俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第39話 猿とオラクルと予知者のお茶会

 都内の裏通り、喧騒から切り離されたような細い路地に、その古い喫茶店はあった。

 

 佐藤健司は、昭和の匂いを色濃く残すレンガ造りの外観と、色褪せた看板を見上げていた。

 

 目の前の道を歩く通行人たちは、誰一人としてこの店に視線を向けない。

 

 まるでそこだけ空間がすっぽりと抜け落ちているかのように、ごく自然に通り過ぎていく。

 

(……また、ここか)

 

 健司は小さく息を吐いた。

 

『認識阻害の結界だな。相変わらず、丁寧に編まれた術式だ』

 

 脳内で魔導書が冷静に分析する。

 

『だが、一度縁を結んだ貴様なら、もう迷うことはあるまい』

 

「まあな。でも、まさかまた呼び出されるとは思ってなかったよ」

 

 健司はドアノブに手をかけた。

 

 カランコロンと、レトロなドアベルが鳴る。

 

 店内は、前回訪れた時と全く変わっていなかった。

 

 使い込まれた木製の椅子とテーブル。

 

 壁にかかった古びた振り子時計。

 

 カウンターの向こうで、こちらに目もくれず黙々とカップを磨いている初老のマスター。

 

 そして、店の最も奥の席。

 

 そこに、彼女は座っていた。

 

 十五歳にも二十歳にも見える、曖昧な年頃の女性。

 

 白いワンピースに身を包み、どこまでも透き通るような澄んだ瞳を持った、伝説の予知能力者。

 

「いらっしゃいませ、健司さん」

 

 オラクルは、健司の顔を見るなり、ぱっと花が咲いたように明るく微笑んだ。

 

「……お久しぶりです」

 

 健司がぎこちなく会釈をして向かいの席に座ると、テーブルの上にはすでに、湯気を立てる香り高い紅茶と、色鮮やかなケーキや焼き菓子が並べられていた。

 

「これ、オラクルさん案件、ですよね」

 

 健司が尋ねると、オラクルはにこやかに首を傾げた。

 

「はい。お茶会です」

 

「お茶会」

 

「お茶会です。最近、健司さんも本当に色々ありましたから。少し息抜きが必要かと思いまして」

 

 健司は内心で苦笑した。

 

 確かに、色々ありすぎた。

 

 ヤタガラス絡みの案件を処理し、子鬼親分というイレギュラーな群れと戦った。

 

 さらに、結界魔法を覚え、空中浮遊の感覚を掴み、結界を空中の足場にするという荒技まで身につけた。

 

 思い返せば、普通の人間なら一生かかっても経験しないような激動の変化を、わずか数日で詰め込まれているのだ。

 

 息をつく暇もなかったのは事実だった。

 

「へえ。梓さんと、出会ったんですね」

 

 オラクルが、自身のティーカップに優雅に紅茶を注ぎながら、何気ない調子で言った。

 

 健司はギョッとして顔を上げた。

 

「え、そこから知ってるんですか? ヤタガラスへの報告ならともかく、オラクルさんにまで話がいってるとは思わなかったんですけど」

 

「全部を常に覗き見ているわけではありませんよ。悪趣味だと思われたくありませんから」

 

 オラクルはふふっと笑った。

 

「ただ、健司さんの周りに、新しい『分岐』がいくつか明確に増えたので。少しだけ因果を辿らせてもらいました」

 

「分岐……」

 

「はい。瀬尾梓さん。とても良い出会いですね。健司さんの物語が、順調に進んでいます」

 

 オラクルの目は、まるで自分が応援しているアイドルの成長を見守る熱烈なファンのように、きらきらと輝いていた。

 

 健司は少し照れくさくなり、頭を掻いた。

 

「順調……なんですかね。なんか向こうからは『師匠』とか呼ばれてますけど、俺自身、まだ人に偉そうに教えられるほど立派な魔法使いじゃないんで、正直居心地が悪いというか」

 

「でも、実際に教えていますよね?」

 

 健司は言い返せなかった。

 

 梓に念動力の『手動作(ハンドサイン)』を教え、近距離での防御手段として『斥力盾』の方向性を示した。

 

 念動力をどう実戦で運用するか、何度も話し合った。

 

 確かに、傍から見れば完全に師匠らしいことはしている。

 

「人に教えることで、自分自身の理解もより深く整理されます。梓さんとの出会いは、健司さんにとっても非常に良いものです」

 

「まあ……確かに、あいつに理屈を説明しようとすると、自分がまだ感覚でしか分かってない部分が明確になるんですよね」

 

「良い弟子ですね」

 

「弟子かあ……」

 

 健司は、梓のあの淡々とした涼しい顔を思い出した。

 

(『師匠、また変なこと覚えましたね』とか、真顔で言われそうだな……)

 

 と、内心で苦笑する。

 

 オラクルが紅茶を一口飲み、穏やかに尋ねてきた。

 

「最近は、ご自身の手札も随分と増えているようですね」

 

「ああ、はい。最近、空中浮遊の感覚を覚えたり、結界を張れるようになったり、その結界を使って空中に足場を作ったりしました」

 

 健司が正直に報告すると、オラクルは小さく手を叩いた。

 

「まあ。それは素晴らしいですね。出来ることは、増えれば増えるほど良いです」

 

「オラクルさん、あんまり驚かないんですね」

 

「驚いていますよ?」

 

「全然そう見えないんですけど」

 

「顔に出す必要がないだけです。心の中では拍手喝采ですよ」

 

 オラクルが微笑む。

 

 健司は、(さすがはオラクルさんだな、次元が違う)と半ば呆れつつ感心した。

 

「結界と空中浮遊は、能力者にとってかなり重要な手札です。特に、結界で足場を作るという発想は、健司さんにとても向いていますね」

 

「俺に、向いてるんですか?」

 

「はい。健司さんは、ただ安全な場所から未来を見るだけの観測者ではなく、未来へ直接干渉するために『動く』人ですから。三次元的に動くための確固たる足場は、多ければ多いほどいい」

 

 健司は少し黙った。

 

 それは、魔導書が言っていた「魔法とは、現実に対する選択肢を増やす技術」という話にとてもよく似ていた。

 

 オラクルも、根底では同じようなロジックで世界を見ているのだろうか。

 

 健司は、ふと気になって尋ねてみた。

 

「そういえば、オラクルさんは出来るんですか? 空中浮遊」

 

 オラクルは、ケーキのフォークを置いて少し首を傾げた。

 

「できますよ」

 

「……即答ですね」

 

「まあ、Tier0(ティアゼロ)ですから。私に出来ないことは、ほぼないですよ」

 

 健司は飲んでいた紅茶を噴き出しそうになった。

 

「言い方が強すぎるでしょ」

 

 オラクルは楽しそうにコロコロと笑った。

 

「もちろん、何でもかんでも雑に万能という意味ではありませんよ。私にも、能力を行使するための『ロジック』はちゃんとありますから」

 

「ロジック?」

 

「健司さんの空中浮遊は、魔導書さんの指導を受けて、幽体離脱のイメージを構築し、遊園地で物理的な感覚を覚え、脳の認識を変えて、最終的に『学習』によって出来るようになったものですよね」

 

「はい。ジェットコースターに乗りまくって、吐きそうになりながら覚えました」

 

「とても面白い習得法です」

 

「……面白いで済ませていいんですか、あれ」

 

「ええ。魔法の習得法としては、極めて理にかなっています」

 

 健司は、一人で絶叫マシンに乗り続け、真顔で宙を見つめていた自分の間抜けな姿を思い出し、少し複雑な気分になった。

 

「私の場合は、健司さんとはアプローチが少し違います」

 

 オラクルが説明を続ける。

 

「違う?」

 

「私は、予知で『それが出来ている未来』を観ます。そして、その未来を現在の現実へと接続し、反映させる。そういうロジックです」

 

 健司は眉をひそめた。

 

「出来る未来を観る……?」

 

「はい。たとえば、私が空中に浮きたいと思った時。私には、『空中に浮いている未来の自分』という可能性が存在します。その未来を観測し、数ある分岐の中から選び取り、現在の現実に接続する。……そうすると、結果として私は今、空中に浮いていることになります」

 

 健司は絶句した。

 

「……それ、ほぼチートじゃないですか」

 

「Tier0ですから」

 

「便利な言葉だなあ、Tier0って!」

 

「便利ですよ。だいたいの面倒な物理法則の説明が、これで省けますから」

 

「省かないでくださいよ、怖すぎる」

 

 健司のツッコミに、オラクルは再び微笑んだ。

 

 ここで、健司はオラクルと自分の決定的な違いをはっきりと理解した。

 

 オラクルは「未来を観て、出来る結果だけを選ぶ」。

 

 健司は「教えられ、理屈を理解し、練習して、出来るようになる」。

 

 似ているようで、根底にある理屈が全く違うのだ。

 

「健司さんは、誰かの能力の形をコピーしているわけではありません。視たものを、ただそのまま複製しているのでもない」

 

 オラクルが、健司を真っ直ぐに見つめて言った。

 

「じゃあ、何なんですかね、俺の能力って」

 

「学習しているんです」

 

「学習」

 

「教えられた未知の理論を理解し、自分の中でイメージを作り上げ、身体と認識を調整して、実際に現実の事象として成立させる。……これは、能力者としては、かなり珍しいタイプなんですよ」

 

 健司は少し困惑した。

 

「学習って、人間として一番普通のことじゃないんですか?」

 

「普通の人間にとっては、普通のことです。でも、能力者の世界では、そうでもありません」

 

「どういうことです?」

 

「多くの能力者は、自分に最初から与えられた能力の枠組みの中で、その範囲を伸ばすことしかできません。火を出す人は、火の威力や温度、制御を伸ばす。念動力者は、射程や出力や精度を伸ばす。予知者は、予知の視える範囲や精度を伸ばす」

 

「まあ、梓もそうやって念動力を伸ばしてますね」

 

「はい。でも、健司さんは違います」

 

 オラクルの声が、少しだけ熱を帯びた。

 

「確率操作から始まり、未来予知を使い、斬撃を学び、結界を構築し、空中浮遊まで学んで実践している。これは、単なる一つの能力の成長ではありません。魔法という概念そのものを、スポンジのように吸収して広げているんです」

 

「それは、魔導書が的確に教えてくれるからですよ」

 

「教えられたからといって、普通は絶対に出来ません」

 

 オラクルが断言した。

 

 健司は黙った。

 

「魔導書さんがどれだけ優秀な教師であったとしても、習う側の健司さんに『受け入れる器』がなければ、魔法は成立しません。健司さんは、教えられた非常識な理屈を自分の認識として柔軟に組み替え、世界への干渉として成立させることができる。それが素晴らしいんです」

 

「……それ、俺がすごいって話ですか?」

 

 健司が恐る恐る聞く。

 

「はい。とてもすごいです」

 

 オラクルが満面の笑みで頷いた。

 

 健司が素直に照れそうになった、その瞬間。

 

 脳内で、魔導書が鋭く割り込んできた。

 

『調子に乗るな、猿。この予知猿の口車を真に受けるな。貴様はただ、俺様の指示通りに動いているだけの操り人形に過ぎん』

 

(でも、すごいって言われましたよ。オラクルさんに)

 

 健司が内心で反論する。

 

『猿の群れの中では、ほんの少しだけマシだという程度の話だ』

 

 魔導書は吐き捨てたが、その直後、少しだけ間を置いて言葉を継いだ。

 

『……まあ、この予知猿の言うことも、完全に間違っているわけではない。お前は、この星の猿の中では、極めて珍しく柔軟な学習能力を持っている』

 

 健司の目が点になった。

 

(……今、褒めました?)

 

『聞き間違いだ』

 

 魔導書が即座に否定する。

 

 健司は、思わず小さく笑いを漏らした。

 

 オラクルは、まるでその脳内のやり取りの全てを見透かしているかのように、楽しそうに微笑んでいた。

 

 健司は、ふと気になってオラクルに尋ねた。

 

「あの、オラクルさん」

 

「はい」

 

「もしかして、俺に憑いてる魔導書のことも、全部分かってます?」

 

 オラクルは、ティーカップをそっとソーサーに置いた。

 

「ええ。健司さんにいつも寄り添っている、とても優秀な『先生』ですね」

 

「先生……?」

 

 脳内の魔導書が、怒りで即座に沸騰した。

 

『誰が先生だ!! 俺様は、この底辺の猿の世話を焼いている単なる飼育係だ!!』

 

「いや、今のはお前、否定するべきところだろ」

 

 健司が呆れてツッコミを入れる。

 

 オラクルは、肩を揺らして楽しそうに笑った。

 

「ふふふ。とても良い先生だと思いますよ」

 

『この予知猿、一体どこから何を視ている……!?』

 

 魔導書が、珍しく本気で動揺し、警戒感を露わにしている。

 

 健司は内心で、いつも偉そうな魔導書がペースを崩されているのが少し面白かった。

 

「そういえば」

 

 オラクルが、ふと話題を変えた。

 

「ジョセフさんのビデオメッセージも、見ましたよ」

 

「ああ、あのオカルト実験室クロノスの動画の時の」

 

「はい。私も彼とは何度か言葉を交わした知己ですが、彼は本当に優秀で、誠実な予知者ですね」

 

「知り合いなんですか」

 

「ええ。予知能力者の世界というのは、狭いようで広く、広いようで狭いですから」

 

 健司にはそのスケール感はよく分からなかったが、高位の能力者同士には独自のネットワークがあるのだろうと納得した。

 

「彼の言葉は、とても誠実で、重いものでした」

 

 オラクルが、少しだけ真面目な顔つきになった。

 

「『悪い予知を視ても、それはあなたのせいではない』。……あの言葉は、予知を扱う者にとって、とても、とても大事な言葉です」

 

 健司は、ジョセフのメッセージを思い出した。

 

『悪い予知をしても、それはあなたのせいではありません』

 

『どうか、いい予知をたくさんしてください』

 

 あの言葉には、予知という呪いにも似た力と長く向き合ってきた者の、不思議な重みと優しさがあった。

 

 オラクルの表情が、微かに陰った。

 

「……悲しいことですが、予知という力を持ってしまったがゆえに、心を病み、壊れてしまう人は非常に多いんです」

 

 健司は黙って話の先を待った。

 

「特に、能力が高く、優秀な人ほどその傾向が強いです」

 

「優秀な人ほど、ですか?」

 

「はい。優秀であればあるほど、よく視えるからです」

 

 オラクルの声が、静かな店内に響く。

 

「細かく、鮮明に。逃げ場のない確定した悲劇が、残酷なほどクリアに視えてしまう」

 

 健司は、子鬼の木の棒が振り下ろされようとした未来のビジョンを思い出した。

 

 たった数秒先だった。

 

 ごく短い、個人的な未来だった。

 

 それでも、視えた瞬間の心臓の跳ね上がりと嫌な汗は、決して忘れられるものではない。

 

 もしあれが、もっと巨大な大事故だったら。

 

 もっと遠くの見知らぬ場所で起きる、回避不能な悲劇だったら。

 

 自分には到底手が届かない場所で、誰かが理不尽に死んでいく未来を、鮮明な映像として視せられ続けたら。

 

 健司は、少しだけ背筋が寒くなった。

 

「予知者は、優しければ優しいほど、よく勘違いをしてしまうんです」

 

 オラクルが静かに語る。

 

「『自分に見えたのだから、自分が変えなければいけない』。『自分が救わなければいけない』。『自分が止めなければいけない』。……そう、強迫観念のように思い込んでしまう」

 

「それは……そう思いますよ。目の前で人が死ぬって分かってて、何もしないなんてできない」

 

「ええ。普通はそうです。人間ですから」

 

 オラクルは優しく微笑んだ。

 

 だが、その直後の言葉は、冷酷な真理だった。

 

「でも、全ては絶対に救えません」

 

 その一言で、テーブルの周囲の空気が、シンと重くなった。

 

「未来を視るだけというのは、想像を絶するほど辛いことなんです」

 

 オラクルの瞳の奥に、健司には計り知れない途方もなく長い時間の記憶が揺れていた。

 

「悲劇が見えているのに、自分の手が届かない。どうすればいいか分かっているのに、物理的に変えられない。危険を叫んで伝えても、誰にも信じてもらえない。……信じてもらえたとしても、因果の速度に間に合わない」

 

 健司は、何も言えなかった。

 

 ただ視るだけの無力さ。

 

 それは、自分が一番よく知っているはずの恐怖だ。

 

「私ほどの段階になると、視るだけでなく、予知結果の未来そのものを『選ぶ』領域に行けます」

 

 オラクルが続ける。

 

「ただ受動的に視るだけではなく、無数にある複数の未来の分岐の中から、自分が望む現実へと接続する未来を能動的に選ぶ。そうなると、心の負担は少しだけ違います」

 

「少し、ですか」

 

「少しです。選べるということは、すなわち選ばなかった未来を見捨てるという、強烈な責任を伴いますから」

 

 健司は、その言葉の重みに圧倒された。

 

 選べる。

 

 未来を選べる。

 

 それは一見すると神のような万能の力に聞こえる。

 

 だが、逆に言えば、選ばれなかった未来で起きる悲劇は、すべて「自分が見殺しにした」ことになってしまうのだ。

 

 その重圧は、想像を絶する。

 

「でも、ただ何もできずに視るだけだった頃よりは、ずっと楽です。今の自分が、何かに干渉して未来を変えられると分かっているから」

 

「……オラクルさんにも、何もできずに視るだけだった時期があったんですか?」

 

 健司が驚いて尋ねた。

 

 オラクルは、少しだけ遠くを見るような目をした。

 

「ええ。私は最初から、完成されたTier0の高位存在だったわけではありませんから。成長して、積み上げて、ようやくそこに成ったタイプですから」

 

「最初から、チートだったわけじゃないんですか」

 

「はい。最初から神様のように完成していたわけではありません。最初は、もっとずっと弱く、不完全で、不安定で……視えるだけの非力な子供でした」

 

「オラクルさんでも……?」

 

「私でも、です」

 

 オラクルが、真っ直ぐに健司を見た。

 

「能力者の世界には、最初から高位存在としてこの世界に発生する者と、下から泥を這いずり回りながら登って到達する者がいます。このタイプは少ないですが、確実に存在します。……私は、後者です」

 

「下から登って、Tier0まで……」

 

「ですから、まだ力が弱く、視るだけで何もできない予知者の苦しみや絶望は、私にもある程度は分かるつもりです」

 

 健司は、目の前のオラクルを見る目が、少しだけ変わった気がした。

 

 今まで、彼女は自分とは全く違う次元に住む、最初から遥か雲の上にいる超越的な存在だと思っていた。

 

 だが、彼女にも弱い時期があり、絶望し、苦しんだ時期があったのだ。

 

 それを聞くと、急に彼女の存在が、少しだけ自分に近いものに感じられた。

 

 もちろん、彼女が今いる圧倒的な高みは、健司にはまだ霞んで見えないほど遠いが。

 

「予知能力者に、一番必要な資質は何だと思いますか?」

 

 オラクルが唐突に問いかけてきた。

 

「予知の精度……ですか? より遠く、正確に視る力」

 

 オラクルは静かに首を横に振った。

 

「いいえ。『割り切る能力』です」

 

「割り切る能力」

 

「はい。どれほど凄惨で悲劇的な予知を視たとしても、それを全て自分の責任だと思い込まない能力。自分に確実に出来ることと、絶対に出来ないことを、冷酷なまでに分ける能力。……自分が救えるものと、見捨てるしかない救えないものを、明確に線引きして分ける能力です」

 

 健司は顔をしかめた。

 

「……きついですね、それ」

 

「きついですよ」

 

 オラクルはあっさりと肯定した。

 

「でも、絶対に必要なんです。予知者が、世界中で起きる全ての悲劇を『自分事』として抱え込んだら、その精神はすぐに限界を迎え、確実に壊れます」

 

「……あえて、他人事として遠くから眺める冷たさが必要だってことですか」

 

「そうです。極端な言い方をすれば、この世界のどこかで起きる凄惨な悲劇を、明日の雨の天気予報のように、ただの現象として感情を交えずに眺められるだけの、非情な精神力が必要なんです」

 

「それ、人としてどうなんですか……」

 

「人としては、とても破綻していて、難しいことです。だからこそ、多くの優しい予知者は、その矛盾に耐えきれずに心を病んでしまうんです」

 

 健司は深い沈黙に落ちた。

 

 自分が、もし今後、もっと広大で遠い未来を見られるようになったら。

 

 避けられない大事故。

 

 大災害。

 

 悪意による凄惨な事件。

 

 誰かの理不尽な死。

 

 そういうものが、テレビのニュースを見るように次々と脳内に流れ込んでくるようになったら。

 

 自分は、それに耐えられるのか。

 

 健司には、全く自信がなかった。

 

 オラクルは、そんな健司の不安を見透かしたように、穏やかな声で言った。

 

「でも、健司さんは、普通の予知者とは少し特殊です」

 

「また俺は特殊ですか」

 

「はい。健司さんは、ただ未来を視るだけではありません。ガチャのように確率の偏りに干渉し、現実の分岐をある程度操作できる。そして、斬撃魔法や結界を使い、自分自身の身体を動かして、物理的に結果へ介入できる。……さらに」

 

 オラクルは、フフッと笑った。

 

「何より、健司さんには『魔導書さん』がいますから」

 

「……最後のやつ、そんなに大事ですか?」

 

「とても大事ですよ」

 

「あいつが、俺のメンタルを優しく慰めてくれるとでも?」

 

 オラクルはにこりと笑って頷いた。

 

「ええ。彼、とても優しいですから」

 

 一瞬の、静寂。

 

 健司は、オラクルの言葉が理解できずに完全にフリーズした。

 

「……優しい?」

 

 脳内で、魔導書が文字通り大爆発を起こした。

 

『この予知猿は一体何を血迷った寝言を言っているんだ……!! 今すぐ顕現して直接抗議してやりたい気分だ!!』

 

 健司は、思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。

 

 オラクルは、その健司の反応を見て、とても楽しそうに紅茶を一口飲んだ。

 

「いや、オラクルさん。あいつ、口を開けば俺のことを猿猿って罵倒するし、訓練のメニューは完全にブラックだし、疲労で死にそうになってても『立て』って強制してくるし、全然優しくないですよ」

 

 健司が魔導書に代わって抗議する。

 

『そうだ! 俺は優しくなど断じてない! 俺様はただ、この無能な猿を実戦で死なせないために、最短ルートで必要な過酷な教育を施しているだけだ!』

 

 魔導書が脳内で必死に同意を求めてくる。

 

「でも」

 

 オラクルが、カップを置いて言った。

 

「健司さんが本当に命の危険に晒されている時は、必ず的確に止めますよね?」

 

『…………』

 

 魔導書が沈黙した。

 

「出来ないことを、無責任に出来るとは言わない。失敗した時は、必ずその論理的な理由を教える。怖い未来のビジョンに呑まれそうになった時は、厳しい言葉で現実へと引き戻してくれる。……そして、健司さんが少しでも調子に乗った時は、容赦なく叩き落とす」

 

「いや、叩き落とすのは優しさなんですか?」

 

「はい。予知者にとっては、それがとても大事な優しさなんです」

 

 オラクルは真剣な顔で言った。

 

「予知者は、未来が視えるというアドバンテージのせいで、『自分は特別だ』『自分は誰よりも優れている』と思い上がりやすい。自分が世界の因果の中心になったような、恐ろしい錯覚を起こすことがあるんです。そういう危険な時に、すぐ横から“お前はただの猿だ”と、手厳しい言葉で客観的に言ってくれる存在は、本当に貴重なんです」

 

「貴重なんだ……」

 

『この予知猿、俺様の崇高な教育方針を、何を勝手に美化して解釈しているのだ……!』

 

 魔導書が、ひどく居心地が悪そうに呻いている。

 

「それに」

 

 オラクルの声が、少しだけ優しく響いた。

 

「彼は、決して健司さんを『一人』にしません」

 

 健司はハッとした。

 

「予知者にとって、たった一人孤独に未来の悲劇を視続けることが、一番危険なんです。視たものを誰にも理解されず、誰にも言えず、すべてを一人で抱え込み、恐怖で眠れなくなる。……そうやって、精神の孤立から壊れていく人が、本当に多いんです」

 

 健司は真顔になった。

 

「でも、健司さんには、すぐ横で四六時中、文句を言いながらずっと一緒に未来を見てくれている人がいる。どんな時も厳しくて、口が悪くて、でも確実に現実へ引き戻してくれる人が、常に頭の中にいる」

 

 オラクルは、健司を真っ直ぐに見つめた。

 

「だから、健司さんは絶対に大丈夫でしょう」

 

 健司は、脳内の魔導書の気配を意識した。

 

 魔導書は、いつものように饒舌に反論することもなく、ただ押し黙っていた。

 

「……そういうものですか」

 

「ええ。そういうものです」

 

 健司は、カップに残っていた少しぬるくなった紅茶を飲み干した。

 

 甘い香りが口に広がり、妙に心が落ち着く。

 

 自分はまだ、オラクルやジョセフのような、世界を見渡す本物の予知者ではないと思っている。

 

 だが、自分も確実に未来を視る。

 

 視えた悲劇の未来に焦り、もがき、足掻いて変えようとする。

 

 その責任と重圧は、これから先、自分が強くなればなるほど、もっと重くのしかかってくるかもしれない。

 

 でも、自分には未来の確率を操作する力がある。

 

 結界で自分の領域を作れる。

 

 口の悪い魔導書がいる。

 

 不器用だが優秀な弟子の梓もいる。

 

 ヤタガラスという組織のバックアップもある。

 

 自分は、オラクルが懸念するほど「一人」ではないのかもしれない。

 

「……割り切る能力、か」

 

 健司が呟く。

 

「はい」

 

「俺、そういう冷たく割り切るの、あんまり得意じゃないかもしれません」

 

「最初から完璧に割り切るのが得意な人なんて、ほとんどいませんよ」

 

「オラクルさんは?」

 

「私は……得意に『なりました』」

 

「なりました、か」

 

「はい。そうならなければ、壊れずにここまでは来られませんでしたから」

 

 その短い言葉に、オラクルが過去に背負ってきた途方もない重圧と痛みが、少しだけ滲み出ているのを感じた。

 

 健司は、それ以上は踏み込んで聞かなかった。

 

 聞いていいことではないと、直感が告げていた。

 

「健司さん。これから、あなたが未来を視る機会は、格段に増えていきます」

 

 オラクルが、最後の助言をするように言った。

 

「……でしょうね」

 

「視えた未来のすべてを、自分一人で救おうとしないでください」

 

 健司は眉を寄せた。

 

「自分が確実に救えるものだけを救えばいい。自分の手が届く範囲のものにだけ、手を伸ばせばいい。……遥か遠くの、自分の手が絶対に届かないものの悲劇まで、自分の罪にして背負い込まないこと」

 

「それ、頭で分かってても、めちゃくちゃ難しいですね」

 

「難しいですよ。でも、必ず覚えておいてください」

 

「はい」

 

「そして、もしどうしても抱えきれそうになってもがき苦しんだ時は……素直に、魔導書さんに怒られてください」

 

「俺、怒られる前提なんですか」

 

「はい。彼なら、きっと全力で怒ってくれますから」

 

『怒るに決まっているだろうが』

 

 魔導書が、ようやく口を開いた。

 

『俺様の手を煩わせた猿が、勝手に責任の重圧で潰れようとしたら、懇々と説教して目を覚まさせる以外に何がある』

 

 健司は、思わず声に出して笑ってしまった。

 

 オラクルはその反応を見て、心底満足そうに頷いた。

 

「今のところ、健司さんの歩みは非常に順調です」

 

「順調、ですか」

 

「はい。梓さんと出会い、結界や空中浮遊で戦い方を広げ、魔導書さんから教えを吸収し、ただ未来を視るだけではなく、自ら動くための手段を着実に増やしている」

 

「まあ、手札はだいぶ増えましたね」

 

「出来ることは、増えれば増えるほど良いです。なぜなら、それだけ『選べる未来』の選択肢が増えますから」

 

「選べる未来」

 

「はい。未来というものは、手持ちの選択肢が少ないほど残酷なものになります。逆に、選択肢が多く柔軟であるほど、悲劇を回避する余地が無限に増えていく」

 

 健司は、空中機動を覚えた夜に魔導書が言っていた言葉を思い出した。

 

『魔法とは、現実に対する選択肢を増やす技術でもある』

 

「魔導書も、全く同じようなこと言ってましたよ」

 

「でしょうね。彼は、とても優秀な先生ですから」

 

『だから勝手に褒めるな、予知猿……! やめろ!』

 

「魔導書が、めちゃくちゃ嫌がってます」

 

「照れているんですよ」

 

『違うわ!!』

 

 健司はついに堪えきれず、テーブルに突っ伏して笑ってしまった。

 

 やがて、壁にかかった振り子時計が、控えめに時を告げた。

 

 重い空気を含んでいたはずの店内に、いつもの穏やかな静けさが戻ってくる。

 

 カウンターの向こうでは、初老のマスターが相変わらず無言でカップを磨いていた。

 

 オラクルは空になったティーカップをそっと置き、健司を見つめる。

 

「健司さん」

 

「はい」

 

「未来を視ても、決して未来に呑まれないでください」

 

 健司は居住まいを正し、真面目に頷いた。

 

「……覚えておきます」

 

「それと、魔導書さん」

 

 健司は一瞬固まった。

 

 脳内の魔導書も、明らかに警戒して息を潜める。

 

「これからも、健司さんのことをよろしくお願いしますね」

 

『誰が貴様ごときに頼まれる筋合いがあるか!! そもそも俺は猿の面倒など見ていない! 俺はただ、有益な実験動物として飼育しているだけだ!』

 

 魔導書が吠える。

 

「飼育はしてるって認めるんだ……」

 

 健司が呆れる。

 

 オラクルはくすくすと笑った。

 

「ほら、やっぱり優しい」

 

『この予知猿は、一体俺の何を見ているんだ……!!』

 

 オラクルは立ち上がると、白いワンピースの裾を軽く整えた。

 

「今日はここまでにしましょう。お茶会に付き合ってくださって、ありがとうございました」

 

「いや、こちらこそ。……あ、会計は?」

 

 健司が立ち上がりかけると、オラクルは当然のように微笑んだ。

 

「今日は私のお誘いですから。もう済んでいます」

 

「いつの間に……」

 

「オラクルですから」

 

「それ、会計にも使えるんですか」

 

「便利ですよ」

 

 健司は苦笑しながら、席を立った。

 

 カウンターの前を通る時、初老のマスターがわずかに顔を上げる。

 

「ごちそうさまでした」

 

 健司がそう言うと、マスターは何も言わず、ただ静かに会釈した。

 

 それだけで、この店では十分なのだろう。

 

 健司は店の扉へ向かう。

 

 背後から、オラクルの声が柔らかく届いた。

 

「健司さん」

 

 健司は振り返る。

 

「はい」

 

「救えるものを、救ってください」

 

 その言葉は、先ほどまでの重い予知者論よりも、ずっと短く、ずっと単純だった。

 

 だが、不思議と一番深く胸に残った。

 

 健司は、小さく頷いた。

 

「……はい」

 

 カランコロン。

 

 ドアベルが鳴り、健司は喫茶店の外へ出た。

 

 裏通りには、夜の冷たい空気が流れていた。

 

 少し離れた大通りからは、車の走行音と人の話し声がぼんやりと聞こえてくる。

 

 先ほどまでの静かな店内とは違う、現実の街の音だった。

 

 健司は振り返った。

 

 古い喫茶店は、そこに普通に建っている。

 

 だが、通行人は相変わらず誰一人としてその存在に気づかない。

 

 まるで、世界の端に小さく置かれた秘密の休憩所のようだった。

 

 健司はしばらくその看板を見上げていたが、やがてゆっくりと歩き出した。

 

 口の奥には、あの香り高い紅茶の甘い余韻が、まだ微かに残っていた。

 

「……予知者に一番必要なのは、割り切る能力、か」

 

 夜道を歩きながら、健司はぽつりと呟いた。

 

『貴様のような甘い猿には、一番難しい能力だな』

 

 脳内で、魔導書が冷静に返す。

 

「否定はできないけどさ」

 

『だから、俺がいる』

 

 健司は少し驚いて足を止めた。

 

 魔導書は、慌てて早口で言い直した。

 

『貴様が勝手に重圧で潰れると、俺のこれまでの崇高な教育成果と時間が、すべて無駄になるからな! それだけだ!』

 

 健司は小さく笑った。

 

「はいはい。優しい優しい」

 

『黙れ、猿』

 

 健司は再び歩き出した。

 

 空を自由に飛べるようになった。

 

 結界で自分の領域を張れるようになった。

 

 未来も、以前より少しだけ明確に視える。

 

 けれど、視えたものを全部一人で背負い込む必要はないのだ。

 

 救えるものを救えばいい。

 

 自分の手が届くものにだけ、全力で手を伸ばせばいい。

 

 そして、もし自分がその重圧に耐えかねて危うくなった時は。

 

 きっと、脳内の魔導書が容赦なく厳しい言葉で怒鳴りつけ、現実へと引き戻してくれるだろう。

 

 その事実が、今の健司には、何よりも心強かった。

 

 猿は、これからも未来を視る。

 

 けれど、もう未来の恐怖に呑まれる必要はない。

 

 なぜなら、その横には、絶対に「優しくない」と言い張る、ひどく口の悪くて頼もしい教師が、いつでも付いているのだから。

 




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