

『念動力だな』

 

 魔導書が分析する。

 

「念動力……。おい、あの子、普通にめちゃくちゃ強くないか?」

 

『ありふれた能力だ』

 

 魔導書は極めて冷静に評価した。

 

『もちろん、極限まで極めれば強い。だが、本人の地力が低ければ、永遠に弱いままだ』

 

『今のあの少女の力は、射程も出力も大したことはない。空間の干渉具合から見て、おそらく射程は最大で二メートル程度。出力も、良くて本人自身の腕力相当といったところだろう』

 

 健司は少し驚いた。

 

「あれで、大したことないのか?」

 

『あんな鈍重な子鬼程度なら倒せる。だが、もっと素早く、もっと地力の強い怪異が相手では、あの程度の念動力では踏ん張られ、一気に距離を詰められ、殴り殺されて終わりだ』

 

 健司は再び梓を見た。

 

 梓は、すでに次の獲物を探して視線を動かしている。

 

 動きの勘自体は悪くない。ただ、能力の使い方が致命的に淡白なのだ。

 

 射程ギリギリまで引きつける。掴む。持ち上げる。叩きつける。

 

 ただ、それだけの単調な繰り返し。

 

 魔導書が、ふと興味深そうに声を上げた。

 

『……うむ。なるほど、そういうことか』

 

「何が?」

 

『よし、猿。あの子に声をかけろ』

 

 健司は固まった。

 

「ええ? なんでだよ」

 

『素材はいい。少しだけ助言してやれ』

 

「素材って言い方やめろよ」

 

 健司は強く首を振った。

 

「いやいやいや、初対面の女子高生に、大人の男が急に声かけて『君の能力はね~』とか指導し始めるとか、どう考えても普通に事案だろ。不審者すぎるって」

 

『猿面を被って、ミリオン再生の動画で大々的に顕現したお前が、今さら何を一般人ぶって気にしているのだ』

 

「気にするだろ! あれはネットの中の話だろ!」

 

『いいから行け』

 

 魔導書は強引だった。

 

『これから俺様が言うことを、そのままあの小娘に伝えるだけでいい。お前はただのスピーカーだ。さあ行け』

 

「俺の役割、ただの伝書鳩じゃん……」

 

『ただの猿よりは、いくらかマシな役回りだろう』

 

「うるさい」

 

 健司は渋々、梓の方へと歩いていった。

 

 梓が次の子鬼の気配を探していると、背後から声をかけられた。

 

「君、ちょっといいかな?」

 

 梓が警戒して振り返る。

 

 そこには、黒いパーカーを着た、どこか頼りなさそうな青年が立っていた。

 

 首からヤタガラスの正式な認定証を下げているので、完全な不審者というわけではなさそうだが、どこかで見覚えがあるような気がして、梓は探るような視線を向けた。

 

「……はい。なんですか?」

 

 梓は、一定の距離を保ったまま冷たく返した。

 

 健司は、脳内の魔導書のカンペを聞きながら、できるだけ自然な笑顔を作って話しかけた。

 

「君、使ってるの『念動力』だよね」

 

 梓の目が、少しだけ細くなった。

 

「ええ。そうですけど」

 

「外から見てて気になったんだけど……君の能力、射程はだいたい二メートルくらい。出力は、君自身の腕力と同じくらいって感じかな?」

 

 梓の目が、驚きで見開かれた。

 

「えっ……なんで、そこまで正確に分かるんですか?」

 

 健司は、内心で『本当に当たってたよ』と魔導書にツッコミを入れつつ、もったいぶって笑った。

 

「ハハハ。ちょっと目がいいもんでね。大抵の能力の質と限界は、一目見れば分かるのさ」

 

 梓は、なおさら疑わしそうに健司を見た。

 

「……そういう『鑑定』系の能力ですか?」

 

「まあ、そんなところ」

 

『嘘は言っていないな。視たのは俺様の目だが』

 

 魔導書が脳内で言うのを、健司は聞こえないふりでスルーした。

 

「君、すごく勿体ない使い方してるよ。……誰か、能力の師匠みたいな人はいないのかい?」

 

 梓が首を傾げた。

 

「師匠?」

 

「そう。実戦での訓練を見てくれる人とか、能力の効率的な使い方を教えてくれるプロの人とか」

 

「いませんけど。ヤタガラスに登録した時に、簡単な出力検査と規約の説明は受けましたけど、それ以外は全部一人で、独学でやってます」

 

「そうか……」

 

 健司は、魔導書から送られてくる次のセリフをそのまま口にした。

 

「念動力って能力はね、実は『手動作(ハンドサイン)』で制御すると、劇的に性能が跳ね上がるんだよね」

 

 梓は怪訝な顔をした。

 

「手動作?」

 

「今、君は能力を使う時、ほとんど目線と頭の意識だけで対象を動かしてるだろ?」

 

「はい。その方がモーションがないし、楽なので」

 

「それだと、自分の中の魔力の『出力の通り道』が細いまんまなんだよ」

 

 健司は、身振り手振りを交えて説明した。

 

「実際に自分の手を動かして、『掴む』『押す』『引く』『投げる』って動作を、自分の肉体にも連動してやらせる。そうすることで、脳の認識が固定されて、能力の制御精度と絶対的な出力が格段に上がるんだ」

 

 梓が深く眉をひそめた。

 

「そんな、漫画みたいなアナログな動きに、意味あるんですか?」

 

「ある。騙されたと思ってやってみな。おおよそ、今の倍くらいの性能にはなるはずだ」

 

 梓の瞳が、僅かに揺れた。

 

「……倍?」

 

「やってごらん」

 

 ちょうどその時、タイミングよく遠くの空間が歪み、新たな子鬼が一体姿を現した。

 

 梓は半信半疑のまま、その子鬼の方へと向き直った。

 

 今までは、ただ目線と意識の集中だけで念動力を使っていた。

 

 だが今回は、健司の言葉通り、右手をスッと前に突き出す。

 

 そして、実際に空中の何かを『掴む』ように、五本の指に力を込めて曲げた。

 

 その瞬間。

 

 梓の念動力のオーラが、目に見えて大きく前方へと伸びた。

 

 今まで絶対に二メートルで限界を迎えていた射程が、四メートル近くまで一気に届いたのだ。

 

 梓の目が、限界まで見開かれた。

 

「……届いた」

 

 子鬼が、まだこちらへ距離を詰める前に、遥か遠くの空中でピタリと動きを止めた。

 

 梓が、本当に何かを力強く掴み上げるように、右手をグッと上に持ち上げる。

 

 子鬼の体が、軽々と宙に浮いた。

 

 今までのような、重いものを無理やり持ち上げるようなぎこちなさはない。明らかに念動力の出力が安定し、力強くなっている。

 

 梓は、そのまま振り上げた右腕を、勢いよく下へ振り下ろした。

 

 ドンッ!!

 

 子鬼が、凄まじい勢いで地面に叩きつけられ、一瞬で煙になって消滅した。

 

 あとに、千円札が一枚舞い落ちる。

 

 梓は、自分の右手を呆然と見つめた。

 

「……本当だ」

 

 次に、もう一体の子鬼が茂みから飛び出してきた。

 

 梓は、今度は両手を使った。

 

 右手で子鬼を掴む動作。そして、左手で下から強く押し上げるような動作。

 

 まるでバレーボールをトスするように、子鬼を遥か上空へと放り投げる。

 

「ギャアアアッ!?」

 

 今までなら、大人の背丈ほど持ち上げるだけで精一杯だったはずの子鬼が、五メートル以上の高さまで軽々と跳ね上がった。

 

 そして、無慈悲な自由落下。

 

 地面に激突し、煙となって消える。

 

 梓の顔が、完全に興奮で紅潮していた。

 

「すごい……!」

 

 彼女は、自分の両手を握りしめ、震える声で言った。

 

「射程が倍になってる。出力も、今までと全然違う……!」

 

「私、二ヶ月前にこの能力に目覚めてから、ずっとこれが限界だと思ってたのに……こんな簡単なことに、どうして気づかなかったんだろう……!」

 

 健司は、表面上は「まあ当然だよ」という余裕の笑みを浮かべていたが、実際には魔導書の的確すぎる分析に内心で冷や汗をかいていた。

 

(……お前、マジですごいな)

 

『今のは魔法の初歩中の初歩だ』

 

 魔導書が脳内で得意げに語る。

 

『手動作(ハンドサイン)というのは、術式を安定させるための“外部補助輪”なのだ。肉体の物理的な動作をリンクさせることで、脳の認識を強制的に固定し、魔力の出力の通り道を物理的に太くする。念動力のような、単純な物理干渉系の能力には特に劇的に効くアプローチだ』

 

 健司は聞きながら、ひたすらに感心していた。

 

 梓は、地面に落ちている千円札を拾うのも忘れ、弾かれたように健司の方を振り返った。

 

 その目は、明らかな熱を帯びて輝いていた。

 

「他にもありますか!?」

 

 健司は一歩後ずさった。

 

「え?」

 

「他にも、今みたいな画期的な能力の使い方、ありますか!?」

 

 梓がグイッと距離を詰めてくる。

 

「まあ……あるとは思うけど……」

 

 梓は、健司の目の前まで迫り、真剣な顔で言った。

 

「教えてください」

 

「いや、俺もそんなに人に教えられるほど詳しいわけじゃ……」

 

 健司が慌てて誤魔化そうとすると、魔導書が脳内で爆笑した。

 

『クハハハ! 見事な弟子入り志願だな、猿!』

 

(まだ早いだろ! 俺自身がド素人なのに!)

 

 梓は引き下がらなかった。

 

「お願いします。私、この二ヶ月間、ずっと自分の能力は便利だけど弱い、これが限界なんだって諦めてました」

 

「でも今、あなたの一言で、私の力は本当に倍になりました」

 

「なら、他にも絶対に、私が見落としている正しい使い方があるはずです」

 

 健司は少し考えた。

 

 この子の念動力は、自分の『接触斬撃』と非常に相性がいい。

 

 射程四メートルで、相手の体勢を崩せる。敵を空中に浮かせる。攻撃の軌道を逸らす。自分が接近する前の、決定的な隙を作ってくれる。

 

 健司一人のインファイトでは、常に接近時の被弾リスクが付き纏う。だが、梓が後方から補助してくれれば、そのリスクを劇的に下げられる。

 

『よいではないか。組め』

 

 魔導書も、珍しく肯定的な意見を出した。

 

(え、今ここで?)

 

『どうせお前も、ダンジョン探索においては完全な初心者だ。有能な仲間がいる方が、確実に死ににくいぞ』

 

 健司は小さく息を吐き、覚悟を決めた。

 

「……じゃあ、俺と『パーティー』を組まないかい?」

 

 梓が瞬きをした。

 

「パーティー?」

 

「ああ」

 

 健司は頷いた。

 

「実は、俺も今日が異界の初探索みたいなものなんだ。俺の能力は強力だけど、敵に極限まで近づいて直接『触らないと』攻撃できないっていう弱点がある」

 

「君は、安全な距離を取りながら、相手の体勢を崩すことができる」

 

「……お互いの相性は、かなり良いと思うんだけど」

 

 梓は、自分の指先を見つめ、少しだけ思考を巡らせた。

 

「つまり……私が敵を足止めして、あなたが素早く近づいてトドメを刺す?」

 

「そういう感じ」

 

「いいですね。一人でチマチマ狩るより、遥かに効率がよさそうです」

 

 健司は苦笑した。

 

「随分あっさり承諾するんだな」

 

「一人でやるより、安全にたくさん稼げそうなので」

 

「正直でいいね」

 

 梓は、ピンと姿勢を正し、健司に向かって深く頭を下げた。

 

「ぜひお願いします、師匠」

 

 健司は完全に固まった。

 

「……師匠?」

 

「はい。今の一言の説明だけで、私の能力の出力が文字通り倍になったので」

 

 梓は大真面目な顔で言った。

 

「これだけの恩恵を受けておいて、タダで教えを乞うわけにはいきません。師匠と呼ぶのが筋だと思います」

 

 健司は困り果てた。

 

「いや、師匠ってほど大層なもんじゃないんだけど……俺、ほんとに初心者だし」

 

「では、先生?」

 

「それもなんか違う気がする」

 

「じゃあ、やっぱり師匠で」

 

「戻った」

 

『クハハハハ! よかったな、猿師匠!』

 

 魔導書が腹を抱えて笑い転げている。

 

 健司は小声でぼそっと漏らした。

 

「……俺、魔導書が言ったことをそのままオウム返しで伝えてるだけなんだけどな……」

 

 梓が首を傾げる。

 

「師匠? 何か言いましたか?」

 

「いや、なんでもないよ!」

 

 健司は慌てて誤魔化した。

 

「じゃあ、さっそく今日は、その『手動作(ハンドサイン)』を実戦で徹底的に練習していこうか」

 

 健司が気を取り直して提案する。

 

「はい、師匠」

 

「……本当に師匠で固定なんだな……」

 

『諦めろ、猿』

 

 そこからの訓練内容は、実にシンプルだった。

 

 まず、念動力を使う時に、必ず明確な『手の動作』を連動させること。

 

 掴む。押す。引く。払う。投げる。捻る。止める。

 

 それぞれの動作を、現実の自分の手で大げさなほど明確に行うことで、念動力の出力の形を脳に強く安定させる。

 

 梓は、驚くほど飲み込みが早かった。

 

 今まで感覚だけでフワフワと動かしていた分、手動作という明確なアンカーを付けると、すぐに劇的な変化が現れた。

 

 子鬼を掴む。横に払う。上に放る。地面に叩き落とす。

 

 棒を振り上げた子鬼の手首を、ピンポイントで横に弾いて攻撃を逸らす。

 

 走ってくる子鬼の足元を、見えない力で払う。

 

 子鬼がバランスを崩して転倒する。

 

 そこに、健司が一瞬で踏み込んで近づく。

 

 無防備な肩に触れる。

 

(切れろ)

 

 斬撃魔法。

 

 子鬼が真っ二つに裂け、煙になって消える。

 

 千円札が落ちる。

 

 梓がそれを淡々と拾う。

 

 流れるような見事な連携だった。

 

「……これ、普通に小遣い稼ぎのバイトとして成立しちゃってるのが、なんか怖いな」

 

 健司が汗を拭いながら言うと、梓は千円札をリュックにしまいながら答えた。

 

「だから、人が少ない平日の昼間は空いてて助かります」

 

「学校は?」

 

「今日は体調不良でお休みです」

 

 梓は真顔で言った。

 

「絶対に嘘だろ」

 

「本当です。……能力者になってから、普通の学校の授業が、少しだけ退屈に感じてしまって」

 

 健司は、さっき魔導書が言っていた言葉を思い出した。

 

『特別な力があるのに、何の力もない子供と一緒に退屈な授業を受けるか?』

 

 健司は軽く苦笑した。

 

「まあ、気持ちは分からなくもないけどさ。あんまりサボりすぎて単位は落とすなよ」

 

 梓は少し意外そうな顔をした。

 

「師匠、意外と普通の大人の説教みたいなこと言いますね」

 

「俺はつい最近まで、完全に『普通側』の人間だったからな」

 

 夕方が近づく頃には、二人はかなりの数の子鬼を効率よく狩り終えていた。

 

 健司は、実戦の中で『接触斬撃』の感覚を確実に掴みつつあった。紙を切るのとは違い、怪異を切る時は特有の粘り気のある抵抗がある。だが、子鬼程度の耐久力なら、触れさえすれば確実に一撃で仕留められた。

 

 梓は手動作による念動力の精密な制御を覚え、射程も出力も、朝とは比べ物にならないほど安定していた。

 

 梓のリュックの中には、千円札がかなりの枚数貯まっている。

 

 彼女は、少しだけ嬉しそうに口元を綻ばせた。

 

「今日、いつもの三倍くらい稼げました」

 

「能力の出力は倍、稼ぎは三倍か。効率いいな」

 

「すべて師匠のおかげです」

 

「……その師匠呼び、本当にまだ慣れないんだけど」

 

「慣れてください」

 

「メンタル強いな……」

 

『弟子の方が、遥かに肝が据わっているな』

 

 魔導書の指摘に、健司は「うるさい」と念じるしかなかった。

 

 探索を終え、二人は五階の原っぱから、廃ビルの薄暗い階段室へと戻った。

 

 重い防火扉をくぐると、急に湿った埃っぽい現実の空気に引き戻される。

 

 健司は振り返り、開いたままの扉の向こうを見た。

 

 そこにはまだ、夕焼けに染まる広大な原っぱが広がっている。

 

 初めての異界。子鬼。千円札。学生の能力者たち。そして、念動力の少女。

 

 自分はついに、完全に『日常の外側』にある世界へと、両足を踏み入れたのだと実感した。

 

 梓は、一階の警備員に認定証を見せて帰ろうとしたが、その前に健司へ向き直った。

 

「師匠。次はいつ来ますか?」

 

「え? いや、俺もヤタガラスの仕事とか色々予定があるから……」

 

「じゃあ、連絡先、交換してください」

 

 梓は、スッと自分のスマホを差し出した。

 

「……行動が早いな」

 

「パーティーを組むなら、業務連絡用のツールは必須です」

 

 そのあまりに合理的な理由に、健司は納得してLINEを交換した。

 

『クハハハ! 女子高生の連絡先をゲットできてよかったな、猿』

 

 魔導書が脳内でからかってくる。

 

(やめろ。言い方が犯罪者っぽくて最悪だ)

 

「師匠? どうかしましたか?」

 

 梓が不思議そうに首を傾げる。

 

「いや、なんでもない」

 

 健司は慌てて笑顔を作った。

 

 梓は軽く頭を下げた。

 

「今日は本当にありがとうございました。……次も、ご指導お願いします」

 

「ああ。まあ、お互い無理しない範囲でな」

 

「はい、師匠」

 

 梓はそう言い残し、軽い足取りで廃ビルを後にした。

 

 健司は、彼女の小さくなっていく背中を見送りながら、少し困ったように笑った。

 

「……俺が、師匠ねえ」

 

『実際、的確に教え導いたではないか』

 

「お前が言ったことを、ただ右から左へ伝えただけだろ」

 

『その言葉を、“正しく伝える”という役割にも十分な価値はある。猿にしては上出来な初指導だったぞ』

 

 健司は少し黙った。

 

 自分が、誰かに何かを教える立場になる。

 

 ほんの少し前まで、考えたこともなかったことだ。魔導書を拾う前の自分なら、誰かの師匠になるどころか、自分自身の底辺の人生すら持て余して腐っていた。

 

 だが今は。

 

 異界で怪異を倒し、念動力の少女に戦い方を教え、パーティーを組んでいる。

 

 健司は、夕暮れの街を歩きながら小さく呟いた。

 

「ほんと、俺の人生……いったいどこに向かってるんだろうな」

 

『魔法使いだと言っただろう』

 

 魔導書が、静かに答えた。

 

 廃ビルの五階に広がる、原っぱの異界。

 

 そこで佐藤健司は、初めて怪異を自分自身の魔法で切り伏せた。

 

 そして同時に、初めて自分を「師匠」と呼ぶ、一人の少女と出会った。

 

 猿はまだ知らない。

 

 この地味で淡々とした念動力使いの少女が、やがて自分のハイリスクな近接戦闘を完璧に支える、最も厄介で、最も頼もしい相棒へと成長していくことを。

 

 だがその日、瀬尾梓にとっても、佐藤健司にとっても。

 

 ただの小遣い稼ぎの低位ダンジョンは、少しだけ、今までとは違う鮮やかな意味を持ち始めていた。

 




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