俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第44話 猿と死体と血の要塞

 羽田空港の非公開待機室。

 

 エリカ・ヴァイスナーという、思想も法も噛み合わない危険な吸血鬼ハンターとの暫定的な共闘が結ばれた直後、三枝の端末がけたたましいアラートを鳴らした。

 

 ヤタガラスの裏監視網からの緊急通知。

 

 都内港湾近くの深夜営業の雑居ビルで、体内の血液量が異常に少ない男性が発見され、搬送先の病院で心停止。

 

 その後、遺体安置所で遺体が起き上がり、職員に襲いかかったという。

 

 その報告を聞いた瞬間、エリカは音もなくパイプ椅子から立ち上がった。

 

「場所は」

 

 短く、しかし絶対的な殺意を込めて問う。

 

 三枝は手元の端末で病院名と住所を即座に確認しながら、立ち上がろうとしたエリカを冷徹な声で制した。

 

「単独行動は禁止です。車両を手配しています」

 

「なら早く歩け、カラス。餌を食った化け物を待たせる趣味はない」

 

 エリカは苛立たしげにコートの裾を翻し、待機室のドアへ向かった。

 

 健司は、そのあまりに急激な展開に呆然と立ち尽くしていた。

 

「……えっと。俺、空港からそのままゾンビ退治に行くんですか?」

 

「はい」

 

 三枝が、一切の感情を交えずに即答する。

 

「はい、じゃないんだよなあ……」

 

 健司が顔を引きつらせると、脳内で魔導書が愉快そうに嗤った。

 

『喜べ、猿。貴様の不吉な予知は、見事に当たったぞ』

 

(当たって嬉しい予知じゃないっての!)

 

 手配された黒塗りの車両に飛び乗り、一行は深夜の首都高を港湾エリアへ向かって飛ばした。

 

 車内では、三枝が現地から上がってくる最新の情報を整理していた。

 

「発見現場は、港湾近くの雑居ビル裏。深夜営業の店舗、古い倉庫、外国人労働者向けの簡易宿泊施設など、怪しいテナントが混在するエリアです。被害者の男性は現在身元確認中。発見された時点で、体内の血液が異常なほど抜き取られていました」

 

 三枝がタブレットをスクロールさせながら報告する。

 

「搬送先の病院で死亡が確認され、地下の遺体安置所へ移送。その後、遺体が突如として起き上がり、確認に向かった職員を襲撃。……現在、病院の地下階の一部を物理的に封鎖しています」

 

「表向きには『薬物中毒患者による錯乱と暴行』、または『未知の感染症の疑い』として、地元警察と消防を遠ざけ、ヤタガラスの処理班が裏から対応にあたっています」

 

「ゾンビだ」

 

 エリカが、車窓の流れる夜景を見つめながら短く断じた。

 

「ヤタガラスの規定では、屍体操作型の血液媒介異常体です」

 

 三枝が訂正する。

 

「呼び方を変えたところで、やってることは同じですよね」

 

 健司がため息をつく。

 

「動く死体だ。現場で迷うなよ」

 

 エリカが、鋭いアイスブルーの瞳で健司を睨みつけた。

 

「いいか、予知者。安置所で動いているものは、もう絶対に救えない。あれを人間として見れば、お前が死ぬぞ」

 

 健司は、言い返せなかった。

 

 元は普通に生きていた人間だ。

 

 つい数時間前まで、心臓が動いていた誰かなのだ。

 

 それを「死体」として切り捨て、叩き斬れるのか。

 

『猿。あの苛烈な狩人の言葉は極端だが、この一点においては完全に正しい』

 

 魔導書が、珍しく茶化すことなく静かに告げた。

 

『死体を操る“血の術式”を根本から断たねば、必ず次の犠牲者が出る。迷えば、お前自身が次の餌になるだけだ』

 

 健司は膝の上で両手を強く握り締め、覚悟を決めきれないまま、流れる夜の街を見つめていた。

 

 深夜の病院は、表向きには静寂を保っていた。

 

 だが、地下階へと続く関係者専用の通路には、ヤタガラスの黒服の職員が複数名、険しい顔で立哨していた。

 

 警察や病院の一般スタッフにはすでに別ルートで「感染性の特殊事故」というカモフラージュの説明がなされており、地下エリアは完全に封鎖されている。

 

 一行は、案内されて階段を下った。

 

 救急外来の白く明るい蛍光灯の光から、地下の薄暗い空間への落差が、健司の不安を否応なしに掻き立てる。

 

 薄暗い廊下。

 

 ひんやりと冷えた空気。

 

 鼻を突く、強い消毒液の匂いと……微かに混じる、鉄錆のような血の匂い。

 

 前を歩くエリカの無骨なコート。

 

 隣で端末を操作する三枝の横顔。

 

 その瞬間、健司の脳内に、先ほど空港の待機室で視た『未来視の断片』がフラッシュバックし、目の前の現実とピタリと重なり合った。

 

「……ここ、見た気がする」

 

 健司が足を止め、思わず呟いた。

 

「未来視ですか」

 

 三枝が振り返る。

 

「多分。さっき空港で見た、嫌なビジョンの断片と、空気感がかなり近いです」

 

「なら急げ。お前の視た最悪の未来が、後ろから追いついてきているぞ」

 

 エリカが、振り返りもせずに冷酷に言い放つ。

 

 地下の最奥、遺体安置所へと続く重い鉄扉の前に到着した。

 

 三枝は、突入の前にジャケットの内ポケットから数枚の『札』を取り出した。

 

 ヤタガラス式の、呪的干渉を遮断するための結界札だ。

 

 用途は、地下階の一部封鎖、一般人の迷入防止、そして戦闘における音と異常な事象の漏洩を阻害すること。

 

 エリカが、それを見て鼻で笑った。

 

「お札遊びか。そんな紙切れで、化け物の血が止められるとでも?」

 

「ヤタガラス規定の封鎖術式です」

 

 三枝は無表情で札を壁に貼り付けていく。

 

「あなたが勝手に病院の壁を壊して暴れるより、よほど安全で確実です」

 

「壊す必要があれば壊す」

 

「その場合、始末書のほかに、器物損壊の理由を後で詳細に報告書に書いていただきます」

 

「……この二人、マジで現場でもずっとこんな感じなのか」

 

 健司は、極限の緊張感の中で繰り広げられる事務的なレスバトルに、少しだけ頭痛を覚えた。

 

 扉の手前の安全圏には、退避してきた病院職員が数名、青ざめた顔で震えていた。

 

 その中の一人、若い男性職員が腕を抱えるようにしてうずくまっているのを見て、エリカが即座に歩み寄り、冷たく見下ろした。

 

「傷を見せろ」

 

 有無を言わさない威圧感に、職員がビクッと肩を震わせる。

 

「こちらで確認します」

 

 三枝が素早く間に割って入り、医療用の手袋をはめた手で職員の腕を確認した。

 

 白衣の袖が引き裂かれているが、皮膚には浅い擦過傷があるだけで、深く噛まれたような痕跡はなかった。

 

 直接的な血液接触があったかは不明だ。

 

 三枝は、待機していたヤタガラスの職員に、即座に隔離と精密検査への誘導を指示した。

 

 エリカは、安堵でへたり込む職員の顔を見て、冷徹に言い放った。

 

「運が良かったな。もし皮膚を破られて噛まれていたら、今頃お前は、そこのベッドに縛り付けられて、自分の意志とは無関係に肉を貪る化け物に変わっていたぞ」

 

 職員の顔から、さらに血の気が引く。

 

(……言い方ってもんがあるだろ)

 

 健司は眉をひそめたが、今は反論している余裕はなかった。

 

 ガンッ、ガンッ、ガンッ。

 

 分厚い遺体安置所の扉の向こうから、内側から何かが無軌道にぶつかる鈍い音が響き始めた。

 

 そして。

 

 ドアの隙間の下から、赤黒い、不自然なほど粘性の高い血が、じわりと廊下へと滲み出してきた。

 

 健司の呼吸が止まった。

 

 ——赤黒い、大量の血の海。

 

 未来視の断片が、今、完全に現実と一致した。

 

「……当たってる」

 

 健司が、かすれた声で呟く。

 

「佐藤さん?」

 

「俺が視たやつです。血の海。たぶん、この扉のすぐ向こう側です」

 

 エリカが、コートの裏から音もなく銀色の刃を引き抜いた。

 

 それは、映画に出てくるような十字架を模した大剣でも、無骨な木製の杭でもなかった。

 

 純粋に実用性だけに振り切った、細身で鋭利な短剣。

 

 だが、その刃は薄暗い廊下の光を受けて、銀色に淡く発光している。

 

 刃の表面には、血液媒介の術式を強制的に断ち切るための、微細な刻印がびっしりと刻み込まれていた。

 

 三枝は、手の中に数枚の結界札を構え、いつでも放てる態勢を取る。

 

 健司は、自分自身の『領域』を展開する準備に入った。

 

『猿。最初から最大展開はするな』

 

 魔導書が、脳内で素早く指示を飛ばす。

 

『まずは半径三メートルで抑えろ。相手の血液干渉が境界に張り付いたその瞬間に、一気に五メートルへと押し広げて弾き返せ』

 

(分かった)

 

 健司は、先日の訓練の成果をフルに活かし、脳への過剰な負荷を抑えるために、まずは狭い範囲での結界をシミュレートした。

 

 三枝が、最後の封鎖札を扉の周囲に貼り付ける。

 

 札が淡く明滅し、廊下への物理的な音漏れと、呪的な血液反応の流出を完全に抑え込んだ。

 

「開けます」

 

 三枝がドアノブに手をかける。

 

 エリカが、刃を構えて重心を落とした。

 

「遅い。さっさと開けろ」

 

「合図で開けます」

 

 三枝はエリカの苛立ちを無視し、淡々とカウントを始めた。

 

「三、二、一」

 

 重い鉄扉が、開け放たれた。

 

 中は、文字通りの地獄だった。

 

 白いタイルの床一面に、赤黒い血が水たまりのように広がっている。

 

 だが、これはただの被害者の血ではない。

 

 ブラッド・アポストルの、異能の術式が込められた粘性の高い血が混じり合い、まるで生き物のように床を這っているのだ。

 

 遺体保管用のステンレス製のストレッチャーが乱雑に倒れ、壁際の巨大な冷蔵庫の扉が破壊されてひしゃげている。

 

 その部屋の中央に。

 

 ミイラのように干からびた、不気味なほど白い人間の死体が、立っていた。

 

 腕はあり得ない方向に不自然にねじれ、首は折れたように真横に傾いている。

 

 膝の関節が逆向きに曲がり、骨が皮膚を突き破っているというのに、それでも『それ』は、両足で立って動いていた。

 

 ——あり得ない関節の方向に身体を曲げながら、ゾンビとして動かされる死体。

 

 健司の未来視と、一切の狂いなく完全に重なる光景。

 

 健司は一瞬、そのあまりに冒涜的な姿に息を呑み、金縛りに遭ったように動きを止めてしまった。

 

「見るな、止めろ!!」

 

 エリカの鋭い怒声が飛ぶ。

 

「ギァァァァァッ!!」

 

 ゾンビが、喉の奥から空気が漏れるような奇声を上げ、こちらへ向かって跳ねるように突進してきた。

 

 その動きは、もはや人間のそれではない。

 

 関節の本来の可動域を完全に無視し、骨が折れていようがお構いなしに、壁や床を這う蟲のように高速で迫ってくる。

 

 三枝が、無表情のまま結界札を数枚、空中に向かって投擲した。

 

 札が空中で展開し、見えない呪的な網となって、ゾンビの異様な軌道を一瞬だけ絡め取り、進路を強引に止める。

 

 その隙を突き、エリカが弾かれたように踏み込んだ。

 

 銀の刃が閃く。

 

 ——エリカが振るう、銀色に輝く鋭い刃。

 

 未来視の断片が、次々と現実をなぞっていく。

 

 銀の軌跡が、襲いかかってきたゾンビの右腕を、肩口から綺麗に斬り飛ばした。

 

 健司は、ようやく硬直から抜け出し、行動を開始した。

 

「結界!」

 

 短い宣言とともに、自分と三枝を中心とした『三メートル』の領域結界を展開する。

 

 斬り飛ばされたゾンビの腕から、赤黒い血が意思を持っているかのように吹き出し、健司の展開した透明な壁面に、べちゃり、と激しく叩きつけられた。

 

 その瞬間。

 

 結界の表面に張り付いた赤黒い血が、まるで強酸のようにジュウジュウと音を立て、内側へ染み込もうと結界の境界線を激しく侵食し始めた。

 

 健司の頭に、錐で突かれたような強烈なノイズと激痛が走る。

 

 ——五メートルの結界の透明な壁面に、大量の赤黒い血がベッタリと叩きつけられ、汚れていく光景。

 

 まだ三メートルだが、完全に同じ流れだ。

 

 このままでは、結界を食い破られる。

 

『広げろ、猿! 血の術式干渉がお前の境界に噛みついている! 内側へ一滴たりとも入れるな!』

 

 魔導書が脳内で怒鳴る。

 

「おおおおッ!」

 

 健司は奥歯を噛み締め、結界の範囲を一気に『五メートル』へと強引に押し広げた。

 

 脳に、血管が弾けそうなほどの重い負荷がかかる。

 

 だが、その爆発的な境界の拡張によって、結界の内と外が絶対的な理のもとに完全に分かたれた。

 

 結界の表面に張り付いていた赤黒い血が、弾き飛ばされるようにパラパラと床へ落ち、内側への侵食が完全にストップする。

 

 三枝が、わずかに目を見開いて驚愕した。

 

「……ブラッド・アポストルの血液干渉を、純粋な空間の切り取りだけで完全に遮断した……」

 

「やるじゃないか、予知者!」

 

 エリカが、ゾンビの攻撃を躱しながら叫ぶ。

 

「褒めるなら、全部終わったあとでお願いします!」

 

 健司は、頭痛に耐えながら怒鳴り返した。

 

 ゾンビは、ただ物理的に噛みついてくるだけの単純な怪物ではなかった。

 

 ブラッド・アポストルの血が注入されているため、死体の血管から赤黒い血を刃のように噴き出し、鞭のようにしならせて振るってくるのだ。

 

 その血は、接触したものを呪的に汚染し、肉体に入り込もうとする極めて危険な劇物だった。

 

 三枝の結界札が、飛んでくる血の鞭を防ぐ。

 

 エリカが、接近してくるゾンビの足を銀の刃で的確に削ぐ。

 

 そして健司の結界が、周囲に飛び散る血飛沫の侵入を完璧にシャットアウトする。

 

 だが、健司の結界は、血の鞭に叩かれるたびに、境界線を維持する脳の処理領域にガンガンと重いダメージが蓄積されていた。

 

『耐えるな、猿。これはただの防御壁ではない。境界だ』

 

 魔導書が、本質を突くアドバイスを送る。

 

『飛んでくる血の物理的な質量を受け止めるのではない。血液に混ざったブラッド・アポストルの異能干渉を、“俺の領域のルールにはそぐわない異物”として、外側へ切り分けるのだ。結界の性質を活かせ!』

 

 健司は、その言葉の意味を必死に掴み取ろうとした。

 

 血を物理的に防ぐのではない。

 

 自分の陣地に、他人のルールで動く気持ち悪い血の術式を入れさせないという、強烈な『拒絶の意志』。

 

「ここから先は……俺たちの領域だ!」

 

 健司が、渾身の力で認識を固定する。

 

 その瞬間、結界の表面に叩きつけられた赤黒い血が、バチッという音とともに完全に弾き返された。

 

 術式の干渉を拒絶されたことで、ゾンビの動きが明らかに一瞬ひるむ。

 

 エリカは、その決定的な隙を見逃さなかった。

 

 一気に踏み込み、銀の刃を横薙ぎに一閃する。

 

 ゾンビの首が、呆気なく胴体から斬り落とされた。

 

 だが。

 

 首を失っても、ゾンビは止まらなかった。

 

 首なしの胴体が狂ったように跳ね回り、斬り飛ばされた腕が、まるで独立した生物のように床を這ってエリカの足首を狙う。

 

「チッ……! やはり首ではないか。脳を動かしているのではなく、血の核か」

 

 エリカが舌打ちをして後ろへ跳んだ。

 

 三枝が、端末の特殊センサーで反応を読み取る。

 

「胸部中央。本来の心臓の周辺に、極めて異常な血液反応が集中しています」

 

 健司は、未来視を研ぎ澄まし、一瞬だけ相手の体内にある赤黒い核の正確な位置を視た。

 

「胸です! 心臓のやや左のあたり!」

 

「分かっている!」

 

 エリカが、短剣を逆手に持ち替え、ゾンビの胸部へと真っ直ぐに刃を突き立てようとした。

 

 だが、その瞬間。

 

 ゾンビの胴体から、防衛本能のように赤黒い血が爆発的に噴出した。

 

 三枝が、素早く結界札を複数枚展開する。

 

 札が光を放ち、血の爆発の圧力を一瞬だけ強引に押し返す。

 

 だが、ブラッド・アポストルの血の呪力は凄まじく、三枝の札が端からチリチリと焼け焦げるように黒ずんでいく。

 

 ——三枝が放つ、ヤタガラスの呪的結界の札。

 

 これも、未来視のビジョンと完全に一致した。

 

 健司は、自分の展開している五メートル結界の形状を、瞬時に操作した。

 

 全体を維持するのではなく、エリカが突っ込むための『進路』の空間だけを、トンネルのように一瞬だけ通す。

 

「いけっ!」

 

 健司のサポートを受け、エリカの刃が、血の爆発を突き抜けてゾンビの胸部へと深々と突き刺さった。

 

 銀色に発光する刃が、内部に隠されていた赤黒い血の核を正確に貫く。

 

「ギュルルルルルッ……!!」

 

 ゾンビが、悲鳴のような奇声を発した。

 

 それは人間の声ではない。

 

 喉の奥で、ドロドロの血が沸騰して泡立つような、おぞましい音だった。

 

 直後、全身から糸が切れたように力が抜け、白い死体がドサリと床に崩れ落ちた。

 

 今度こそ、ピクリとも動かない。

 

 遺体安置所に、重い静寂が戻った。

 

 床には、赤黒い粘性の血と、完全に干からびた白い死体。

 

 そして、破壊されたストレッチャーなどの残骸が散乱している。

 

 健司の張っていた結界の表面には、弾かれた血の跡がべっとりと残っていた。

 

 健司が限界を迎えて結界を解除すると、空中に固定されていた血が、ボトボトと床へ落ちた。

 

「……はぁっ……はぁっ……」

 

 健司は膝に手をつき、肺が破れそうなほど荒く息を吐いた。

 

 五メートルの結界の維持と、強力な術式干渉の拒絶。

 

 脳が完全にオーバーヒートを起こしていた。

 

 三枝が、すぐに健司の様子を確認する。

 

「佐藤さん、状態は」

 

「……頭が、割れそうです。でも……動けます」

 

 健司は顔を歪めながら答えた。

 

『無理をするな、猿。休め』

 

 魔導書が、珍しく労うようなトーンで言う。

 

『だが、今は絶対に倒れるな。まだ、何も終わっていないぞ』

 

 エリカは、崩れ落ちた死体へ静かに近づき、胸部を切り裂いて内部の『血の核』を刃の先端で抉り出した。

 

 そこには、ピンポン玉ほどの大きさの、黒く固まった異様な血の塊があった。

 

 ブラッド・アポストルの血だ。

 

「……奴の血だ」

 

 エリカが、目を細めてそれを観察する。

 

「濃度は薄いが……まだ、繋がっている」

 

「繋がっている、とは?」

 

 三枝が尋ねる。

 

「ゾンビを遠隔で操るために、死体に混ぜ込んだ術式だ。完全にリンクが切れていない。……奴本体がまだこの近くにいるか、あるいは、この死体が、奴の展開している『縄張り』の端に接続されている証拠だ」

 

 三枝は即座に状況を理解し、その血の核を安全に隔離するための封印容器を鞄から取り出そうとした。

 

 だが、その時だった。

 

 健司の『未来視』が、本人の意思とは無関係に、勝手に強烈に反応した。

 

 エリカの刃の先にある、赤黒い血の塊を見た瞬間。

 

 健司の視界が、ぐらりと大きく揺れた。

 

 これは、単なる過去視ではない。

 

 この血の残滓が、ブラッド・アポストルの本体へと繋がる、強烈な『未来の道筋』を作り出しているのだ。

 

 健司が、もしこの血の因果を追うという選択をした場合、自分たちは近い未来に、一体どこへ辿り着くのか。

 

 その最悪の分岐が、脳内に流れ込んでくる。

 

「待ってください」

 

 健司が、掠れた声で言った。

 

「佐藤さん?」

 

「この血……まだ、因果が繋がってます。たぶん、俺の力でこれを辿れる」

 

 エリカのアイスブルーの目が、驚きに鋭く見開かれた。

 

「……できるのか」

 

「分かりません。でも、未来視が強烈に引っかかってるんです」

 

 魔導書が脳内で、素早く的確なアドバイスを叩き込む。

 

『直接、血の記憶から過去を視ようとするな。貴様は過去視の術者ではない。この血に触れた“未来”を視ろ』

 

『この血の術式の因果を追った場合、お前たちが数時間後にどこへ行き、何を見ることになるのか。その結果のビジョンだけを拾い上げろ』

 

(分かった)

 

 健司は深く頷いた。

 

 三枝は、即座に現場の状況を判断した。

 

「結界内で行いましょう。外部からの不要なノイズと干渉を完全に遮断します」

 

「急げ。血の糸は、そう長くは残らない」

 

 エリカが促す。

 

 健司は、安置所の一角に、先ほどよりも範囲を絞った、半径二メートル程度の極めて濃度の高い結界を張った。

 

 負荷を最小限に抑えるためだ。

 

 その結界の中心に、ゾンビの胸部から取り出された赤黒い血の核を、封印皿に乗せて置く。

 

 三枝が、結界を補強するための補助結界札を四方に貼り付ける。

 

 エリカは、何かが核から飛び出してきた場合に備え、銀の刃を構えて立っていた。

 

 健司は、皿の上の血をじっと見つめた。

 

 血そのものを読むのではない。

 

 この血を追跡した先にある『未来』を視る。

 

 自分たちが、この残滓を分析し、移動し、辿り着くことになるであろう、最悪の終着点の未来。

 

 視界が、べっとりとした赤黒い色に染まっていく。

 

 周囲の音が遠のき、魔導書の声だけが頭の中に残る。

 

『境界の認識を固定しろ、猿。血の向こう側に広がる狂気に、意識を引っ張られるな。お前はあくまで追う側だ。引きずり込まれる側ではない』

 

 健司は、吐き気と戦いながら意識の境界を保った。

 

 すると、断片的なビジョンが、次々と脳内に浮かんできた。

 

 港湾地区。

 

 雨に濡れた黒いアスファルト。

 

 古びて破れた、立入禁止の黄色いテープ。

 

 巨大な廃ビル。

 

 以前は雑居ビルか、あるいは古い物流会社の事務所だったような、四角い建物。

 

 窓の内側は、すべて黒い布や板で厳重に塞がれている。

 

 壁に、血で描かれた悍ましい呪術の文字。

 

 階段の踊り場に座り込む、白い顔の人影。

 

 いや、生きている人間ではない。

 

 さっき戦ったのと同じ、ゾンビだ。

 

 それが、複数体。

 

 薄暗い廊下に点々と続く、赤黒い血の筋。

 

 階を上がるごとに、咽せ返るような血の匂いが濃くなっていく。

 

 最上階、あるいは地下の広大なスペース。

 

 一面が血で赤黒く塗られたような、異様な部屋。

 

 その中央に、誰かが立っている。

 

 顔は影になって見えない。

 

 だが、そこから発せられる赤黒い血の術式反応が、あまりにも濃く、おぞましい。

 

 そして。

 

 その化け物の周囲の床に、まだ微かに動いている『生きている人間らしき影』が、一つ、二つ、転がっているのが視えた。

 

 健司は、心臓が鷲掴みにされたように息が詰まった。

 

 生存者がいる。

 

 ブラッド・アポストルが、次の餌として生きたまま連れ込んだ可能性があるのだ。

 

 未来視が限界を迎えて途切れる直前、健司は、ビルの外観にある錆びついた看板の、欠けた文字の配列を視た。

 

 それが、位置を特定する決定的な手がかりになる。

 

 健司は、結界の中でガクンと膝をついた。

 

「……見えた……」

 

 三枝が、即座に健司の肩を支える。

 

「場所は分かりますか」

 

「港湾の……赤い橋が見えるところ。……古い倉庫会社の、名前の一部が……」

 

 健司は、視えた看板の文字、周辺道路の形状、港湾の景色を、途切れ途切れに伝えた。

 

 三枝が、即座にヤタガラスの情報端末で地図データと照合する。

 

 数秒後、候補が一つに絞り込まれた。

 

「……該当しました。港湾地区にある、『旧東浜物流第三ビル』。数年前に業績不振で閉鎖され、現在は再開発待ちの無人建物として封鎖中の廃ビルです」

 

 三枝の表情が、かつてなく険しくなる。

 

「最近、その周辺で不審なホームレスの失踪や、怪しい人影の目撃情報が数件上がっていました」

 

「そこだ」

 

 エリカが短く断言する。

 

「断定はまだできません」

 

 三枝が慎重な姿勢を崩さない。

 

「血の糸が、確実にそこへ向かっている。それだけで十分だ」

 

 エリカがコートのポケットから予備の刃を取り出す。

 

 健司が、苦しそうな声で決定的な情報を口にした。

 

「中に……人がいました。転がってて、まだ少し動いてた。……まだ生きてるかもしれない」

 

 部屋の空気が、一変した。

 

 三枝の思考と判断が、一瞬で切り替わる。

 

「生存者がいる可能性があるのなら、一秒の猶予もありません。放置できません」

 

「奴はあそこを新しい巣にしている。しかも、すでに『要塞』にしているはずだ」

 

 エリカが警告するように言う。

 

 三枝が、端末に旧東浜物流第三ビルの衛星画像と、過去の建築データを表示した。

 

 五階建てのビル。

 

 一階は広大な倉庫兼搬入口。

 

 二階から四階は事務所スペース。

 

 地下には古い保管庫がある。

 

 周辺は再開発の立ち退きが進んでおり、夜間は人通りが皆無。

 

 港湾道路からすぐに逃げやすく、地下下水や旧搬入口などの逃走ルートも複数存在する。

 

 ブラッド・アポストルにとっては、潜伏して餌を食い荒らすにも、追い詰められた際に逃亡するにも、これ以上ないほど好条件の物件だ。

 

「奴はもう、あのビル全体に自分の血を撒き散らしている」

 

 エリカが、かつて戦った経験から分析する。

 

「あちこちにゾンビを配置して、強烈な血の匂いで我々の追跡を狂わせる気だ。逃げ道も、すでに複数用意してあるはずだ」

 

「要塞化している、ということですか」

 

 三枝が確認する。

 

「そうだ。急造だが、あそこはもう奴の『血の巣』だ」

 

『簡易領域の巨大な集合体だな』

 

 魔導書が冷静に解説する。

 

『部屋ごと、階層ごとに血を因果の杭として打ち込み、建物全体を奴の都合のいい“場”に書き換えているのだ。猿が使う結界とは、方向性が真逆だぞ。自らを守るための境界ではなく、獲物を喰い殺すための“蜘蛛の巣”だ』

 

 健司は、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。

 

 さっきのゾンビ一体ですら、結界に血を叩きつけて侵食しようとしてきたのだ。

 

 それが、建物全体に何十倍ものスケールで広がっているとしたら。

 

「突入、するんですか……」

 

 健司が震える声で尋ねる。

 

「当然だ」

 

 エリカは迷いなく答えた。

 

 三枝も、もはや躊躇しなかった。

 

「生存者がいる可能性があり、同時に、標的がすでに次の逃亡準備に入っている可能性もあります。これ以上待てば、被害が拡大し、奴を取り逃がすだけです」

 

「でも、要塞化してるなら、ヤタガラスの精鋭部隊の応援を待ってからの方が……」

 

「応援の要請はすでに出しています」

 

 三枝が端末を操作しながら答える。

 

「しかし、部隊の全体展開には時間がかかります。完全な包囲網の完成を待てば、その間に標的が生存者を殺害して新しいゾンビを増やし、別の隠し出口から悠々と逃亡する可能性が極めて高い」

 

「カラスにしては、話が早いじゃないか」

 

 エリカが不敵に笑う。

 

「あなたの独断での単独突入を防ぐためでもあります」

 

 三枝が冷たく返す。

 

「上等だ」

 

 ここで、三枝とエリカの利害が、完全に一つに重なり合った。

 

 三枝は、これ以上の一般人の被害拡大を何としても防ぎたい。

 

 エリカは、ブラッド・アポストルを何としてもここで逃がしたくない。

 

 そして健司は、命の危険を感じてはいるものの、自分の目で『生存者の可能性』を見てしまった以上、もう後には引けなかった。

 

 三枝は、現場へ移動する車内で、迅速に即席の突入作戦を組み上げた。

 

 役割分担。

 

 エリカ。

 

 前衛。

 

 道中に出現するゾンビ群、および血液媒介のトラップ術式の物理的な切断と突破。

 

 ブラッド・アポストル本人と接触した場合の、主攻撃担当。

 

 三枝。

 

 全体の指揮、逃走ルートの封鎖、外部部隊との連絡、および結界札を用いた区画の遮断と血液侵食の遅延。

 

 健司。

 

 未来視によるトラップと奇襲の危険予測。

 

 結界による、致死性の高い血液干渉の遮断。

 

 生存者探索時の微細な違和感の検出。

 

 必要に応じた遠距離斬撃での火力支援。

 

『猿。よく聞け』

 

 車内で、魔導書が健司に厳しく注意を与える。

 

『建物全体が奴の血の領域と化しているなら、お前の五メートル結界は、ここぞという時の“切り札”だ。絶対に常時展開するな。脳がすぐに焼け切れるぞ。……大量の血の波を直接受ける瞬間、生存者を保護する瞬間、あるいは本体の強力な干渉を断ち切る決定的な瞬間にだけ、使え』

 

(分かってる。さっき少し張っただけでも、かなりきつかった)

 

『それと……ゾンビを相手にする時、絶対に迷うな。あれは、もう死体だ。人間ではない』

 

 魔導書の声が、かつてなく冷酷で、重かった。

 

『お前が救うべきは、まだ死んでいない者だけだ』

 

 健司は黙って、窓の外を流れる景色を見つめた。

 

 その言葉の重さが、胃の底にのしかかる。

 

 ヤタガラスの黒塗りの車両が、深夜の港湾地区へと滑り込んでいく。

 

 いつの間にか、冷たい雨が降り始めていた。

 

 車窓を叩く水滴。

 

 港湾道路のオレンジ色の街灯。

 

 積み上げられた巨大なコンテナ群。

 

 無人の薄暗い倉庫。

 

 そして、深夜の東京湾の、黒く濁った水面。

 

 健司は、未来視で見た光景と、目の前の現実が、パズルのピースのように少しずつ重なっていく恐怖と奇妙な高揚感に襲われていた。

 

「ここ、見た……」

 

 健司が呟く。

 

「近いですか」

 

 三枝が尋ねる。

 

「はい。かなり」

 

 エリカは、少しだけ車の窓を開け、外の空気を吸い込んだ。

 

「……血の匂いがする」

 

「分かるんですか?」

 

 健司が驚く。

 

 雨の匂いと潮風の匂いしかしない。

 

「ハンターだからな」

 

「何か特殊な探知装備ですか?」

 

 三枝が確認する。

 

「鼻だ」

 

「鼻……」

 

 健司は絶句した。

 

『血の匂いを追うために鍛え抜かれた、本物の猟犬だな』

 

 魔導書が感心したように言う。

 

 エリカが、チラリと健司の方を見た。

 

「何か言ったか、予知者」

 

「いえ、何も言ってません」

 

 健司は慌てて首を振った。

 

 車は、目的地の前で静かに停車した。

 

 旧東浜物流第三ビル。

 

 五階建ての、無骨な廃ビル。

 

 外壁は冷たい雨で黒く濡れそぼっている。

 

 窓のいくつかは、内側から黒い布やベニヤ板で不気味に塞がれていた。

 

 入り口には、警察が張った古い『立入禁止』の黄色いテープがある。

 

 だが、つい最近、何者かによって強引に引きちぎられた痕跡があった。

 

 搬入口の錆びたシャッターには、赤黒い染みがべったりと付着している。

 

 普通の血ならこの雨でとっくに洗い流されているはずだが、その染みはこびりついたように落ちていない。

 

 三枝が、外周に展開しているヤタガラスの部隊と通信で連携を取る。

 

 少数精鋭の部隊が、すでにビルの周囲に展開し始めている。

 

 ただし、完全な包囲網を敷くにはまだ人数が足りない。

 

 警察には「不発弾処理」などの名目で裏から指示を出し、近隣の道路を通行止めにして一般人を絶対に近づけないようにしている。

 

 エリカは、雨に打たれながら廃ビルを見上げた。

 

「……巣だ」

 

 健司は、背筋がゾッとした。

 

 未来視で視た廃ビルと、完全に同じだった。

 

 ここで確定した。

 

 ブラッド・アポストルは、すでにこのビルを自分の『血の要塞』として作り替えている。

 

「突入前に、最終確認をします」

 

 三枝が、冷たい雨の中で二人に告げた。

 

「独断先行は禁止。生存者の保護を最優先。標的を発見した場合は、私の指揮のもとで連携して対応します」

 

「標的が目の前にいて、我々を無視して逃げようとしたら?」

 

 エリカが、三枝の目を見て問う。

 

「止めます」

 

「殺してでもか」

 

 三枝は、一瞬だけ沈黙し、一切の感情を排した声で答えた。

 

「……必要なら」

 

 エリカは、雨の中でわずかに笑みを浮かべた。

 

「ようやく、話が合ったな、カラス」

 

 健司は、その会話を聞いて背筋が凍る思いだった。

 

 だが、ここで健司も、腹の底から覚悟を固めた。

 

 安置所で見た、あの悍ましいゾンビの姿。

 

 血を全て抜き取られた被害者の遺体。

 

 未来視で見えた、このビルの中で倒れている生存者らしき影。

 

 これ以上、自分が一般人ぶって迷っている時間はないのだ。

 

 三枝が、入り口の扉に結界札を数枚貼り付けた。

 

 建物外へ血液の呪的反応が漏れ出すのを抑え込み、同時に、中からの逃走経路を一部封鎖するための処置だ。

 

 ただし、完全な封鎖ではない。

 

 建物全体がすでに巨大な『血の領域』となっているため、外側からの札数枚の封鎖には限界がある。

 

 健司は、自分の両手を強く握り締めた。

 

 遠距離斬撃『斬』。

 

 五メートルの領域結界。

 

 危険を察知する未来視。

 

 身体能力強化。

 

 今まで培ってきたすべての手札を、この要塞で使い切る覚悟を決める。

 

 エリカが、コートの裏から銀色の刃を静かに抜いた。

 

 雨粒が刃の表面に当たり、冷たい街灯の光を鋭く反射する。

 

 三枝が、連絡用の端末を閉じた。

 

「突入します」

 

「遅れるなよ、予知者」

 

 エリカが、扉に手をかけながら言う。

 

「こっちは、まだまだ一般人寄りなんですけどね……!」

 

 健司が、強がって軽口を叩く。

 

『諦めろ、猿。もうその言い訳は、この戦場では通用せんぞ』

 

 魔導書が、最後の宣告を下した。

 

 ビルの奥から、何かが床をズルズルと引きずるような、重く不気味な音が聞こえてきた。

 

 強烈な血の匂い。

 

 雨音。

 

 赤黒い染み。

 

 五階建ての巨大な廃ビルが、まるで巨大な化け物の内臓のように、暗闇の中で静かに、そして禍々しく口を開けて彼らを待っている。

 

 健司は、大きく息を吐いた。

 

 そして、三枝とエリカの背中を追い、完全に『血の要塞』と化した廃ビルへと、その足を踏み入れた。

 




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