俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第40話 猿と自販機と重力少女

 ヤタガラスの施設、窓のない打ち合わせ用の小部屋。

 

 佐藤健司はパイプ椅子に深く腰掛け、支給されたセキュアタブレットの画面を険しい顔で見つめていた。

 

 画面に表示されているのは、斎藤アスカという中学生の少女が能力に覚醒するきっかけになった可能性が高い、『謎の自動販売機』に関するヤタガラス調査班の最新の報告書だ。

 

 健司は、スクロールする指を止めて眉間に皺を寄せた。

 

 読めば読むほど、気味が悪い資料だった。

 

 ・アスカが能力に覚醒した日、本人が確かに飲み物を購入したと証言している「存在しない古い自販機」。

 

 ・現場周辺の土地の設置記録、及び飲料管理会社のデータには、過去数十年にわたり該当する自販機の存在記録は一切なし。

 

 ・管轄警察署への道路使用許可申請もなし。

 

 ・近隣住民への聞き込み調査では、「昔からあそこにあったような気がする」「いや、あんなものはなかった」と証言が極めて曖昧に割れている。

 

 ・通学路に設置されている防犯カメラは、アスカがその場所を通過した該当時間帯の数分間だけ、ノイズによる『映像の欠落』が発生している。

 

 ・アスカ以外にも、都内の別の場所で「似たような古い自販機を見た」と証言する人物が複数浮上しているが、確証は取れていない。

 

 ・自販機で「当たり」を引いた後、アスカと同様に不可解な能力に目覚めた者が他にも存在している可能性が極めて高い。

 

 ・肝心の自販機そのものは、現在も発見に至っていない。

 

 健司はタブレットを机に放り投げた。

 

「……分からないことしか分からないな、これ」

 

『よくある無能な報告書だな』

 

 脳内で、魔導書が皮肉っぽく言う。

 

『“謎であることが分かった”という事実だけを、勿体ぶって羅列しただけの紙切れだ』

 

「一番嫌なやつだよ、それ」

 

 健司はため息をついた。

 

 報告書の結論も、極めて曖昧だ。

 

 現時点でヤタガラスが確認できているのは、『謎の自販機に接触した可能性のある者が、新たな能力に目覚めている』という事実だけ。

 

 その自販機は、いったい誰が設置したのか。

 

 どこから来たのか。

 

 なぜ「当たり」を引くことで能力を与えるのか。

 

 そして、何のために人為的に能力者を増やそうとしているのか。

 

 すべてが、完全な不明。

 

 健司は、先日オラクルとのお茶会で言われた言葉を思い出した。

 

『視えた未来のすべてを、自分一人で救おうとしないでください。……自分の手が届く範囲のものにだけ、手を伸ばせばいい』

 

 健司は、今すぐこの不気味な自販機の謎を追いかけ、事件の全容を暴きたいという衝動はあった。

 

 だが、現実問題として、現地にはすでに痕跡が何一つ残っていない。

 

 未来視で強引に因果を辿ろうとしても、映像は深い霧に包まれたようにぼやけてしまう。

 

 確率操作で網を張って探せるような、具体的な手がかりもゼロだ。

 

「気になるけど……今の俺にできることは、何もないか」

 

 健司がぽつりとこぼす。

 

『そうだな。少なくとも、今この部屋で貴様がしかめっ面をして机に齧り付いていても、目の前から突然自販機が生えてくるわけではない』

 

「部屋の中に生えてくる自販機とか、ホラーすぎて嫌すぎるだろ」

 

『だが、完全に無関係というわけでもない』

 

 魔導書が諭すように言う。

 

『あの斎藤アスカという少女の異常な覚醒と、この自販機が深く関わっている可能性が高い以上、あの少女の能力を正しく育て、間近で観察し続けることは、結果的に自販機の謎の核心へ近づくための、最も確実な手がかりにもなる』

 

 健司は、もう一度タブレットを開いた。

 

「結局、オラクルさんが言ってたみたいに、背伸びせずに『今、自分に手が届くこと』をやるしかないってことか」

 

『猿にしては、随分と理解が早いな』

 

 その時、小部屋のドアが開き、三枝が入ってきた。

 

 いつもの無表情で、手には複数のファイルを持っている。

 

「お疲れ様です、佐藤さん。……自販機の件のレポートですね」

 

 三枝が、健司のタブレットに目をやって言った。

 

「はい。一通り読みましたけど……分かったようで、結局何も分からないですね」

 

「現状では、その認識で合っています」

 

 三枝は淡々と肯定した。

 

「存在したはずなのに、存在したという公的な記録が一切ない。目撃者は複数いるのに、客観的な映像証拠だけが欠落している。能力覚醒者という結果だけが出ているのに、原因となる物質はすでに消えている」

 

「めちゃくちゃ厄介じゃないですか」

 

「はい。極めて厄介です」

 

 三枝は全く感情を交えずにそう認めた。

 

 ただし、現場のプロである三枝も、手がかりの全くないこの自販機の捜索を、今すぐ健司に無茶振りするつもりはないようだった。

 

「ですが、今日佐藤さんにお願いしたいのは、自販機そのものの調査任務ではありません」

 

「じゃあ、アスカの方ですか」

 

 健司が尋ねる。

 

「はい。斎藤アスカさんの、ヤタガラス管理下での正式な能力訓練です」

 

 健司は少し身構えた。

 

「……俺が、教えるんですか?」

 

「現時点では、それが組織として最も現実的な判断です」

 

「いや、ちょっと待ってくださいよ。俺、重力使いじゃないんですけど」

 

「ですが、佐藤さんはつい先日、自力で『空中浮遊』を習得していますよね?」

 

「……まあ、はい」

 

 健司は言葉を詰まらせた。

 

 どうして空中浮遊の件まで把握しているのか、という無粋なツッコミは飲み込んだ。

 

 相手は国家機関であるヤタガラスだ。

 

 訓練所や出勤時のデータから、自分の能力の成長曲線はある程度正確に報告が上がっているのだろう。

 

「アスカさんの能力は、覚醒当初は『荷重増幅』として当方で扱っていました。触れた対象を、異常に重くする能力です」

 

「俺が助けた時、学校の机が床の板を突き破って沈み込むくらい重くなってましたね」

 

「はい。しかし、その後の精密な測定と分析の結果、単なる一方向の荷重増幅だけでは説明しきれない複雑な物理挙動が出ています」

 

「じゃあ、やっぱり……重力制御?」

 

「その可能性が、極めて高いです」

 

 三枝の言葉に、健司はゴクリと息を飲んだ。

 

 重力制御。

 

 それは、空間そのものに干渉する極めて強大で、そして危険な能力だ。

 

 ヤタガラスの大型訓練所。

 

 床には一面に分厚い衝撃吸収マットが敷き詰められ、壁には強固な防護結界の術式が何重にも施されている。

 

 広い訓練室の中央には、精密な重さを測るための電子プレート、実験用の小型の金属球、クッション材、そして空中の浮遊訓練に備えた巨大な安全ネットが張られていた。

 

 万が一、アスカの能力が制御不能に陥った場合に備え、室外から即座に物理的な拘束をかけるための防護用魔導具もスタンバイされている。

 

 アスカは、指定の動きやすいジャージ姿で部屋の中央に立っていた。

 

 初めて会った日よりは少し落ち着いているが、周囲の物々しい設備に、明らかにガチガチに緊張している。

 

 だが、入り口から入ってきた健司の姿を認めると、彼女の顔がパッと花が咲いたように明るくなった。

 

「あ、Kさん!」

 

 アスカが駆け寄ってくる。

 

「今日はKさんじゃなくて、佐藤でいいよ。ここ、一応公的な訓練所だし」

 

 健司が苦笑しながら言う。

 

「じゃあ、佐藤さん!」

 

 アスカの声は元気だった。

 

 初めて自分を救ってくれた「ヒーロー」を前にして、緊張が少しほぐれたようだ。

 

 三枝が、後ろから静かに補足する。

 

「今日は、アスカさんの能力の本質の追加確認と、基礎的な制御訓練を行います。佐藤さんには、能力運用の補助と、感覚的な部分の助言をお願いします」

 

「いや、助言できるほど俺も偉い立場じゃないんですけどね……」

 

 健司が頭を掻く。

 

「でも、佐藤さんって、すっごく強い能力者なんですよね?」

 

 アスカが尊敬のまなざしを向けてくる。

 

「すごいかどうかはともかく……まあ、最近やっと、自力で『空中浮遊』は覚えたかな」

 

 アスカの目が、キラキラと輝いた。

 

「空中浮遊! 空を飛べるんですか!?」

 

 訓練を開始する前に、三枝が健司の横に立ち、小声で説明を入れた。

 

「本来であれば、重力系統という極めて危険な能力者には、同系統の熟練した能力者を専属の教師に付けるのが、組織としての理想です」

 

「ヤタガラスにはいるんですか? 本物の重力使い」

 

「います。Tier1(ティアワン)のトップエージェントに一人」

 

 健司は驚いた。

 

「マジでいるんだ。……じゃあ、その人に任せればいいじゃないですか」

 

「問題は、その方が現在、文字通り世界中を超超音速で飛び回り、各地の危険な国際案件を物理的に叩き潰している真っ最中だということです。我々のような現場担当が、簡単には会えません」

 

「……スケールが違いすぎる」

 

 健司は絶句した。

 

 超超音速で世界を飛び回る。

 

 もはや人間の枠を超えている。

 

「その方は、国内にいる時間の方が圧倒的に短いです。新人訓練の予約も、数年単位で完全に埋まっています」

 

「それ、もう事実上『会えない』って言っていいやつですよね」

 

「はい。ですので、現実的な落とし所として、重力そのものを直接教えるのではなく、『重力から離れる、空間に浮く』という近い概念に最近触れたばかりの佐藤さんから、段階的かつ感覚的に学ぶ形になります」

 

「それが、俺が呼ばれた理由ですか」

 

「はい。佐藤さんは、自力で空中浮遊を習得しています。魔法的な原理は完全には一致しないかもしれませんが、重力から離れるという身体的な感覚の説明役としては、現時点で非常に貴重な存在です」

 

 健司は少し困り顔になった。

 

(俺、教えるなんてガラじゃないんだけどな……)

 

『悪くない。猿の教育実習だな』

 

 魔導書が脳内で愉快そうに言う。

 

(教育実習って言うな)

 

『梓という念動力の猿に続き、今度は重力を操る猿か。貴様も少しずつ、猿の群れの長としての自覚が芽生えてきたようだな』

 

(ちっとも嬉しくない表現だなあ、それ!)

 

 健司は三枝に断って、少しだけ考える時間をもらった。

 

(で、どうやって教えればいいんだ? 俺の空中浮遊は『幽体離脱』のイメージで無理やり重力から離れただけだぞ)

 

『まず、あの少女の能力に対する根本的な認識を改めろ』

 

 魔導書が的確なアドバイスを始める。

 

『彼女の能力は、単純に物体を“重くする力”ではない。対象に対して、“重力の働く方向”と“重力の強度”を指定する力だ。そう考えた方がよい』

 

(重力の方向と、強度)

 

『そうだ。対象に対して、どの方向へ、どれほどの加速度を与えるか。その法則を現実に押し付けているのだ』

 

(ちょっと理屈っぽくて難しいな)

 

『猿にも分かる言葉で言えば、“下に向かって強力に押さえつける力”を作っていたのだ』

 

(それなら分かる)

 

『重力系統の能力は、相手を物理的に傷つけずに無力化・制圧するのに極めて向いている。相手の足元にだけ強い下向きの加重をかければ、それだけで身動きが取れなくなる。全身をミンチに潰す必要はない。相手が武器を持つ手だけを、ピンポイントで重くすることもできる』

 

(なるほど。うまく使えれば、かなり便利だな)

 

『便利だ。……しかも、そのベクトルを完全に反転させれば、当然だが“空中浮遊”になる』

 

(反転?)

 

 健司はハッとした。

 

『今まで下向きにかけていた強烈な力を、そのまま真上向きにすればいい。正確には、地球の重力の影響を弱めるか、あるいは自らに上向きの加速度を与える。そうすれば、対象の質量は相対的に軽くなり、浮く』

 

(アスカも、空を飛べるってことか?)

 

『才能と訓練次第だな。だが、少なくとも“無重力状態”に極めて近い現象を一時的に作り出すことは、可能である可能性が高い』

 

 健司は少しだけ興奮してきた。

 

 中学生のアスカに、いきなり空を飛ばせることができるかもしれない。

 

 ただ、重力制御は一歩間違えば自分自身を天井に激突させかねない。

 

 慎重にやらなければならない。

 

(最初は本人自身じゃなくて、軽いボールとかで試すのが安全だな)

 

『だが、あの少女の能力は、覚醒の経緯から見ても、自らの周囲や自身の身体に対して発動しやすいはずだ。最初は自分自身を対象にした方が、直感的な感覚を掴みやすい可能性もあるぞ』

 

(……分かった。安全ネットもあるし、三枝さんも横にいる。まずは俺が手本を見せてから、本人で少しずつ試してみるか)

 

『それでよい』

 

 訓練が始まった。

 

 まずは、アスカが現在「できること」の確認だ。

 

 床の測定プレートの上に置かれた、ソフトボール大の小型の金属球。

 

 アスカが、少し離れた位置からそれを見つめ、集中する。

 

 金属球の周囲の空気が、ドンッ、と不自然に沈み込むような嫌な感覚があった。

 

 直後、測定プレートのデジタル数値が跳ね上がり、エラー音を鳴らす。

 

 金属球は、本来の質量の数倍にも重くなっていた。

 

 ただ、射程は短い。

 

 アスカの手元から、おおよそ一メートル前後。

 

 それ以上対象を離すと、数値が急激に不安定になり、能力が発動しなくなる。

 

「現時点で、安定して強い荷重をかけられる射程は、約一メートルですね」

 

 三枝が、端末にデータを打ち込みながら言った。

 

「意外と近いですね」

 

 健司が言う。

 

「はい。ただ、今日のような完全に密閉された防護部屋の中では、屋外よりもわずかに射程が伸びる傾向データが出ています」

 

「同じ部屋の中なら?」

 

「空間という単位で、能力の有効範囲を無意識に認識している可能性があります。部屋の中という閉鎖空間なら、そこ全体が『自分の領域』であるという認識が働き、能力の射程を補強して伸ばしているのかもしれません」

 

 健司は、自分が覚えたばかりの『結界』の概念を思い出した。

 

 自分の領域。

 

 内と外。

 

 自分のルールが適用される陣地。

 

 アスカも、無意識のうちに「この部屋の中」という空間認識を、重力制御の補助輪として使っているのかもしれない。

 

『興味深いな』

 

 魔導書が呟く。

 

『重力という物理法則の制御と、結界的な領域認識の混合かもしれんぞ』

 

(やっぱり、結界っぽい要素もあるのか)

 

 次に、健司が手本を実演することになった。

 

「じゃあ、アスカ。まずは俺が空中浮遊を見せるから、感覚だけ見ててくれ」

 

「はい!」

 

 健司は床の中央に立ち、深く呼吸を整えた。

 

 幽体離脱のイメージ。

 

 身体の質量を置き去りにする軽さ。

 

 遊園地のジェットコースターで身体に叩き込んだ、あの内臓がふわりと浮く無重力の感覚。

 

 重さを床に置いて、意識だけがスッと上へ浮上する。

 

 健司の身体が、ふわりと音もなく床から離れた。

 

 数十センチ。

 

 さらに一メートルほど。

 

 健司はゆっくりと空気を滑るように上昇し、アスカの頭上の空中でピタリと静止した。

 

「すごーい!! 本当に浮いてる! これが重力制御……!」

 

 アスカが、首を痛めるほど上を向いて、目をきらきらと輝かせた。

 

「俺の場合は、厳密には重力そのものを操作しているわけじゃなくて、ちょっと違う魔法的なアプローチなんだけどね。でも、根本の考え方としては近いと思う」

 

 健司は空中に浮いたまま言った。

 

「地面に強引に引っ張られている感覚を、自分の意思で弱めて、身体を何もない空間に『置く』感じだ」

 

 三枝が横から冷静に補足する。

 

「佐藤さんは、特殊な認識による魔法的な空中浮遊です。アスカさんの場合は、今まで無意識に使っていた『荷重増幅』のベクトルを反転させることで、重力方向や強度の調整を目指します」

 

「反転……。重くするのの、逆……軽くする……?」

 

 アスカが、自分の手のひらを見つめながら呟く。

 

「そう」

 

 健司はゆっくりと床に降り立ち、アスカと同じ目線になった。

 

「今まで、アスカは無意識に、対象を下へ下へと押し付けていたんだ。なら、今度はその下への押し付けを弱くする。あるいは、ほんの少しだけ、上へ引っ張り上げるイメージを持つんだ」

 

 アスカは、真剣な顔で小さく頷いた。

 

 巨大な安全ネットの上。

 

 三枝が、周囲に待機している防護スタッフに無言で確認のサインを送る。

 

 床には分厚い衝撃吸収マット。

 

 アスカには、動きを阻害しない程度の軽い安全ハーネスが装着されている。

 

 あまり強く拘束しすぎると、空間の認識感覚が掴みにくくなるため、最低限の命綱だ。

 

 健司は、すぐ手が届く位置でアスカを見守っていた。

 

「まずは、足元を無理に重くするのではなく、足の裏から地球の重さがスーッと抜けていくイメージを持ってください」

 

 三枝がマイク越しに指示を出す。

 

「少しでも危険を感じたり、制御を失いそうになったら、すぐに防護結界を起動して中止します」

 

「はい」

 

「最初から、いきなり空高く飛ぼうとしなくていいからな」

 

 健司が優しく声をかける。

 

「立っている自分の身体が、ほんの少しだけ、フワッと軽くなる。……それだけで、今日は大成功だと思っていい」

 

「分かりました」

 

 アスカは深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。

 

 今まで彼女は、無意識のうちに「重くなれ」と強く念じていた。

 

 怖い時、迫り来るものを止めたい時、自分の身を守り、相手を押さえつけたい時。

 

 その強烈な自己防衛の恐怖と感情が、対象を無差別に重く沈み込ませていた。

 

 今度は、その逆だ。

 

 怖くない。

 

 押さえつけない。

 

 風船のように、ふわりと軽くする。

 

 自分を下へ下へと引きずり落とす巨大な力を、少しだけ、ほんの少しだけ弱める。

 

 空間が、微かに揺らいだ。

 

 アスカの肩口の髪の毛が、無重力空間にいるように、ほんのわずかにフワリと上へ浮き上がった。

 

 着ているジャージの裾が、風もないのに揺れる。

 

 足元のマットにかかっていた圧力が、スッと抜ける。

 

 アスカの身体が、ふわっと、音もなく床から数センチ浮き上がった。

 

「わ、わ、わわわわっ!?」

 

 アスカ本人が一番驚き、空中でパニックになって手足をバタつかせた。

 

 空中でバランスを崩しかけ、身体が傾く。

 

 健司が、すぐさま横に移動し、彼女の肩を軽く支えた。

 

 三枝も緊急停止のボタンに手を伸ばしかけたが、アスカは安全ネットの上で、地上数センチをフワフワと漂っているだけだった。

 

 完全な自由飛行ではない。

 

 だが、間違いなく、彼女自身の力で床から離れている。

 

「おー、出来たね」

 

 健司が、支えた手を離して笑った。

 

「え、え、私、いま浮いてます!? 浮いてますよね!?」

 

 アスカが、自分の足元と健司の顔を何度も交互に見比べる。

 

「浮いてる。おめでとう」

 

「すごい! すごいです! 私、ただ物を重くして壊すだけじゃなかった!」

 

 その声は、恐怖ではなく、純粋な歓喜で明るく弾んでいた。

 

 アスカにとって、自分の能力は、ただただ周りを傷つけ、壊すだけの「危ないもの」だった。

 

 学校の机をへし折り、お気に入りのぬいぐるみを潰す。

 

 制御できない怖い力。

 

 だが、それが「浮く」「軽くなる」という、全く逆の方向にも使えるのだと知った。

 

 ここで初めて、アスカの中で、自身の能力に対する「恐怖」の呪縛が少しだけ和らいだのだ。

 

 アスカが一度、ふわりと床へ降り立つ。

 

 三枝が、端末に記録された測定データを確認して言った。

 

「見事です。加重の反転運用も十分に可能ですね。これは……かなり才能がありますよ」

 

「やっぱり、ただの荷重増幅じゃなくて、重力制御だったんですか」

 

 健司が確認する。

 

「少なくとも、『荷重増幅』という名称だけでは、彼女の能力の全容を説明するには全く不足しています。重力方向の自在な調整、または対象への任意の加速度の付与。そう捉えた方が自然です」

 

「……本来は、空を自由に飛ぶ能力だった可能性もありますか?」

 

 三枝は少し考え込んだ。

 

「可能性は、十分にあります。本人が最初に『恐怖』や『極度の緊張』という強いストレスで能力を突発的に発現させたため、無意識に自己を防衛する『下向きの加重(押さえつけ)』として出ていただけで……本質的には、移動能力、あるいは空間の重力場そのものを制御する能力だったのかもしれません」

 

「私、本当は空を飛ぶ能力だったんですか?」

 

 アスカが、嬉しそうに三枝を見上げる。

 

「現段階では断定はできません。能力の真の本質というものは、最終的には本人にしか分からない、感覚的な部分が大きいですから」

 

 三枝は慎重に言葉を選んだ。

 

「ただ、少なくとも“ただ重くするだけの能力”ではないことは、今のこの訓練で明確に確認できました」

 

 アスカは、心底嬉しそうに笑った。

 

 健司は、彼女のその笑顔を見て、少しだけホッとした。

 

『浮かれているところ悪いが、極めて危険な系統であることに変わりはないぞ』

 

 脳内で、魔導書が冷水を浴びせてくる。

 

(分かってるよ。重くしすぎればブラックホールみたいに潰れるし、軽くしすぎれば宇宙まで吹っ飛ぶんだろ)

 

『その通りだ。重力制御は、殺傷にも、無力化の制圧にも、高速移動にも使える万能の力だ。便利な分、一瞬の制御の甘さが、取り返しのつかない大事故に直結する』

 

 健司は、表情を引き締めてアスカに向き直った。

 

「アスカ。今のはすごい大成功だけど……調子に乗って、一人で勝手に飛ぶ練習をするのは絶対ダメだぞ」

 

「はい。分かってます」

 

「重くするのも、軽くするのも、少しでもやりすぎたら命に関わるからな。もし防衛のために人に使う時がきても、まずは相手の足元とか、武器を持ってる手元とか、絶対に狭い範囲だけにするんだ。全身に強く重力をかけるのは、この訓練所で完璧に制御できるって許可が出てからだ」

 

「はい!」

 

 三枝も強く頷く。

 

「今後、アスカさんの能力訓練は、すべてヤタガラスの完全な安全管理下で行います。学校や自宅での、自主的な浮遊訓練は一切禁止です」

 

「えー……」

 

 アスカが露骨に不満そうな顔をする。

 

「禁止です」

 

 三枝の言葉は絶対だった。

 

「はい……」

 

「気持ちは分かるよ。俺も、浮けるようになって嬉しくて、自分の部屋で調子に乗って天井に頭ぶつけたからな」

 

 健司がフォローを入れる。

 

「佐藤さん?」

 

 三枝が、スッと目を細めて健司を見た。

 

「あ、いや! きちんと管理された安全な範囲内での話です!」

 

 健司が慌てて誤魔化す。

 

『平気で嘘をつくな、猿。貴様の部屋が安全なわけがなかろうが』

 

 魔導書のツッコミを、健司は全力で無視した。

 

 ここから、今後のアスカの本格的な訓練方針を決める。

 

 健司は、ホワイトボードにマーカーで大きな矢印をいくつか描いた。

 

 下向き。

 

 上向き。

 

 前向き。

 

 後ろ向き。

 

 左。

 

 右。

 

 重力制御を、単なる「重さ」の変化ではなく、「方向性を持ったベクトル加重」としてアスカの脳に理解させるための図だ。

 

「今までは、アスカの能力は基本的に『下向き』だけだった。対象を床へ力強く押し付ける感じ」

 

「はい」

 

「でも、さっきみたいに軽くできたってことは、本質が重力制御なら、その重さが働く『方向』を自由に決められるはずなんだと思う。下だけじゃなく、上、前、後ろ、右、左に」

 

「横にもですか?」

 

「理屈の上ではね。たとえば、突っ込んでくる相手の肩にだけ横向きの加重をかければ、それだけで押し倒せるかもしれない。足元に斜め下の力をかければ、一歩も動けなくなる」

 

 三枝が頷く。

 

「非殺傷の制圧能力として、非常に有用です。相手の肉体を傷つけずに、行動だけを完全に無力化できる可能性があります」

 

「ただ、すごく難しいと思う。人間の当たり前の感覚だと、重力は常に『下』にあるものだから」

 

「横向きの重力……。想像しづらいです」

 

 アスカがホワイトボードを見つめる。

 

「だよな。だから、まずは上下の反転から完璧にする。次に前後、左右。最後に複雑な斜めの加重だ」

 

 魔導書が脳内で補足する。

 

『方向を変えるには、明確な“基準軸”が必要だ。本人の身体を基準の軸とするか、部屋の空間を基準とするか、あるいは地球の重力方向を基準とするか。そこの認識を曖昧にしたまま力を使えば、思わぬ方向へ暴発するぞ』

 

 健司はそれを噛み砕いてアスカに伝えた。

 

「あと、基準をどこに置くかも大事だ。自分から見て『上』なのか、この部屋の天井の方向なのか、地面と逆の方向なのか。そこが曖昧だと、変な方向に飛んでいく」

 

「変な方向に飛ぶのは怖いです……」

 

「俺も怖い」

 

 次に、小物を使って加重の『方向性』を試すテストを行った。

 

 小さなスポンジボールを、アスカから一メートルの距離に置く。

 

 まず、いつものように下向きに重くする。

 

 ズン、とボールが少しだけ沈み込む。

 

 成功。

 

 次に、上向きに軽くする。

 

 ボールがふわりと空中に浮き上がる。

 

 成功。

 

 次に、ボールを『右』へ押すイメージ。

 

 アスカが集中する。

 

 ボールが、コロコロ……とわずかに右へ転がった。

 

「動いた!」

 

 アスカが驚いて声を上げる。

 

「今の、かなり大事だぞ。ただ念動力で押したんじゃなくて、ボールにかかる重力の方向を横にずらしたんだ」

 

 健司が言う。

 

 三枝が測定器の数値を確認する。

 

「微弱ですが、対象に横方向の加速度が確認できました。間違いありません」

 

「横にもできるんだ……」

 

 アスカが自分の手のひらを見つめる。

 

「できる。これを強く、正確に、一瞬だけ短く使えるようになれば、実戦でかなり便利になる」

 

 次に左。

 

 前。

 

 後ろ。

 

 まだ出力は弱く、かかる方向もブレる。

 

 だが、明確な可能性は示された。

 

 アスカは、慣れない方向への認識の操作に集中しすぎて、すぐに肩で息をし始めた。

 

 重力制御は、単に大きな出力を出すことよりも、方向と基準の「認識」の維持が圧倒的に難しいのだ。

 

 訓練の最後に、射程の精密な確認を行った。

 

 ボールをアスカから五十センチ、八十センチ、一メートル、一・五メートル、二メートルと離して置き、それぞれ加重をかけさせる。

 

 五十センチ。

 

 完全に安定。

 

 八十センチ。

 

 安定。

 

 一メートル。

 

 少し不安定になるが、成功。

 

 一・五メートル。

 

 かなり出力が弱まる。

 

 二メートル。

 

 ほぼ不発。

 

 反応なし。

 

 ただし、同じ訓練室内で、壁や床を含めて「この密閉された部屋の中全体」と認識させると、一・五メートル程度でも、先ほどよりわずかに強く反応した。

 

「やはり、同じ部屋という認識があると、射程が少しだけ伸びる傾向がありますね」

 

 三枝が記録をつける。

 

「これ、能力そのものというより、本人の空間の認識が深く関係してるんですかね」

 

 健司が尋ねる。

 

「その可能性は大いにあります。今後の重要な検証項目です」

 

『結界魔法における領域認識の、極めて未熟な形かもしれんな』

 

 魔導書が推測する。

 

『自分の近く、あるいは視界に入る同一空間内を、“自分の重力が届く自分の領域”として強引に認識しているのだ』

 

(重力領域、みたいな?)

 

『そう言ってもよいだろう』

 

 健司は、その魔導書の推測をまだ口には出さなかった。

 

 結界や領域の概念は、今のアスカにはまだ少し難しすぎる。

 

 数時間に及ぶ訓練が終わり、アスカは疲労で床に座り込んでいたが、その顔は驚くほど明るかった。

 

「私、ずっと自分の能力のこと、ただ物を重くして壊しちゃうだけの、嫌な力だと思ってました」

 

「うん」

 

「でも、軽くしたり、自分が浮いたり、横に動かしたりもできるんですね」

 

「そうだな。たぶん、訓練次第でまだ色々できる」

 

「……怖いだけの力じゃ、ないんですね」

 

 その台詞が、健司の胸にストンと落ちた。

 

 アスカにとって、能力は日常を壊す危険なものでしかなかった。

 

 でも、方向性を知ることで、能力が「怖いだけのもの」から「自分が使えるもの」へと変わったのだ。

 

 健司は、少し考えてから言った。

 

「怖い力ではあるよ。一歩間違えれば、自分も他人も傷つける。でも、怖いだけじゃない。正しい使い方を覚えれば、人を傷つけずに相手を止めることもできるし、自分や大事なものを守ることもできる」

 

「はい」

 

 アスカが真っ直ぐな目で頷く。

 

「だから、ちゃんと安全な場所で練習しよう。勝手に一人で無茶をやるのは絶対駄目だけどな」

 

「そこは分かってます。……たぶん」

 

「たぶん、では困ります」

 

 三枝がすかさず横から冷静に突っ込む。

 

「分かってます!」

 

 アスカが慌てて訂正し、健司も思わず笑った。

 

 三枝が、本日の訓練記録のファイルをまとめる。

 

「本日の検証結果から、斎藤アスカさんの能力分類を、『荷重増幅』から正式に『重力制御系能力』へと仮更新します」

 

「仮、なんですね」

 

「はい。能力の本質分類は、今後の育成方針に関わるため極めて慎重に行います。ですが、反転運用と横方向加重の確認により、従来の分類だけでは不十分であることは明確ですから」

 

「重力制御……」

 

 アスカが、その言葉を嬉しそうに反芻する。

 

 中学生にとって、それは純粋にかっこいい響きだったのだろう。

 

「今後は、定期的にこの訓練所で制御訓練を行います。佐藤さんにも、可能な範囲で彼女の補助をお願いすることになります」

 

「俺、正式な教師でもヤタガラスの訓練担当でもないんですけど」

 

「分かっています。ですが、アスカさんにとって、同年代ではありませんが比較的話しやすく、能力習得の過程を感覚的に言語化できる佐藤さんは、現時点で非常に貴重な存在です」

 

「……なんか、都合よく便利に使われてる気がする」

 

「はい。大いに利用させていただきます」

 

「そこは否定してほしかったな」

 

 三枝は、感情の読めない顔で穏やかに微笑んだ。

 

「よろしくお願いします、佐藤先生!」

 

 アスカが元気よく頭を下げる。

 

「先生はやめよう。なんか痒い」

 

「じゃあ、K先生?」

 

「もっとやめよう。胡散臭すぎる」

 

『猿先生』

 

 魔導書が横入りする。

 

(それもやめろ)

 

 訓練後。

 

 健司は、最初に読んだあの不気味なレポートのことを再び思い返していた。

 

 謎の自販機。

 

 消えた公的記録。

 

 能力に目覚めたアスカ。

 

 この少女の能力が、ただの不便な荷重増幅ではなく、極めて強大で応用力の高い『重力制御』だった。

 

 それは、かなり異常なことだ。

 

 もし、あの自販機が、誰かの意図的な実験によって能力者を生み出しているのだとしたら。

 

 なぜ、こんな危険で将来性のある強力な能力を、ただの中学生の少女に与えたのか。

 

 完全な偶然なのか。

 

 何らかの基準による選別なのか。

 

 それとも、能力がどう育つかを見るための実験なのか。

 

 健司は、強烈に気になる。

 

 だが、今はまだ性急に結論を出さないことにした。

 

 オラクルの言葉を思い出す。

 

『救えるものを救ってください。自分の手が届く範囲のものにだけ、手を伸ばせばいい』

 

 今の健司が、確実に救えるもの。

 

 それは、目の前のアスカが、自分の能力を不必要に怖がらず、暴走させて自分を壊さず、自分の意志でちゃんと使えるように導いてやることだ。

 

 健司は、今はそれでいいと思った。

 

 少なくとも、今は。

 

 訓練所を出る前、アスカが健司に向かって深々と頭を下げた。

 

「今日は、本当にありがとうございました。私、ちょっとだけ……自分の能力が好きになれそうです」

 

 健司は少し照れくさくなり、目を逸らした。

 

「……それなら良かった」

 

「次は、もっとちゃんと、空高く浮きたいです!」

 

「まずは安全に低空飛行からだな」

 

「はい!」

 

「自主練は禁止です」

 

 三枝が背後から無慈悲に宣告する。

 

「はい……」

 

 アスカがシュンと肩を落とし、健司は堪えきれずに笑い声を上げた。

 

『よかったな、猿。手のかかる弟子がまた一人増えたぞ』

 

 魔導書が脳内で愉快そうに言う。

 

(やめろ。俺は立派な先生キャラじゃない)

 

『梓、アスカ。次は何猿を拾うのだろうな』

 

(俺は別に、好きで拾って集めてるわけじゃない)

 

『だが、貴様は確実に、拾った猿どもに知恵と生きる術を与えている』

 

 その言葉に、健司は言い返せなかった。

 

 訓練所の長い廊下を歩きながら、健司は静かに考える。

 

 消えた謎の自販機の正体は、まだ全く分からない。

 

 だが、その自販機が生み出したかもしれない一人の少女は、今、確実に少しだけ前へ進んだ。

 

 分からない巨大な謎に呑まれて立ち止まるより、今、自分にできる目の前の訓練をする。

 

 それもまた、未来を変えるための、確かな一歩なのかもしれない。

 

 消えた自販機の正体は、まだ深い闇の中にある。

 

 だが、その自販機が世界に残したかもしれない小さな重力は、今日、初めて空へとその向きを変えた。

 

 重く沈み込むだけだった力が、ふわりと浮かび上がる可能性へと変わる。

 

 それは、斎藤アスカという少女が、自分自身の理不尽な能力を、ただの恐怖ではなく、確かな『可能性』として見始めた瞬間だった。

 

 そして佐藤健司は、また一人、厄介で、ひどく有望な能力者の訓練に、深く巻き込まれていくのだった。

 




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