俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第37話 猿と結界と空中浮遊

 低位異界での『子鬼親分』によるイレギュラーな群れとの戦闘から、数日が経過していた。

 

 佐藤健司は、六畳一間の自室の床に座り込み、スマートフォンに簡単なメモを打ち込んでいた。

 

 画面に羅列されているのは、あの日のレイドバトルの反省点だ。

 

 遠距離斬撃『斬』は、確かに子鬼親分の皮膚に傷を入れ、動きを鈍らせる牽制としては機能した。

 

 だが、決定打にはならなかった。

 

 結局、最後は直接触れての接触斬撃に頼らざるを得なかったのだ。

 

 そして何より痛感したのは、あの乱戦において、自分には他者や自分自身を『守る』手段が決定的に欠けているという事実だった。

 

 未来視を使えば、数秒先に起きる悲劇のビジョンは分かる。

 

 火花の能力者の少女が転び、子鬼の棒が振り下ろされる未来を、健司は確かに視た。

 

 だが、視えたからといって、そこに都合よく壁を作れるわけではない。

 

 結局のところ、健司が取れる行動は『自分の身体で間に割り込む』ことしかなかった。

 

 梓の『斥力盾』がなければ、初心者の何人かは確実に重傷を負っていただろう。

 

 子鬼親分へ突っ込もうとする際も、横から湧いてくる雑魚に幾度となく邪魔をされた。

 

 健司はスマホをフローリングに置き、そのまま仰向けに寝転がって呟いた。

 

「見えるだけじゃ、やっぱり足りないんだよな……」

 

『ようやく猿にも分かったか』

 

 脳内で、魔導書が皮肉っぽく返す。

 

「何がだよ」

 

『予知はあくまで未来を見る力だ。だが、見ただけでは未来の事象そのものは変わらん。お前には、見えた危険を物理的に止める手段が致命的に欠けている』

 

 健司は黙った。

 

 火花の少女の前に飛び出し、間一髪で子鬼を斬ったあの瞬間の冷や汗が蘇る。

 

 一歩遅れていれば、大惨事だった。

 

「……まあ、防御手段はどうしても欲しいな。梓の斥力盾、実戦で見て普通に便利だったし」

 

『それと、機動力もだ』

 

 魔導書が指摘する。

 

「機動力?」

 

『親分へ向かう時、横から来る雑魚に何度も足止めされたろうが。重力に縛られ、地面の上を走るしかない猿は、足場と障害物という物理法則に永遠に縛られ続ける』

 

「言い方はムカつくけど、否定できないな」

 

 健司は短く息を吐いた。

 

 その日の夜。

 

 健司はいつものように、狭いアパートの部屋で基礎訓練を終えていた。

 

 身体能力強化を全身に巡らせる感覚の維持訓練。

 

 紙コップや厚紙を使った遠距離斬撃『斬』の精度向上。

 

 未来視の短時間での集中。

 

 そして、接触斬撃のイメージ確認。

 

 すべてをこなし終えた健司は、リビングの床に大の字になっていた。

 

 全身は汗だくで、肺が酸素を求めて荒く上下している。

 

(よし、今日のノルマは終わった……)

 

 そう思って目を閉じた瞬間だった。

 

『……猿』

 

 健司は、天井を見つめたまま虚ろに答えた。

 

「……なんだよ。今日は、もう終わりじゃないのか」

 

『馬鹿め。貴様の訓練に、“終わり”などという便利な言葉は存在しない。あるのは、“始まり”と“継続”だけだ』

 

「ブラック企業の標語みたいなこと言うなよ……」

 

 健司は呻き声を上げた。

 

『さて、猿。先日の低位異界での戦闘で、貴様の手札の不足は誰の目にも明らかになった』

 

「防御と機動力だろ」

 

『分かっているなら話が早い。次なる魔法のステップへ進むぞ』

 

 健司は、疲労で鉛のように重い身体を少しだけ起こした。

 

「次って、何を覚えるんだ?」

 

『……貴様に、選択肢を与えてやる』

 

 魔導書が、珍しくそんなことを言い出した。

 

「選択肢? お前が? 珍しいな」

 

『次なる魔法だが……“結界魔法”と、“空中浮遊”……どっちがいい?』

 

 健司は思わず目を見開いた。

 

 二つとも、名前を聞いただけで心に深く刺さる響きだった。

 

 結界魔法。

 

 敵の攻撃を防ぐ。

 

 自分の領域を作る。

 

 完全なる防御型能力。

 

 先日、一番足りないと痛感した力だ。

 

 空中浮遊。

 

 重力から解放され、地面に縛られない。

 

 子鬼に横から邪魔されても上へ逃げられるし、親分へ近づくルートも立体的に増える。

 

 圧倒的な機動力。

 

 これもまた、激しく求めていたものだ。

 

「えー、いきなり選択肢かよ……」

 

 健司は頭を抱えた。

 

 結界と空中浮遊。

 

 どちらも喉から手が出るほど欲しい。

 

 どちらか一つなんて、選べるはずがない。

 

 少し迷った末、健司は強欲な本音をむき出しにして言った。

 

「……両方じゃ、ダメなのか?」

 

『……ふん。猿の分際で、強欲なことだ』

 

 魔導書が鼻で笑う気配がした。

 

「だって、どっちも必要だろ。仲間や自分を守る防御も欲しいし、立体的に動ける機動力も欲しい」

 

『まあ、そこだけは猿にしては正しい判断だ。いいだろう。両方でも良い』

 

「いいのかよ!」

 

 健司は少し拍子抜けした。

 

『ただし、言っておく。かなり疲れるぞ。特に結界魔法は、貴様の脳の制御能力を根こそぎ酷使する』

 

「魔力を根こそぎ、じゃなくて?」

 

『お前の魔法は、ゲームのMPのような単純な燃料残量で動いているわけではない。結界とは、境界を維持し、内外を判定し、自分の領域を空間に固定し続けるという、高度な並列処理を要求する技術だ。脳にかかる負荷が極めて重い』

 

「聞いただけで嫌になってきたんだけど」

 

『だが、やるのだろう?』

 

 健司は、あの原っぱの異界での混戦を思い出した。

 

 火花の少女の悲鳴。

 

 木刀少年の焦り。

 

 梓の展開した斥力盾。

 

 そして、槍を振り回す子鬼親分。

 

 自分には、絶対に防御が必要だ。

 

「……まあ、やるしかないか」

 

『よかろう。では、まず、より重要で、より難解な“結界魔法”から始めるぞ』

 

 健司は完全に身体を起こし、リビングの床にあぐらをかいて座った。

 

 部屋の空気が、少しだけピリッと引き締まる。

 

 新しい魔法の講義が始まる合図だ。

 

『まずだ、猿。貴様、“結界”という言葉の正確な定義を知っているか?』

 

「結界? うーん、なんか、見えないバリアみたいなやつだろ? 敵の攻撃を弾いて防いだりする……」

 

『……浅い。実に猿の脳みそらしい、短絡的で安直な発想だな』

 

「じゃあ何なんだよ」

 

『いいか、猿。そもそも、結界とはな……』

 

 魔導書がそう言った直後。

 

 健司の脳内に、ひどく無機質で活字めいた文章が、強制的にズラズラと流れ込んできた。

 

『――“結界とは、宗教儀式や修行において、特定の地域や空間を清浄な聖域とし、不浄なものや災いが入るのを防ぐための境界線、または、聖なる場と俗なる場を分けるための境界線のことです。もともとは仏教用語ですが、神道や密教でも用いられ、寺社の鳥居やしめ縄、あるいは葬儀に用いられる幕なども、結界の例として挙げられます。”……以上だ』

 

 健司は、沈黙した。

 

 数秒後。

 

「……急にウィキペディアのコピペ文章、脳に直接垂れ流すんじゃねえよ!」

 

『何だ、猿。文句があるのか。定義を知っておけと言っているのだ。これが一番手っ取り早いだろうが』

 

「いや、まあ、辞書的な定義は分かったけどさ……頭の中に直接テキストを流し込まれる側の気持ちも少しは考えろよ」

 

『理解力の乏しい猿に合わせた、最大の教育的配慮だ』

 

「絶対違うだろ」

 

 健司は深いため息をついた。

 

「で、結局、魔法としての結界は何なんだよ」

 

 魔導書の声のトーンが、一段階深く、重いものに変わった。

 

『今の定義にもあった通り、結界とは本来、“聖”と“俗”を分ける境界だ。魔法的に言い換えれば、自らの意思と認識によって空間を強制的に切り取り、“俺のルールが適用される領域”を作り出す技術だ。……“陣地”と、言い換えてもいい』

 

「陣地……」

 

『そうだ。自分の陣地を作る。完全に自分の支配下にある陣地であるなら、その内側では術者の認識が圧倒的に通りやすくなる。身体強化の循環も、斬撃の出力も、未来予知の演算処理も、外の空間より遥かに扱いやすくなる』

 

「なるほど、ゲームで言うフィールド効果みたいなやつか?」

 

『猿語に翻訳すれば、そうだ。“ステータスアップ”“魔法力向上”“外敵侵入阻害”。そのあたりの概念が分かりやすいだろう』

 

「なるほどな……」

 

 健司は、結界への認識を大きく改めた。

 

 結界は、単に敵の攻撃を弾く都合のいいバリアではない。

 

 自分のホームグラウンドを物理空間に上書きする魔法なのだ。

 

 敵を防ぐだけではなく、自分の全能力の通りを良くするための基盤。

 

 あの子鬼親分は、雑ではあったが、子鬼の群れを集めて『自分の戦場』を疑似的に作っていた。

 

 あれに自分は苦しめられたのだ。

 

 なら、自分にも、自分の意志を押し通すための「自分の場」が必要だ。

 

『結界魔法は奥が深い』

 

 魔導書が語る。

 

『単純に敵の物理攻撃を防ぐ防御結界。自らを強化する領域結界。特定の対象を内部に閉じ込める封印結界。自らの存在を空間から隠す隠蔽結界。敵の侵入を感知する警戒結界。その応用範囲は無限だ』

 

「普通にすごいな、それ」

 

『全ての魔法使いが、最終的に行き着く奥義の一つと言ってもいい』

 

 健司は、そのスケールの大きさに少しだけ圧倒された。

 

 だが、魔導書はすぐに冷や水をぶっかける。

 

『まあ、今の貴様には、猫に小判、豚に真珠だがな』

 

「一言余計なんだよ」

 

『まずは、最も基本的な、“何もない空間を、ただ自分の領域として切り取る”という結界の作り方から教えてやる』

 

『……その前に、だ』

 

 魔導書が少し間を置いた。

 

『もう一つの魔法、“空中浮遊”についても概要だけ説明しておく。こちらは、結界という概念の書き換えに比べれば、遥かに単純な物理干渉だ』

 

「おお、空を飛ぶやつか!」

 

 健司は少しテンションが上がった。

 

『そうだ。だが、これも、ただ無暗に飛ぶだけではない。その原理を理解することが重要だ』

 

 魔導書の説明によれば、空中浮遊とは、重力というこの星の根源的なルールへの干渉だという。

 

 自分の肉体と、星との間に働く引力を、魔法によって操作する。

 

 外部の巨大な物体を動かすよりは、自己の身体に作用させる分、まだ扱いやすい。

 

 だが、重力という巨大なルールに触れるため、制御を誤れば致命的な落下事故に繋がる危険な技術だ。

 

『第一段階。自分の体重を極限まで軽くする。風船のように自重が消え去るイメージだ。完全に飛ぶのではなく、まずは身体が軽くなる感覚を掴む。

 

 第二段階。中立浮遊。自分の重さと浮く力を完全に釣り合わせ、床から一センチでもいいから浮く。

 

 第三段階。上下移動。上昇と下降のベクトルを制御する。

 

 第四段階。水平移動。空中で姿勢を保ち、前後左右へ動く。これが一番難しい』

 

『空中浮遊は、ただ移動が便利になるだけではない。戦闘における三次元的な機動力を確保し、高所からの落下という物理的な危険からも身を守れる。これもまた、全ての魔法使いが習得すべき必須科目の一つだ』

 

「……なるほどな」

 

 健司はワクワクしていた。

 

 空を飛ぶ。

 

 それは誰もが一度は夢見る魔法の代名詞だ。

 

『ただし、今日はまず結界だ。順番を間違えるな』

 

 魔導書が鋭く釘を刺す。

 

「分かってるよ。結界からだろ」

 

『では、猿。早速、結界魔法の訓練に入るぞ。まずは、そのだらしない身体を床からどけろ』

 

 健司は立ち上がり、リビングの中心へと移動した。

 

 周囲にはソファ、ローテーブル、クッションなどが散らかっている。

 

 健司は念のため、躓きそうなものを部屋の隅へと退けた。

 

『いいか、猿。まずは最も小さな結界から作る。貴様が立つ位置を中心とした、半径一メートルの球状の空間。それを、結界として世界から切り取るのだ』

 

「半径一メートルか。けっこう狭いな」

 

『小さいと思うなよ。そのわずか一メートルの空間を、自分の領域として世界に認めさせ、因果を固定するだけでも、今の貴様の脳の処理能力には相当重いぞ』

 

 魔導書から、手順が脳内に伝えられる。

 

 一、自分の内側にある力の感覚と認識を、外の空間へ向かって広げる。

 

 二、半径一メートルの球状の輪郭を意識する。

 

 三、その境界の内側を「自分の領域」と定義する。

 

 四、外側の世界と、内側の領域を分ける境界の殻を固定する。

 

 五、言葉で宣言する。

 

『結界とは、世界に対する宣言だ』

 

 魔導書が厳かに言う。

 

『ここから、ここまでの内側が、俺の領域である、と。その強固な宣言を音という言葉に乗せ、世界に刻み付けるのだ』

 

「また呪文か」

 

『当然だ。音のジンクスの有用性は既に学んだだろう。言葉は認識を強固に固定し、世界への宣言となる。結界の構築との相性は極めて良い』

 

「確かに、結界って宣言っぽいもんな」

 

『今回はこう唱えろ』

 

 魔導書から、一つのフレーズが送られてきた。

 

『“我が領域は、神聖にして不可侵。内なる力を増幅し、外なる災厄を退けよ。――結!”』

 

 健司は、顔をしかめつつも、内心では少しだけ胸が熱くなるのを感じていた。

 

「……厨二病すぎるだろ」

 

『どうだ、猿。たまらん響きだろうが』

 

 魔導書がニヤリと笑う気配。

 

「……まあ、嫌いじゃない」

 

 健司は目を閉じた。

 

 意識を極限まで集中させる。

 

 自分の身体から、見えない力が霧のようにじんわりと周囲へ広がっていくイメージ。

 

 半径一メートル。

 

 球状。

 

 巨大なシャボン玉。

 

 自分を包み込む透明なバリア。

 

 その輪郭を、脳内にしっかりと描く。

 

(これでいける)

 

 健司は目を見開き、両手を胸の前で合わせた。

 

 そして、腹の底から言葉を紡いだ。

 

「――我が領域は、神聖にして不可侵! 内なる力を増幅し、外なる災厄を退けよ! ――結ッ!」

 

 最後に、合わせた両手をパンッと力強く柏手のように打ち合わせた。

 

 沈黙。

 

 ……何も起きなかった。

 

 空気の震えも、温度の変化も、何一つない。

 

 ただ、健司の少し上擦った声と、柏手の乾いた音だけが、静かなリビングに虚しく響き渡った。

 

「……あれ?」

 

 健司が呆然と呟く。

 

『……はぁ』

 

 魔導書が、心の底からの深いため息をついた。

 

「おい、ため息が深すぎるだろ」

 

『まあ、そうだろうな。いきなり一発でできるほど、結界魔法は甘くはないということだ』

 

「何がダメだったんだ?」

 

『全てだ、猿。イメージも浅い。境界の線引きも曖昧。……何より、“覚悟”が全く足りん』

 

「覚悟?」

 

『結界とは、ただ都合のいい膜を作る技術ではない。バリアを想像して終わるようなちゃちなものではないのだ』

 

 魔導書が叱責する。

 

『結界とは、内と外を明確に分けることだ。“ここから内側は俺の領域だ”と絶対的に認識し、その認識を世界の法則に対して強引に押し通すことだ。そのためには、術者自身が、その空間を“絶対に自分のものだ”と信じ切っていなければならない』

 

『お前は今、この六畳一間の部屋を、本当に自分の城だと思っているか? 自分の安全が完全に保障された、何者にも不可侵の聖域だと、心の底から信じ切っているか?』

 

 健司は答えられなかった。

 

 この部屋は、確かに自分の部屋だ。

 

 だが、所詮は安アパートの賃貸物件だ。

 

 自分の城と言われると、ピンとこない。

 

 社会のレールから外れ、逃げ込んだ場所。

 

 深夜のコンビニバイトから帰ってきて、ただ泥のように寝るだけの場所だった。

 

 魔導書と出会ってからは魔法の練習場になったが、それでも「絶対に守るべき聖域」だと意識したことなど、一度もなかった。

 

 健司は沈黙した。

 

『その程度の薄っぺらい認識では、世界はお前の独立を認めん。……結界とは、魂の主権宣言なのだ』

 

「魂の主権宣言……」

 

『この境界の内側は、俺の領域だ。誰にも侵させない。何を通し、何を拒むかは俺が決める。その絶対の確信がなければ、境界の壁は決して立たん』

 

 健司は、ふと、あの原っぱの異界での光景を思い出した。

 

 振り下ろされる子鬼の木の棒。

 

 転びかけた火花の少女。

 

 梓が必死に展開した斥力盾。

 

 自分が走って割り込んだ、あのギリギリの瞬間。

 

 もし、あの時。

 

 そこに一瞬でも、確固たる『壁』を作れたら。

 

 もし、自分の周囲一メートルだけでも、絶対に安全な『領域』にできたら。

 

 もし、自分が立っているその場所を、仲間を守るための不可侵の『陣地』にできたら。

 

 戦い方は、根底から変わる。

 

 防御とは、ただ自分の身体に飛んでくる攻撃を弾くだけではない。

 

 自分の周りに、他者には絶対に踏み込ませない線を引くことだ。

 

 ここから先は、俺が通さないと決めることだ。

 

「……俺の領域、か」

 

『そうだ。猿。自分の場所を、自分で決めろ』

 

 健司は、改めて自分の部屋を見回した。

 

 ただの賃貸だ。

 

 だが、ここは魔導書と話し始めた場所だ。

 

 ガチャの確率操作で初めて世界を捻じ曲げた場所。

 

 斬撃魔法を練習し、紙コップを真っ二つにした場所。

 

 何度も無様に失敗して、何度も歓喜の成功を手にした場所。

 

 自分が、何者でもない底辺から『魔法使い』として変わり始めた、すべての始まりの場所だ。

 

「……ここは、俺の部屋だ」

 

 健司が低く呟いた。

 

 魔導書は何も言わない。

 

「俺の修行場で、俺が世界から逃げ込んだ場所で、そして俺の出発点だ。……だったら、ここは間違いなく俺の領域だ」

 

 健司は再び目を閉じた。

 

 今度は、ただのシャボン玉のような薄いバリアをイメージするのではない。

 

 自分を中心とした半径一メートルの空間を、「完全に自分の場所」として強引に塗り替える感覚。

 

 足元の床。

 

 周囲の空気。

 

 手の届く距離。

 

 そこに、絶対的な線を引く。

 

 ここから内側は、俺の領域だ。

 

 外から来るものは、俺が許さなければ絶対に、何一つ通さない。

 

 この内側では、俺の意思だけが通る。

 

 境界を固定する。

 

 認識を極限まで圧縮し、固定する。

 

 そして、言葉で宣言する。

 

 健司は、深く息を吸い込んだ。

 

「――我が領域は、神聖にして不可侵! 内なる力を増幅し、外なる災厄を退けよ! ――結ッ!!」

 

 両手を、力強く打ち合わせた。

 

 その瞬間。

 

 部屋の空気が、明確に変わった。

 

 健司の全身の産毛が総立ちになり、肌がピリッと震えた。

 

 室内の温度が、ほんのわずかに下がったような錯覚。

 

 耳の奥で、気圧が変わった時のように、薄い膜が張るようなツンとした感覚があった。

 

 世界が、自分の周囲一メートルだけ、空間からわずかに切り離されたような、圧倒的な異物感。

 

 外と、内が分かれた。

 

 ただの何もない空間だった場所が、健司の強烈な『認識』で満たされている。

 

「……これは……」

 

 健司が目を見開く。

 

『……成功だ、猿』

 

 魔導書が、静かに告げた。

 

 部屋の見た目は、光ってもいないし、何も変わっていない。

 

 だが、健司にははっきりと分かる。

 

 自分の周囲に、透明で絶対的な境界が立っている。

 

 半径一メートル。

 

 小さな小さな領域。

 

 だが、それは確かに、世界から切り離された『自分のもの』だった。

 

 健司は半信半疑で、ソファの上に置いてあったクッションを手に取った。

 

 魔導書に言われた通り、結界をその場に維持したまま、まずクッションだけを境界の外へ放り出す。

 

 そして、結界の内側から、外に転がったクッションへ手を伸ばすように意識を向けた。

 

 クッションが、床を滑るように結界の境界へ近づく。

 

 しかし、健司から一メートルの位置で、見えない分厚い壁にぶつかったようにフッと速度を失い、ぽとりと床に落ちた。

 

「……おおっ!?」

 

 健司は目を輝かせた。

 

 もう一度、今度は少し強めに引き寄せる意識を向けてみる。

 

 クッションは境界に触れた瞬間、ぐにゃりと見えないゴムの壁に押し返されるように弾き飛ばされた。

 

「すげえ……本当に防いでる……!」

 

『正確には、防いでいるのではなく“拒んでいる”のだ』

 

 魔導書が補足する。

 

『結界の本質は、ただの物理的な防御壁ではない。内外の判定だ。お前が“外から来る異物”として無意識に拒んだものに対して、空間の抵抗が発生しているのだ』

 

「それ、結果的にやってることほぼバリアじゃん」

 

『だからお前の思考は浅いと言ったのだ。バリアは結果だ。結界の本質は境界だ』

 

「……なるほど。結果として物理的に防いでるけど、根本でやってることは“通すか通さないかのルール判定”なのか」

 

『少しは猿の脳にも入ったようだな』

 

 健司は、再び結界の内側の感覚へ意識を戻した。

 

 すると、自分の身体の感覚が、結界を張る前とは明確に違うことに気がついた。

 

 身体能力強化の流れが、いつもよりずっと滑らかに、抵抗なく全身を通る。

 

 呼吸が深く整う。

 

 疲労で鈍っていた思考が、少しだけクリアに冴える。

 

 指先の感覚も鋭い。

 

 未来視を使おうとした時の、無駄なノイズも少し減ったように感じた。

 

 健司はその場で軽くジャンプしてみた。

 

 いつもより身体が軽い。

 

 高く跳べるし、着地もピタリと安定している。

 

「……内側だと、めちゃくちゃ動きやすいな?」

 

『自分の領域だからな。お前の認識が、世界の法則よりも優先して通りやすいのだ。身体強化も、斬撃も、予知の演算も、外の空間にいるより遥かに制御しやすくなる』

 

「なるほど、これがホームグラウンド補正か」

 

『猿語ではそうだ』

 

「だからその言い方」

 

 健司は、純粋な達成感に笑みをこぼした。

 

 ただ防御するだけではない。

 

 自分の陣地を作る。

 

 自分の領域を支配する。

 

 これは、今まで覚えた魔法とは全く違う、次元の違う種類の力だと実感できた。

 

 だが、その感動は長くは続かなかった。

 

「……ぐっ」

 

 突如、頭の奥がハンマーで殴られたように激しく重くなった。

 

 額から、脂汗が一気に噴き出す。

 

 視界がぐらりと揺れた。

 

 境界を維持する感覚が、恐ろしく重い。

 

 内側と外側を分け続ける。

 

 異物を拒むルールを適用し続ける。

 

 部屋の何もない空気を、自分の領域として保ち続ける。

 

 自分の認識を、半径一メートルの空間に常に張り付かせておく。

 

 その常軌を逸した並列処理が、健司の脳に尋常ではない負荷をかけ続けていた。

 

「……き、つい……!」

 

 健司は膝をついた。

 

『言っただろうが、猿。結界は燃費が悪いと』

 

「燃費っていうか、頭が割れるように重い……!」

 

『当然だ。境界を維持し、内外を判定し、自分の領域を空間に固定し続けているのだ。今のお前の貧弱な処理能力では、領域を長く保つだけで精一杯だ』

 

「これ、数分で限界なんだけど……!」

 

『初回で数分も保ったなら上出来すぎる。解け。境界を握りしめている意識を緩めれば、自然に消える』

 

 健司は、張り詰めていた認識の糸をフッと手放した。

 

 その瞬間。

 

 空間を満たしていた妙な圧力が嘘のように消え去り、半径一メートルの領域が、ただの見慣れたリビングの空気に戻った。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 健司は、そのまま床にへたり込み、大の字になった。

 

「なんだよこれ……たった数分で、全身の力が抜けたぞ……」

 

『今の貴様では、それが限界だ。だが、訓練を積めば維持時間も境界の強度も上がっていく。領域の広さも、通すものと拒むものの判定精度も、いずれ必ず伸びる』

 

 健司は床に寝転がったまま、さっきまで結界があった何もない空間を見た。

 

 見た目は何も変わらない。

 

 でも、確かにさっきまで、そこには自分だけの絶対的な領域があったのだ。

 

「……結界、すげえな」

 

 健司が息も絶え絶えに呟く。

 

『当然だ。魔法使いの奥義の一つだと言っただろう』

 

「奥義の入り口をちょっと覗いた、って感じだけどな」

 

『入り口に立てただけでも、今の猿には十分すぎる成果だ』

 

 健司は考えた。

 

 これが実戦で一瞬でも使えれば、あの混戦でできることが飛躍的に増える。

 

 自分の周囲に一瞬だけ絶対の安全圏を作る。

 

 怪我をした仲間を背後に下がらせて、境界の壁で守る。

 

 飛んでくる子鬼の棒や、奇襲を判定で弾く。

 

 自分の能力を通しやすい陣地として活用する。

 

 今は維持の負荷が重すぎて、戦闘中に長時間張り続けるのは無理だ。

 

 でも、確かな入り口は開いた。

 

「防御手段かと思ったら、陣地作りだったのは予想外だったけど」

 

『防御とは、自分の領域を守ることだ。自分の身体だけを守って逃げ回る猿から、自分の周囲の空間ごと守り抜く猿に進化しろ』

 

「結局、猿なのは変わらないのかよ」

 

 健司は苦笑した。

 

 全身が鉛のように重い。

 

 頭は疲労でズキズキと痛む。

 

 だが、心は不思議と満たされていた。

 

 また一つ、新しい魔法を覚えた。

 

 結界。

 

 自分の領域。

 

 その響きだけでも、十分すぎるほど胸が躍る。

 

「……今日は、もう終わりでいいよな?」

 

 健司が目を閉じたまま言うと。

 

『立て、猿』

 

 魔導書が、冷酷に言い放った。

 

 健司は目を見開いた。

 

「……は?」

 

『まだ、空中浮遊が残っているぞ』

 

 健司の顔が、ヒクッと引きつった。

 

「……鬼か、お前は……」

 

『貴様が自分で“両方じゃダメなのか”と欲張って言ったのだろうが』

 

「言ったけど! 結界の処理がこんなに疲れるとは思わなかったんだよ!」

 

『甘えるな。空を飛びたいのだろう?』

 

 健司は天井を見つめた。

 

 結界で脳の疲労は限界に近い。

 

 だが、空中浮遊という言葉には、それに抗ってでも手に入れたい抗い難い魅力がある。

 

 空を飛ぶ。

 

 重力から逃れる。

 

 地面に縛られない。

 

 機動力を得る。

 

 健司は低く呻いた。

 

「……五分。五分だけ休ませろ」

 

『三分だ』

 

「ブラック企業よりひでえ……」

 

 健司は、結界という新たな魔法の入り口に立った。

 

 それは単なる壁ではない。

 

 自分の領域を作り、内と外を分け、守るべきものと拒むべきものを定めるという、魔法の本質に近い技術。

 

 予知で未来を見て、斬撃で敵を切るだけだった猿は、初めて「自分の陣地」を手に入れた。

 

 だが、魔導書の容赦ない修行はまだ終わらない。

 

 結界の次に待つのは、空中浮遊。

 

 重力という、この星の根源的なルールに触れるための、さらに無茶で過酷な訓練だった。

 

 健司の長く、疲労に満ちた夜は、まだ終わらない。

 




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