俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第45話 猿と血の因果と概念限定斬撃

 冷たい雨が打ち付ける外の路地から、旧東浜物流第三ビルの一階エントランスへ足を踏み入れた瞬間、健司は強烈な耳鳴りに襲われた。

 

 分厚い鉄扉を背にした途端、激しい雨音が薄い膜の向こうへ押しやられたように遠のく。

 

 外界から完全に隔離された重い静寂が、肺の底にまで纏わりついてくるようだった。

 

 一階は、かつて倉庫兼搬入口として使われていた広大なスペースだ。

 

 埃を被った古い木製パレット、ひしゃげた錆びた台車、中身の空っぽな段ボールの山が、不気味な影を落としている。

 

 天井の蛍光灯はほとんどが死んでおり、壁際に設置された非常灯の血のような赤い光だけが、一定のリズムで明滅を繰り返していた。

 

 そして何より異常なのは、コンクリートの床だった。

 

 赤黒い血の筋が、まるで血管のように縦横無尽に這い回っているのだ。

 

 普通の血液であればとっくに乾燥するか、水に混じって流れるはずだが、その血はぬらぬらとした生々しい粘性を保ったまま、細い蛇のように微かな蠢きを見せている。

 

「……空気が、異常に重いな」

 

 健司は口元を手で覆い、吐き気を堪えた。

 

 三枝が手元の端末を確認し、表情を微かに険しくする。

 

「建物内部の呪的反応が、外部からの観測値を大幅に上回っています。境界を越えた途端、術式反応の濃度が異常なほど跳ね上がりました」

 

「巣の中だからな。外から見た印象より、中身はずっと腐りきっている」

 

 エリカが、手に持った銀の刃を軽く振って血の匂いを払うように言った。

 

『建物全体が、血を因果の杭にした巨大な簡易領域だ。猿、気を抜くな。この空間では奴の血のルールが最も通りやすい』

 

 脳内で魔導書が低く警告を発する。

 

(分かってるよ。ここ、マジで息をするだけで気持ち悪い)

 

 健司は内心だけで短く返した。

 

「佐藤さん。何か見えますか」

 

 三枝が、健司の表情を見て尋ねた。

 

「見えるというか……建物全体が、こっちに不利な感じです。床の血も、ただの血じゃない」

 

「了解しました。血液反応への接触は極力避けて進みます」

 

 健司は頷き、険しい顔で周囲を警戒した。

 

「エレベーター、ありますけど」

 

 健司はフロアの奥にある鋼鉄の扉を指差した。

 

 三枝が素早く操作パネルに近づくが、首を横に振る。

 

「電源が完全に落ちています。ボタンも物理的に反応しませんね」

 

 エリカが無言で扉の隙間に銀の刃を差し込み、力任せにわずかにこじ開けた。

 

 真っ暗なエレベーターシャフトの奥から、腐臭とともに、何かが湿った音を立てて蠢く気配が這い上がってくる。

 

 ワイヤーが人為的に切断されたような軋む音が鳴り、シャフトの底にはドロドロの赤黒い血がプールのように溜まっていた。

 

「罠だな。使えない」

 

 エリカが刃を引き抜き、扉から離れる。

 

「内部に血液媒介型の術式反応が密集しています。無理に開けて突入すれば、シャフトという閉鎖空間で下から一方的に攻撃される可能性が高いですね」

 

 三枝が冷静に分析する。

 

「つまり、楽して五階へ直行は無理ってことか」

 

 健司はため息をついた。

 

「階段だ」

 

 エリカが非常階段の扉へと歩き出す。

 

「ですよね……」

 

 ブラッド・アポストルは、明らかに侵入者を階段へと誘導している。

 

 エレベーターを潰し、階段に防衛の駒を配置し、上へ向かえば向かうほど体力と異能の出力を削り取る算段なのだ。

 

『処刑台への誘導路だな。上階に行けば行くほど、奴の血の術式は濃くなる。つまり、敵の都合が圧倒的に良くなるということだ』

 

(分かりやすく最悪のシチュエーションだな……)

 

 健司は肩を落としつつも、気を引き締めてエリカの背中を追った。

 

 非常階段へと続く薄暗い通路の奥。

 

 倒れたロッカーの陰から、ズリ、ズリと不気味な足音を立てて一体のゾンビが姿を現した。

 

 病院の遺体安置所で戦った個体よりも、さらに水分が抜け落ちて干からびている。

 

 だが、その足元には床を這う血の筋が絡みつき、まるで操り人形の糸のように、死体の関節の動きを強引に補助していた。

 

 白く干からびた腕。

 

 不自然に折れた首。

 

 骨が皮膚を突き破った足。

 

 健司は一瞬、安置所での凄惨な記憶が蘇り、息を呑んだ。

 

 だが、エリカは微塵の躊躇もなく前へ出た。

 

「止まるな」

 

 鋭い踏み込みとともに銀の刃が閃き、ゾンビの右脚を膝下から一刀両断に斬り飛ばす。

 

 同時に三枝が結界札を放つ。

 

 札が壁と床に吸い付くように貼り付き、見えない壁を形成してゾンビの巨体を通路の端へと強引に押し込んだ。

 

 健司は『斬』を放とうと指先を向けたが、一瞬、ゾンビの本体ではなく、その足元に絡みつく『血』の動きに目を奪われた。

 

 太い血の筋が、床からゾンビの足首へと伸びている。

 

 あれが、死体を動かす動力の供給線になっているのだ。

 

「床の血です! あれが足場か、操り糸みたいになってます!」

 

 健司が叫ぶ。

 

「血液媒介術式による動作の補助線ですね」

 

 三枝が即座に状況を理解する。

 

「なら、死体は私が壊す。血はお前が切れ、予知者」

 

 エリカが体勢を立て直そうとするゾンビの懐に飛び込む。

 

「了解!」

 

 健司は指先を床へと向けた。

 

「斬!」

 

 不可視の刃が飛び、床の血の筋を斜めに切り裂く。

 

 物理的なコンクリートの床に浅い切り傷が入るが、それ以上に、術式の通っていた血の線がブツリと断たれ、ゾンビの動きがカクンと致命的に鈍った。

 

 その隙を逃さず、エリカの銀刃がゾンビの胸部にある血の核を正確に貫いた。

 

 グシャリと音を立ててゾンビが崩れ落ちる。

 

 だが、その直後だった。

 

 倒れたゾンビの体内から溢れ出した赤黒い血が、床へ染み込むのではなく、まるで意思を持っているかのように細い線となって、階段の上階へとズルズルと吸い上げられていったのだ。

 

「……今、血が上に流れました」

 

 健司が眉をひそめる。

 

「確かに、上階方向へ強い術式反応が移動していますね」

 

 三枝が端末の画面を確認する。

 

「回収しているんだ」

 

 エリカが銀刃の血を振り払いながら言った。

 

「動く死体は使い捨ての駒でも、それに込めた血は奴自身のものだ。無駄にはしないということだろう」

 

 ブラッド・アポストルは、倒された駒の血すらも己の元へ還し、リソースとして再利用しているのだ。

 

 二階へと続く階段には、非常灯の赤い光だけが不気味に点滅していた。

 

 壁のあちこちに、赤黒い血で何かの文字のようなものがびっしりと書き殴られている。

 

 意味は全く理解できないが、視界の端に入れるだけで、頭の奥が締め付けられるような吐き気を催した。

 

「視覚汚染の術式が仕込まれている可能性があります。壁の文字を直視しないでください」

 

 三枝が階段の踊り場に結界札を貼り付けながら警告する。

 

 エリカは平然と階段を上っていく。

 

「吸血鬼の力を崇める狂信者どもは、どいつもこいつも壁に血でくだらん祈りを書きたがる。悪趣味なことだ」

 

「……なんか、そういうのに慣れてるんですか」

 

 健司が視線を足元に落としながら尋ねる。

 

「慣れたくはなかったがな」

 

 エリカの短い返答には、彼女が欧州の狩人として歩んできた血生臭い過去の重さが、微かに滲んでいた。

 

 踊り場に差し掛かった瞬間、健司の未来視が強烈に跳ね上がった。

 

 上から、そして下から同時に迫る殺意のビジョン。

 

「上!」

 

 健司が叫んだ直後、暗い天井に張り付いていたゾンビが、蜘蛛のように落下してきた。

 

 エリカが瞬時に反応し、真上に向かって銀刃を振るい、落下してくるゾンビの腕を斬り裂く。

 

 同時に、床の血溜まりを這うようにして、別のゾンビが三枝の足首を狙って飛びかかってきた。

 

 三枝は表情一つ変えず、結界札を足元へ叩きつけ、見えない圧力で床のゾンビの頭部を壁へ力強く押し付けた。

 

 健司は、天井からゾンビを吊るすように垂れていた赤黒い血の糸に向け、指先を突き出す。

 

「斬!」

 

 血の糸が切断され、空中のゾンビの体勢が完全に崩れる。

 

 エリカがそのまま刃を返し、胸の核を一撃で粉砕した。

 

 三枝が壁に縫い付けた床のゾンビも、エリカが流れるような動きで処理する。

 

 戦闘終了後、二体分の血が、またしても不気味な線を引いて上階へと吸い上げられていった。

 

 健司には、それが以前よりもはっきりと、太い『因果の線』として視えるようになっていた。

 

 物理的な液体の流れだけではない。

 

 もっと深く、悍ましい赤黒い繋がり。

 

『見えてきたな、猿』

 

 魔導書が脳内で語りかける。

 

(何が?)

 

『血の道だ。奴は死体を駒にし、血を操り糸にし、最終的にすべてを自分の中核へと戻す。単なる液体の挙動として見るな。空間を繋ぐ術式の“繋がり”として認識しろ』

 

 健司はその言葉を脳内だけで反芻し、黙って頷いた。

 

 二階は、かつての事務所フロアだった。

 

 錆びた事務机、倒れたロッカー、散乱し黄ばんだ書類。

 

 だが、ゾンビの姿は一体もない。

 

 異常なほど静かだった。

 

「反応が薄いですね。階層の広さに対して、逆に不自然です」

 

 三枝が端末から顔を上げずに警戒する。

 

「罠だな」

 

 エリカが足取りを緩める。

 

 健司は、意識を研ぎ澄まし未来視を広範に走らせた。

 

 数秒先。

 

 三枝が一歩踏み出した未来。

 

 床にこびりついた血の染みが突如として無数の針のように噴き上がり、三枝の足首を貫く映像が視えた。

 

「三枝さん、その先の床、踏まないでください!」

 

 健司が鋭く制止する。

 

 三枝がピタリと足を止めた。

 

 直後、彼女の靴の数センチ先で、床の血の染みがピクリと脈動し、鋭利な棘のようにわずかに隆起した。

 

 踏み込んでいれば、間違いなく足を貫かれていた。

 

「助かりました」

 

 三枝が冷や汗一つかかずに礼を言う。

 

「床の血がトラップになってます。踏むと下から刺してきます」

 

 健司が説明する。

 

「面倒な巣を作りおって」

 

 エリカが忌々しそうに舌打ちした。

 

 健司は、自分の足元に半径一メートル程度の局所的な結界をサッと展開し、自分たちの周囲で血の針が噴き出すのを物理的に抑え込んだ。

 

 三枝が安全を確保した箇所に札を貼り、床の術式を一部封鎖する。

 

 エリカが血の反応が濃い部分を銀刃で物理的に切り裂いていく。

 

 健司も『斬』を放って、床の血の罠を構成する術式を切ろうと試みた。

 

「斬!」

 

 だが、まだ精度が足りない。

 

 コンクリートの床ごと、血の染みを荒っぽく抉り飛ばしてしまう。

 

 血の術式という概念だけを切り取るには、認識のピントが甘すぎた。

 

『馬鹿め、物理的な物質ごと斬るな。血に混じった呪的干渉だけを意識して切り離せ』

 

 魔導書が厳しくダメ出しをする。

 

(そんな器用なこと、ぶっつけ本番で今すぐできるかよ!)

 

 健司が内心で叫ぶ。

 

『できなければ、この上の階で貴様が死ぬだけだぞ』

 

(教育方針がスパルタすぎる!)

 

 健司は顔をしかめながら、何度か指先の角度と認識を調整した。

 

「佐藤さん、斬撃の対象を極小に絞ろうとしているんですか」

 

 三枝が、健司の挙動を見て尋ねる。

 

「はい。床ごと物理的に壊すんじゃなくて、血の術式の繋がりだけをピンポイントで狙いたいんですけど……まだちょっと難しいですね」

 

 健司は、外向きの理由としてそう答えた。

 

「無理はしないでください。床ごとでも罠が破壊できているなら、十分な戦果です」

 

「今は綺麗に斬ることを試す場面ではない。前に進めればそれでいい」

 

 エリカも同意し、先を急いだ。

 

 健司は頷き、罠を荒く切り裂きながら強引に進路を開いた。

 

 三階は、完全に消耗戦の様相を呈した。

 

 狭い廊下に三体。

 

 奥の部屋から飛び出してくる二体。

 

 階段付近に伏兵として一体。

 

 合計六体のゾンビが待ち構えていた。

 

 個体ごとの身体能力はそれほど高くない。

 

 だが、廊下が狭く、この階全体が濃密な血の領域として連動しているのだ。

 

 一体が倒されると、その血がすぐさま別のゾンビへと流れ込み、残った個体の動きと筋力を不気味に強化していく。

 

「私が強引に道を開ける。カラス、後ろに回られるのを封じろ。予知者、邪魔な血の筋を適宜切れ」

 

 エリカが即座に戦術を構築する。

 

「了解しました。ただし、単独先行は禁止です」

 

 三枝が念を押す。

 

「今はしていない」

 

 エリカが反論する。

 

「『今は』って言うの、本当にやめてほしいんですけど」

 

 健司がぼやく暇もなく、戦闘が激化した。

 

 ゾンビたちが一斉に襲いかかってくる。

 

 壁を這い回る個体。

 

 床を滑るように迫る個体。

 

 千切れた腕から血の鞭を伸ばして振り回す個体。

 

 三枝が的確に結界札を飛ばして廊下を区切り、ゾンビの波を分断して、一度に相手をする数を制限する。

 

 エリカが前衛として突っ込み、銀刃で次々と急所を切り裂いていく。

 

 健司は、未来視をフル回転させ、最も危険な個体の順番を読み取った。

 

「右奥のやつからやってください! そいつを残すと、倒したやつの血を全部吸収して巨大化します!」

 

「了解」

 

 三枝が即座に右奥のゾンビの足元に札を集中させ、床に固定する。

 

 エリカが一気に踏み込み、その胸の核を容赦なく破壊した。

 

 健司は、倒れた個体から上階へ伸びようとする赤黒い血の線に向けて、指先を向けた。

 

「斬!」

 

 遠距離斬撃が線を叩く。

 

 完全には切断できないが、血の引き上げられる速度が明らかに鈍る。

 

「術式反応の上昇が、一瞬だけ止まりました。佐藤さん、そのまま遅延を続けてください」

 

 三枝が端末のデータを見ながら指示を出す。

 

「やってます!」

 

 健司は額に汗を浮かべながら斬撃を連発した。

 

 ゾンビの一体が、追い詰められて自らを破裂させ、血を撒き散らそうとする未来が視えた。

 

「爆ぜます!」

 

 健司が叫んだ瞬間、三枝が前面に強力な結界札を展開。

 

 健司も咄嗟に半径三メートルの領域結界を瞬間展開し、二重の防壁を張る。

 

 血煙が爆発する中をエリカが突っ切り、最後の核を貫いた。

 

 三階のゾンビ群が、完全に機能を停止して崩れ落ちた。

 

「……悪くない連携だったな」

 

 エリカが、荒い息を吐きながら短く言った。

 

「それ、褒めてます?」

 

「我々がまだ死んでいないなら、十分な評価だ」

 

「基準が低いようでめちゃくちゃ高いな」

 

 四階は、不気味なほど静まり返っていた。

 

 ゾンビの姿はない。

 

 だが、その静寂が逆に神経を削る。

 

 一つの広い部屋の中には、パイプ椅子、千切れたロープ、倒れた水入りのペットボトル、そして広範囲に血で濡れたボロ布が散乱していた。

 

 床には、誰かが苦痛にのたうち回り、必死に爪で引っ掻いたような生々しい傷跡が無数に残っている。

 

 壁には、血で描かれた悍ましい祈りのようなシンボル文字。

 

 健司は、その光景に言葉を失った。

 

「……ここに、生きた人が……捕まってた?」

 

「複数名が拘束されていた可能性があります」

 

 三枝が、冷徹な目で痕跡を確認していく。

 

「餌場だ」

 

 エリカが、氷のように低い声で吐き捨てた。

 

 健司は強烈な吐き気を覚えた。

 

 ブラッド・アポストルは、ただヤタガラスの追跡から逃げていたわけではない。

 

 逃げ込んだ先で無関係な人間を拉致し、自分の渇きを満たすための「生きた血液タンク」として、ここに保管していたのだ。

 

 三枝が、端末の特殊センサーで微弱な生体反応を探る。

 

「……五階方向に、反応があります。非常に微弱ですが、人間の周波数に近い」

 

「まだ生きてる人がいるんですか!?」

 

 健司が声を上げる。

 

「分かりません。ですが、急いで確認する理由にはなります」

 

「五階だ」

 

 エリカが、迷うことなく階段へと向かった。

 

 五階へと続く階段の壁は、すでにコンクリートの表面が見えないほど赤黒い血が集まり、まるで巨大な怪物の脈打つ血管のようにドクドクと不気味な蠢きを見せていた。

 

『近いぞ、猿。本体がこのすぐ上にいる』

 

 魔導書が緊迫した声で告げる。

 

「上……かなり嫌な感じがします。たぶん、本体がすぐ近くにいます」

 

 健司は、魔導書の言葉を自分の直感として二人に伝えた。

 

「了解しました。警戒レベルを最大に引き上げます」

 

 三枝が手の中の札を握り直す。

 

「ようやく追いついたか」

 

 エリカの瞳に、狩人の獰猛な光が宿る。

 

 五階へと続く最後の踊り場。

 

 階段の先の通路が、分厚い赤黒い『膜』で完全に塞がれていた。

 

 これまで倒してきたゾンビたちの血がすべて集まり、凝固したような、強固な血液媒介の結界壁だ。

 

 エリカが銀刃で切り裂こうとするが、膜は裂けたそばからスライムのようにすぐに癒着して再生してしまう。

 

 三枝が札を貼って無効化を試みるが、札は数秒で血に侵食されて黒ずみ、焼け落ちてしまう。

 

 健司が自身の領域結界を展開して物理的に押し退けようとしたが、まるで巨大な水圧の壁にぶつかったように、強烈に押し返された。

 

『力任せに物理的に押すな。これも“繋がり”だ』

 

 魔導書が冷静に指摘する。

 

『本体の術式反応と、下階から吸い上げた血が呪的に繋がり合って、この膜の強度を維持しているのだ』

 

(下から血を吸い上げて、この壁を張ってるのか)

 

『そうだ。完全に断ち切るにはまだ貴様の認識精度が足りん。だが、一瞬だけ、その干渉の流れを乱すことならできるはずだ』

 

 健司は目を凝らし、蠢く赤黒い膜をじっと観察した。

 

 全体を見るのではない。

 

 血の流れが最も集中し、術式の結節点となっている『核』のような部分を探す。

 

 そこへ向かって、人差し指を突き出す。

 

「斬!」

 

 放たれた遠距離斬撃は、膜そのものを物理的に破壊するのではなく、血の干渉の流れの一点をピンポイントで穿つように狙った。

 

 バチッ、という火花のような音が鳴り、赤黒い膜が一瞬だけ、その強度を失って薄く透けた。

 

「今です!」

 

 健司が叫ぶ。

 

「開いた!」

 

 三枝がすかさず札を隙間に叩き込み、膜が再生しようとするのを強引に固定する。

 

 その隙間を縫って、エリカが銀刃で十字に膜を切り広げた。

 

 三人は、その破られた血の壁を抜け、ついに五階へと突入した。

 

 五階は、かつては広い会議室か役員室だったと思われる空間だ。

 

 しかし今は、完全に『血の祭壇』と化していた。

 

 窓という窓はすべて黒い厚布で厳重に塞がれ、床も壁も、そして天井までもが、悪臭を放つ赤黒い血でベッタリと塗り潰されている。

 

 部屋の中央に、数人の人間が倒れていた。

 

 健司が未来視で視た、生きている人間らしき影。

 

 だが……遅かった。

 

 彼らはすでに、一滴残らず血を吸い尽くされ、ミイラのように干からびて絶命していた。

 

「……そんな」

 

 健司は絶句し、足を止めた。

 

 三枝が素早く駆け寄り、首筋に指を当てて確認する。

 

 そして、静かに首を横に振った。

 

「生命反応、なし」

 

 健司の拳が、震えた。

 

 自分がもう少し早く見つけていれば。

 

 もう少し早く駆けつけていれば、助かった命かもしれない。

 

『猿、今は悔やむな』

 

 魔導書が、冷酷なまでに厳しく言い放つ。

 

『死者を悼むのは、全てが終わった後だ。今は前を見ろ。生きている最大の敵を止めろ』

 

 健司は唇を強く噛み締め、視線を上げた。

 

 部屋の最奥。

 

 血で描かれた禍々しい祭壇の前に、その男が立っていた。

 

 異常に痩せぎすな体躯。

 

 年齢は不詳。

 

 太陽の光を長年浴びていないような、病的に白い肌。

 

 だが、唇だけが口紅を塗ったように赤黒く濡れている。

 

 落ちくぼんだ眼窩の奥の瞳だけが、狂気に満ちた信仰者のようにギラギラと異常な光を放っていた。

 

 身にまとっているのは、かつては上等だったと思われるが、今は血と汚れで真っ黒になった礼服。

 

 首や腕には、自らの血で描かれた呪的な祈祷文がびっしりと刻まれている。

 

 ブラッド・アポストルが、酷薄な笑みを浮かべた。

 

「……欧州の狩人か。相変わらず、しつこい羽虫どもだ」

 

 エリカのアイスブルーの瞳が、絶対零度にまで冷え切る。

 

「ようやく追いついたぞ、害虫」

 

「害虫? 違うな」

 

 ブラッド・アポストルは、両手を広げて悦に入ったように言った。

 

「私は、尊き血の導きによって選ばれた。人間という寿命に縛られた濁った器を捨て去り、より高き血の福音へ至った、完全なる『使徒』だ」

 

「……完全に話が通じないタイプの異常者だ」

 

 健司が小声で呟く。

 

 三枝が一歩前へ出て、ヤタガラスの端末を掲げた。

 

「ブラッド・アポストル。あなたを、国際超常犯罪、連続殺人、屍体操作、感染性異能の違法拡散の容疑で、ただいまより制圧します」

 

 男は、三枝の宣告を鼻で嗤った。

 

「制圧? この、私の神聖なる『血の聖堂』でか?」

 

 男が指を鳴らすと、床を覆っていた血の海が、ドクンと心臓のように脈打った。

 

 直後、先ほどまで倒れていた被害者たちの干からびた遺体が、ビクッ、ビクッと不自然に痙攣を始めた。

 

 健司の未来視が、強烈な警告を発する。

 

「来ます!」

 

 第一ラウンド。

 

 総攻撃が始まった。

 

 ブラッド・アポストルの手から、鋭い血の刃が複数、機関銃のように放たれる。

 

 エリカが前衛に飛び出し、銀刃でそれらを次々と切り落とす。

 

 三枝が結界札を盾のように展開し、弾けた血の散弾を完全に防ぐ。

 

 健司は五メートルの領域結界を展開して後衛の安全を確保しつつ、遠距離斬撃『斬』を放ち、側面から襲いかかろうとする血の触手を正確に切断していく。

 

 だが、ブラッド・アポストル本人の動きは、想像以上に速かった。

 

 先ほど新鮮な血を大量に吸い上げた直後だからか、その身体能力と異能の出力は異常なまでに跳ね上がっている。

 

 凄腕のハンターであるエリカと、真正面から互角に刃を交え、打ち合っている。

 

「ハァッ!」

 

 エリカの銀刃が、ブラッド・アポストルの右肩を深く斬り裂いた。

 

 三枝の放った札が、男の足元に絡みつき、動きを呪的に拘束する。

 

 健司の『斬』が、男の左腕の筋を浅く切り裂く。

 

 三人の息の合った連携によって、ブラッド・アポストルは確かに複数のダメージを負った。

 

 エリカが、その致命的な隙を突いて男の懐に飛び込み、心臓を狙って銀刃を深く突き刺した。

 

 刃が、男の胸の中央に深々と刺さる。

 

(入った!)

 

 健司は勝利を確信した。

 

 だが。

 

 ブラッド・アポストルは、胸に刃を突き立てられたまま、不気味に笑っていた。

 

「……なっ」

 

 エリカが驚愕の声を漏らす。

 

 刺さった傷口から、異常な量の赤黒い血が溢れ出し、それが瞬時に筋肉や細胞の形を成して、抉られた肉を急速に盛り上げていく。

 

 一瞬にして、傷が完全に塞がり、再生してしまった。

 

「再生が、いくらなんでも速すぎる」

 

 エリカが刃を引き抜き、後方に距離を取る。

 

 三枝が端末のデータを見て、声を荒らげた。

 

「周囲の空間に満ちている血液反応が、凄まじい勢いで本体へと流れ込んでいます!」

 

 健司には、その異様な光景がハッキリと視えていた。

 

 ただ床の血を吸い上げているだけではない。

 

 一階、二階、三階で倒したはずのゾンビたちの残骸。

 

 階段に張り巡らされていた血の膜。

 

 遺体安置所で倒したゾンビの残滓。

 

 それら、このビル全体に散らばっている『血の繋がり』から、目に見えない赤黒い線が、ブラッド・アポストルの身体へと何本も伸び、エネルギーを供給し続けているのだ。

 

「私の血は、決して散らばらない」

 

 ブラッド・アポストルが、両手を広げて陶酔したように語る。

 

「すべては、私という中核へ還る。お前たちがいくら愚かな骸を壊そうと、血を流させようと、そのすべては私の祝福のための糧へと戻ってくるのだ」

 

 再生ギミックの正体が明らかになった。

 

 今まで倒してきたゾンビたちは、ただの足止めの雑魚ではなかったのだ。

 

 そのそれぞれが、ブラッド・アポストルの『血の予備タンク』だった。

 

 彼はそれらの残骸と血の因果で深く繋がったまま、いつでも自分の再生リソースとして吸い上げられるシステムを、このビル全体に構築していたのだ。

 

 第二ラウンド。

 

 三人は再び猛攻を仕掛けた。

 

 エリカが、再生を上回る速度で男の首を狙い、斬撃を叩き込む。

 

 三枝が札を連発し、男の動きを徹底的に封じる。

 

 健司が『斬』で胴体を深く切り裂く。

 

 だが、結果は同じだった。

 

 ブラッド・アポストルは、何度傷つけられても瞬時に再生する。

 

 床の血が這い上がり、肉体の欠損を強引に縫い合わせる。

 

 下階から赤黒い術式反応の流れが絶え間なく吸い上げられる。

 

 そのたびに、廃ビル全体がドクン、ドクンと脈打つように不気味に揺れた。

 

 健司の未来視は、何度シミュレートしても、同じ絶望的な結末しか見せなかった。

 

 攻撃しても、必ず戻る。

 

 斬っても、瞬時に塞がる。

 

 刺しても、すぐに再生する。

 

「本体の肉体だけを何度破壊しても無駄です。外部からのリソースで無限に補填される構造になっています」

 

 三枝が焦燥を隠せずに言う。

 

「なら、この建物ごとすべて焼き払うか」

 

 エリカが極端な提案をする。

 

「周辺の市街地への被害が大きすぎます。加えて、術式で激しく汚染された血液が気化して広範囲に飛散する、深刻なバイオハザードの危険があります」

 

 三枝が即座に却下する。

 

 ブラッド・アポストルが、余裕の笑みを浮かべた。

 

「遅い。視座が狭い。圧倒的に弱い。……お前たちは、血の本当の意味を知らない」

 

 男の足元から、無数の太い血の触手が一斉に放射状に伸びてきた。

 

 健司は咄嗟に五メートルの領域結界を最大出力で張り、三枝とエリカをかばうように防壁を展開した。

 

 ズガンッ!!

 

 結界の透明な壁面に、凄まじい質量の血の触手が激突する。

 

 圧倒的な干渉圧。

 

 健司の張った結界の表面に、ピキピキとガラスが割れるような亀裂のノイズが走った。

 

『長くは持たんぞ、猿!』

 

 魔導書が脳内で怒鳴る。

 

(分かってるよ!)

 

 健司は奥歯が砕けそうなほど噛み締めながら、必死に境界を維持する。

 

 ブラッド・アポストルが、結界の中で耐える健司を見下ろした。

 

「面白い境界魔術だ。だが、血というものは、いかなる境界をも容易く越える。親から子へ。死者から生者へ。器から器へ。……お前のその薄っぺらい壁では、私の血の福音は止められない」

 

「壁じゃねえよ……俺の、領域だ……!」

 

 健司は反論したが、触手の圧力にジリジリと押し込まれていく。

 

 その時。

 

 外部には聞こえない、健司の脳内だけの空間で、魔導書が静かに、しかし決定的な口調で告げた。

 

『猿、お前の出番だぞ』

 

(今も絶賛、死に物狂いで出番中だよ!)

 

『違う。この状況をひっくり返す、新しい技の実戦投入をやるぞ』

 

(は!? このギリギリの状況で!?)

 

『この状況だからこそ、だ。物理的に肉体を何度斬っても、奴は外部からの補給で戻る。……ならば、その“戻るための道”そのものを斬り落とせ』

 

 健司は、その言葉の意味をハッと掴みかけた。

 

『概念限定斬撃だ』

 

(概念……限定……?)

 

『物理的な物質を斬るな。奴の肉体を斬るな。血の液体そのものも斬るな。対象を極限まで限定しろ。奴と、ビル中に散らばるゾンビの残骸どもを繋いでいる、“血の因果の繋がり”という概念だけを狙って斬るのだ』

 

(そんなこと、本当にできるのか!?)

 

『できるように視るのだ。貴様には、因果の先を読む未来視がある。己の認識を固定する結界がある。そして、切断を強要する斬がある。……今ある手札を、全部繋げろ』

 

 魔導書の指示によって、健司の頭の中で、これまでバラバラだった魔法のピースが一つに統合されていく。

 

 未来視で、血が還る「結果」の繋がりを視る。

 

 結界で、自分の認識の領域を一点に極限集中させる。

 

 斬撃魔法で、「斬る」という絶対の理をそこに押し付ける。

 

 ただし今回は、目に見える物理的な物質ではなく、目に見えない「概念」へと対象を限定する。

 

『貴様の斬撃は、すでに単なる物理的な刃の投擲ではない。接触斬撃も遠距離斬撃も、根本は“斬る”という結果の理の押し付けだ。なら、斬る対象の定義を極限まで絞り込め。血の因果だけを斬る。奴の肉体には一切触れなくていい』

 

 健司は完全に理解した。

 

 ブラッド・アポストルを倒せない理由は、本体の外側に無限の再生ルートがあるからだ。

 

 なら、強固な本体を削るのではなく、その細い再生ルートの線をすべて断ち切る。

 

 健司は、結界を維持したまま、背後の二人に叫んだ。

 

「三枝さん、エリカさん! すみません、ほんの少しだけ時間を稼いでください!」

 

 三枝が即座に問い返す。

 

「何秒必要ですか」

 

「分かりません! でも、あいつの無限再生を完全に止める方法が、見えかけてます!」

 

 エリカが、迫り来る血の触手を銀刃で切り払いながら、獰猛な笑みを浮かべた。

 

「ほう。予知者のひよっこが、いっぱしに言うじゃないか」

 

 ブラッド・アポストルが、健司を警戒して目を細める。

 

「何をする気だ」

 

「お前の相手は私だ、血の腐れ神父」

 

 エリカが、健司を庇うように猛然と前へ飛び出した。

 

 三枝が、残る結界札を惜しみなく展開し、ブラッド・アポストルの足元と左右の空間を呪的に完全封鎖する。

 

 同時に、健司を守るための防御札を何重にも重ね掛けした。

 

 エリカと三枝が、自らの命を削るような全力の攻防で、健司のための時間を稼ぐ。

 

 エリカは、再生されると分かっていても、あえて執拗に斬り続けた。

 

 腕を落とす。

 

 脚の腱を斬る。

 

 首を狙って牽制する。

 

 飛んでくる無数の血の刃を、銀の短剣で乱舞のように弾き落とす。

 

 三枝は、札のストックを限界まで消費していく。

 

 区画の封鎖。

 

 血の触手の物理的な遅延。

 

 健司への攻撃の逸らし。

 

 二人の消耗は激しい。

 

 エリカの腕に血の刃がかすり、無骨なコートが裂けて鮮血が滲む。

 

 三枝の放った札が、血の呪力に負けて次々と黒く焼け落ちていく。

 

 時間は、長くは稼げない。

 

 健司は、外の激闘の音をシャットアウトし、自分の内側へと意識を極限まで集中させた。

 

(集中しろ、俺……!)

 

 目を閉じるのではない。

 

 むしろ、世界をより深く「視る」のだ。

 

 物理的に床を流れる血の液体ではなく、ブラッド・アポストルという存在の核から四方八方へと伸びている、見えない繋がりを視る。

 

 未来視。

 

 結界。

 

 斬。

 

 三つを完全に重ね合わせる。

 

 健司は、自分の周囲に展開していた五メートルの結界を、一気に『半径一メートル』の極小サイズにまで急激に縮小・圧縮した。

 

 外界のノイズを完全に遮断し、自らの認識力だけを異常なまでに高めるためだ。

 

 その極小の絶対領域の内側で、ブラッド・アポストルの血の術式の流れだけを、未来視のフィルターを通して凝視する。

 

 最初は、部屋全体を覆う赤黒い霧のようなノイズしか見えなかった。

 

 床。

 

 壁。

 

 天井。

 

 干からびた死体。

 

 ゾンビの残骸。

 

 すべてが赤黒く発光しており、どこを斬ればいいのか焦点が全く定まらない。

 

『全部を漫然と見るな』

 

 魔導書が、静かに導く。

 

『奴が“再生する瞬間”の因果を見ろ。欠損した肉体に、血がどこからどういう経路で戻ってくるのか。その“結果の道筋”だけを追え』

 

 健司は、未来視のピントをさらに一段階、鋭く絞り込んだ。

 

 エリカの銀刃が、男の腕を斬り飛ばす。

 

 男の腕が、瞬時に再生しようと蠢く。

 

 その瞬間。

 

 下階の空間から、目に見えない赤黒い線が、男の傷口へと一直線に伸びてくるのが視えた。

 

 三枝の札が、床の血の一部を呪的に停止させる。

 

 すると、今度は別のゾンビの残骸から、新たな線がバイパスのように伸びてくる。

 

 男の胸へ。

 

 背中へ。

 

 足元へ。

 

 それは、物理的な血管ではない。

 

 チューブでもない。

 

 死体というリソースと、本体という端末を結ぶ、赤黒く脈打つ『因果の線』だった。

 

 健司は、ついにその概念の形を明確に認識した。

 

「……見えた」

 

 健司の呟きが、結界の外へ漏れる。

 

「何が見えた!」

 

 エリカが血まみれの刃を振るいながら叫んだ。

 

「血の繋がりです! あいつ、下の階のゾンビたちの残骸と、見えない線でまだ全部繋がってる!」

 

「外部の再生ルートですね」

 

 三枝が確認する。

 

「たぶん、あの線を全部斬れば、あいつの無限再生は止まります!」

 

「なら、今すぐやれ!」

 

 エリカが、ブラッド・アポストルの攻撃を一身に引き受けながら怒鳴る。

 

 健司は、右手を静かに構えた。

 

 いつもの『斬』とは違う。

 

 物理的な薄い刃を飛ばすというイメージは捨てる。

 

 赤黒い因果の線だけを、ハサミで断ち切るように狙う。

 

 床のコンクリートも、空気も、男の肉体も、一切斬らない。

 

 ブラッド・アポストルとゾンビの残滓を結ぶ『繋がり』だけを、唯一の切断対象に指定する。

 

『余計なものは一切斬るな。対象を完璧に限定しろ』

 

 魔導書が最後の指示を出す。

 

『“血の因果の繋がり”だけを斬るのだ。貴様の認識が少しでもブレれば、魔法は不発に終わるか、脳に再起不能の反動が返るぞ』

 

(分かってる。……血の因果だけ。血の繋がりだけ。そこだけを、確実に斬る)

 

 健司の研ぎ澄まされた視界に、無数の赤黒い線がハッキリと浮かび上がった。

 

 一階の倉庫。

 

 二階の罠の階層。

 

 三階の廊下。

 

 階段の血の膜。

 

 そして遺体安置所のゾンビの残滓。

 

 そのすべてが、蜘蛛の巣のようにブラッド・アポストルの中心へと繋がっている。

 

 健司は、深く息を吸い込んだ。

 

 自分の中で、新たな魔法の型を宣言する。

 

(概念限定斬撃……!)

 

 健司の指先から、ほとんど目に見えない、極めて静かな斬撃の波が走った。

 

 光の発光もない。

 

 空気を切り裂く風切り音もない。

 

 いつもの遠距離斬撃のような、空間を裂く明確な軌跡すら薄い。

 

 だが、健司の特異な視界の中では。

 

 空間を走る無数の赤黒い因果の線が、次々と、音もなく真っ二つに切断されていくのが見えた。

 

 一階で倒したゾンビとの繋がりが、プツン、と切れる。

 

 二階の血の罠との繋がりが、切れる。

 

 三階のゾンビ群との繋がりが。

 

 階段の血の膜との繋がりが。

 

 遺体安置所のゾンビから続いていた残滓が。

 

 すべてが、一瞬にして、完全に断ち切られた。

 

 ブラッド・アポストルが、この戦闘で初めて、明確な動揺を顔に浮かべた。

 

「……馬鹿な……!」

 

 エリカに斬り飛ばされた腕の肉が、再生の途中でピタリと不自然に止まった。

 

 傷口から血がボタボタとこぼれ落ちる。

 

 だが、肉は元に戻らない。

 

「血の因果の繋がりが……すべて切断された!? あり得ない! 血は繋がるものだ! 血は世界を巡るものだ! それを、こんなただの人間の若造が、術式ごと断ち切るなど——!」

 

 健司は、能力を行使した直後、激しい目眩に襲われてガクンと膝をついた。

 

 頭がカチ割れそうなほどの激痛。

 

 鼻の奥から、ツツーッと一筋の鼻血が垂れる。

 

 だが、確かに斬れた。

 

「外部からの血液反応の流入が、完全に停止しました! 標的の再生反応、急激に低下しています!」

 

 三枝が、端末の数値を見て声を張り上げる。

 

 エリカが、アイスブルーの瞳に獰猛な歓喜を宿して笑った。

 

「これで、もうお前は何も怖くないな、化け物」

 

 健司は、ふらつく身体を必死に支えながら叫んだ。

 

「今なら……あいつ、再生できないはずです!」

 

 最終ラウンド。

 

 ブラッド・アポストルは、最大の武器である無限の再生ルートを失った。

 

 しかし、彼はまだ弱くはない。

 

 これまでに大量の血液摂取で強化された強靭な肉体、残された強力な血の刃、そして本体そのものの持つ高い基礎再生力がある。

 

 それでも、決して倒せない「無限」ではなくなった。

 

「終わりだ、狂信者」

 

 エリカが、最後の一撃のために猛スピードで突撃する。

 

 ブラッド・アポストルが、絶望の叫びとともに無数の血の刃を乱れ撃つ。

 

 三枝が、残りの結界札をすべて重ね合わせて展開し、その血の暴雨を正面から完全に防ぎ切る。

 

 健司は、残った僅かな集中力を振り絞り、短い『斬』を放って、エリカの死角を狙う血の刃の軌道をピンポイントで逸らす。

 

 エリカが、完全に男の懐へと入り込んだ。

 

 ブラッド・アポストルは防御のために腕を交差させるが、銀の刃がその腕の骨ごと深く斬り裂く。

 

 今度は、傷口の再生が致命的に遅い。

 

「拘束!」

 

 三枝が、最後の一枚の札を男の足元の床に叩き込んだ。

 

 男の足元に広がっていた血の海が一瞬だけコンクリートのように硬く凝固し、ブラッド・アポストルの両足を完全に拘束する。

 

「今です!」

 

 健司が叫ぶ。

 

 エリカが、渾身の力で男の心臓へと銀刃を突き刺した。

 

 ブラッド・アポストルが、断末魔の抵抗として、体内のすべての血を爆発させ、自爆による道連れを狙おうとする。

 

 健司が、最後の力を振り絞り、男の周囲に極小の結界を展開した。

 

 血の爆発を物理的に止めるのではない。

 

 爆発のエネルギーを外へ一切漏らさないよう、境界の殻で完全に囲い込んだのだ。

 

 三枝の札の効力がそこに重なる。

 

 血の爆発は結界の内側で激しく暴れ狂ったが、外側には一滴の血も漏れ出さなかった。

 

 エリカが、柄まで深く刃を押し込む。

 

 銀刃に刻まれた刻印が赤黒く発光し、男の体内にある血液媒介術式の根源を、完全に焼き切って断つ。

 

「私は……血の、高き使徒だ……! 人を、超えた……選ばれた存在、だというのに——!」

 

「お前は、ただの卑劣な人殺しだ」

 

 エリカが冷徹に告げ、突き刺した刃を無慈悲に捻った。

 

 三枝が、封印の呪符を男の胸元へと叩き込む。

 

 そして健司が最後に、男の胸にある赤黒い術式の核へ向けて、ダメ押しの短い斬撃を放った。

 

「斬!」

 

 パツン、という乾いた音とともに、ブラッド・アポストルの胸の奥にある赤黒い核が、完全に砕け散った。

 

 全身から、異能の力が嘘のように抜け落ちていく。

 

 床に広がっていた禍々しい血の海が、ただの汚れた生臭い液体へと戻る。

 

 壁に描かれた狂信的な文字が、干渉力を失って崩れるように雨漏りで滲んでいく。

 

 建物全体を重く包み込んでいた、あの異常な圧迫感が、霧が晴れるように完全に消え去った。

 

 ブラッド・アポストルの身体が、ただの抜け殻となって床に崩れ落ちた。

 

 エリカは、最後まで油断せずに刃を抜かなかった。

 

 男の生命活動と術式反応が完全に停止したことを冷徹に見極めてから、ようやく静かに銀刃を引き抜いた。

 

 五階の部屋に、静寂が戻った。

 

 健司は、緊張の糸が切れて、そのままその場に力なく座り込んだ。

 

 もう、指一本動かす気力も残っていない。

 

 三枝が、すぐに健司のもとへ駆け寄る。

 

「佐藤さん。大丈夫ですか」

 

「……生きてます。たぶん、ギリギリ」

 

 健司が力なく笑う。

 

『よくやった、猿』

 

 脳内で、魔導書が静かに声をかけた。

 

『だが、二度と調子に乗って今の技を連発するなよ。あの一撃は、貴様の脳の処理領域が完全に焼き切れる寸前の、奇跡的な綱渡りだったのだからな』

 

(褒めるなら褒める、怒るなら怒る。どっちか一つにしてくれよ……)

 

 健司は内心で文句を言ったが、不思議と悪い気はしなかった。

 

 エリカは、ブラッド・アポストルの物言わぬ死体を冷たい目で見下ろしていた。

 

 その表情に、勝利の歓喜や高揚感はない。

 

 ただ、害虫を駆除し終えたという、冷徹な事務的な確認の作業。

 

「……討伐完了だ」

 

「現場の事後処理は、こちらで引き継ぎます」

 

 三枝が、通信端末を開きながら言った。

 

「遺体、残存血液、術式残滓、すべてヤタガラスの封印管理対象として厳重に処理します」

 

「好きにしろ。奴はもう二度と動かない」

 

 エリカは銀刃の血を布で拭い、コートの裏へしまった。

 

 健司は、部屋の中央に倒れている被害者たちの遺体を見た。

 

 結局、助けられなかった。

 

 ブラッド・アポストルという最悪の化け物は倒した。

 

 だが、自分たちが到着する前に、すでに間に合わなかった命がそこにある。

 

 三枝が、健司の視線に気づき、静かに言った。

 

「佐藤さん。あなたが、あの再生ルートの血の繋がりを完全に断たなければ、標的は無限に再生を続けていました。長期戦になれば、我々が全滅し、被害はさらに大きく拡大していたはずです」

 

「……でも、あの人たちは救えなかった」

 

「死者を背負って感傷に浸るなら、すべての吸血鬼を殺し尽くした後にしろ」

 

 エリカが、背を向けたまま冷たく言い放った。

 

「戦場のど真ん中で、自分の無力さを後悔するな。それは自己満足だ。次に刃を振るう時、手元が鈍る原因になるだけだ」

 

 健司は反発しそうになった。

 

 だが、何も言えなかった。

 

 エリカの言い方は苛烈で冷酷だが、戦場を生き抜く者としての理屈としては、完全に間違いとは言いきれない重さがあった。

 

『猿。救えなかった者から目を逸らせとは言わん』

 

 魔導書が、静かに語りかける。

 

『だが、救えなかったという事実だけで、自分自身を潰すな。お前が概念を斬るという無茶を通したからこそ、これ以上の死者は一人も増えなかったのだ』

 

 健司は、小さく、だがしっかりと頷いた。

 

 数時間後。

 

 現場は、到着したヤタガラスの部隊によって完全に制圧された。

 

 外周の封鎖は完了し、下階に残っていたゾンビの残骸もすべて処理対象として回収された。

 

 ビルを覆っていた血の領域は完全に崩壊したが、ブラッド・アポストルが残した血液術式の一部はまだ危険なため、専門の班による封印浄化処理が続いている。

 

 健司は、ビルの外の非常階段に座り込み、酷使した脳の頭痛と軽い吐き気に耐えていた。

 

 三枝が近づいてきて、冷たいミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。

 

「ありがとうございます」

 

 健司が受け取って喉を潤す。

 

「先ほどの、標的の再生を止めた斬撃について。……あれは一体何をしたのか、具体的に説明できますか」

 

 三枝が、調査員としての目で尋ねてきた。

 

 健司は水を一口飲み、少し考えてから慎重に答えた。

 

「正直、俺にもまだ理屈はよく分かってません。ただ……あいつの物理的な身体を斬るんじゃなくて、下の階の血と繋がっている『見えない線』の部分だけを斬るように、意識を極限まで集中させました」

 

「物質ではなく、術式の接続関係そのものを、概念的に切断した……ということですか」

 

「たぶん、そんな感じです。……まぐれ当たりみたいなもんで、もう一回すぐやれって言われても、今は絶対に無理です」

 

 健司は苦笑して誤魔化した。

 

「非常に高度な術式干渉です。後日、詳細な検証が必要ですが……少なくとも今回の状況においては、標的の無限再生機構を根本から断つ、文句なしの決定打になりました」

 

「やっぱり、結構ヤバい技ですかね」

 

「はい。脳への負荷も未知数ですし、むやみに使うべきではありません」

 

 そこへ、現場の確認を終えたエリカが歩いてきた。

 

「予知者」

 

「はい」

 

 健司が顔を上げる。

 

「お前は、根本的に人間として甘すぎる。戦場に向いていない」

 

 エリカはいつも通りの冷たい声で言った後、ふっと口元を緩めた。

 

「……だが、今日の狩りにおいては、十分に役には立った」

 

「それ、褒めてます?」

 

「私の基準の中では、最大級にな」

 

「……相変わらず、分かりにくい人だ」

 

 健司は苦笑した。

 

 三枝が、横で静かに告げた。

 

「佐藤さん。今回の現場でのあなたの働きは、ヤタガラス上層部に正式に高く報告します」

 

「……できれば、また面倒で危険な任務が追加されるんじゃなくて、特別ボーナスと長期休暇につながるような報告にしてくださいよ」

 

『無理だな。新しい強力な手札を組織に見せびらかした便利な猿が、休む間もなくさらに厄介な仕事に呼び出される未来が、俺様にはハッキリと視えるぞ』

 

 魔導書が、脳内で意地悪く嗤う。

 

「……やめろよ、そういう不吉な予知」

 

 健司が思わず小声で漏らす。

 

「何か言いましたか?」

 

 三枝が首を傾げる。

 

「いえ、ただの独り言です!」

 

 ブラッド・アポストルの討伐。

 

 血の要塞の崩壊。

 

 事件は一応の決着を見た。

 

 だが、エリカ・ヴァイスナーという存在の根本的な問題は、何も解決していない。

 

 彼女は今回、同じ標的を追う味方だった。

 

 しかし、吸血鬼を『寄生虫』として憎み、狩り尽くすという彼女の過激な思想は、何一つ変わっていない。

 

 吸血鬼分類の能力者を国民として保護する日本のヤタガラスと、彼女の間には、依然として埋めようのない深くて暗い溝が横たわっている。

 

 三枝は、エリカに向かって事務的に告げた。

 

「今回の件につきましては、情報提供および現場での強力な連携に、組織として感謝します。……ただし、あなたの日本国内における『監視対象』の指定は、継続させていただきます」

 

「好きにしろ」

 

 エリカは、全く意に介さない様子でコートの襟を立てた。

 

「カラスの目に見張られるくらいで、私がこの世界でやるべき狩りは、何一つ変わらない」

 

 健司は、彼女の背中を見送りながら思った。

 

 この人は、味方だった。

 

 少なくとも、今夜この血みどろの戦場においては。

 

 けれど、明日も、明後日も、確実に味方でいてくれる保証はどこにもない。

 

 それでも今夜、生まれも思想も立場も全く違う三人は、奇妙な連携で同じ絶対悪の敵を打ち倒したのだ。

 

 血の要塞は崩れ去り、狂信者ブラッド・アポストルは倒れた。

 

 逃げて、逃げて、果てに極東の日本へと流れ着いた怪物は、異国の冷酷な狩人と、国家の無機質なカラスと、一匹の不器用な猿によって、そのおぞましい血の因果を完全に断たれた。

 

 だが、健司の脳裏には、あの極限状態の中で放った『概念限定斬撃』の感覚が、火傷の跡のようにまだ熱く焼き付いている。

 

 物理的な物を斬るのではなく、見えない繋がりを斬る。

 

 血という液体を斬るのではなく、血が結んだ因果の概念そのものを斬る。

 

 それは、健司が魔法使いとして新たな高みへと至るための、全く新しい力の扉だった。

 

 そして同時に、一歩間違えれば、自分自身の脳の認識すらも不可逆的に壊しかねない、両刃の危険な刃でもあった。

 

 脳内で、魔導書が最後に一言だけ、静かに告げた。

 

『よくやった、猿。……今日のところは、及第点だ』

 

 健司は、全身の疲労に深くため息をつきながら、内心でだけ皮肉っぽく返した。

 

(今日のところは、なのかよ……)

 




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