俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第41話 猿と結界と新しい仕事

 都内某所の古い雑居ビルの上階、防火扉を抜けた先にある『原っぱ』の低位異界。

 

 空はどんよりと薄く曇っており、果てしなく続く地面には短い青草が生え揃っている。

 

 初めてここに足を踏み入れた時は、子鬼が一匹出るだけでも緊張して心臓が早鐘を打っていたものだ。

 

 だが、今の佐藤健司にとって、この場所は完全に自分を試すための「訓練場」と化していた。

 

 健司は今日、一人でこの場所に来ていた。

 

 念動力の梓はいない。

 

 重力少女のアスカもいない。

 

 ヤタガラスの三枝の同行もない。

 

 完全な単独の自主練習だ。

 

 ただし、入口の警備員にはしっかりとヤタガラスの認定証を提示し、入場記録と探索タグのログを残してある。

 

 万が一の異常があれば、すぐにヤタガラス側へ連絡がいく最低限の安全網は張ってあった。

 

 健司は、草むらの中に立つ入り口の扉近くで、軽くアキレス腱を伸ばすストレッチをしながら、スマホのメモアプリを開いた。

 

 画面には、昨夜寝る前にまとめた今日の訓練項目が羅列されている。

 

 ・遠距離斬撃『斬』の実戦での威力確認。

 

 ・連射時の指先と脳の制御負荷の確認。

 

 ・領域結界の範囲拡張。

 

 ・結界内部での予知精度の向上確認。

 

 ・結界内での身体能力強化との併用テスト。

 

 ・結界内からの『斬』の発動。

 

 健司は画面を見ながら、少しだけ自嘲気味に苦笑した。

 

 数ヶ月前の、魔法も異界も知らなかった自分がこのメモを見たら、「何のゲームの攻略メモだよ」と鼻で笑っていただろう。

 

 だが、今の健司にとって、これは自分の命に直結する真剣なタスクリストだった。

 

「さて……今日は一人で自主練だな」

 

 健司がスマホをポケットにしまうと、脳内で魔導書が皮肉な声を上げた。

 

『這いずり回る猿が、誰に言われるでもなく自発的に訓練とは。少しは魔法使いとして学習したようだな』

 

「そりゃ、梓とかアスカに偉そうに教えてる手前、肝心の俺自身がサボってたら格好つかないだろ」

 

『ほう。群れの長としての自覚が芽生えたか』

 

「その表現やめろ。俺は別に猿山のボスになりたいわけじゃない」

 

『似たようなものだ。念動力の小猿、重力の小猿を都合よく拾い、知恵を授け、群れを作っているではないか』

 

「だから言い方」

 

 健司は軽くツッコミを入れつつ、意識を戦闘モードへと切り替えた。

 

 原っぱの数十メートル向こう、空間が水面のように揺らぎ、見慣れた灰色の皮膚を持つ怪異が現れた。

 

 粗末な木の棍棒を握った、通常の子鬼(ゴブリン)だ。

 

 以前の健司であれば、身体強化で一気に接近し、直接相手に触れてゼロ距離から『接触斬撃』を流し込む必要があった。

 

 遠距離斬撃『斬』を覚えたての頃も、まだ紙コップを真っ二つにするのが精一杯で、実戦で子鬼に撃っても浅い切り傷を入れるのが関の山だった。

 

 だが、今は違う。

 

 健司は全く慌てず、子鬼から五メートルほどの安全な距離を保ったまま、右手を軽く前に突き出した。

 

 人差し指と中指を揃え、手刀の形を作る。

 

 深く呼吸を整え、切断の軌道をイメージする。

 

「斬」

 

 健司の声は、以前のように腹の底から叫ぶようなものではなかった。

 

 技名を声に出す『音のジンクス』は残しているが、小声で呟くだけで十分に魔法の型が固定されるまでに、認識の精度が上がっていた。

 

 指先から、空気が細く裂けるような微かな音がした。

 

 不可視に近い薄い斬撃の波が、子鬼の首筋から胴体にかけて真っ直ぐに走る。

 

 子鬼は、棍棒を振り上げて一歩踏み出しかけた不自然な姿勢のまま、音もなく斜めに両断された。

 

 黒い粒子となって空中に崩れ去り、あとにはいつもの千円札のドロップだけがヒラリと地面に残る。

 

 健司は、右手を見つめながら少しだけ目を細めた。

 

「……お」

 

『子鬼の雑魚程度なら、遠距離からでも一撃か』

 

 魔導書が確認するように言う。

 

「前は、あいつらの泥みたいな皮膚に弾かれて、浅く切るくらいしかできなかったのにな」

 

『当然だ。部屋で紙コップを切って喜んでいた頃とは、貴様の経験値も“切断”という概念に対する認識の解像度も全く違う』

 

 魔導書が解説する。

 

『子鬼相手の実戦、あの少し硬かった子鬼親分との戦闘、そして何より、自らの領域を定義する“結界”と、重力から離脱する“空中浮遊”の習得。……その全てが、貴様の脳内における魔法の認識を複合的に補強しているのだ』

 

「斬撃魔法だけをひたすら素振りで練習してたわけじゃないのに、こっちの威力も勝手に伸びるもんなんだな」

 

『魔法は個別の技だけで完結するものではない。身体強化の制御の通し方、未来という因果の見方、空間の物理的な捉え方、自らの領域の作り方。その全てが密接に干渉し合い、相乗効果を生むのだ』

 

 健司は深く納得した。

 

 空間を切り取る『結界』を覚えたことで、「世界を切り裂く」という認識がより深く鋭くなった。

 

『空中浮遊』で重力から離れる感覚を覚えたことで、世界の絶対的なルールに干渉することへの抵抗感とブレーキが減ったのだ。

 

 先日、オラクルが『あなたはただコピーしているのではなく、学習している』と言っていた言葉の意味が、健司にも肌感覚として少し分かってきた。

 

 続けて、茂みから子鬼が二匹同時に現れた。

 

 健司は慌てずに距離を取る。

 

 一匹目が、奇声を上げて真っ直ぐに走ってくる。

 

「斬」

 

 右足を狙う。

 

 子鬼の足が膝下からスッパリと切断され、無様に転倒する。

 

 続けて、手刀を振る。

 

「斬」

 

 起き上がろうとした子鬼の首を狙う。

 

 撃破。

 

 その隙に、二匹目が大きく迂回して横から回り込んできていた。

 

 健司は、未来視でその動きを一瞬だけ先読みした。

 

 二秒後。

 

 子鬼が死角から高く飛びかかってくる未来が視える。

 

 健司は半歩だけ下がり、斬撃の角度を変えた。

 

「斬」

 

 飛び込んできた子鬼が、自ら健司の放った見えない刃に飛び込む形になる。

 

 胸部を正面から深く裂かれ、空中で黒い煙となって消滅した。

 

 撃破。

 

 健司は、右手を下ろして小さく息を吐いた。

 

 指先に、制御を通したあとの軽い痺れはある。

 

 だが、以前のように頭が割れるように痛むほどの激しい制御負荷はない。

 

「三連発撃っても、まだ全然いけるな」

 

『低出力魔法の最適化が進んでいる証拠だ。無駄に干渉を周囲へ垂れ流さず、“切断”という結果の発生のみに集中できるようになったのだ』

 

「小声での発動もいけたし、これなら実戦の乱戦でも十分に使えるな」

 

『通常の子鬼程度の雑魚なら、な』

 

 魔導書が冷たく釘を刺す。

 

「分かってるよ。この間の親分クラスとか、もっと上の強度の怪異相手には、まだ威力が足りないんだろ」

 

『その認識でいい。雑魚を安全圏から処理する技としては、完全に実用域に入った。だが、格上への決定打としては、遠距離斬撃はまだ圧倒的に力不足だ。切り札にはならん』

 

 健司は、遠距離斬撃『斬』の現在地を客観的に整理した。

 

 ・通常の子鬼なら一撃で倒せる。

 

 ・足を払うなど、動きを止めた相手にはかなり安定して当たる。

 

 ・動き回っている相手でも、未来視の予知と組み合わせれば確実に予測地点に置ける。

 

 ・小声発動も可能になり、隠密性が上がった。

 

 ・ただし、強い怪異や高い因果抵抗を持つ相手には、牽制にしかならず決定打不足。

 

 ・連発にはまだ多少の制御負荷があり、無限には撃てない。

 

「よし。次は本命の結界だな」

 

 健司は、原っぱの中央、少し開けた場所へと移動した。

 

 目を閉じ、自分の中で『結界』のイメージを緻密に組み立てる。

 

 以前、自分の部屋で作ったのは半径一メートル程度の小さな領域だった。

 

 それを今回は、自己を基準点として、『半径五メートル』まで拡大して展開する。

 

 五メートル。

 

 直径にすれば十メートル。

 

 戦闘領域としては、かなり広い。

 

 自分を中心に、この原っぱの草地の一部を丸ごと『自分の領域』として世界から切り取るのだ。

 

 ただ身を守るだけの都合のいい壁ではなく、自分が絶対的優位に戦うための『陣地』の形成。

 

『広げすぎるなよ。半径五メートル程度で止めておけ』

 

 魔導書が注意する。

 

「五メートルって、初見にしてはいきなり広すぎないか?」

 

『狭すぎても実戦では使い物にならん。一歩踏み込まれたらすぐに領域が破られるようでは、陣地として意味が薄い。だが、十メートル以上の展開は、今の貴様の脳の処理能力では広すぎてすぐにパンクする』

 

「五メートルが、今の俺の処理能力の妥協点ってことか」

 

『今の猿にはな』

 

 健司は深く息を吸い込んだ。

 

 まだ完全な無詠唱での展開は難しい。

 

 確固たる『音のジンクス』の言葉による宣言が必要だ。

 

 ただし、自分の部屋で初めて張った時の、あの厨二病全開の長い呪文からは、エッセンスだけを抽出して極限まで短縮する。

 

「ここから内側は、俺の領域だ」

 

 この短い宣言で、空間に対する己の認識をバチリと固定する。

 

 さらに。

 

「――結ッ」

 

 世界が、わずかに揺らいだ。

 

 半径五メートル。

 

 健司を中心とした透明なドーム状の境界が、音もなく立ち上がる。

 

 足元の草の揺れ方が、境界線の外と内とで明確に変わる。

 

 外の風の音が、急に遠く聞こえるようになる。

 

 外の異界の不気味なざわめきが、薄い透明な膜を一枚隔てた向こう側へと、完全に退けられた。

 

 そして、健司の全身の感覚が、爆発的に研ぎ澄まされた。

 

「……っ」

 

 結界の『内側』では、明らかに世界の密度が違う。

 

 空気が澄んでいるように感じる。

 

 足裏が土を捉える感覚が、異常なほど明確だ。

 

 何より、身体能力強化の制御の通りが、外にいる時とは比べ物にならないほど滑らかだ。

 

 腕、脚、背中、呼吸。

 

 強化の制御を無理やり筋肉に通して出力を上げているような強引な感じがない。

 

 身体が、最初から「そう動くべきだった」かのように、自然に、そして恐ろしいほど軽やかに動く。

 

 そして、未来視の予知のノイズが、劇的に減っていた。

 

 普段の健司の未来視は、テレビのチャンネルを頻繁に切り替えているような、細切れの断片的な映像の羅列として脳に流れ込んでくる。

 

 だが、この結界内では、自分を中心とした半径五メートルの空間内の動きだけが、異様なほどクリアに、連続した時間の流れとして読めるのだ。

 

「……すごいな、これ」

 

 健司は自分の両手を見つめて呟いた。

 

『当然だ。そこは完全に貴様が支配する領域だ。外の物理法則よりも、貴様自身の認識のルールが優先して通りやすくなる』

 

「予知も、めちゃくちゃ冴えるぞ」

 

『結界内では、観測対象と自己との因果関係が極めて単純化されるからな。観測範囲が五メートルという空間に限定される分、不要な外のノイズが遮断され、未来視の演算処理が一点に絞り込まれるのだ』

 

「なるほど……。この五メートルの中に入ってきたやつなら、先の動きが手に取るように見えやすいってことか」

 

『そうだ。貴様にとっての戦闘の“盤面”を、半径五メートルに区切って固定しているのだと思え』

 

 健司は、その魔導書の表現に深く納得した。

 

 盤面。

 

 自分の陣地。

 

 結界とは、ただの防御壁ではなく、戦場を自分が最も読みやすく、最も有利に戦える形へと強引に切り取るための、高度な戦術魔法なのだ。

 

 茂みから、子鬼が一匹、健司へ向かって走ってきた。

 

 子鬼が、見えない境界線を越えて『結界の内側』へ入った、その瞬間。

 

 健司には、全てが分かった。

 

 子鬼の泥臭い足の運び。

 

 棍棒を振り上げる最速のタイミング。

 

 踏み込みの浅さ。

 

 地面の石につまずいて転ぶ可能性のある微細な確率。

 

 自分がどこへ半歩避ければ攻撃が躱せるか。

 

 どこへ斬撃の線を通せば、一撃で確実に倒せるか。

 

 その全てが、普段の何倍もの解像度で、鮮明に脳内に提示された。

 

 健司は、身体能力強化を巡らせる。

 

 結界内だからか、強化の制御が全く引っかからない。

 

 子鬼が奇声を上げて棍棒を振り下ろす。

 

 健司は、涼しい顔で半歩だけ横へずれた。

 

 最小限の回避。

 

 棍棒は、健司の服をかすりもせずに空を切る。

 

「斬」

 

 ごく小さな呟きとともに、遠距離斬撃を放つ。

 

 今度は、結界内の空間そのものが、健司の斬撃の通り道を補助してくれているような感覚があった。

 

 抵抗感は皆無。

 

 子鬼の身体が、肩から腰にかけて、見事な袈裟懸けで斜めに切断された。

 

 撃破。

 

 健司は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……文字通り、相手の動きが手に取るように分かるな」

 

『結界内に入った愚かな相手の動きは、貴様が支配する盤面に乗ったただの駒のようなものだ。外の不確定な空間にいる時より、遥かに動きが読みやすいだろう』

 

 次に、子鬼が二匹同時に現れた。

 

 一匹は正面から。

 

 もう一匹は横から回り込んでくる。

 

 健司は、結界内のクリアな予知で二匹の動きを同時に読む。

 

 正面の子鬼は、走りながら棍棒を投げつけてくる。

 

 横の子鬼は、足元を狙って低く滑り込んでくる。

 

 未来の二つのビジョンが、一瞬だけ重なって見える。

 

 健司は、空中浮遊で上に逃げることはしなかった。

 

 地上のまま、結界内の完璧な足運びだけで捌く。

 

 身体能力強化。

 

 半歩下がる。

 

 飛んできた棍棒を、首を傾げるだけで避ける。

 

「斬」

 

 棍棒を投げた正面の子鬼の胴体を切る。

 

 撃破。

 

 直後、横から二匹目の子鬼が飛び込んでくる。

 

 健司は慌てず、手元に『小さな板状の結界』を一瞬だけ構築した。

 

 子鬼の鋭い爪が、見えない板にガツンと弾かれる。

 

 体勢が崩れた子鬼に向けて、指先を向ける。

 

「斬」

 

 二匹目も撃破。

 

 煙が消え、千円札が二枚落ちる。

 

 ここで、結界、遠距離斬撃、未来視、そして小型の防御結界という、複数の魔法の連携が淀みなく自然に出た。

 

 健司はもう、ただ単発の能力に振り回されているだけの初心者ではない。

 

 予知で敵の動きを見る。

 

 身体強化で最短距離を動く。

 

 結界で有利な盤面を作る。

 

 遠距離斬撃で安全に仕留める。

 

 接近されたら小型結界で受け、隙を作って接触斬撃を叩き込む。

 

 これが、現在の佐藤健司の、完成されつつある基本戦闘スタイルだった。

 

 だが。

 

 五メートルの領域結界には、明確で重篤な弱点があった。

 

 戦闘中は高揚感と全能感で気づきにくいが、数分間維持し続けると、頭の奥が万力で締め付けられるように重くなってくるのだ。

 

 境界の外と内を厳密に分け続ける。

 

 外の異界からの空間干渉を弾き返す。

 

 内側の自分の認識を強固に維持する。

 

 それに加えて、未来視、身体能力強化、斬撃の並列処理。

 

 健司の脳の処理負荷は、常にレッドゾーンを振り切っていた。

 

 健司は、ポタポタと落ちる額の汗を手の甲で拭った。

 

「ふー……。結界、めちゃくちゃ強いけど、維持の負荷が重すぎるな」

 

『当然だ。広大な領域を維持しながら、その中で別の魔法を行使して戦っているのだ。単発の攻撃魔法を一発撃つのとは、脳にかかる計算量が文字通り桁違いだ』

 

「普段使いは無理だな。完全に切り札か、これは」

 

『今の貴様にとってはな。常時展開して歩き回るようなものではない。すぐに脳が焼き切れるぞ』

 

 健司は頷いた。

 

 普段の雑魚戦から無闇に使うものではない。

 

 だが、多数の敵に囲まれた混戦や、絶対に負けられない格上相手、あるいは梓やアスカのような守るべき対象がいる場面では、この上なく頼りになる究極の陣地だ。

 

 そこへ、少しだけ賢い動きをする子鬼が一匹現れた。

 

 棍棒を持って健司へ向かって走ってきたが、結界の見えない境界線に足を踏み入れた瞬間、何か嫌な気配を感じ取ったように、ピタッと足を止めて一歩下がったのだ。

 

 結界内では健司が圧倒的に有利だということを、野生の本能で嗅ぎ取ったのかもしれない。

 

 子鬼は、結界の縁のギリギリ外側を、ぐるぐると回り始めた。

 

 一歩踏み込んでは、健司が動くとすぐに下がる。

 

 投げられる石でも探すように、周囲の地面をキョロキョロと見回している。

 

 健司は眉をひそめた。

 

「……なるほど。警戒して中に入ってこない相手には、結界の強みは活かせないのか」

 

『そうだ。今の貴様の結界は、あくまで自分に有利な空間を作る“領域”であって、敵を逃さない“檻”ではない。敵を中に無理やり閉じ込める機能は備わっていない』

 

「じゃあ、こっちから結界ごと相手に寄って行けばいいんじゃないか?」

 

『自己を基準とした領域結界なら、お前が動けば結界も移動する。だが、空間の境界を動かすほど、脳への維持負荷は跳ね上がるぞ。敵が警戒して距離を取り続ければ、ただ制御負荷を無駄に増やす追いかけっこになるだけだ』

 

 健司は試しに、外にいる子鬼へ一歩近づいてみた。

 

 結界の境界も、健司と一緒に移動する。

 

 だが、子鬼は境界線に触れたくないのか、素早くさらに後ろへと逃げた。

 

 健司は面倒になり、そのまま遠距離斬撃「斬」を放って撃破した。

 

 倒すことはできた。

 

 だが、結界の外にいる敵に対しては、内側に入り込んだ時のような、あの「動きが完全に手に取るように読める」という圧倒的な優位性はない。

 

 外にいる敵は、あくまで自分の盤面の『外』の存在なのだ。

 

「これ、範囲外に逃げられたら結構厄介だな」

 

『そうだな』

 

「相手を閉じ込めるような結界にできたら、一番手っ取り早くて良いんだけど……」

 

『対象を完全に閉じ込める封印結界は、難易度が桁違いに跳ね上がるぞ』

 

 魔導書が警告する。

 

「やっぱり?」

 

『ただの領域結界は、内と外を分けるだけでよい。防御結界は、外からの干渉を弾き返せばいい。だが、閉じ込める結界は、中にいる対象の物理的な行動を、強引に制限し、押さえ込む必要がある』

 

「外に出られなくするってことだもんな。壁の強度がいるのか」

 

『そうだ。相手が境界を力ずくで破ろうとしてきた時、それを完全に押し返すだけの絶対的な強度が必要になる。相手の物理力や干渉密度が勝っていれば、結界ごと強引にぶち破って出ていくことも可能だ』

 

「じゃあ、今の俺の出力だと、強い相手を閉じ込めるのは厳しいか」

 

『完全な空間封鎖は厳しいだろうな。子鬼程度の雑魚なら閉じ込められるかもしれんが、少し強い怪異には容易く破られる。……そして、結界を力ずくで破られた時の反動は、貴様が想像しているより遥かに大きいぞ』

 

「反動?」

 

『結界は、貴様の脳内の認識で空間に線を引く技術だ。その線を力ずくで破られれば、貴様の認識そのものにダイレクトに衝撃が返ってくる。下手をすれば、一瞬で意識が飛ぶか、脳の血管が切れる』

 

「怖っ……」

 

 健司は顔を引きつらせた。

 

『だからこそ、実用化するなら結界に“制限”を付けるのだ』

 

「制限?」

 

『そうだ。あらかじめ“十秒間だけ維持され、その後強制解除される”などの時間制限を設定する。あるいは、“この範囲の空間だけ”、“この対象一体だけを閉じ込める”、“外からの攻撃は通すが、内からの脱出だけを阻む”など、機能を極限まで絞り込む』

 

「……縛りを付けた方が、結界としての強度は上がるってことか」

 

『正確には、要求する機能を一つに絞ることで、制御負荷と境界の強度のバランスを取りやすくするのだ。閉じ込めるのであれば、こちらも“時間内に絶対に仕留める”という短期決戦の戦術にする方が、現実的で強度も高まる』

 

「制限時間付きの、デスマッチの闘技場みたいな感じか」

 

『猿にしては分かりやすい例えだ。五秒、十秒、最大でも十五秒。短時間だけ敵を自分の有利な盤面に強制的に固定し、その間に確実に見切って斬る。今の貴様なら、その方向で結界をチューニングした方が実戦的だ』

 

 健司は深く納得した。

 

 完全な封印結界ではなく、短時間の拘束結界。

 

 結界を切り札として一瞬だけ展開し、敵を中に入れる。

 

 数秒間だけ逃げ道を塞ぐ。

 

 その間に、結界内の有利な環境で予知と身体強化をフル回転させ、相手の動きを完全に読み切り、遠距離斬撃で仕留める。

 

 極めて実戦的で、生存率の高い戦法だ。

 

 健司は、スマホのメモアプリに今日の訓練の成果を書き込んだ。

 

 ・結界=自分に圧倒的に有利な盤面を作る魔法。

 

 ・半径五メートルは強いが、維持負荷が重すぎる。常時展開は不可。

 

 ・敵が警戒して範囲外へ逃げる弱点あり。

 

 ・完全に閉じ込める結界は高難度で、破られた時のリスク大。

 

 ・完全封鎖ではなく、時間制限付き(十秒闘技場など)が現実的。

 

 ・結界内で『斬』を撃つと、威力と命中精度が劇的に上がる。

 

 ・予知のノイズが減り、相手の動きが手に取るように読める。

 

「結界って、本当に奥が深いな……」

 

 健司が感嘆の声を漏らす。

 

『奥義の一つだと言っただろうが。ただの防御の壁として使うだけなら、その辺の猿でもできる。結界の本質は、空間に己のルールを強制的に与えることだ』

 

「今は、いざという時の切り札だな」

 

『妥当な判断だ。雑魚相手に毎回無駄撃ちするものではない。絶対に負けられない格上、囲まれた混戦、護衛対象がいる場合、あるいは短時間で確実に仕留めたい時に切れ』

 

「了解」

 

 健司は、頭への負荷を限界まで感じていたため、結界を解除した。

 

 フッと頭の芯の重さが軽くなる。

 

 その代わり、周囲の異界の不気味なざわめきと、風の音が再び鮮明に戻ってくる。

 

 健司は、結界なしの素の状態で、最後の一匹の子鬼を相手にした。

 

 結界の補助がなくても、今の健司は十分に強い。

 

 子鬼が棍棒を振り上げて走ってくる。

 

 健司は未来視で動きを見る。

 

 身体能力強化で一歩横へ滑るように躱す。

 

「斬」

 

 すれ違いざまの一撃。

 

 子鬼が両断され、煙になって消える。

 

「……よし。結界なしでも、通常の子鬼クラスならもう全く問題なしだな」

 

 健司が千円札を拾いながら言う。

 

『ようやく、初心者用のチュートリアルの餌には苦戦しなくなったか』

 

「言い方が相変わらずひどいな」

 

『事実だ。今の貴様がこんな最下層の異界で苦戦しているようであれば、根本的な育成方針を考え直す必要があったからな』

 

「厳しいなあ」

 

『現実だ』

 

 魔導書は冷たく返したが、健司の内心には確かな成長の実感があった。

 

 初めてここに来た時は、子鬼相手に必死になって接触斬撃を叩き込んでいた。

 

 今は、距離を取ったまま涼しい顔で倒せる。

 

 結界を張れば、相手の行動の全てが読める。

 

 いざとなれば空へ逃げることもできる。

 

 自分は、確実に強くなっている。

 

 その時。

 

 ポケットの中のスマホが、ブブッと短く震えた。

 

 着信表示は、ヤタガラスの三枝だった。

 

 健司は、少しだけ嫌な予感を覚えながら通話ボタンを押した。

 

「はい、健司です」

 

『どうも、健司さん。お疲れ様です。今、お時間よろしいですか?』

 

 三枝の、いつもと変わらない淡々とした声。

 

「ええ。ちょうど異界での自主訓練が一段落したところです」

 

『それは良かったです。……新しい仕事が出来ました』

 

 健司はピタッと動きを止めた。

 

「仕事、ですか」

 

『はい。詳細は電話では控えさせていただきます。ヤタガラスの施設に戻って、すぐにミーティングを行いたいので、至急お戻りいただけますか?』

 

 健司は、周囲の原っぱを見回した。

 

 子鬼の気配は、今のところない。

 

 結界の運用テストのメモも取ったし、今日の自主練の目的は十分に果たした。

 

「分かりました。すぐ戻ります」

 

『ありがとうございます。では、またあとで』

 

 通話が切れる。

 

 健司はスマホの黒い画面を見つめた。

 

「新しい仕事だってさ」

 

『よかったな。最近の自主練の成果を、さっそく実戦で試す機会が向こうから歩いてきたぞ』

 

 魔導書が楽しそうに言う。

 

「お前がそういうこと言うと、絶対面倒でヤバい案件なんだよな……」

 

『ヤタガラスが持ってくる裏の仕事で、面倒でない安全なものがあるとでも思っているのか?』

 

「ないな」

 

『なら、諦めて腹を括れ』

 

 健司は深いため息をつき、スポーツバッグを拾い上げて異界の出口である非常扉へと向かった。

 

 出口の扉に手をかける直前、健司は一度だけ振り返った。

 

 いつもの、薄曇りの空と原っぱ。

 

 以前は少しだけ怖かった場所。

 

 今は、自分の成長を確認するための、ただの訓練場になっている。

 

 だが、決して油断はしない。

 

 子鬼程度なら、もう簡単に倒せる。

 

 遠距離斬撃も実用化した。

 

 結界も切り札として手に入れた。

 

 それでも、この世界にはまだ、今の自分より遥か上の次元にいる存在がゴロゴロしている。

 

 Tier0のオラクル。

 

 音速で世界を飛ぶTier1の重力使い。

 

 アメリカのジョセフ。

 

 そして、アスカを覚醒させた、あの謎の自販機のような、正体不明の理不尽な何か。

 

 健司は、スマホをポケットの奥に突っ込んだ。

 

「さて、新しい仕事か」

 

『猿。せいぜい、今日の訓練で得た感覚を忘れるなよ』

 

 魔導書が、釘を刺すように言う。

 

『雑魚を遠くから斬れるようになった程度で、調子に乗るな。結界はあくまで切り札だ。斬は雑魚処理。……予知は慢心するための道具ではなく、過酷な戦場で貴様が生き残るための、唯一の“目”だ』

 

「分かってるよ」

 

『気を引き締めろ』

 

「はいはい、先生」

 

『誰が先生だ』

 

 健司は小さく笑い、非常扉の重いハンドルを押し下げて、現実の廃ビルへと歩き出した。

 

 遠くの巨大な謎の全容は、まだ見えない。

 

 だが、手の届く範囲の刃は確実に鋭くなり、自分の周囲五メートルの世界なら、以前よりずっと鮮明に、正確に読み切れるようになった。

 

 猿は、少しずつだが、確実に自分の戦える『盤面』を広げている。

 

 そして、その盤面の外側から、新たな仕事と事件の気配が、足音を立てて近づいてきていた。

 




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