俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】 作:パラレル・ゲーマー
都内某所の廃ビル五階に広がる、原っぱの低位異界。
佐藤健司と瀬尾梓の二人は、ヤタガラスの受付で認定証を提示し、今日もこの初心者向け区画へ足を踏み入れていた。
今回の目的は、これまでの訓練成果の確認と、実戦での反復だ。
健司は遠距離斬撃『斬』の命中精度と発動速度の向上。梓は『斥力盾』の展開速度と、遠距離での足止め・武器奪取の連動。
そしてもちろん、ついでに子鬼を狩って千円札を集める「小遣い稼ぎ」も兼ねていた。
廃ビルの非常扉を抜けると、いつものようにどこまでも続く青々とした原っぱが広がっている。
だが、健司は周囲を見渡して、少しだけ違和感を覚えた。
「なんか、今日は妙に人が多くないか?」
健司の目に見える範囲だけでも、十数人の人影が点在している。学生服を着た能力者、若い社会人風の男、まだ登録したてらしき中年男性、ジャージ姿の二人組、なぜか木刀を素振りしている少年。
梓も周囲を見渡し、淡々と答える。
「そうですね。いつもより三割ほど多いです」
「平日の真っ昼間なのに?」
「はい。今週は一部の高校で中間試験期間だったり、短縮授業だったり、いろいろ理由はあります」
健司は呆れた顔をした。
「お前、学校に行かない側の解像度が無駄に高いな」
「能力者同士のSNSのコミュニティでの情報収集は大事です。空いている時間を狙うために」
梓はリュックの紐を直しながら真顔で言う。
「そういう方向にだけ真面目なんだな……」
健司は苦笑しつつも、周囲の初心者たちの多さに少し安心していた。
これだけ人がいれば、子鬼が数体出たところで、すぐに誰かが処理するだろう。怪我をするような危険は少ない。
だが。
『猿。今日は少し妙だぞ』
脳内で、魔導書が低く警告を発した。
「……何が?」
健司が小さく呟き返す。
『異界の濃淡が不均一だ。空間のざわつき方が妙に偏っている。……それに、湧いてくる子鬼の気配が、一体や二体ずつではない』
健司は嫌な予感を覚え、油断なく周囲の草むらへ視線を走らせた。
数十メートル先、空間が水面のようにじわりと滲んだ。
最初の子鬼が現れる。いつもの、木の棒を持った灰色の子鬼だ。
近くにいた木刀の少年が、気合の入った掛け声とともにそれに突っ込んでいく。横からは、別の少女の能力者が、手から火花のようなものを放って子鬼を怯ませた。
「まあ、普通だな」
健司がそう思いかけた直後だった。
少年の背後の空間が、連続して三ヶ所、ポコポコと水泡のように滲んだ。
二体目。三体目。
さらに、少し離れた別の草むらから、四体目が這い出してくる。
いつもなら、初心者区画の子鬼は数分に一体、単独でぽつぽつと現れる程度だ。少なくとも、初心者たちが一気に複数体に囲まれるような異常な湧き方はしない。
梓が、眉をひそめて小さく呟いた。
「……変ですね」
「梓もそう思うか?」
「はい。私、二ヶ月くらいここに通って狩っていますけど、こんな短時間に密集した湧き方は初めて見ました」
「お前、二ヶ月も平日の昼間にここに通ってたのかよ」
「小遣い稼ぎに一番手軽で便利なので」
梓が平然と返す。
「そこは今いい」
健司が突っ込みを入れた時、周囲の初心者たちも、明らかに異常な湧き方にざわつき始めていた。
「おい、今日なんか湧き多くね?」
「何これ、ソシャゲのゲリライベントとか?」
「そんなわけあるかバカ。これ現実だぞ」
「いや、ここ初心者区画だよな? なんか多くないか!?」
健司は、即座に未来視を軽く走らせた。
数秒先の光景が、脳内にフラッシュする。
——子鬼たちが、バラバラの方向から一斉に初心者の集団へ突っ込んでいく未来。
——木刀の少年が、横から別の子鬼に殴られて派手に転倒する未来。
——梓が斥力盾で正面の子鬼を防ごうとするが、死角から別の子鬼に背後を取られ、リュックを掴まれる未来。
健司は舌打ちをした。
「まずいな」
草むらを掻き分け、六体、七体と増えた子鬼たちが、奇声を上げながら一斉に初心者たちへ向かって走り出した。
初心者たちは、完全にパニックに陥っていた。それぞれが自分の近くにいる子鬼だけを相手にしようとし、連携など全く取れていない。
「梓、左から来る二体を足止めしろ!」
健司が鋭く指示を飛ばす。
「はい、師匠」
梓が両手を突き出し、素早くハンドサインを結ぶ。
見えない念動力が、突進してくる二体の子鬼の足元を同時に正確に払った。
「ギャッ!?」
子鬼たちが前のめりに派手に転倒し、土煙が上がる。
健司は、右手の人差し指と中指を揃え、倒れた子鬼へと向けた。
「斬!」
指先から飛んだ薄い斬撃が、一体の子鬼の肩口にザシュッと切り傷を入れた。
だが、やはり倒せない。黒い体液が散るが、子鬼はすぐに立ち上がろうとする。
健司は、身体強化の出力を上げて一気に踏み込み、その子鬼の胸ぐらを掴んで接触斬撃を流し込んだ。
一体消滅。
もう一体の転んだ子鬼は、近くにいた木刀の少年が、雄叫びを上げながら頭を叩き潰した。
「たす、助かった!」
少年が荒い息を吐きながら叫ぶ。
「礼はいいから、周り見ろ! 右後ろから来てるぞ!」
健司の未来視に、少年の死角から子鬼が忍び寄る未来が映っていた。
少年が慌てて振り返り、間一髪で子鬼の木の棒を木刀で受け止める。
この時点で、健司は完全に「この場の交通整理役」となっていた。
彼自身の遠距離攻撃力は低い。だが、未来視で誰がどこから狙われているのかを瞬時に読み取り、大声で的確な警告を飛ばすことで、即席の司令塔として機能していた。
混戦の中で、健司はさらに強い違和感を覚えていた。
子鬼たちは、ただ本能のままにバラバラに湧いているだけではない。
ある程度の「まとまり」を持って動いているのだ。
複数の初心者を、意図的に囲むように回り込んでいる個体がいる。一体がわざと前に出て隙を見せ、別の個体が横から死角を狙う。
ただし、その連携はひどく雑だった。
命令に従おうとして、子鬼同士が頭をぶつけて転ぶ。同じ一人の獲物に群がりすぎて、お互いの武器が邪魔になり、同士討ちをしている。一体が、慌てて走る別の子鬼に足を引っかけられて派手に転倒する。
「……なんだこれ? 連携してるのか、してないのか……」
健司が戸惑う。
「子鬼が、少しだけ賢いです」
梓が、斥力盾で棒を弾きながら冷静に分析する。
「でも、統制はすごく雑ですね。無理やり動かされているみたいです」
「誰かが指揮してるってことか?」
『群れの中心を探せ、猿』
魔導書が脳内で指示を出す。
『こういう不自然な動きをする時は、必ず親玉となる指揮個体が存在している』
健司は、身体を低く保ちながら、広大な原っぱ全体を見回した。
すると、少し離れた、見晴らしの良い丘のような草地の上に、異質な個体がいるのを見つけた。
背丈が、普通の子鬼より一回り以上大きい。
手には粗末な木の棒ではなく、錆びた短い槍のようなものを握っている。
そして頭には、どこで拾ったのか、汚れた赤い布切れのようなものをハチマキのように巻いていた。
そいつが、槍を振り上げ、「ギャギャッ!」と一段と甲高い声を上げるたびに、周囲の草むらから新たな子鬼が現れ、初心者たちの群れへと方向を変えて突っ込んでくる。
「いた。あいつか」
健司が丘を指差す。
「普通の子鬼より、かなり大きいですね」
梓が目を細める。
「……『子鬼親分』ってところか」
「ネーミングが雑すぎます」
梓がすかさずツッコミを入れる。
「分かりやすいだろ。……問題は、あいつが他の子鬼に命令を出してるってことだ」
子鬼親分は、決して強力なボスモンスターというわけではない。
遠目に見る限り、身体能力は普通の子鬼より少し毛が生えた程度。槍の扱いも、素人が振り回しているように拙い。
だが、他の子鬼たちに大雑把な「指揮」を出せるという能力が、この初心者区画においては致命的に厄介だった。
ここにいる初心者たちは、あくまで「一体ずつ」の怪異を相手にする訓練しかしていない。
複数体に同時に、しかも少しでも連携めいた動きで囲まれると、パニックを起こして完全に対応できなくなる。
健司は状況を瞬時に整理した。
あの子鬼親分を倒せば、群れの指揮系統は崩壊する。逆に、親分を放置したまま雑魚を狩っていても、子鬼の異常な出現と突撃は終わらない。
健司は、周囲で逃げ惑い、あるいは必死に戦っている初心者たちに向かって、腹の底から声を張り上げた。
「おい!! あそこの丘の上の、あのでかい子鬼が指示を出してる! 俺たちがあいつを狙うから、お前らは周りの雑魚子鬼を抑えててくれ!」
初心者たちは、突然の指示に一瞬戸惑った。
だが、健司はさっきから、的確な未来視で何度も彼らの危機を救っている。その実績が、彼の言葉に妙な説得力を持たせていた。
さっき助けられた木刀少年が、一番に反応した。
「分かった! こっちの雑魚は引き受ける!」
手から火花を出していた少女も叫ぶ。
「私たちが、あいつらに近づけさせなきゃいいんでしょ!」
登録したてらしき中年男性が、泣きそうな顔で悲鳴を上げる。
「無茶言うなよおぉぉ!」
それでも、何人かが覚悟を決め、防戦一方だった動きを切り替え、子鬼の迎撃に回り始めた。
ゲーム的に綺麗な役割分担などできていない。みんな素人だ。
叫びながら、転びながら、泥だらけになって子鬼を止めている。
だが、確かにその場には、一つの大きな敵に立ち向かう「レイド」のような形が生まれつつあった。
(なんか、マジでレイドバトルみたいになってきたな……)
健司は内心で苦笑した。
「師匠、親分を狙うんですね」
梓が、健司の横に並び立つ。
「ああ。梓、親分までの道を作れるか?」
「完全には無理です。でも、邪魔な子鬼を転ばせたり、軌道を逸らすくらいなら」
「十分だ。行くぞ」
第一の突入。
健司と梓が、丘の上の親分へと真っ直ぐに向かって駆け出す。
子鬼親分は、一直線に向かってくる二人を危険と判断したらしい。
「ギャギィッ!!」と金切り声を上げ、手前の草むらに隠れていた子鬼三体を、健司たちの側面から突っ込ませた。
「梓!」
「はい!」
梓が走りながら両手でハンドサインを結ぶ。
一体の子鬼の足元を念動力で鋭く払い、転倒させる。もう一体の胸ぐらを、見えない手で強く後方へ突き飛ばす。
だが、三体目がその隙間をすり抜け、健司へ木の棒を振り下ろしてきた。
「斬!」
健司が指先を向け、遠距離斬撃を放つ。
薄い刃が三体目の脚に浅く入り、バランスを崩させる。
健司は身体強化で一気に踏み込み、もつれた子鬼の腹を強烈に蹴り飛ばして退路を作った。
親分まで、あと数メートル。
だが、親分の「ギャッ」という短い指示で、今度は別方向の茂みから、さらに二体の子鬼が飛び出してきた。
梓がとっさに両手を胸の前に構え、『斥力盾』を展開する。
コンッ!
一体の子鬼の棒が、見えない盾に弾かれる。梓はそのまま念動力で棒を絡め取り、強引に奪い取った。
だが、その足止めを食らった数秒の間に、子鬼親分は卑怯にも丘の裏側へとサッと後退し、距離を取ってしまった。
第一の突入は失敗だ。
「逃げ足は速いな、親分!」
健司が舌打ちする。
「一応、状況を見て判断する知能がありますね」
梓が奪った木の棒を放り捨てながら言う。
『子鬼の猿知恵にしては、だがな』
魔導書が冷たく評価する。
子鬼親分は、健司と梓が自分を的確に狙っていることに脅威を感じたようだ。
「ギャギャギャッ!!」と連続して叫び声を上げる。
すると、健司たちに向かってきていた子鬼の群れが、一斉に方向を転換した。
彼らは健司たちを無視し、周囲で防戦している初心者たちへと殺到し始めたのだ。
健司の未来視に、最悪のビジョンが映る。
火花の能力者の少女が、二体の子鬼に同時に囲まれる。後ろへ下がろうとして石につまずいて転び、無防備な顔面に木の棒が振り下ろされる未来。
健司は、親分をこのまま追うか、初心者を助けに戻るか、一瞬だけ激しく迷った。
『目的を見失うな、猿。親分を叩けば全て終わる』
魔導書が冷徹な判断を促す。
「分かってる! でも……!」
健司は、親分への追撃を一度諦め、踵を返して火花の少女の元へと全力で走った。
あんな素人の少女に、大怪我をさせるわけにはいかない。
「梓、右の子を守れ!」
「はい!」
梓が、両手を前へ押し出すようなハンドサインを作る。
体表に展開していた斥力盾を、強引に前方へ数メートル『投げる』ように射出した。完全な遠隔盾にはならないが、突撃してくる子鬼と少女の間に、一瞬だけ見えない壁が割り込む。
ガンッ!
子鬼が、見えない壁に激突して体勢を崩す。
その隙に、健司が身体強化のスピードで少女の前に滑り込んだ。
「斬!」
至近距離からの遠距離斬撃。子鬼の腕にスッと傷が入り、動きが止まる。
健司はそのまま肩に触れ、確実な接触斬撃を流し込んで処理した。
「あ、ありがとう……!」
へたり込んでいた少女が、涙声で礼を言う。
「下がって! 一人で前に突出しすぎないで、周りと固まって戦え!」
健司が怒鳴る。
この場面で、健司はただの無双するアタッカーではなくなっていた。親分を狙いつつ、危機に陥る初心者たちを予知でカバーし、戦線を維持するための「遊撃の司令塔」として、広い原っぱを忙しく走り回っていた。
健司の的確な指示で、初心者たちも少しずつだが、お互いにカバーし合うまとまりを見せ始めていた。
木刀の少年は腕っ節は強いが、すぐに前に出すぎる癖がある。
「木刀! 出すぎるな、下がれ!」
健司が叫ぶ。
火花の少女は、遠距離から子鬼の顔面を狙って怯ませるのが得意だ。
梓が「私が足止めしたところをお願いします」と、冷静に連携を提案する。
そして、泣きそうになっていた中年男性の能力者。彼は地味な身体強化能力らしく、攻撃力は皆無だが、肉体がやたらと硬い。
「その人、壁役に向いてます」
梓が、冷徹なゲーマー目線で評価する。
「壁役って何だよ!?」
中年男性が悲鳴を上げる。
「今だけ、あの子たちの盾になって、棒を受け止めてください! 頼みます!」
健司が拝み倒す。
いびつだが、確かな即席のパーティーが形成されていく。
健司は、梓の成長にも驚いていた。彼女は自分だけで戦うのではなく、瞬時に他人の能力の特性を見抜き、どう使えば効率的かを考えられるようになっている。
「よし。第二突入だ」
健司は、息を整えながら丘の上を睨みつけた。
健司は、周囲の初心者たちに向かって声を張った。
「十秒! たった十秒だけでいい! 周りの雑魚子鬼を、俺たちに近づけないように止めてくれ!」
「十秒なら、なんとかする!」
木刀少年が叫ぶ。
「やる!」
火花少女が両手に火花を散らしながら構える。
「無茶だろぉ!」
中年男性が子鬼の棒を腕で受け止めながら泣く。
「十秒で、終わらせます」
梓が、健司の横へスッと並んだ。
「頼む」
梓が、健司よりも先に前へ出た。
普段の淡々とした表情とは違う、極限まで集中した真剣な顔。
両手で、次々と複雑なハンドサインを素早く結んでいく。
まず、親分の前に立ちはだかっていた護衛の子鬼二体の足を、念動力で同時に鋭く払う。二体が重なるように転倒する。
次に、梓は両手を胸の前に構え、斥力盾を体表十センチに極限圧縮しながら、自ら丘へ向かって走り出した。
「ギィッ!」
横から突っ込んできた別の子鬼の棒を、走りながら斥力盾でガツンと弾き返す。
梓は立ち止まらず、そのまま念動力で相手の棒を奪い取り、背後の別の子鬼へと勢いよく投げつけた。
完璧に切り開かれた、十秒間の道。
健司は、その横をトップスピードで駆け抜けた。
「斬!」
走りながら、親分へ向けて指先を突き出す。
健司の放った遠距離斬撃が、親分の太い脚に浅く入り込んだ。
「ギャアアッ!!」
親分の動きが、明確に鈍る。
子鬼親分は危機を感じ、甲高い金切り声で叫んだ。
周囲で初心者たちと戦っていた子鬼たちが、親分を守ろうと一斉に丘の方へと群がろうとする。
だが、その突然の方向転換により、子鬼たちの指揮は完全に乱れた。
集まりすぎた子鬼同士が激しくぶつかり合って転倒する。
その隙を突き、木刀少年が一体の頭を叩き割る。火花少女が一体の顔面を焼いて怯ませる。中年男性が悲鳴を上げながら、覆い被さってきた一体を強引に投げ飛ばす。
「今だ!」
健司は丘を駆け上がり、ついに子鬼親分との一対一の間合いに入った。
親分は、普通の子鬼よりは確実に強い。
追い詰められ、手にした錆びた槍を、健司の腹を狙って鋭く突き出してきた。
だが、健司には予知がある。
槍が右肩を狙う未来。次に足元を薙ぎ払う未来。
健司は、その複数の軌道をギリギリで見切り、最小限の動きで紙一重でかわしていく。
身体強化の出力を三倍に引き上げる。
しかし、親分は賢かった。健司の攻撃範囲に入らないよう、ジリジリと後退しながら引き撃ちのように槍を振るい、徹底的に距離を取ろうとするのだ。
健司は決定打である『接触斬撃』を当てたい。しかし、近づけない。
「こいつ、子鬼のくせに引き撃ちしやがるぞ!」
健司が焦る。
『親分だからな。猿よりは知恵が回るのだろう』
魔導書が余裕の解説を入れる。
その時、横から梓の絶妙な支援が入った。
後退しようとする親分の足元の地面を、念動力で強く押したのだ。
「ギャッ!?」
親分の足が滑り、一瞬だけ体勢が大きく崩れた。
「斬!」
健司はすかさず遠距離斬撃を放つ。
親分の厚い胸の皮膚に、浅い切り傷が入る。倒れない。だが、親分の意識と恐怖が、一瞬だけ完全に健司の「指先」へと向いた。
その刹那。
梓が、背後から親分の持つ錆びた槍を、渾身の念動力で強引に掴み取った。
「師匠!」
梓の叫び。
「ナイス!」
健司は、空いた槍の懐へと一気に踏み込んだ。
親分は慌てて槍を手放し、左側へと逃げようとする。
健司は予知でその逃走ルートを完全に読み切っていた。
左へ先回りする。
親分が、自ら健司の射程内へと飛び込んでくる形になった。
健司の右手が、親分の太い胴体に触れる。
(切れろッ)
接触斬撃。
だが、親分は普通の子鬼とは違い、切断を拒むような強い抵抗があった。一瞬、指先に重いゴムの壁を押し切るような、強烈な負荷がかかる。
『押し込め、猿!』
魔導書が檄を飛ばす。
「切れろおおおッ!!」
健司は、全制御能力と意志を指先に注ぎ込み、触れた一点から子鬼親分の因果を無理やり切断へと傾けた。
ザパァァンッ!!
親分の太い胴体が、斜めに完全に両断された。
黒い煙が、傷口から噴泉のように吹き出す。
子鬼親分は、「ギャギャギャッ……」と断末魔の甲高い声を上げながら、ボロボロと崩れ落ちた。
そして。
完全に消滅した後に、普通の子鬼が落とす千円札ではなく、ピンポン玉ほどの大きさの『真っ黒な石』のようなものを、コロンと地面に落とした。
健司は、肩で荒く息をしながらそれを見つめた。
「……何これ?」
「ドロップ品、ですか?」
追いついてきた梓も、不思議そうに首を傾げた。
親分が消滅した瞬間。
原っぱを支配していた、奇妙な強制力がフッと霧散した。
周囲で戦っていた子鬼たちの動きが、一斉に止まった。統制が完全に崩れたのだ。
何体かはパニックを起こして茂みへと逃げ出し、残った何体かは、戦意を喪失したようにその場でボフッと煙になって消え去った。
次々と子鬼が出現していた、空間の水面のような滲みも、完全に薄れて消えていく。
初心者たちは、武器を下ろし、息を切らしながら周囲を見回した。
「終わった……?」
火花の少女が、へたり込んで呟く。
「あのでかいの倒したら、湧くのが止まったぞ……」
木刀の少年が、信じられないという顔で丘の上の健司たちを見た。
「もう帰りたい……。マジで帰りたい……」
中年男性が、土にまみれて咽び泣いている。
健司も、ドッと疲れが押し寄せてその場に座り込んだ。
「俺も帰りたい……」
「お疲れ様です、師匠」
梓が、健司の横に立って涼しい顔で言った。
「お前、なんでそんなわりと平気そうなんだよ」
健司が呆れる。
「疲れました。でも、前回教わった斥力盾は、かなり実戦で機能することが分かりました。大きな収穫です」
「こんな修羅場の後で、そこを冷静に分析できるの、逆にすごいな」
健司は、この弟子の図太さに改めて感心するしかなかった。
健司はすぐにスマホを取り出し、ヤタガラスの連絡用アプリから三枝へと通報を入れた。
『はい、三枝です』
「初心者区画でイレギュラーです。子鬼が異常なペースで複数同時出現しました。通常より一回り大きい指揮個体を確認。それを倒したら、出現が完全に止まりました」
三枝の声のトーンが、一瞬で仕事のそれに切り替わる。
『怪我人は?』
「打撲などの軽傷はそこそこいると思います。でも、重傷者は俺が見た限りではゼロです」
『分かりました。すぐに現場の封鎖班と異界調査班を向かわせます。佐藤さんは、可能なら彼らが到着するまで現場の維持と、初心者のケアをお願いします』
「了解です」
通話を切り、ヤタガラスの職員が到着するまでの間。
健司と梓は、他の初心者たちを安全な入り口の非常扉付近へと誘導しつつ、親分が落とした『黒い石』のそばで見張りに立っていた。
『絶対に素手で触るなよ、猿』
魔導書が警告する。
「触らないよ」
「なんか、怪しいですしね」
梓も一定の距離を保っている。
「千円札以外のドロップ品なんて、初めて見たな」
「私も二ヶ月通ってますけど、初めてです。これ、高く売れるんでしょうか」
梓の目は、少しだけ現金な色を帯びていた。
十五分後。
ヤタガラスの封鎖班と調査班が、慌ただしく異界へと到着した。
警備員たちが手際よく初心者たちを保護・誘導し、怪我の有無を確認していく。
防護服を着た異界調査員が、子鬼親分の落とした黒い石を、特殊なピンセットで慎重に呪的結界付きのケースへと収めた。
調査員たちは、原っぱの数カ所を念入りに調べていた。
地面の土。揺れる草。空間の滲みが発生していた座標。そして、親分が立って指揮をしていたあの丘の上。
丘の上を調べていた一人の調査員が、ピンセットで小さな『何か』を拾い上げ、小瓶に入れた。
黒い粉。細かい骨片。あるいは、古びた紙片のようなもの。
健司の位置からはよく見えなかったが、それがただのゴミではないことだけは分かった。
健司は、調査員に尋ねてみた。
「これ……こういうイレギュラーって、低位異界では自然発生するものなんですか?」
調査員は手を止め、少しだけ沈黙した。
「……現時点では、断定はできません」
「その言い方、自然発生じゃない可能性があるってことですよね?」
健司が踏み込む。
「あくまで、可能性の話です」
調査員は慎重に言葉を選んだ。
「初心者区画で、今回のような指揮個体が自然に発生する確率自体は、ゼロではありません」
「ゼロではない?」
「ですが」
調査員は、丘の上の地面を見つめた。
「今回の指揮個体の出現位置、群れの異常な寄り方、発生のタイミング。……そして、この残滓。少し、条件が『綺麗すぎます』」
「綺麗すぎる?」
梓が聞き返す。
「誰かが、意図的に子鬼を一点に集めるための『餌』を撒いた。あるいは、低位怪異の異常発生を誘発・誘導するための『術式』を仕掛けた。……そう考えた方が、物理的にも呪的にも、説明がつきやすい部分があるんです」
健司は息を呑んだ。
「人為的、ってことですか」
「まだ断定はできません。ただの偶然、異界の気まぐれが重なっただけかもしれません」
調査員は立ち上がった。
「ただ、異界が勝手に暴走しただけ、と安易に決めつけるには、状況が整いすぎていますね」
この時点で、誰が、何のためにそんなことをしたのか。黒幕の名前は出ない。
ただ、「誰かが試したかもしれない」という、得体の知れない不気味な示唆だけが、健司の心に重く残った。
後日。
健司は、ヤタガラスの施設へと呼び出されていた。
三枝と、先日の異界調査員から、今回の件に関する簡単な説明を受けるためだ。
事件の整理。
初心者区画のイレギュラーは、ヤタガラス側で正式に『異常事態』として調査対象になった。
子鬼親分は、通常の低位怪異が一時的に異界の濃度を集めて変異した指揮個体。本来なら、初心者区画のような異界の濃度が低い階層に出る確率は極めて低い。
あの黒い石は、親分個体の核のようなもの。完全なボスドロップとは言えないが、低位異界で手に入る素材としてはかなり珍しい部類らしい。
「自然発生の可能性も残っていますが、人為的な誘導の痕跡も確かに見られます」
調査員が資料を閉じながら言った。
「誰が、何のためにそんなことを?」
健司が尋ねる。
「それを調べ、未然に防ぐのが、我々ヤタガラスの仕事です」
調査員は静かに答えた。
三枝が、健司の方を見た。
「佐藤さんと瀬尾さんは、今回、現場で極めて優秀な対応をしてくれました。あの状況で重傷者が一人も出なかったのは、二人が指揮個体の存在にいち早く気づき、的確に親分個体へと狙いを絞り、周囲を動かしたおかげです」
「いや、俺はただ指示を出しただけで……他の初心者たちも、みんな必死に頑張ってましたよ」
健司は少し居心地悪そうに頭を掻いた。
「もちろんです。ただ、パニックに陥った彼らに指揮個体の存在を知らせ、狙いを一つにまとめ上げたのは佐藤さんです。その判断力は高く評価されています」
ヤタガラスからの帰り道。
健司は、今回の戦闘を振り返っていた。
遠距離斬撃『斬』は、子鬼親分にも確かに傷を入れることができた。だが、やはり決定打にはならない。親分を最終的に倒したのは、接触斬撃による強引な押し込みだ。
梓の『斥力盾』は、子鬼の棒を単発で受けるには十分すぎる強度を見せた。ただし、複数方向から一気に来られると、まだ処理が追いつかず苦しい。
初心者たちは、個々の能力ではなんとか戦えるが、連携という概念が全くない。
もしあの時、自分の予知と指示がなければ、パニックになった彼らの中で、確実に大怪我をする者が出ていただろう。
「俺、最近魔法も覚えてちょっとは強くなった気がしてたけど……一人じゃ全然だな」
健司が自嘲気味に呟くと、魔導書が応えた。
『少しは強くなっている。だが、実際の戦場は常に一対一のデュエルではない。予知という俯瞰の目で、戦場全体を見る能力をさらに磨け』
「全体を見る、か」
『猿一匹が単独で強くなるよりも、猿の群れ全体を的確に動かす方が、遥かに強い場面もあるということだ』
「言い方は相変わらず腹立つけど……今回に関しては、まさにそれだったな」
健司は小さく頷いた。
数日後。
梓から、健司のスマホに長文のLINEが届いた。
『師匠、先日の子鬼親分戦の反省点を、自分なりにドキュメントにまとめました。添付ファイルを確認してください』
「お前、本当に仕事が早いし真面目だな……」
健司が呆れながら返信すると、すぐにメッセージが返ってくる。
『私の今後の課題は、複数方向から同時に来る攻撃に対する、斥力盾の瞬時の切り替えと圧縮速度の向上です』
『俺の課題は、親分クラスを遠距離斬撃だけで止められなかったことだな。やっぱり威力が足りない』
『あと、私たち“パーティー”としての最大の課題は、周囲の初心者をどう的確に動かすか、という指揮系統の確立です』
『そこまで考えるのかよ。お前、ほんとに高校生か?』
『今回は、完全なレイドバトルだったので。レイドにおいて、野良の動きを制御するのは必須スキルです』
『完全にゲーム脳じゃん』
『師匠も人のこと言えません。木刀の人に的確にタゲ取りさせてましたよね』
健司は画面を見ながら、思わず声を出して笑ってしまった。
ヤタガラスの施設の廊下。
帰ろうとしていた健司は、すれ違いざまに、先ほどの異界調査員に小さく呼び止められた。
「佐藤さん」
「はい?」
「今回の件、もし後になって何か思い出したことがあれば、どんな些細なことでも構いません。すぐに三枝さんへ共有してください」
「何かって……例えば?」
「子鬼が異常に寄り集まっていた特定の場所。親分が立っていた丘の上の位置。妙な匂い。見慣れない人影。……何でも構いません」
調査員の目は、極めて真剣だった。
「それだけ、あの場所が怪しいってことですか」
調査員は少しだけ目を細め、低い声で言った。
「初心者区画は、あくまで右も左も分からない初心者を安全に『育てる』ための場所です。……何者かの、悪意ある実験の『試験場』ではありません」
「……誰かが、あの場所で何かを試したってことですか?」
「断定はしません」
「でも、疑ってる」
「はい」
調査員は、明確に「人為的かもしれない」と示唆し、一礼して去っていった。
健司は、廊下に一人で立ち止まった。
初心者区画で起きた、小さなレイドバトル。
子鬼親分。黒い石。子鬼を不自然に集めたかもしれない何か。
そして、誰かが安全なはずの低位異界で、悪意ある実験を試している可能性。
低位異界での小さな異常は、その場では一応の解決を見た。
子鬼親分は倒れ、初心者たちは誰も欠けることなく、無事に生きて帰ることができた。
だが、ヤタガラスの調査員たちは、それをただの偶然とは見なしていなかった。
誰かが、初心者区画に意図的に子鬼を集めたのか。
誰かが、低位怪異の群れを作る実験を、人間を餌にして行ったのか。
それとも、異界そのものが、別の何らかの巨大な因果に反応して歪み始めたのか。
答えはまだ、誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
猿と、念動力の弟子が経験した、初めての小さなレイドバトル。
それは、これから彼らが巻き込まれていくことになる、巨大で致命的な『異界の異常』の、ほんの小さな前触れに過ぎなかった。
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