俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第34話 猿と漫画喫茶と音のジンクス

 ヤタガラスの専用訓練所を出た佐藤健司は、夕暮れの空の下、少し疲れた足取りで駅へと向かっていた。

 

 瀬尾梓への指導は、想像以上に上手くいった。

 

 彼女の近距離念動力は、体表十センチ以内に圧縮することで強力な『斥力盾』となる。

 

 遠距離のハンドサイン攻撃と、近距離の圧縮盾。

 

 この二つの戦術を身につけたことで、彼女の異界での生存率は飛躍的に跳ね上がったはずだ。

 

 梓もやる気満々で、健司が提案した地味な基礎訓練のメニューをスマホにメモして帰っていった。

 

 だが、その一方で、健司は自分自身の強烈な弱点を改めて突きつけられていた。

 

(接触斬撃は確かに強い。でも……触れなければ何もできない)

 

 健司は、自分の右手の指先を見つめた。

 

 空を飛ぶ怪異、足場を崩してくる敵、遠距離から飛び道具を撃ってくる能力者。

 

 そういった相手には、今の健司は手も足も出ない。

 

 距離を詰められなければ、ただの的だ。

 

 健司が小さくため息をつきながら改札へ向かおうとした時。

 

 脳内で、魔導書が唐突に告げた。

 

『猿、予定変更だ』

 

 健司は立ち止まり、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「……嫌な予感しかしないんだけど」

 

『漫画喫茶へ行くぞ』

 

 健司は耳を疑った。

 

「……本当に行くのかよ。さっきのは冗談じゃなくて?」

 

『当然だ。遠距離斬撃の修行だと言っただろう』

 

 魔導書の声は、極めて真面目だった。

 

 健司は深いため息をつきながら、スマホの地図アプリを開いた。

 

 現在地からほど近い駅前の雑居ビルの中に、二十四時間営業の大手漫画喫茶がある。

 

「……わかったよ。行けばいいんだろ、行けば」

 

 雑居ビルのエレベーターを上がり、漫画喫茶の受付へ。

 

 健司は、完全に普通の客を装いながらカウンターの前に立った。

 

「三時間パックで。あ、個室のブースでお願いします」

 

 店員から伝票とプラスチックの札を受け取り、ドリンクバーで烏龍茶を紙コップに注いでから、指定されたブースへと向かう。

 

 薄暗い照明、リクライニングチェア、小さなパソコンデスク。

 

 健司は荷物を置き、小さな声でぼやいた。

 

「……魔法の修行に漫画喫茶の三時間パックって、なんなんだろうな」

 

『集中しろ。お前は今、戦場にいると思え』

 

 魔導書が厳しいトーンで言う。

 

「いや、どう見ても漫画喫茶だよ」

 

『現代猿の神話資料館だ』

 

「言い方」

 

 健司はブースを出て、壁一面に本棚が並ぶフロアへと向かった。

 

 とりあえず、魔導書の言う通り「バトル漫画」の棚を物色する。

 

 有名な剣戟バトル漫画、異能がぶつかり合うバトル漫画、和風退魔アクション、ファンタジー剣士もの。

 

 剣士キャラ、必殺技、斬撃波、空間切断、見えない刃。

 

 そういった描写が多そうな作品を、腕いっぱいに十数冊抱えてブースへと戻った。

 

 健司はリクライニングチェアに座り、一冊目のページをめくり始めた。

 

 そこには、主人公の剣士が刀を大上段から振るうだけで、数メートル先の巨大な敵の胴体が真っ二つに切り裂かれる描写が見開きで描かれていた。

 

 次の漫画では、剣を振るうことで真空の刃のようなものが飛び、空間そのものを斬り裂く技。

 

 さらに別の漫画では、高速の抜刀から見えない刃が放たれ、遠くの敵を両断する。

 

『見ろ、猿』

 

 魔導書が語りかけてくる。

 

「見てるよ」

 

『斬撃を遠くへ飛ばすなど、漫画の中では当たり前に起きている現象だ』

 

「まあ、漫画だからな。見栄えが大事だし」

 

『お前も、これと同じことが出来るようになる必要がある』

 

「漫画だからって、現実の物理法則で出来るとは限らないだろ」

 

 健司が当然のツッコミを入れると、魔導書は鼻で笑うような気配を見せた。

 

『橘が言っていただろう。現代の子供たちは、アニメや漫画の影響で能力の形が発現しやすい、とな』

 

 健司は思い出した。

 

 ヤタガラスの橘真が語っていた言葉だ。

 

『現代の子供たちは、“自分にも特別な能力があるのではないか”という想像に触れる機会が非常に多い。素養のある者は、そのイメージを材料にして能力を発現させることがある』

 

『ならば、漫画の中で当たり前に起きていることは、現実の魔法使いでも起こし得る現象であるということだ』

 

 魔導書は強引なロジックを展開した。

 

「そんな無茶苦茶な……」

 

『無茶苦茶ではない。人間の認識が世界に干渉し、物理法則を捻じ曲げるのが魔法だ。ならば、その人間の認識を形作る“物語”の描写は、世界に干渉するための強力な“型”の素材になる』

 

「……理屈は分かるような、分かりたくないような」

 

『常識を捨てろ、猿』

 

「またそれか」

 

『魔法とは、常識を改造する技術だ。常識の枠を後生大事に抱えているような猿に、物理法則を無視した遠距離斬撃など使えるものか』

 

 健司は黙って、漫画のページを見つめた。

 

 刀を振る。

 

 斬撃が飛ぶ。

 

 敵が切れる。

 

 極めて単純だ。

 

 だが、だからこそ、脳にイメージとして焼き付けやすい。

 

 健司は少しずつ、自分の脳の奥底に「斬撃が飛ぶ」という強烈なビジュアルイメージを蓄積していった。

 

 健司は、ただ漫然と漫画を楽しむのではなく、その描写の「構造」を因数分解しながら読んでいった。

 

 これは、刃そのものが空気を裂いて飛んでいるのか?

 

 空気の圧力が圧縮されて刃になっているのか?

 

 それとも、「切断」という結果の概念だけが、空間を飛び越えて対象に届いているのか?

 

 健司はスマホのノートアプリを開き、思いつく限りの型をメモしていった。

 

 ・刃そのものを物理的に飛ばす型。

 

 ・斬撃波(空気や魔力の塊)を飛ばす型。

 

 ・切断の線を、対象の座標に直接刻む型。

 

 ・空間ごと裂く型。

 

 ・見えない刃をあらかじめ空中に置いておく型。

 

 ・対象に「切れた」という結果だけを強制的に押し付ける型。

 

 魔導書が、そのメモを見ながら講義を入れる。

 

『遠距離斬撃にも、無数の型がある』

 

「だろうな」

 

『だが、大きく分類すれば二つだ』

 

 魔導書は説明を続ける。

 

『一つ目。指先、手刀、または刃物から、斬撃のエネルギーそのものを飛ばして対象にぶつけて切る型。これは“飛ぶ刃”だ。斬撃が空間を移動して対象に当たり、切る。イメージがしやすく、初心者向けだ』

 

『二つ目。斬撃という“結果”を、離れた対象の座標に直接押し付ける型。これは“結果付与”だ。対象が遠くにあるにもかかわらず、そこに切断の結果だけを発生させる。こちらは防がれにくく強力だが、極めて難しい』

 

『なぜなら、対象との間に何らかの“因果接続”が必要になるからだ。あるいは、相手に“印”を付ける必要がある』

 

「印?」

 

『そうだ。直接触れた、目を合わせた、名を呼んだ、己の血を付けた、結界の線を引いた。何かしらの接続があれば、そこから切断という結果を送り込みやすくなる』

 

「つまり、いきなり遠くの相手を指差して、“切れろ”って命令するのは難しいってことか?」

 

『当然だ。お前の接触斬撃が比較的簡単に成功したのは、直接触れているからだ。触れることで、お前と対象の間に太い因果の道ができるからな』

 

「じゃあ、遠距離で結果だけを押し付けるのは、今の俺にはまだ早い、上級者向けか」

 

『そうだ。だから、今のお前は前者からやれ。指先から斬撃を飛ばして、対象に当てて切る。それが一番楽だ』

 

「なるほど……!」

 

 健司の中で、遠距離斬撃の方向性が明確に定まった。

 

 まずは結果付与ではなく、飛ぶ斬撃。

 

 指先から刃を放つ。

 

 それを空間越しに対象に当てる。

 

 当たった場所が切れる。

 

 健司がさらに漫画を読み進めていると、ふと、ある共通点に気がついた。

 

 漫画のキャラクターたちは、剣技、必殺技、大技を放つ時。

 

 ほぼ例外なく、何かを叫んでいる。

 

「そういえば、漫画のキャラって、大技を出す時絶対になんか技名叫ぶよな」

 

 健司がなんとなく呟くと、魔導書が即座に反応した。

 

『よいところに気づいたな、猿』

 

「え、そこも魔法に関係あるのか?」

 

『大ありだ。さて、お前に『音のジンクス』を教えよう』

 

「音のジンクス?」

 

『ああ。簡単に言えば、技名を叫ぶことだ』

 

 健司は呆れた顔をした。

 

「それ、ただの少年漫画の都合のいいお約束じゃないのか?」

 

『お約束として世界中に認知されているからこそ、強いのだ』

 

「ええ……」

 

『漫画の中では、誰もが誇らしげに技名を叫ぶだろう?』

 

「まあ、叫ぶな」

 

『これは現実の魔法戦でも通じる』

 

「そんな馬鹿な」

 

『馬鹿ではない。魔法とは、認識と型の力だ。己の口から声に出すという行為は、脳内の認識を極めて強固に固定する。さらに、言葉は物理的な音波となって、この世界に意味を直接刻み込む』

 

『技名を叫ぶことで、魔法は“俺は今から、この現象を起こすぞ”という明確な宣言を得る。結果として、魔法の型は圧倒的に強固になり、出力が跳ね上がるのだ』

 

「つまり、技名を口に出して言うと、魔法が安定する?」

 

『そうだ』

 

 魔導書はさらに詳細を説明した。

 

 音のジンクスとは、発声を利用した魔法の出力強化だ。

 

 言葉にすることで、脳内の曖昧なイメージが一つの形に固定される。

 

 音として外界へ放出することで、世界に対する意思の宣言になる。

 

 技名が短く、明確であるほど、発動時の迷いが減る。

 

 発声をルーティン化することで、魔力の流れを一定に保つことができる。

 

『ただし、当然デメリットもある』

 

 魔導書が釘を刺す。

 

『ジンクスは縛りだ。叫ばなければ、魔法が極端に発動しづらくなる。さらに、敵に技の発動タイミングを完全に読まれる。隠密性が著しく下がる。……そして何より、公共の場でやるとひどく恥ずかしい』

 

「最後のデメリットが一番重いな」

 

 健司は真顔で言った。

 

『猿に羞恥心など不要だ』

 

「あるわ」

 

 魔導書は、かつて健司が確率操作を覚えた時の話に繋げた。

 

『お前は最初、ガチャの確率操作で強烈なルーティンを作っただろう』

 

「画面を拭いて、親指の爪を三回こすって、いただきますって念じるやつか」

 

『そうだ。あの儀式によって、貴様は魔法という果てしない領域の入り口をこじ開けた』

 

『魔法は、自分の中で絶対の決まりごと(ジンクス)があるほど安定する。だが、その決まりごとは同時に、お前自身を縛る鎖にもなる』

 

「メリットとデメリットが表裏一体なわけか」

 

『そうだ。技名を叫ぶという縛りは、魔法の発動条件を狭く限定する代わりに、その威力を数倍に引き上げる』

 

『叫ぶことで、世界に宣言しろ。自分の脳にも命令しろ。魔法の型を、絶対に揺るがない形に固定するのだ』

 

「じゃあ、叫ばないと撃てない体になる可能性もあるってことか?」

 

『最初はな。熟練すれば無詠唱や小声での発動も可能になるが、まずは全力で叫べ』

 

「……嫌な修行だな……」

 

『猿。お前は、自分の遠距離斬撃に、何という名前を付ける?』

 

 魔導書が尋ねてきた。

 

「名前?」

 

『そうだ。名前がなければ、叫べんからな』

 

 健司は腕を組み、考え込んだ。

 

 バトル漫画に出てくるような、やたらと長い漢字の名前。

 

 格好いい横文字のルビ。

 

 四文字熟語のような必殺技。

 

 いろいろと頭に浮かんだが、実戦で毎回それを大声で叫ぶ自分を想像すると、羞恥心で死にそうになった。

 

 長い名前は、実戦のコンマ数秒のやり取りでは言いづらい。

 

 厨二病すぎる名前も、冷静になった時に耐えられない。

 

「……普通に『斬(ざん)』じゃだめか?」

 

『ふむ』

 

「長い名前も使いづらいし、実戦でとっさに叫ぶなら、極力短い方がいいだろ。斬撃なんだし、シンプルに『斬』で」

 

『よい』

 

「いいのか」

 

『短く、明確で、意味が極めて強い。発声も鋭く弾けるような音だ。遠距離斬撃の初期の技名としては、十分すぎるほど機能するだろう』

 

「じゃあ、遠距離斬撃を使う時は、指を向けて『斬!』って叫ぶ感じか」

 

『そうだ。これで、お前の中に絶対の決まりごとができた』

 

「決まりごと?」

 

『遠距離斬撃を撃つ時、指先で対象に照準を合わせ、頭の中で切断の軌道をイメージし、音として“斬”を発する』

 

『ハンドサインのジンクスと、音のジンクス。その二つを重ね合わせることで、貴様の遠距離斬撃魔法の型が完全に成立するのだ』

 

「型だけはできたってことか」

 

『あとは、実際にそれを世界に出力する訓練をするだけだ』

 

 健司は、手元の漫画のページを見た。

 

 剣士が叫ぶ。

 

 斬撃が飛ぶ。

 

 敵が切れる。

 

 健司は、自分の指先から薄い透明な刃が飛び出し、目の前の紙コップを切断するイメージを、脳内に強く思い描いた。

 

 漫画喫茶での三時間が過ぎた。

 

 健司は、途中から漫画を楽しんでいるのか、真面目に修行しているのか自分でも分からなくなりながらも、斬撃描写のある漫画をひたすらに読み込み、ノートにメモを取り続けた。

 

 頭の中には、確かに大量の「飛ぶ斬撃」のビジュアルイメージが蓄積されている。

 

 帰宅後。

 

 六畳一間のアパートの部屋。

 

 健司は、ローテーブルの上に、使い捨ての紙コップを一つ、逆さまにして置いた。

 

 ここが、いつもの健司の練習場だ。

 

 少し前は、ここで「手ハサミ」を作って紙を直接こすり、切断の感覚を掴む練習をしていた。

 

 だが今回は、触れずに切る。

 

 健司は、机から少し距離を取った。

 

 最初は一メートル。

 

 目の前の机の上に、ただの紙コップ。

 

 健司は右手を前に出した。

 

 人差し指と中指をピタリと揃え、その指先を紙コップの胴体へと向ける。

 

 ハンドサイン。

 

 脳内で、紙コップを横に両断する切断線をイメージする。

 

 指先から薄い透明な斬撃が飛ぶ。

 

 紙コップの中央を真っ直ぐに通る。

 

 その瞬間、健司は腹から声に出した。

 

「斬!」

 

 ……何も起きなかった。

 

 紙コップは、微動だにしない。

 

「……あれ?」

 

『一回でスッパリと出来ると思うな。猿』

 

 魔導書が呆れたように言う。

 

「ですよね」

 

 二回目。

 

「斬!」

 

 紙コップが、風圧を受けたようにわずかに揺れた。

 

 だが、切れない。

 

 三回目。

 

「斬!」

 

 紙コップの表面に、カッターで薄く撫でたような、極細の線が入った。

 

 健司の目が見開かれた。

 

「おっ」

 

『止まるな、続けろ』

 

 四回目。

 

 健司は、漫画喫茶で見た斬撃波のイメージを強烈に思い出す。

 

 刃が飛ぶ。

 

 空気を切り裂く。

 

 紙コップへ激突する。

 

「斬!」

 

 紙コップの側面に、スッと数センチの切れ目が入った。

 

 五回目。

 

 健司は、指先に魔力を極限まで集めた。

 

 ハンドサインの固定。

 

 音のジンクスによる魔法の発動宣言。

 

 飛ぶ斬撃の明確なイメージ。

 

「斬!」

 

 紙コップが、ぱかりと斜めに切断された。

 

 上半分が、コロンと机の上へと滑り落ちる。

 

 健司は、突き出した右手を見たまま、一瞬固まった。

 

 そして、歓喜の声を上げた。

 

「おー! 出来た!」

 

『よしよし。初回としては上出来だ』

 

 魔導書も満足げだ。

 

 健司は机に歩み寄り、切断された紙コップの半分を拾い上げた。

 

 切断面は、少し粗く毛羽立っている。

 

 手で直接触れて発動した時の接触斬撃より、明らかに威力が浅く、不安定だ。

 

 だが、間違いなく、一メートル離れた場所から『触れずに』切れている。

 

「これ、マジで出来るんだな……」

 

『当たり前だ。斬撃を飛ばすなど、猿の描く漫画の中では何十年も前から行われている基本中の基本だぞ』

 

「だから、漫画を魔法の根拠にするのやめろって」

 

『漫画は現代猿の共通認識を創り上げる神話体系だ。魔法の物理法則を上書きする根拠として、これ以上強力なものはない』

 

『お前は今、二つのジンクスを使って魔法を出力した』

 

 魔導書が、成功の要因を分析する。

 

『一つはハンドサインのジンクス。指先を向け、そこから斬撃が飛ぶという強固な型』

 

『もう一つは音のジンクス。“斬”と声に発することで、切断魔法の発動を世界に宣言した』

 

「ああ、ハンドサインと技名か」

 

『その二つを完璧に重ね合わせたことで、遠距離斬撃の初期発動に成功したのだ』

 

 健司は少し興奮気味に尋ねた。

 

「じゃあ、これをこのまま鍛えれば、実戦でも使えるようになる?」

 

『まだ早い』

 

 魔導書が即答で切り捨てる。

 

「ですよね」

 

『今の威力は、ペラペラの紙コップを切る程度だ。子鬼の泥の皮膚を切るには全く威力が足りん。動く敵にピンポイントで当てる精度も足りん。次弾を撃つまでの連射もできん。射程もたった一メートルと短すぎる』

 

「課題だらけだな……」

 

『だが、新しい魔法の入り口は確かに開いた』

 

 魔導書は、珍しく少しだけ声のトーンを優しくした。

 

『あとは、この確立した型を維持しつつ、ひたすらに威力を上げていくだけだ』

 

「だけって、簡単に言うなよ」

 

『簡単ではない。だが、一度出来たものは、必ず伸ばせる』

 

 魔導書は、遠距離斬撃を実戦レベルに引き上げるための、今後の過酷な訓練メニューを提示した。

 

 一、紙コップ切断の精度向上。

 

 一メートルの距離から、正面の紙コップを縦に切る。

 

 横に切る。

 

 斜めに切る。

 

 同じ位置を狙ってミリ単位で切る。

 

 二、距離の延長。

 

 一メートル。

 

 一・五メートル。

 

 二メートル。

 

 三メートル。

 

 距離を伸ばすほど斬撃の密度は薄くなる。

 

 届かせるためには、ハンドサインと音の精度をさらに上げる必要がある。

 

 三、威力強化。

 

 紙コップ。

 

 厚紙。

 

 段ボール。

 

 割り箸。

 

 プラスチック板。

 

 少しずつ、切断する対象を硬いものへと移行していく。

 

 四、発声の安定と隠密化。

 

 大声で叫ぶ。

 

 普通の声。

 

 小声で呟く。

 

 どの程度の発声で魔法が発動するか、出力の境界を確認する。

 

 いずれは、敵に気づかれない小声でも発動できるようにする。

 

 五、連射性能の向上。

 

 一発ごとに魔力の流れを素早く整える。

 

 焦らず、一発目と同じ品質の斬撃を連続で出せるようにする。

 

 健司は、ズラリと並べられた課題を聞いて呻いた。

 

「……普通に宿題が多すぎるんだけど」

 

『魔法とは、血を吐くような反復の果てにある』

 

「漫画読んで、部屋で一人で『斬!』って叫んで紙コップ切るのも、反復か……」

 

『立派な修行だ』

 

 健司は、少し気になっていたことを尋ねた。

 

「でもさ、実戦で『斬!』って毎回叫ぶの、普通に相手にタイミングがバレないか?」

 

『バレる』

 

「ダメじゃん!」

 

『だから、最初は使いどころを選べと言っている。……あるいは、叫ぶことそのものを“フェイント”に使え』

 

「フェイント?」

 

『そうだ。“斬”と叫びながら、遠距離ではなく身体強化で一気に踏み込む。“斬”と発声して相手の意識を遠距離攻撃に向けさせ、防御させたところを、威力の高い接触斬撃に切り替える。逆に、無言で接近して接触斬撃を警戒させ、突然“斬”と発声して遠距離から牽制する』

 

 健司はなるほどと感心した。

 

「そっか。技名を叫ぶっていうデメリットも、使い方次第で戦術の幅になるのか」

 

『そうだ。ジンクスは自らを縛る鎖だが、その縛りは同時に、相手を騙す強力な武器にもなる』

 

 叫ぶことは、確かに恥ずかしいし、隠密性もない。

 

 だが、その「音」を逆手に利用して、相手の意識を誘導し、戦闘の主導権を握ることもできるのだ。

 

 健司は、机の上に転がっている切れた紙コップを見つめた。

 

 触れずに、切った。

 

 初めての感覚だ。

 

 手で直接触れて発動する重い斬撃とは全く違う。

 

 指先から飛ばした、空気のようにもろく、薄く、未熟な刃。

 

 だが、それは確かに、健司が自力で手に入れた『遠距離斬撃』だった。

 

 健司は、自分の人差し指と中指を見つめた。

 

「斬、か」

 

 短い名前。

 

 単純な音。

 

 だが、だからこそ実戦の極限状態でも使いやすい。

 

 健司は、机の上にもう一つ、新しい紙コップを置いた。

 

 一メートルほど距離を取る。

 

 右手の指先を、真っ直ぐに紙コップへ向ける。

 

 深く息を吸い、魔力を整える。

 

「斬!」

 

 スッ、と。

 

 紙コップの側面に、浅い切れ目が入った。

 

 まだ先ほどのように綺麗には両断できない。

 

 だが、一回目よりも明らかに線は深く、安定していた。

 

 健司は小さく笑った。

 

「よし。もう一回だ」

 

 漫画喫茶で浴びた、無数の『飛ぶ斬撃』のビジュアルイメージ。

 

 技名を叫ぶという、子供じみたようでいて、極めて強固で合理的な『音のジンクス』。

 

 そして、指先から放たれた小さな切断線。

 

 佐藤健司の斬撃魔法は、ようやく「触れれば切れる」という制限を越え、「届けば切れる」という新たな次元へと、その第一歩を踏み出した。

 

 猿はまだ知らない。

 

 この短く、シンプルな一文字の技名が、やがて彼の戦闘スタイルを根底から大きく変えていくことを。

 

 だがその夜。

 

 東京の片隅にある安アパートの机の上には、見えない刃によって綺麗に切断された紙コップが一つ、確かに転がっていた。

 




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