俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第43話 猿と狩人と狂信者

 橘からの緊急ブリーフィングを受け、欧州から来日する凄腕の吸血鬼ハンター『エリカ・ヴァイスナー』の監視兼案内という極めて厄介な任務を言い渡された翌日。

 

 佐藤健司は、ヤタガラスが手配した黒塗りのセダンの助手席に揺られながら、羽田空港へと向かう高速道路の車窓を眺めていた。

 

 どんよりとした曇り空から、今にも冷たい雨が降り出しそうな天気だ。

 

 健司の心境も、その空模様に違わぬほど重く沈んでいた。

 

 前日の自主訓練による脳の奥の鈍い疲労感がまだ完全には抜けきっておらず、こめかみのあたりが時折じんじんと疼く。

 

「……三枝さん。本当に、今回の任務に俺、必要ですか?」

 

 健司は、ハンドルを握る無表情な若手調査員に、半ばすがるような視線を向けた。

 

「必要です」

 

 三枝は、前方から一切目を離さずに即座に、かつ淡々と答えた。

 

「いや、必要ですって言われてもさ。吸血鬼ハンターと接触して国際的な超常犯罪者を追うなんて、普通に考えて、俺みたいなポッと出の一般人枠の仕事じゃないでしょ。もっとこう、熟練型のがっつりした武闘派の職員を連れて行くべき現場だと思うんだけど」

 

「佐藤さんは、すでに一般人という枠組みから大きく外れています」

 

 三枝の声には、一片の揺らぎもなかった。

 

「先日の子鬼親分戦での戦況把握能力、そして周囲の能力者を動かしたアドリブの指揮。……相手がどのような手合いであれ、あなたの持つ未来視による違和感の検出能力は、現場の安全管理においてこれ以上ないほど強力な抑止力になります。自信を持ってください」

 

「……なんか、褒められてるはずなのに、都合のいいブラック労働の現場に押し出されてる気がするな」

 

 健司はげんなりとしてシートに深く身体を沈めた。

 

『いつまで自分が安全な観客席の一般人だと思い込んでいるのだ、猿』

 

 脳内で、魔導書がここぞとばかりに嘲笑のテキストを躍らせる。

 

『お前はすでに、ネットの海で神格化されつつある仮面の予知者であり、国家の裏組織に尻尾を掴まれた特別職員だ。空間を切り取って自分の都合のいい陣地を作り、不可視の刃で怪物を真っ二つにする物騒な便利猿が、今さら何を普通の市民ぶって震えているのだ。片腹痛いわ』

 

(最後の便利猿って余計な肩書きを付け足すな! 俺はまだ、自分の人生の急激な変化のスピードに心が追いついてないだけだよ)

 

 健司は内心で盛大に毒づいたが、魔導書の指摘がぐうの音も出ない正論であるだけに、余計に胃のあたりがキリキリと痛み出した。

 

 運転を続ける三枝は、コンソールボックスに置かれたタブレットの資料へとチラリと視線を落とした。

 

「羽田の非公開ルートの入国手続きは、すでに完了しているはずです。先方は、我々が用意した空港内の特殊待機室で待っています。……佐藤さん、エリカ・ヴァイスナーに関する事前の注意情報は頭に入っていますね?」

 

「……一応は。欧州血液災害対策連盟の現場処理班で、旧狩人派の息がかかってる凄腕。で、対象の死亡率が異常に高い、だっけ」

 

「はい。そして、我々ヤタガラスが彼女をここまで厳重に警戒し、包囲網を敷くのには、明確な前例があるからです」

 

 三枝のトーンが、一段と低く冷たいものに変わった。

 

「彼女の所属する欧州のハンターコミュニティには、過去に日本国内で完全な無許可の実力行使を行い、ヤタガラスによって強制排除された人物がいます」

 

 健司は、資料のその一文を思い出して顔をしかめた。

 

「……出禁になってる吸血鬼ハンターがいる、ってやつね。それ、具体的には何をやらかしたんだ?」

 

「数年前、そのハンターは日本国内に潜伏していた吸血鬼系の能力者を、ヤタガラスへの一切の通達なしに独断で襲撃しました」

 

 三枝の指が、ハンドルの上でかすかに硬くなる。

 

「問題だったのは、その襲撃対象が、ヤタガラスが正式に保護・管理し、社会復帰のための治療を施していた『日本国民』の学生だったということです。さらに悪いことに、そのハンターは白昼堂々の住宅街で派手な異能戦闘をやらかし、同席していた全く無関係の通行人に、重傷者を出す二次被害を引き起こしました」

 

「うわあ……」

 

 健司は思わず絶句した。

 

「そりゃ、国家主権の侵害だし、普通に国際的な大テロ事件じゃん。出禁になるのも当然だわ」

 

「はい。その人物は現在、日本国への永久入国禁止措置が取られており、欧州の連盟本部に対しても、これ以上の独断専行があれば、ハンター側をテロ組織と見なして全力を挙げて制圧するという、ヤタガラスからの極めて強い警告状が送られています」

 

 三枝は、赤信号で車を滑らかに停車させ、健司の方を向いた。

 

「今回来日するエリカ・ヴァイスナーは、その出禁になった過激派ハンターの直系の同胞であり、同じ思想を共有していると見られています。……彼女が、その過去の恨みや教訓を引っ提げて、この日本の土地で何を仕出かすつもりなのか。それを現場で真っ先に見極めるのが、我々の仕事です」

 

 健司は、額に冷や汗がにじむのを感じた。

 

 ヤタガラスが彼女をこれほどまでに白眼視し、包囲網を用意しているのは、単なるオカルト組織同士の縄張り争いなどではない。

 

 過去に、一般人を巻き込む凄惨な事件を起こされたという、消えない血の教訓があるからなのだ。

 

「……でもさ、もし今回の標的が、本当に危険な国際指名手配犯なんだとしたら、協力もしなきゃいけないんだろ?」

 

 健司の問いに、三枝は再び車を発進させながら、短く頷いた。

 

「ええ。状況次第で、我々の立場は真逆になります。だからこそ、私の隣で未来の分岐を視る、あなたの『目』が必要なのです」

 

 健司は、早くも自分の胃が本格的に悲鳴を上げ始めているのを自覚し、深くため息をついた。

 

 羽田空港の、一般の旅客は立ち入ることのできない、ヤタガラス専用の非公開待機室。

 

 窓のない、コンクリート打ちっぱなしの無機質な小部屋には、対面用の長机とパイプ椅子、そして最低限の呪的遮蔽結界の端末だけが置かれていた。

 

 一般客の喧騒は完全にシャットアウトされ、重苦しい静寂だけが部屋を満たしている。

 

 三枝がドアの認証キーを解除し、健司を先導して中へと入った。

 

 部屋の奥のパイプ椅子に、その女性は座っていた。

 

 写真で見た通りの、短く切り揃えられた金髪に、すべてを見透かすような冷徹なアイスブルーの瞳。

 

 実用性だけを追求した、擦り切れたカーキ色の頑強なロングコートを羽織っている。

 

 身の回りに大きな旅行カバンなどの荷物はなく、一見すると武器らしきものも携えていない。

 

 だが、健司の未来視の直感が、彼女の存在そのものから放たれる『抜き身の刃物』のような、強烈な威圧感を敏感に察知していた。

 

 触れれば、こちらの認識ごとスッパリと切り裂かれそうな、そんな純粋な戦いの中だけで磨き上げられた猟犬の気配。

 

 テーブルの上には、彼女が持ち込んできたらしいいくつかの魔導装備の申告書類と、彼女の所属を示す『欧州血液災害対策連盟』の刻印が入った封筒が、整然と並べられていた。

 

 エリカ・ヴァイスナーは、入ってきた三枝と健司を、値踏みするような鋭い視線で睨みつけた。

 

 そして、部屋の空気をピキリと凍らせるような、低く掠れた声で第一声を発した。

 

「……カラスか。遅かったな」

 

 健司は、思わず身体を硬直させた。

 

(初対面から、最高に空気が悪いんだけど……!)

 

 だが、隣に立つ三枝は、全く表情を変えずに事務的なトーンを維持した。

 

「ヤタガラス特殊事象対策課の三枝です。こちらは、今回の同行者兼、現場の観測担当を務める佐藤健司です」

 

 エリカの視線が、スッと健司へと移動した。

 

 そのアイスブルーの瞳の奥にある、冷徹な光に射抜かれ、健司は思わず背筋が寒くなる。

 

「……観測担当? そこの冴えない男がか?」

 

「必要に応じて、彼の持つ未来視による危険予測と、空間の安全管理を行います」

 

 三枝が淡々と健司の能力を開示する。

 

「予知者か」

 

 エリカの細い眉が、ほんのわずかに動いた。

 

「文字通りのカラスの巣穴にしては、随分と豪華な案内人を用意したな」

 

 健司は、引きつった苦笑いを浮かべながら、どうにか声を絞り出した。

 

「あ、いや……豪華なんて言われるような立派な身分じゃないです。ただの臨時の補助要員ですので」

 

「前線に出る者に、身分など関係ない」

 

 エリカは、感情の籠らない声で冷たく言い放った。

 

「そこに立っている者が、戦場で役に立つか、あるいはただの肉の壁として無様に死ぬか。……それだけだ」

 

「……初対面の挨拶としては、随分とハードコアですね」

 

 健司が肩をすくめると、脳内で魔導書が愉快そうに声を上げた。

 

『クックック、正論だな、猿! 狩人の世界においては、生きるか死ぬか、それ以外のチャチな社会的肩書きなど、何の価値もないからな』

 

(お前も、いちいち調子に乗って脳内で騒ぐな!)

 

 三枝は、エリカの威圧的な態度を完全に無視し、長机を挟んだ対面のパイプ椅子へと静かに腰を下ろした。

 

 健司もそれに倣う。

 

「エリカ・ヴァイスナーさん。あなたが日本国内で活動するにあたり、まず当方としての厳格な安全規定を確認させていただきます」

 

 三枝が、資料ファイルを広げながら事務的に切り出した。

 

 エリカは、そのファイルを一瞥することすらせず、椅子の背もたれに体重を預けて、鼻で笑った。

 

「その事務手続きを始める前に、一つだけ明確にさせておきたい。……日本のカラスどもは、今回もあの『寄生虫』どもを、全力で庇うつもりなのか?」

 

 健司の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。

 

 三枝の無表情は、微塵も崩れなかった。

 

「対象の行為と、国籍によります」

 

「同じことだ」

 

 エリカの言葉には、狂信に近い、絶対的な拒絶の本心が乗っていた。

 

「血を媒介にして他者を貪る吸血鬼どもは、例外なく全員がクズだ。人間の社会に擬態し、影から我々の生命を啜る、人類にたかる害悪な寄生虫だ。あいつらに、対話の余地など存在しない」

 

 小部屋の空気が、急激に底冷えする。

 

 健司は、前日に橘から受けた丁寧な説明を思い出していた。

 

 日本国民の中にも、事故や突然の覚醒によって、血を媒介とする能力体系に目覚めてしまう者がいる。

 

 本人が一番パニックになり、化け物になったと絶望して錯乱する。

 

 ヤタガラスは、そんな彼らを「同じ人間」として保護し、治療し、社会に戻すための管理を行う。

 

 だが、目の前にいる欧州の狩人は、その彼らを一括りにして「寄生虫」だと吐き捨てたのだ。

 

 健司は、彼女のその余りにも偏った過激な思想に、不快感と恐怖を同時に覚えた。

 

(この人……想像以上に、話の通じない強火のハンターだ……!)

 

 だが、三枝は一歩も引かなかった。

 

 彼女の瞳の奥にある、ヤタガラスという国家組織としての冷徹な意志が、エリカの殺気を正面から受け止める。

 

「日本国内においては、その極端な認識に基づくあらゆる独断専行を、認めることはできません」

 

「私は、お前たちと退屈な法秩序の演説をしに、わざわざ極東まで来たわけじゃない」

 

 エリカの声が、地を這うように低くなった。

 

「私は、欧州から逃亡した最悪の血の病巣を追ってここに来た。それを駆除する。それだけだ」

 

「ここは日本です」

 

 三枝は、一文字ずつ釘を刺すように、冷酷なまでに事実を突きつけた。

 

「日本国内において、ヤタガラスの正式な許可なく、能力者に対して無断の実力行使、および襲撃を行うことは、重大な違法行為です。……重ねて警告します。あなたがその思想を行動に移した場合、ヤタガラスはあなたを『排除すべきテロリスト』と見なし、全力を挙げて現場で即座に制圧します」

 

 エリカは、アイスブルーの瞳を細め、薄く、挑発的な笑みを浮かべた。

 

「……やってみろ、カラス。お前たちのその貧弱な羽が、私の刃を止められるならな」

 

 言葉の裏には、ハッタリではない、数多の吸血鬼を屠ってきた者特有の、圧倒的な戦闘の絶対的確信があった。

 

「……と言いたいところだが」

 

 エリカは、フッと視線を外し、テーブルの上の封筒に指を置いた。

 

「今日は、お前たちと無駄な流血の喧嘩をしにきたわけではない。今回の標的を確実に仕留めるためには、この土地の地理と情報を持つカラスの手が必要だと判断した。……それだけのことだ」

 

 思想は絶対に曲げない。

 

 だが、目的を達成するためなら、嫌悪しているヤタガラスのルールにも最低限、表面的には適応してみせる。

 

 健司は、彼女が単なる理性を失った狂信的な殺人鬼ではなく、冷徹に目的を計算できる「極めて質の悪いプロの狩人」であることを察した。

 

 三枝は、エリカの引き際を見逃さず、直球の核心の質問を投げかけた。

 

「では、明確に確認させていただきます。エリカ・ヴァイスナーさん。あなたは今回、我々にとって『敵』ですか? それとも『味方』ですか?」

 

 エリカは健司と三枝を交互に見つめ、冷たく言い放った。

 

「吸血鬼の味方をするなら、私はお前たちの敵だ。人間の社会を守ろうとするなら、私はお前たちの味方だ」

 

「ヤタガラスは、日本国民の安全を最優先で保護します。それがたとえ、血液媒介型の能力分類に属する者であっても、変わりはありません」

 

「なら」

 

 エリカは席を立ち上がるような威圧感で、二人を睨みつけた。

 

「……いつか、決定的な敵になるかもな」

 

 健司は、完全に板挟みになって胃を押さえたくなった。

 

 この二人の会話は、最初から最後まで、一歩も噛み合っていない。

 

 お互いに「守るべきもの」の前提が、根本から違いすぎているのだ。

 

「今回の標的について、情報開示をお願いします」

 

 三枝が、冷徹に話を本題へと戻した。

 

 エリカは再び椅子に深く腰掛け、アイスブルーの瞳を冷たく光らせた。

 

「今回の標的は、人間ではない。……いや、元が人間だったものですらない。人間の皮を被った、おぞましい血の病巣そのものだ」

 

 三枝は、エリカが資料を差し出す前に、もう一つの決定的な懸念を口にした。

 

「その情報を開く前に、一点、確認させていただきます。あなた方のコミュニティには、過去に日本国内で無許可の実力行使を行い、一般人に重傷者を出して永久入国禁止措置を受けている人物がいますね」

 

 エリカの表情は、ピクリとも動かなかった。

 

「知っている。私の先輩だった男だ」

 

「その人物は、我々が保護していた無害な日本国民の能力者を襲撃しました。その結果、周囲の一般社会に多大な被害が出た。あなたも、あの独断専行を肯定するのですか?」

 

「あいつは、自らの課せられた職務を真っ当に果たそうとしただけだ」

 

 エリカの声には、一切の迷いも反省もなかった。

 

「吸血鬼という害悪を、この世界から一匹でも多く間引こうとした。……それだけの話だ」

 

 健司は、その余りにも独善的な物言いに耐えかねて、思わず口を挟んだ。

 

「……いや、それだけじゃ済まないでしょ。いくら何でも、関係のない一般人を巻き込んで怪我させておいて、『職務を果たしただけ』なんて理屈、この国では絶対に通用しませんよ」

 

 エリカの鋭い視線が、ギロチンの刃のように健司に向けられた。

 

「予知者。吸血鬼という病巣をその場で見逃し、放置すれば、未来においてその何倍もの一般人が血を抜かれて死ぬことになる。目先の数人の怪我を恐れて害悪をのさばらせる方が、遥かに大罪だと思わないのか?」

 

「でも、その襲撃された人が、まだ誰も傷つけていない、普通に生きようとしていた日本人だったとしたら?」

 

 健司は、一歩も引かずにエリカの目を睨み返した。

 

 アスカや梓の顔が、脳裏をよぎっていた。

 

「何もしていない吸血鬼など、この世に存在しない」

 

 エリカは、冷酷極まる声で言い切った。

 

「あいつらは全員、……“まだ、何もしていないだけ”の潜在的な怪物だ」

 

 この一言で、彼女の抱える『狩人』としての狂気的なまでの危険性が、完全に浮き彫りになった。

 

 彼女の世界では、血液媒介型の能力者は、生まれた瞬間に死罪が確定している犯罪者と同義なのだ。

 

 三枝の瞳の奥の光が、完全に凍りついた。

 

「……その思想と認識を、万が一にでも日本国内で行動に移した場合、あなたもあなたの先輩と全く同じ措置を受けることになります」

 

「構わない。世界中からどれほど忌み嫌われようが、出禁にされようが、私のやるべきことは変わらない」

 

「出国していただく、という意味ではありません」

 

 三枝は、淡々と、しかし地獄の底から響くような声で言った。

 

「……ヤタガラスの手によって、その場で物理的に『制圧対象』になるという意味です」

 

 エリカは、少しだけ口元を歪め、好戦的な笑みを漏らした。

 

「……カラスは、脅し文句の引き出しが豊富だな」

 

「ただの厳格な警告です。日本のルールを守れない猟犬なら、ここで檻に入れるだけです」

 

 健司は二人の火花を横で見ながら、背筋が寒くなるのを感じていた。

 

 エリカは、過去に日本で大問題を起こした同胞のハンターを、微塵も否定していない。

 

 その暴挙を「正しいこと」として受け止めている。

 

 だからこそ、彼女はヤタガラスにとって、いつ牙を剥くか分からない爆弾なのだ。

 

 だが、それでも彼女が今、こうして大人しくヤタガラスの用意した特殊待機室に座り、情報共有に応じようとしているのは、今回の標的が、彼女個人の独力だけでは到底追いきれないほど、異常に「逃げるのが上手い」最悪の存在だからだった。

 

 エリカは、長机の上に置かれていた漆黒の分厚い封筒を、三枝の前へと強く押し出した。

 

「……標的の資料だ。よく見ておくがいい」

 

 三枝が封筒を受け取り、中から数枚のカラー写真、被害者の凄惨な遺体リスト、移動経路のチャート、そして呪的な血液反応の簡易分析ドキュメントを取り出した。

 

 健司も横からその資料を覗き込み、思わず息を詰まらせた。

 

 写真に写っている遺体は、どれも干からびたミイラのように、完全に全身の血を抜かれていた。

 

「通称、《狂信者》。……欧州のハンターコミュニティにおける呼称は、ブラッド・アポストル(血の使徒)」

 

 エリカが、忌々しそうにその名を口にした。

 

「ブラッド・アポストル……」

 

 健司が呟く。

 

『悪趣味で独善的な名だな』

 

 魔導書が、脳内で不快そうに声を漏らした。

 

「本人がそう名乗ったわけではない。奴が殺戮を行った現場の壁に、いつも犠牲者の血を使ってその狂信的な文言が残されていたため、こちらがそう名付けた」

 

 エリカのアイスブルーの目が、憎悪に燃える。

 

 三枝は資料のデータを素早くスキャンし、ヤタガラスの内部データベースと照合した。

 

「……国際指名手配級。血液媒介型能力を悪用した連続殺人、大規模な死体損壊、特殊な屍体操作、感染性の強い異能事故の意図的な拡散、および数カ国にまたがる越境逃亡。……容疑がかなり重いですね」

 

「重い? そんな生ぬるい言葉では足りない」

 

 エリカは吐き捨てた。

 

「奴は、独自の歪んだ信仰の名のもとに、人間をただの『餌』と見なして消費している。人間の尊厳を根底から冒涜する、文字通りの病巣だ」

 

「信仰……って、あいつは一体何者なんですか?」

 

 健司が尋ねる。

 

「奴は、生まれつき吸血鬼の素養を持っていたわけではない。事故で不運にもその力に目覚めてしまった被害者でもない」

 

 エリカは、拳を強く握り締めた。

 

「奴は、吸血鬼という人の血を啜る異形の存在を『神聖な上位種』として狂信し、自らがその領域へ至るために、禁忌とされる血液儀式を無差別に繰り返して、後天的に自らの肉体と能力を吸血鬼へと作り替えた……完全なる異常者だ」

 

 健司の背筋に、嫌な冷気が走った。

 

「つまり……吸血鬼になりたくて、自分から望んで、人を殺してその血をすすりながら化け物になったってことですか?」

 

「そうだ。下劣な人間の皮を脱ぎ捨て、高貴な吸血鬼になりたかったらしい。そのために、何十人もの一般人の血を吸い尽くしてきた」

 

「……最悪じゃないですか」

 

「最悪という言葉では生ぬるい。あれは、存在すること自体が人間社会への侮辱だ」

 

 三枝が、資料から目を離さずに淡々と告げた。

 

「この対象に関しては、我々ヤタガラスが保護を掲げる『国民の能力者』とは、全く別の扱いになります。明確な国際超常犯罪者として、発見次第、即座に制圧、または処理の対象に指定します」

 

「当然だ。あんなものに保護する価値など一滴もない」

 

 エリカの言葉に、三枝は小さく頷いた。

 

「判断と処理の執行は、あくまで日本側が行います。ですが、利害は一致していますね」

 

「勝手にしろ。だが、お前たちカラスが、お役所仕事の遅さで奴を殺すべき時に殺せないなら……その時は、私が奴の心臓を直接撃ち抜く」

 

 エリカのその言葉に、三枝は反論しなかった。

 

 思想は噛み合わなくても、今回の標的が「生かしておいてはならない絶対の悪」であるという一点においてのみ、二人の利害は完全に一致していた。

 

 エリカが、資料のページをトントンと指で叩き、ブラッド・アポストルの持つ具体的な『能力』の解説を始めた。

 

「奴の能力は、単なる吸血による身体強化だけではない。主に四つの凶悪な特徴がある」

 

「一つ目は、血液摂取による自己強化。他者の新鮮な血液を摂取することで、自らの身体能力、異能反応速度、傷の再生力、五感のすべてを爆発的に引き上げる。血の質と量によってその強化幅は変わるが、奴は特に、若く健康な人間、あるいは強い恐怖状態にある人間の血液を好む傾向がある」

 

「恐怖状態の血……?」

 

 健司が眉をひそめる。

 

「奴の歪んだ趣味だ。死に直面した人間の恐怖と絶望が、血液の因果の味を最高に高めると本気で信じている。そのため、犠牲者をわざわざ精神的に極限まで追い詰めてから血を吸う」

 

「……胸糞悪すぎるな」

 

「二つ目は、血液支配。自らの干渉を乗せた血液を対象の体内に注入することで、その身体機能を一部、強制的に支配下に置く。生きている強固な意志を持つ相手にこれを行うのは難しいが、瀕死の人間、あるいは死亡した直後の肉体には、容易にその血の術式が通り、支配が完了する」

 

「そして、三つ目が、それを利用した屍体操作、いわゆるゾンビ化だ」

 

 エリカの瞳が、憎悪で小さく震えた。

 

「奴は、血を吸い尽くして殺した犠牲者の死体に、自らの劣悪な血を注入し、簡易的な『眷属』として操る。もちろん、伝承にあるような自我を持った吸血鬼の眷属ではない。ただ、血を求めて本能のままに動くだけの、悍ましい動く死体だ。奴はそれを、自分の盾、追跡者への囮、縄張りの維持に平然と利用する」

 

「ゾンビ……」

 

 健司は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 

 異界の子鬼とは違う、現実に死んだ人間が化け物として動かされる恐怖。

 

「ヤタガラスの分類で言えば、屍体操作型の血液媒介異常体、ですね」

 

 三枝が、極めて冷静に事務的な用語で処理する。

 

「三枝さん、その言い方、事務的すぎて逆にめちゃくちゃ怖いんだけど」

 

 健司が顔を引きつらせる。

 

「そして、四つ目が、そのゾンビを利用した縄張り、あるいは簡易領域の形成だ」

 

 エリカの説明が続く。

 

「奴は、殺した犠牲者のゾンビを、周囲のエリアに複数配置することで、その一帯に強烈な血の匂いと死体の呪的反応を意図的にばら撒く。これによって、我々ハンターの行う血液探知や霊的な追跡術の焦点を、強引に狂わせる。さらに……その血の匂いが満ちた簡易的な領域の内部では、ブラッド・アポストル自身の再生効率と、逃走時の隠密性がわずかに向上する仕様になっている」

 

『ククク……、簡易的な領域だな』

 

 脳内で、魔導書が感心したように声を上げた。

 

『血と死体を因果の杭にして、空間に自らの都合のいい縄張りを打ち込んでいるわけだ。なかなかどうして、悪趣味だが合理的な術式の編み方だぞ』

 

(……また、領域か。最近、本当に領域とか結界って言葉によくぶつかるな)

 

 健司は、自分が覚えたばかりの結界魔法の感覚を思い出し、複雑な気分になった。

 

「奴の能力は、戦闘そのものよりも、徹底的に『逃亡』に特化している」

 

 エリカが資料を伏せた。

 

「正面から戦っても手強いが、それ以上に、こちらの手が届く前に逃げるのが異常に上手い。ゾンビを躊躇なく囮として使い捨て、追跡者の戦力を分散させ、自らの血痕の反応を偽装し、国境の監視をすり抜けて逃げ続ける。ここ数年は欧州の地下に潜伏して大人しくしていたが……ここ一ヶ月で、何が原因か急に活動を再開し、各地で凄惨な犠牲者を出しながら移動を始めた」

 

「逃げて、逃げて……最終的に、この日本へ流れ着いたということですか」

 

 健司が尋ねる。

 

「そうだ。奴は、逃亡した先々の土地で、生き延びるために必ず新たな『餌』を狩る。この国でも、すでに同じことを始めているはずだ」

 

 エリカの言葉に、健司は思わず拳を強く握り締めた。

 

 最悪の化け物が、今、自分の住むこの国の夜に放たれているのだ。

 

「一つ、気になることがある」

 

 エリカが健司の方を真っ直ぐに見た。

 

「ここ数年、完全に沈黙していた奴が、一ヶ月前から急に狂ったように動き始めた。……こちらの『透視屋』がその兆候を捉えたからこそ、私はここまで追って来られたのだがね」

 

「透視屋、ですか?」

 

 健司は、その見慣れない能力の単語に引っかかった。

 

「予知者ではない。未来の分岐は視えないし、過去の歴史を自由に行き来して覗くこともできない」

 

 エリカは、少しだけ声を落とした。

 

「ただ、犠牲となった者が死ぬ、その『最期の数秒間の光景』だけを、遺物に触れることで強引にサイコメトリーとして拾い上げる、特殊な観測能力者だ」

 

 その能力は、非常に制約と負荷が強いらしい。

 

 犠牲者の血液や死体が現場にナマの状態で残っていなければ視ることはできず、死後から時間が経過するほどノイズが混ざって精度が落ちる。

 

 さらに、犯人の顔がハッキリと視えるわけではなく、視えるのは「死ぬ瞬間の圧倒的な恐怖と五感の情報」だけだ。

 

「死にゆく者の絶望を、自らの脳内に直接ダウンロードして追体験する能力だ」

 

 エリカの表情が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、痛みを堪えるように硬くなった。

 

「現場に出られるような能力ではない。死者の最期の悲鳴を脳内で聞き続けるだけで、あいつらの精神は容易に狂い、壊れていく」

 

 健司は、その言葉の裏にある、エリカの本心を直感した。

 

 彼女は、吸血鬼に対しては冷酷非情で、寄生虫として容赦なく切り捨てる。

 

 だが、同じ人間側の仲間——自分の能力の負荷で精神をすり減らしている『透視屋』の同胞に対しては、確かな同情と、強い仲間意識を持っているのだ。

 

 彼女は、完全に狂った殺人鬼ではない。

 

 人間を守るために、自ら進んで泥を被り、冷酷な狩人を演じているのだ。

 

「その壊れかけの透視屋が、欧州の各地で、全く同じ『血の刻印』のビジョンを、一ヶ月の間に十件も拾い上げた」

 

「十件……」

 

「確認できている直接の犠牲者だけで、十人だ。死体が現場に残されていたものだけでな。未確認の、跡形もなく処理された犠牲者を含めれば、その数倍は確実に死んでいる」

 

 エリカの言葉に、健司は息を呑んだ。

 

 一ヶ月で、十人以上の命が吸い尽くされている。

 

「その犠牲者のうちの複数体は、死後にゾンビとして動かされ、私たちの追跡の囮として使い潰された。奴は、人間だったものの遺体を、ただの逃げるための煙幕として利用する。……絶対に、生かしてはおけない理由が分かったか、予知者」

 

 エリカのアイスブルーの瞳が、健司を射抜く。

 

 健司は、深く息を吸い込み、頷いた。

 

「……はい。そいつは、何が何でも、今ここで止めなきゃいけない相手です」

 

 エリカは、健司のその言葉を聞いて、フッと細い唇を歪めた。

 

「ようやく、少しは話の分かるカラスになったようだな」

 

「いや、俺は最初から、そいつが悪い奴だってことは十分に分かってましたよ」

 

「この標的に関しては、ヤタガラスも危険度を最上位に設定し、最優先の制圧案件として扱います」

 

 三枝が、タブレットに正式な任務データを登録しながら言った。

 

「見積もるだけなら、どこの役所でもできる。言葉はいいから、早く動け」

 

「そのための、この場での情報共有です」

 

 三枝は、エリカの刺々しい催促を淡々と受け流した。

 

「なら、一刻も早く実働の網を張るがいい。……この日本の土地で、最初の無辜の犠牲者が出る前に、な」

 

 エリカの言葉には、焦燥の本心が乗っていた。

 

 彼女は、本当にこれ以上の犠牲者を出したくないのだ。

 

 日本の主権やルールに文句は言うが、人間を救うという目的において、彼女の行動原理は完全に本物だった。

 

「エリカ・ヴァイスナーさん。現時点の確認として、あなたの今回の来日目的は、国際指名手配犯であるブラッド・アポストルの追跡、および制圧のみ。……そう理解してよろしいですね?」

 

 三枝が、念を押すように最終確認を求めた。

 

「……今は、な」

 

 エリカは意味深に答えた。

 

「『今は』って、どういう意味ですか?」

 

 健司が尋ねる。

 

「言葉通りの意味だ。奴を追う道中で、もし目の前に別の吸血鬼が現れ、人間の血を吸って社会を脅かしている現場に遭遇したなら……私はその場で、躊躇なくそいつの首を撥ねる」

 

「その判断を、日本国内で独断で行うことは、絶対に認められません」

 

 三枝が、冷徹な声でピシャリと言い放った。

 

「また、土地のルールか」

 

「法です。守れないのであれば、あなたも制圧の対象になります」

 

「やってみろ、と言いたいところだが……」

 

 エリカは、フッと息を吐いて椅子に背もたれを預けた。

 

「今は、奴を仕留めることが最優先だ。無駄な諍いでリソースを消費するつもりはない。見張りたければ、後ろからいくらでも見張っているがいい、カラス」

 

「では、こちらも対応を明確にします」

 

 三枝が、資料を閉じた。

 

「エリカ・ヴァイスナーさん。現時点をもって、ヤタガラスはあなたを『ブラッド・アポストル案件における情報提供者、および暫定的な協力者』として扱います。同時に……あなた自身を、日本国内における『厳重な監視対象』に指定します」

 

「十分だ。お前たちの監視の目の前で、あの化け物を確実に仕留めてみせる」

 

 二人の視線が、長机を挟んで激しく火花を散らした。

 

 健司は、そのピリピリとした緊張感に耐えかねて、小さくため息をついた。

 

(共闘が成立した雰囲気の会話じゃないよね、これ完全に……。俺、マジでこの二人の間で、これから案内役をやらなきゃいけないのか?)

 

『クハハハ! 見事な暫定共闘だな、猿。お前だけが、この狂気の間で唯一の正常な理性を保っているぞ。誇るがいい』

 

 魔導書の言葉に、健司は(嬉しくねえよ!)と内心で頭を抱えた。

 

 エリカは、ふと健司の方へと真っ直ぐに向き直った。

 

 そのアイスブルーの瞳が、値踏みするように健司の顔を見つめる。

 

「……時に、予知者よ。お前は、本物の吸血鬼を、その手で殺せるのか?」

 

 健司は、意表を突かれて一瞬言葉を詰まらせた。

 

「……え?」

 

「答えろ。お前には、あの化け物の心臓に、躊躇なく刃を突き立てるだけの覚悟があるのか、と聞いている」

 

 健司は、少しの間、沈黙した。

 

 自分は、これまで低位異界で子鬼などの怪異を倒してきた。

 

 新しく覚えた遠距離斬撃『斬』で、今日も怪異を一撃で消滅させたばかりだ。

 

 だが……吸血鬼分類の能力者は、元は同じ『人間』だ。

 

 ブラッド・アポストルが、どれほど弁護の余地のない完全な社会悪の怪物だとしても、それを「殺せるか」と正面から問われて、はい、と簡単には答えられなかった。

 

 自分の手が、人間の血で汚れることへの、一般人としての本能的な恐怖と忌避感が、どうしてもブレーキをかける。

 

「……殺せるかどうかは、正直、今の俺には分かりません」

 

 健司は、嘘を吐かずに本心を答えた。

 

「でも。……もしそいつが、本当に今すぐ止めなきゃいけない、人を襲う最悪の化け物なんだとしたら、俺は全力で、自分の手札を使ってそいつを止めます」

 

 エリカは、健司の回答を聞いて、鼻で笑った。

 

「甘いな。やはりカラスの巣穴で飼われている、ただの雛鳥だ」

 

「……でしょうね。自分でも甘いと思ってますよ」

 

 健司が自嘲気味に言うと、三枝がすかさず横から口を挟んだ。

 

「佐藤さんは処刑人ではありません。今回の任務における彼の主な役割は、未来視による戦況の観測と、現場の支援です」

 

「なら、そんな中半端な覚悟の男を、前線に出すな」

 

 エリカは冷酷に言い放った。

 

「戦場で迷う者は、自分だけでなく、周囲の仲間の命まで道連れにして全滅させる。……お前たちの身内の安全のためにも、そこの予知者は後ろの安全な檻に引っ込めておけ」

 

 健司は、その言葉の裏にある、彼女のもう一つの本心に気がついた。

 

 彼女は健司を「甘い」と罵倒しているが、本気で彼を害そうとしているわけではない。

 

 むしろ、「覚悟の足りない人間が前線に出れば死ぬ」という、彼女なりの戦場の冷徹な経験則から、健司が犬死にすることを危惧し、遠回しに『下がっていろ』と警告しているのだ。

 

「佐藤さんは、前回のイレギュラー戦でも、自らの未来視で現場の被害を最小限に抑え込みました。現場の判断力において、彼は信頼に足る職員です」

 

 三枝が、健司を明確に庇うように言った。

 

「……勝手にしろ。死んでも私は知らんぞ」

 

 エリカはそれ以上、健司を追及することをやめた。

 

 健司は、長机の上の資料を見つめながら、集中を内側へと向け、未来視を軽く走らせた。

 

 エリカが、今この場で突然暴れ出してヤタガラスと戦闘を始めるような、そんな最悪の未来の分岐は、今のところ薄く消えかかっている。

 

 少なくとも、彼女の目的はブラッド・アポストルの駆除であり、ヤタガラスとの無駄な戦闘ではない。

 

 だが。

 

 健司の未来視の視界に、嫌な、どす黒い未来の断片が、フラッシュバックのようにいくつか引っかかった。

 

 ——赤黒い、大量の血の海。

 

 ——ミイラのように干からびた、白い人間の死体。

 

 ——あり得ない関節の方向に身体を曲げながら、ゾンビとして動かされる死体。

 

 ——深夜の薄暗い雑居ビルの廊下。

 

 ——エリカが振るう、銀色に輝く鋭い刃。

 

 ——三枝が放つ、ヤタガラスの呪的結界の札。

 

 ——そして……健司自身が展開した『五メートルの結界』の透明な壁面に、大量の赤黒い血がベッタリと叩きつけられ、汚れていく不吉な光景。

 

 健司は、強烈な不快感に襲われ、思わず顔をしかめた。

 

「……おい。予知者、何を見た」

 

 エリカが、健司の表情の変化を鋭く見逃さずに尋ねた。

 

「……見たくないものを、少しだけ見ました」

 

 健司は、低く抑えた声で答えた。

 

「場所は? 具体的な状況は分かるのか?」

 

「分かりません。まだ、ノイズが多すぎて、いくつかの断片的なビジョンが揺れているだけです」

 

 エリカは、苛立ったように大きく舌打ちをした。

 

「なら、なおさら急ぐことだ。奴はもう、この東京の夜のどこかで、次の餌を探して動き始めているに違いない」

 

 三枝は、即座に手元の端末を操作し、ヤタガラスの広域監視網へ向けて、最高レベルの警戒指示を配信した。

 

 重点的な監視対象エリアの選定。

 

 ・都内、および横浜・川崎の、港湾に近い倉庫街や雑居ビル群。

 

 ・深夜営業のアンダーグラウンドな店舗、廃病院、地下通路。

 

 ・身元確認が遅れやすく、浮浪者や身寄りのない人間が集まりやすい場所。

 

 ・違法な血液売買、闇医療、あるいは献血施設や医療系製剤の保管場所の周辺。

 

「一般社会への無用なパニックを防ぐため、表向きの警報は一切出しません。ヤタガラスの裏の監視網と、地域のエージェントの目だけを極限まで強化します」

 

 三枝が方針を告げる。

 

「お役所仕事の網が、あの化け物の移動速度に追いつけばいいがな」

 

 エリカが皮肉る。

 

「追いつかせます。無差別に一般人を動かしてパニックを起こし、奴に逃亡の隙を与えるよりは、遥かに迅速で確実です」

 

「……この二人、本当にずっとバチバチに火花散らしてるな」

 

 健司が小声でぼやくと、脳内で魔導書が言った。

 

『だが、お互いに目指している方向と、相手のプロとしての実力は正確に評価し合っている。共闘の基盤としては、悪くない温度感だぞ、猿』

 

「そうかなあ……。俺には、いつ爆発するか分からない爆弾を二人同時に抱えてるようにしか見えないんだけど」

 

 三枝が、正式にミーティングを締めくくった。

 

「エリカ・ヴァイスナーさん。現時点をもって、共同作戦の暫定的な成立とします。国内での単独行動、および無許可の実力行使は厳禁。何かあれば、必ず私か佐藤さんへ即座に通報してください」

 

「十分だ。……奴の足跡さえ掴めれば、文句はない」

 

「……これ、本当に共闘が成立した大人の会話ですよね?」

 

 健司が念のために確認する。

 

「成立しています」

 

 三枝が即答した。

 

「問題ない。実務的な契約だ」

 

 エリカも短く応じた。

 

「……俺だけが、この部屋でおかしいのかな」

 

 健司がげんなりしていると、魔導書がしみじみと言った。

 

『お前だけが、この狂気的な能力者の間で、唯一のまともな一般人の倫理性を保っているのだ、猿。誇るがいい』

 

「だから、嬉しくねえよ!」

 

 三人が、今後の具体的な移動ルートや、ホテルの案内について話を詰めようと動いた、まさにその瞬間だった。

 

 ピーーーッ、ピーーーッ、ピーーーッ。

 

 三枝のコンソールボックスから、ヤタガラスの最優先警戒を示す、鋭く、耳障りなアラート音が鳴り響いた。

 

 三枝の表情が、初めて明確に強張った。

 

 彼女は即座に端末を開き、送られてきた緊急通知のテキストを読み上げた。

 

「……ヤタガラスの裏監視網から緊急報。都内、港湾近くの深夜営業の雑居ビルの敷地内にて、男性が倒れているのを発見。……病院への搬送時点で、体内の血液量が『異常なまでに少ない』状態。心停止が確認されました」

 

 健司の心臓が、ドクンと激しく脈打った。

 

「まさか……」

 

 三枝は、画面をスクロールし、さらに信じられないという声を絞り出した。

 

「……続きがあります。心停止の確認から数分後、……病院の遺体安置室にて、死亡したはずの遺体が『異常な起き上がり行動』を開始。防衛に当たった現地の職員に襲いかかり、現在、病院の地下階層が小規模なパニック状態に陥っています」

 

 部屋の空気が、一瞬で爆発寸前の緊張感へと跳ね上がった。

 

 エリカ・ヴァイスナーは、音もなく静かにパイプ椅子から立ち上がった。

 

 先ほどまでの刺々しい苛立ちは、彼女の顔から完全に消え去っていた。

 

 そこにあるのは、獲物の確かな血の匂いを嗅ぎつけた、冷徹極まる『本物の狩人』の凄絶な顔だった。

 

「……遅かったな、カラス」

 

 エリカが、コートの襟を立てながら低く言った。

 

「まだ、ブラッド・アポストルによる仕業だと完全に確定したわけではありません」

 

 三枝が、端末をポケットにしまいながら鋭く返す。

 

「確定だ。血を吸い尽くされた死体が、死後に狂ったように動き出した。……奴の、これ以上ないほどおぞましい『足跡』そのものだ」

 

 健司は、全身の血が引いていくような強烈な悪寒に襲われた。

 

『ククク……、奴の放った最初の“駒”のお出ましだな、猿』

 

 魔導書が、脳内で不敵に笑う。

 

 エリカは、ドアへ向かって歩き出しながら、振り返って健司を冷たく見据えた。

 

「予知者。現場に来るなら、今すぐその甘い生温い覚悟を捨てろ。……あの中にいるものは、もう、人間だったものですらない」

 

「……現場の確認と、被害の拡大阻止を最優先します」

 

 三枝が、ドアを勢いよく開け放った。

 

「佐藤さん。同行をお願いします。あなたの『目』が必要です」

 

 健司は、生唾を一つ飲み込み、自分の右手の指先を固く握り締めた。

 

 遠距離斬撃の感覚。

 

 そして、自分の周囲五メートルを支配する、あの結界魔法の絶対的な領域の感覚。

 

 ——今ある自分のすべてのカードを、この戦場に叩きつける時が来たのだ。

 

「……分かりました。すぐ行きましょう、三枝さん」

 

 佐藤健司は、ようやく本当の意味で理解した。

 

 今回の任務は、欧州からの厄介なハンターをただ案内するだけの、退屈なお役所仕事などではない。

 

 思想も、法律も、絶対に噛み合わない危険な味方と共に、この日本の夜に紛れ込んだ本物の害悪を追う、血生臭い『共同作戦』の幕開けなのだ。

 




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