俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第48話 猿と心霊ロケと黒い石

 オカルト実験室クロノスとコラボした「元モデルの幽霊」動画が公開されてから、数日が経過していた。

 

 動画の反響は、良くも悪くもすさまじかった。

 

 心霊写真に写り込んだ白石玲奈の姿が、あまりにも鮮明で「モデルのような美女」であったため、コメント欄は大きく二分されたのだ。

 

『これ絶対プロのCGだろ』

 

『いや、Kさんが現場にいるならガチの本物じゃね?』

 

『幽霊の宣材写真は草生える』

 

『普通に美人すぎて怖くない心霊回で逆に好き』

 

『やらせ感半端ないけど、編集のクオリティは高い』

 

 健司は自宅のアパートで、そのコメント欄の一部をスクロールしながら変な顔になった。

 

「……幽霊の宣材写真って、しっかり突っ込まれてるじゃん」

 

『極めて的確な評価だな。あの承認欲求の塊のような霊にはお似合いだ』

 

 魔導書が机の上で嗤う。

 

 その時、予知者K用の連絡端末として使っているスマホの画面に、新たな通知がポップアップした。

 

 相手は、クロノスのメインMCである黒瀬蓮からだった。

 

『Kさん、お疲れ様です!

 

 前回の動画、おかげさまでかなり大きな反響がありました!

 

 それで実は、別件でKさんにどうしても確認していただきたい心霊スポットがありまして……。

 

 今回は、前回のようなおとなしい霊ではなく、少し“怖い系”の現場です。

 

 ただ、現地で囁かれている噂が、妙に変なんです。

 

 もし可能なら、同行による検証をお願いできないでしょうか?』

 

 健司は、その文面を見たまま無言で天を仰いだ。

 

「……またかよ」

 

『猿。貴様の心霊タレントとしての営業窓口が、完全に開いたようだな』

 

「嫌すぎる。俺は心霊相談センターじゃないんだよ」

 

『前回、霊体の俗な営業活動を律儀に手伝ってやったからな。今度は、お前が彼らに営業される番というわけだ。因果応報だな』

 

 健司は嫌そうな顔で愚痴りつつも、黒瀬から続けて送られてきた添付ファイルの『企画書』と現場情報を開いた。

 

 今回の現場は、都内の便利なレンタルスタジオなどではない。

 

 郊外の寂れた山際にある、すでに廃業した小さな民宿。

 

 仮の名称は『旧・鳴沢荘』。

 

 かつては登山客や釣り客向けの宿として賑わっていたが、十数年前に廃業。

 

 建物は取り壊されずにそのまま残され、地主の管理者が定期的に見回りをするだけで放置されている。

 

 最近になって、地元の若者やネットのオカルト掲示板で、心霊スポットとして妙な噂が立ち始めた場所らしい。

 

 健司は、その噂のリストに目を通した。

 

 ・夜になると、誰もいない廊下をドタドタと走る不気味な足音がする。

 

 ・鍵の閉まった客室の奥から、女性のすするような泣き声が聞こえる。

 

 ・食堂の重い椅子が、勝手にバタンと倒れる。

 

 ・窓の外や廊下の暗がりに、犬か狐のような四つ足の動物の影が這い回っている。

 

 ・無断で入った配信者のカメラや機材が、特定の部屋に近づくと急にシャットダウンする。

 

 ・玄関の古い下駄箱の扉が、勝手にバタバタと開閉する。

 

 ・一番奥の『元・納戸』に近づくと、急激に肩や身体が重くなる。

 

 ・その納戸の周辺だけ、異常に空気が冷え切っている。

 

 健司は企画書を読んで、思わず眉を深くひそめた。

 

「……これ、前回と違って、普通に物理的に危なそうな悪霊の現場じゃないか?」

 

『ようやく、心霊現象らしい心霊案件になってきたな』

 

 魔導書が楽しそうに言う。

 

「喜ぶなよ。こっちは面倒ごとが増えただけだぞ」

 

 さらに、黒瀬からのメールには、気になる『追記』があった。

 

『なお、過去にこの民宿で亡くなった人がいるという直接的な噂はありますが、事件性の有無など詳細は不明です。

 

 あと……以前ここに忍び込んだ別の配信者がパニックになって逃げ出した時、落としたカメラの映像に、納戸の奥で【何か黒い石みたいなもの】が映っていたというネットの噂があります。映像は荒くて確証はありませんが、少し気になります』

 

 健司は、「黒い石」という単語に、ほんの少しだけ嫌な引っかかりを覚えた。

 

 だが、この時点ではまだ、それが過去に遭遇した子鬼親分のダンジョン異常と結びつくものだとは、思い至らなかった。

 

『現物を見て、術式の波形を確認しなければ何とも言えん』

 

 魔導書も、このテキストの情報だけでは断定を避けた。

 

『だが……“黒い石”というのは、少し嫌な響きだな。胸騒ぎがする』

 

「やめろよ。お前がそんな不吉なこと言うと、絶対にフラグになるから」

 

 健司は、念のためヤタガラスの窓口である三枝に、この件を事前報告した。

 

 ヤタガラスという国家機関のバックアップと情報網は、こういう時にこそ使うべきだ。

 

 数分後、三枝から無機質な返信が届いた。

 

『該当の旧・鳴沢荘は、過去に数件の心霊系YouTuberや肝試し客からの通報履歴があります。

 

 ただし、現時点で死傷者などの重大な人的被害は確認されていません。

 

 低~中程度の霊的現象、あるいは微弱なポルターガイストが発生している可能性があります。

 

 クロノスのメンバーと同行する場合、一般人の保護を最優先としてください。

 

 異常性や危険度が想定より高いと判断した場合は、撮影を直ちに中断させ、即時撤収を指示してください』

 

「……一般人の保護を優先しろって、念を押されてるな」

 

『つまり、足手まといのお守りをしながら戦え、ということだ』

 

 魔導書が皮肉る。

 

『よかったな、猿。今日は子守りのお時間だぞ』

 

「クロノスの人たち、いい大人だから。子供じゃないし」

 

『撮れ高を前にした興奮状態の人間は、無軌道な子供よりよほど厄介でタチが悪いぞ』

 

 健司は、その魔導書の身も蓋もない正論に、全く否定できなかった。

 

 その日の夜。

 

 郊外の山際にひっそりと佇む、廃業した民宿『旧・鳴沢荘』の前。

 

 クロノスのメンバーと健司は、鬱蒼とした木々に囲まれた現場の前に集合していた。

 

 健司は、顔を覆う猿面と変声機を装着した、完全な『予知者K』モードだ。

 

 メインMCの黒瀬蓮は、目の前の気味の悪い廃墟を前にして、すでにワクワクと興奮を隠しきれない様子だった。

 

 進行の春日井ミナは、懐中電灯を握りしめ、あからさまに怖がって肩をすくめている。

 

 カメラ担当の真鍋透は、暗視カメラと集音マイクの機材チェックを無言で進めている。

 

「Kさん、本日も夜分遅くによろしくお願いします!」

 

 黒瀬が元気よく頭を下げた。

 

「前回は元モデルのとてもお綺麗な幽霊さんでしたが、今回はご覧の通り、かなり本格的な“心霊スポットらしい”場所です!」

 

「心霊スポットらしい場所って言い方が、もうすでに嫌ですね」

 

 健司は変声機越しの低い声で返した。

 

「今回は正直、私もめちゃくちゃ怖いです……」

 

 春日井がビクビクしながら建物を窺う。

 

「前回の玲奈さんみたいに、言葉が通じてお供え物で喜んでくれるタイプだといいんですけど……」

 

「撮影は、基本的に回しっぱなしにします」

 

 真鍋がカメラのピントを合わせながら言った。

 

「ただし、Kさんが『危ない、中断しろ』と指示を出したら、その瞬間に即カメラを切って逃げます」

 

「お願いします。今回は、前回よりも物理的に危険な可能性がありますから」

 

 健司が真面目なトーンで念を押すと、黒瀬のハイテンションも少しだけ落ち着いた。

 

「……分かりました。安全第一で、Kさんの指示には絶対に従います」

 

『本当に安全第一を掲げるなら、今すぐ回れ右をして家に帰って寝るべきだがな』

 

 魔導書が脳内で正論を吐く。

 

(それを言ったら、彼らのYouTube企画自体が成り立たないだろ)

 

 黒瀬がカメラの前に立ち、導入の撮影を始めた。

 

「はい! オカルト実験室クロノスです! 今回は、郊外の山奥にある廃業済みの民宿、旧・鳴沢荘に来ています。こちらでは、謎の足音、女性のすすり泣き、ポルターガイスト現象、謎の動物の影など、非常に多数の怪異現象が報告されています。……そして今回は、前回に引き続き、あの予知者Kさんに同行していただき、安全を確保しながらの検証となります!」

 

 健司は、カメラに向かって軽く会釈だけした。

 

「危険だと判断した場合は、躊躇なく即時撤収します。遊び半分で、中の何かを無闇に刺激するような真似はしないでください」

 

「はい! 今回は本当に、慎重に慎重を重ねて進みます!」

 

 建物に入る直前、健司はクロノスのメンバーから少し離れた暗がりで、誰にも聞こえない小声で呪文を唱えた。

 

「我が眼、霊なるモノ達を視る力、霊眼」

 

 視界が、ふっと薄い青白いフィルターを通したように切り替わる。

 

 霊眼を開いた状態で、旧・鳴沢荘の建物全体を見上げた健司は、思わず息を呑んだ。

 

 建物全体が、薄く、どす黒い灰色の『霧』のようなものにスッポリと包み込まれて見えたのだ。

 

 前回の撮影スタジオとは、明らかに異質の気配だった。

 

 あっちは、メイクルームの一箇所だけに、白石玲奈の明るく独立した霊的な気配が留まっていただけだ。

 

 だが今回は、建物という広大な空間全体に、じっとりとした、不快で重い残留感がこびりついている。

 

 ただし、それは悪霊そのものの怒りや呪いというより、外から強引に『何か異物』を流し込まれて、空間全体が酷く汚染されているような、人工的な違和感だった。

 

「……嫌な感じですね」

 

 健司がぽつりとこぼした。

 

「えっ……やっぱり、何かいますか?」

 

 春日井が健司の背中に隠れるようにして聞く。

 

「います。ただ……前回のような、自然にそこに残った霊の気配とは、根本的に少し違う気がします」

 

「違う?」

 

 黒瀬が首を傾げる。

 

「この建物全体に、蜘蛛の巣みたいに何かが絡みついているように見えます」

 

『猿、建物の手前ではなく、奥を見ろ』

 

 魔導書が、健司の霊眼の焦点を誘導する。

 

『建物の中心ではない。右奥……あの、古い納戸があると思われる方角だ』

 

(……あそこだけ、異常に黒い靄が濃いな)

 

 健司の霊眼には、旧民宿の右奥のスペースから、真っ黒で太い『因果の糸』のようなものが何本も伸びているのが視えた。

 

 その黒い糸が、血管のように建物全体へと広がり、この場所にいる幽霊や残留思念を、決して外へ逃がさないように強引に絡め取って縛り付けているのだ。

 

 一行は、軋む引き戸を開けて玄関へと入った。

 

 長年放置された廃墟特有の、カビと埃の匂いが鼻を突く。

 

 古い木の床が、体重をかけるたびにギィ、ギィと不気味な音を立てて軋む。

 

 その時。

 

 玄関の横にあった、ボロボロの木製の下駄箱の扉が、突然。

 

 バタンッ!!

 

 と、誰も触れていないのに勢いよく開いた。

 

「ひっ!」

 

 春日井が小さく短い悲鳴を上げてしゃがみ込む。

 

「今、下駄箱の扉が勝手に開きました! これはもう、入って早々に物理的な現象が起きています!」

 

 黒瀬が、怖がるよりも先に興奮した声で実況する。

 

「撮れてます。暗視モードでもハッキリ確認できます」

 

 真鍋がカメラを構えたまま冷静に報告する。

 

 健司は、霊眼でその下駄箱の周辺を注視した。

 

 扉が開いた反動で舞い上がった埃の中に、薄く、青白い『動物の影』が走ったのが視えた。

 

 犬のようでもあり、狐のようにも見える、四つ足の獣の輪郭。

 

 その影は、一瞬だけ健司の方を振り返って威嚇するように歯を剥き出しにしたが、すぐに奥の暗闇へと怯えたように逃げ去っていった。

 

「……動物の霊のようなものが、今ここを走りました」

 

 健司が告げる。

 

「動物霊ですか!?」

 

 黒瀬が驚く。

 

「たぶん。ただ……自由に動き回って俺たちを脅かしているというより、後ろから何かに無理やり追い立てられて、嫌々動かされているように見えます」

 

『番犬代わりにされているな』

 

 魔導書が冷徹に分析する。

 

『あの動物霊本人の意思というより、奥にある呪物に強引に縛り付けられて、侵入者を追い払うための防犯ブザーとして使われているのだ』

 

(死んだ動物の霊を、無理やり番犬扱いするって……だいぶ悪質で趣味が悪いな)

 

『ああ。極めて悪趣味だ』

 

 一行は、さらに奥の廊下へと進んでいった。

 

 すると、左右に並ぶ古い客室の一つから、ヒック、ヒックと、微かに女性のすすり泣くような声が聞こえてきた。

 

 クロノスのメンバーの足が、ピタリと止まる。

 

「……聞こえましたよね? 今、明らかに泣き声が……」

 

 春日井が、黒瀬の腕をきつく掴んで震える。

 

「集音マイクに音声入ってます。かなりクリアです」

 

 真鍋がヘッドフォンを押さえながら言う。

 

「Kさん、どうですか? 中にいますか?」

 

 黒瀬が、唾を飲み込みながら尋ねる。

 

 健司は、声のする客室のふすまの方へ視線を向けた。

 

 霊眼の視界には、部屋の隅の薄暗い畳の上に座り込み、顔を覆って泣いている女性の霊がハッキリと見えた。

 

 年齢は三十代から四十代くらい。

 

 着物ではなく、昔の民宿のスタッフが着ていたような、古い割烹着姿だ。

 

 前回の白石玲奈のようなどこか能天気な明るさは微塵もなく、ただただ何かに酷く怯えている。

 

 だが、健司たちに対する敵意や殺意は全く感じられなかった。

 

 健司は、慎重にふすま越しに声をかけた。

 

「……話せますか?」

 

 幽霊が、ゆっくりと顔を上げた。

 

『……見えるの? あなた、私の姿が見えるの?』

 

「はい。あなたは、どうしてここに残っているんですか?」

 

 女性の幽霊は、激しく首を横に振った。

 

『違う。私は、ここに残りたくて残ってるんじゃない。ここから出ようとしても、奥から強い力で引っ張られるの。……あの“黒いもの”に、ずっとここへ鎖みたいに縛り付けられてるのよ!』

 

 健司の表情が、お面の下で険しく変わった。

 

「縛られている……?」

 

 健司の言葉に、黒瀬たちが息を呑んだ。

 

「Kさん、幽霊さん、何て言ってるんですか?」

 

 春日井がすがるように聞く。

 

「……この霊は、自分からここに残りたくて残っているわけではないそうです。奥にある『何か』に、無理やりこの場所に縛り付けられている、と」

 

「奥というと……噂にあった、あの納戸ですか?」

 

 真鍋がカメラのライトを廊下の奥へ向ける。

 

「たぶんですけど」

 

 幽霊は、震える声でさらに訴えかけてきた。

 

『あの奥の場所に、“黒い石”が置かれてから……すべてが変になったの。廊下を歩いていた影も、さっきの動物の子供の霊も、ここにいるみんな、あれの力に引っ張られておかしくなってる。私たちが近づくと、あの子が番犬みたいに暴れるの。……あの子も、ただ苦しんでるだけなのに』

 

「黒い石……」

 

 健司がその単語を反芻する。

 

『確定だな』

 

 魔導書が、静かに、だが確信を持って告げた。

 

『これは、自然発生した心霊現象などではない。何者かが明確な悪意を持って、意図的に呪物を設置したのだ』

 

(前の、子鬼親分のダンジョンにあった異常誘導の石と……似てるか?)

 

『現物の術式波形を見なければ断言はできん。だが、臭いは極めて近いぞ』

 

 黒瀬が、カメラを回しながらも、バラエティ番組のノリを捨てて真面目な顔になった。

 

「Kさん。これって……もしかして、普通の心霊スポット検証の企画じゃない感じですか?」

 

「そうですね」

 

 健司は頷いた。

 

「少なくとも、ただ未練を持った幽霊が彷徨っているだけの場所ではありません。悪意を持った“何か”が、無理やり霊をここに縛り付けて、利用しています」

 

「え、じゃあ、私たちこのまま奥に行って大丈夫なんですか!?」

 

 春日井が、半泣きで尋ねる。

 

「本来なら、一般人はここで即座に撤収した方が安全です。ヤタガラスの規定でもそうです」

 

「……本来なら」

 

 黒瀬が、健司の言葉のニュアンスを察して復唱する。

 

「ただ。……このまま放置して帰れば、この霊たちは、永遠にここに苦しみながら縛られたままになります」

 

 健司は、割烹着の女性の霊を見て言った。

 

 黒瀬は、少しの間、強く迷う素振りを見せた。

 

 撮れ高と、自分たちの安全。

 

 しかし彼らは前回、白石玲奈という幽霊を『一人の人』として扱った経験がある。

 

 ただ怖がって逃げるだけの、無責任なYouTuberの枠を少し超えていた。

 

「……Kさん。私たちは、Kさんの指示通りに、安全な位置まで下がります」

 

 黒瀬が、決意を固めたように言った。

 

「でも、カメラは回したままでもいいですか? 絶対にKさんの邪魔にならない、ギリギリの位置からで構いません」

 

「本当に危険だと判断したら、カメラを捨ててでもすぐに逃げてくださいよ。約束できますか」

 

「了解です。機材より命優先でいきます」

 

 真鍋が静かに応じる。

 

「当たり前ですからね!? 私、本当に逃げますからね!」

 

 春日井が必死に叫ぶ。

 

『猿、なかなか骨のある良い撮影班ではないか。……少しばかり馬鹿だがな』

 

 魔導書が感心したように言う。

 

(馬鹿は余計だ)

 

 一行は、重い足取りで右奥の『納戸』へと向かった。

 

 廊下を進むにつれ、周囲の空気が急激に水圧を増したように重くなっていく。

 

 チカッ、チカッ。

 

 天井の古い照明が、不規則に明滅を始める。

 

 壁に飾られていた古い風景画の額縁が、突然ガシャンと床に落ちてガラスが割れた。

 

 食堂らしき部屋の中から、重い木製の椅子が一つ、ガタン! と激しく倒れる音が響く。

 

「今、食堂の椅子が勝手に倒れました! かなり強いポルターガイスト現象です!」

 

 黒瀬が実況する。

 

「実況してる場合ですか!? 怖い怖い怖い!」

 

 春日井が耳を塞ぐ。

 

「撮れてます。でも、これ以上は少し距離を取りましょう」

 

 真鍋がカメラを引き気味に構える。

 

 健司は、咄嗟に『結界』を薄く展開した。

 

 クロノスの三人の前に、見えない透明な防護膜のシールドを張る。

 

 黒瀬が、空気の質の変化に気づいてハッとした。

 

「Kさん、今、何かしました?」

 

「念のための防御です。皆さんは、この見えない線の内側から、絶対に前に出ないでください」

 

『猿にしては、周囲の被害を予測したまともな判断だ』

 

(だから褒めるなら素直に褒めろって)

 

 納戸の前に到着した。

 

 分厚い木製の扉には、錆びついた南京錠がぶら下がっていた。

 

 しかし、よく見るとその南京錠の鍵穴の部分は、何らかの工具で強引に破壊されていた。

 

 誰かが、最近になってこの封鎖された納戸の中に侵入した明確な痕跡だ。

 

 健司は扉にそっと手を触れた。

 

 霊眼の視界には、ドス黒い『糸』のようなものが、扉の隙間からウジャウジャと漏れ出しているのが視える。

 

「……この奥です」

 

 健司が扉を勢いよく開け放った瞬間。

 

 ゴォォォォッ!!

 

 納戸の中から、まるで冷蔵庫の冷気を凝縮したような、身を切るような冷たい突風が吹き出してきた。

 

 それと同時に。

 

 部屋の中にうず高く積まれていた古い陶器の器、ひび割れた壺、木箱、折れたビニール傘、空き瓶の山が。

 

 無重力空間に放り出されたように、一斉にフワリと空中に浮き上がったのだ。

 

「ポルターガイスト現象!? 皆さん、見てください! 中の物が全部浮いてます! 本当に浮いてます!」

 

 黒瀬がカメラに向かって叫ぶ。

 

「いやいやいや! 近い! 近いですってば!」

 

 春日井がしゃがみ込む。

 

「カメラ回ってます! でもこれ、どう見てもCGじゃないですよね!? 現場で本当に浮いてます!」

 

 真鍋の冷静な声も、さすがに興奮で上ずっていた。

 

「だから、実況してる場合じゃないですよ!」

 

 健司が怒鳴った瞬間。

 

 空中に浮遊していたガラクタの群れが、一斉に散弾銃の弾丸のように、健司たちに向かって凄まじい速度で飛んできた。

 

 ガガガガガッ!!

 

 飛来した無数の瓶や木片が、健司が張っていた結界の見えない壁に激突し、粉々に砕け散る。

 

 クロノスの三人は、結界の後ろで完全に硬直した。

 

「Kさんが、何もない空間に見えない壁を張って、飛んでくる物を全部止めてる……!」

 

 黒瀬が震える声で実況する。

 

「これは、完全にYouTubeの規約ギリギリのやばい映像です」

 

 真鍋がカメラの録画ランプを確認する。

 

「怖い怖い怖い! でも、Kさんすごい!」

 

 春日井が目を丸くする。

 

 健司は、飛んでくるガラクタの雨を捌きながら、霊眼で納戸の最奥を凝視した。

 

 そこにあった。

 

 ホコリを被った木箱の上に、ぽつんと置かれた『黒い石』。

 

 手のひらほどの大きさ。

 

 自然の石とは思えないほど不自然に磨き上げられ、表面には細い溝のような幾何学的な紋様が刻まれている。

 

 その石から、無数の太い黒い糸が伸び、部屋の中を高速で駆け回っている『動物の霊』の身体に、何重にも絡みついているのが視えた。

 

 動物霊は、犬のようでもあり、狐のようでもあった。

 

 その目は赤く濁り、狂暴な光を放っている。

 

 だが、霊眼でその本質を透かし見ると、無理やり力を引き出されて怯えきっている、哀れな小動物の姿に近い。

 

『本体はあの石だ』

 

 魔導書が断定する。

 

『あの動物霊は、自らの意思でこの場を守る守護霊などではない。あの呪物に強引に鎖で繋がれ、見知らぬ侵入者を追い払うための防衛システムの一部として、強制的に番犬にされているだけだ』

 

(じゃあ、あの動物霊を倒すんじゃなくて、縛っている鎖だけを斬る)

 

『正解だ、猿。……ただし、もたもたして飛んでくる壺で頭を割られるなよ』

 

(分かってるよ!)

 

 動物霊が、空間を震わせるような霊的な咆哮を上げた。

 

 声というより、鼓膜に直接響く衝撃波に近い。

 

 納戸の奥の古い棚が崩れ落ち、さらに巨大な木材や家具の破片が宙に浮き上がる。

 

 健司は『身体能力強化』の出力を一気に引き上げた。

 

 床を強く蹴り、飛んでくる障害物の雨を躱して大きく横へ跳ぶ。

 

 空中に『結界足場』を瞬間的に展開し、それを蹴って三次元的に鋭く方向転換。

 

 顔面に向かって飛んでくる木片を、最小限の手刀の『斬』で真っ二つに切り落とし、巨大な壺を回し蹴りで粉砕する。

 

 その人間離れした動きに、クロノスの三人は度肝を抜かれた。

 

「うおおおおおおおっ!? Kさんが、完全にバトル漫画の主人公みたいに戦ってます! これ本当に心霊ロケですよね!?」

 

 黒瀬が絶叫する。

 

「いや、あの人、前から普通じゃないとは思ってたけど……思ってたより動きが人間やめてる!」

 

 春日井が悲鳴混じりに叫ぶ。

 

「カメラが動きに追いつきません! 速い! 速すぎる!」

 

 真鍋が必死にレンズを振り回す。

 

「実況する余裕があるなら、もっと後ろに下がってください!!」

 

 健司が空中で怒鳴る。

 

「はいっ!」

 

 三人は、素直にズルズルと廊下の奥へ後退した。

 

 健司は、飛び交うガラクタを処理しながら、霊眼の出力をさらに一段階引き上げた。

 

 視界に、黒い糸の構造がハッキリと浮かび上がる。

 

 一本は動物霊の首に。

 

 一本は胴体に。

 

 一本は尻尾に。

 

 さらに、それらの糸の根元は、納戸の床や壁に深く突き刺さり、この建物全体へと蜘蛛の巣のように広がっている。

 

『見えているな、猿』

 

(ああ。部屋中、真っ黒な糸だらけだ)

 

『あれは物理的な糸ではない。呪物から発せられる命令、束縛、場への空間固定、そして霊体への強制的な干渉。……それらが複雑に絡み合った“因果の鎖”だ』

 

(なら、俺の斬撃で切れるな)

 

『お前は先日の死闘で、ブラッド・アポストルの血の因果すら斬ってのけたのだ。ならば、この程度の低級な霊を縛る因果なら、斬れるはずだ。……ただし、対象の指定を絶対に間違えるなよ。無実の動物霊そのものを斬るな。“縛りの因果”だけを限定して斬れ』

 

 概念限定斬撃の再利用。

 

 ブラッド・アポストル戦で一度成功させた高等応用だが、今回は対象の呪力レベルが低く、斬るべきものも黒い糸としてハッキリ視えている。

 

 必要なのは、力任せの大技ではない。

 

 対象を間違えない精密さだった。

 

 今回の斬断対象は、「動物霊を縛る因果の糸」のみ。

 

 健司は、空中で深く息を吸い込んだ。

 

「斬る対象は、この霊じゃない」

 

 健司の低い呟きを、クロノスの集音マイクが確かに拾った。

 

「この子を無理やり縛り付けている、黒い鎖だけだ」

 

 その言葉を聞いて、黒瀬が小声で反応した。

 

「この子……?」

 

「Kさん……あの怒り狂ってる動物霊を、助けようとしてる……?」

 

 春日井が、ハッとしてカメラ越しの健司を見つめた。

 

 健司は右手をスッと構え、手刀の形を作った。

 

 ただ空間を切る斬撃ではない。

 

 霊眼で、黒い糸の結節点だけを正確に照準する。

 

「斬!」

 

 鋭い一閃。

 

 動物霊の首にきつく絡みついていた、一番太い黒い糸が、音もなくスッパリと切断された。

 

 動物霊が、苦しそうにキャンッと短く鳴いた。

 

 だが、その直後。

 

 赤く濁り切っていた狂暴な瞳の色が、一瞬だけ、本来の澄んだ獣の目へと戻った。

 

 空中で荒れ狂って飛び回っていたガラクタの一部が、コントロールを失ってバラバラと床に落ちる。

 

『よし。一つ切れたぞ』

 

 魔導書が確認する。

 

 二本目。

 

 胴体に食い込む糸。

 

「斬!」

 

 三本目。

 

 尻尾を縛る糸。

 

「斬!」

 

 健司は、飛んでくる木片や器を最小限の動きで躱しながら、次々と黒い縛りだけを的確に斬り捨てていった。

 

 因果の鎖を断たれた動物霊は、暴れる強制的な力を失い、徐々にその動きを鈍らせていく。

 

 最後の一本を斬り落とすと、動物霊はフワリと納戸の床に降り立った。

 

 小さな犬とも、狐ともつかない、半透明の愛らしい姿。

 

 もう、その目に赤い濁りはない。

 

 動物霊は、ブルブルッと身体を震わせると、健司の顔をじっと見上げた。

 

「……もう大丈夫だ。危ないから、少し下がってろ」

 

 健司が優しく声をかけると、動物霊は小さく「クゥ」と鳴いて、部屋の隅の安全な場所へちょこんと丸まった。

 

 クロノスのメンバーが、その劇的な変化に驚愕する。

 

「動物霊の様子が、一気に変わりました! さっきまで物を飛ばして暴れていた何かが、明らかに大人しくなっています!」

 

 黒瀬が実況する。

 

「映像だと薄い光の影しか映ってませんが、物が落ちたタイミングとKさんの動きは全部完璧に撮れてます!」

 

「今の……Kさん、普通にあの動物の霊を助けたんですよね……?」

 

 春日井が信じられないものを見るような目になる。

 

 だが、動物霊が完全に解放されたことで、防衛システムを破られた『黒い石』の呪物本体が、最後の異常な反応を示した。

 

 納戸の奥の木箱の上で、黒い石がブブブブッ! と低く不気味な音を立てて激しく震え始めた。

 

 建物全体に張り巡らされていた黒い糸が、一斉に石の内部へと引き戻されていく。

 

 廊下の奥から、先ほどの割烹着の女性の幽霊が、苦しそうな悲鳴を上げた。

 

『やめて……っ! また、奥に引っ張られる……!』

 

「まだ終わってないぞ!」

 

 健司が再び構えを取る。

 

『石の本体を壊せ』

 

 魔導書が指示を出す。

 

『だが、ただ物理的にハンマーで砕くだけでは足りん。中に複雑に組み込まれた、霊的縛りの術式の構造ごと、概念から断ち切れ』

 

(俺の斬撃で、いけるか?)

 

『いける。対象はただの黒い石という物質ではない。“石を核にして組まれた、霊的束縛の構造そのもの”だ』

 

 健司は、震える黒い石を霊眼で深く透視した。

 

 石の内部に、まるで基盤の回路のような、歪で複雑な呪術の紋様が浮かび上がっている。

 

 ただのその辺の石ではない。

 

 明確な悪意を持って作り出された、強力な呪具だ。

 

 そして、この術式の気配の『臭い』。

 

 先日、ヤタガラスの初心者用異界で遭遇した、あの子鬼親分を狂わせていた『異常誘導の黒い石』と、極めて近い。

 

 健司は、この時点でハッキリと背筋が凍るような嫌な予感を覚えた。

 

(これ……前にも、似たような石を見た気がするぞ……)

 

『今は余計な推測をするな。まず壊せ』

 

 黒い石が、自壊をも辞さない最後の巨大な抵抗に出た。

 

 納戸全体に残っていたすべての物品が、凄まじい干渉圧で一斉に宙に浮き上がる。

 

 壁際の古い重い箪笥が、ミシミシと不気味な音を立てて浮上し、天井の板がメリメリと剥がれ落ちる。

 

 そして、部屋の隅に立てかけられていた姿見の大きな古い鏡が、クロノスの三人がいる廊下の方へ向かって、弾丸のような速度で飛んでいった。

 

「ひっ……!」

 

 春日井が悲鳴を上げて座り込む。

 

「Kさん!!」

 

 黒瀬が絶叫する。

 

「下がってろ!!」

 

 健司は、瞬時に三人の前に強固な結界を張った。

 

 ガシャァァァァンッ!!

 

 鏡は、見えない結界の壁に激突し、粉々に砕け散って破片が廊下に降り注いだ。

 

 健司は、その隙に空中に展開した結界足場を強く蹴り、一気に黒い石の目前へと肉薄した。

 

 石の周囲には、防衛機能として黒い糸がウニの棘のように全方位に鋭く展開している。

 

 触れれば、こちらの魂まで霊的に引っ張られかねない呪いの針だ。

 

 健司は、霊眼でその棘の隙間にある『核への道筋』を正確に見極めた。

 

 黒い石という物質そのものを物理的に斬るのではない。

 

 石の内部を中心に複雑に結ばれた、すべての束縛の因果の『結び目』。

 

 そこへ向けて、右手を振り上げる。

 

「対象指定」

 

『霊体束縛。呪物核。因果固定。……まとめて断て、猿』

 

 魔導書の声と重なるように。

 

「斬!!」

 

 不可視の限定斬撃が、石の中心へ向けて放たれた。

 

 一瞬、黒い石の周囲に張り巡らされていた無数の黒い糸が、ショートした回路のように強烈な光の線となって浮かび上がった。

 

 次の瞬間。

 

 パキンッ。

 

 極めて硬質な、乾いた破裂音が響いた。

 

 木箱の上の黒い石が、真っ二つに綺麗に割れた。

 

 それと同時に、旧・鳴沢荘という建物全体に網の目のように広がっていた真っ黒な糸が、一斉にパラパラと塵のように千切れ飛び、空間へと溶けて消え去った。

 

 納戸に満ちていた、あの息の詰まるような冷気と圧迫感が、嘘のようにスーッと消えていく。

 

 空中に浮遊していた古い箪笥や無数のガラクタが、重力を取り戻してドシャァッ! と乱雑に床へ落ちた。

 

 廊下の奥から、割烹着の女性の幽霊の、深い安堵の声が聞こえてきた。

 

『あ……身体が、すごく軽い……』

 

 納戸の隅にいた動物霊も、健司を見上げて、感謝を伝えるように「クゥン」と小さく鳴いて頭を下げる仕草を見せた。

 

 健司は、大きく息を吐き出して構えを解いた。

 

「……終わった……かな」

 

『呪物の中核は完全に壊れた。空間の縛りも全て解けた。猿にしては、文句のない上出来な処理だ』

 

(お、素直に褒めてくれた?)

 

『気のせいだ。耳鼻科に行け』

 

 静まり返った納戸と廊下。

 

 クロノスの三人は、目の前で起きたあまりにも非現実的で圧倒的な現象の連続に、しばらくの間、彫像のように固まっていた。

 

 そして。

 

 黒瀬が、沈黙を破って腹の底から歓喜の絶叫を上げた。

 

「すっ……すごい、信じられない特大の映像が撮れましたあああああ!!!」

 

「いや、そこ!?」

 

 健司がズッコケる。

 

「いや、もちろん皆さんが無事で本当に良かったです! でも、今の、完全にオカルトや心霊ロケの範囲をぶっちぎって超えてましたよ! Kさん、宙に浮く物が飛び交う中で、見えない壁を張って鏡を粉砕して、空中を足場にして跳んで、最後に見えない何かを斬ってましたよね!?」

 

 黒瀬が興奮で早口になる。

 

「カメラはかなり激しく揺れてますが……物が浮いた瞬間、Kさんの高速移動、鏡が見えない壁にぶつかって空中で割れたところ、そして謎の黒い石がパキンと割れた決定的瞬間……全部、最高画質で撮れています」

 

 真鍋が、モニターの録画データを確認しながら震える声で言う。

 

「これ、本当にYouTubeで公開して大丈夫なんですか……?」

 

 春日井が、現実離れしすぎた映像に不安を覚える。

 

「いや、映像としては凄すぎるんですけど、凄すぎて逆に『ヤラセだろ』って怪しまれませんか?」

 

「たぶん、百パーセント怪しまれて炎上すると思います」

 

 健司が断言した。

 

『あまりにも現実離れした本物すぎる事象は、大衆の目にはかえって安っぽい作り物に見えるものだ。安心しろ、猿。愚かな人間は、自分の理解できる常識の枠に収まらないものを、すべて“CGだ”と言って片付ける』

 

 魔導書が皮肉っぽく嗤う。

 

(それ、本当に安心していいことなのか?)

 

 廊下の奥から、あの割烹着の女性の霊が、納戸の入り口まで静かにやってきた。

 

 もう、顔を覆って泣いてはいない。

 

 その半透明の姿は、縛りが解けたためか、少しずつ空気へ溶けるように薄くなり始めている。

 

『ありがとう。……これで、やっとこの場所から出られるわ』

 

「もう、ここに縛り付けられている嫌な感じはないんですね?」

 

 健司が優しく尋ねる。

 

『ええ。これからどこへ行くのかは自分でも分からないけど……少なくとも、あそこから強引に引っ張られるような、息苦しい感覚はもう完全にないわ』

 

「それは、本当によかったです」

 

 動物霊も、トコトコと廊下へ出てきて、女性霊の足元に擦り寄った。

 

 小さな犬のような、狐のような、不思議な霊。

 

 女性霊がそれを見て、少しだけ微笑んだ。

 

『この子も、ずっとあの石の力に縛られて、無理やり番犬をやらされていたのね。……さっきは暴れて怖がらせてごめんなさいって、言ってるみたい』

 

「こっちこそ、斬って怪我させなくてよかったよ」

 

 クロノスのカメラには、霊眼を持たない彼らに幽霊たちのハッキリとした姿は映っていない。

 

 だが、部屋の重苦しい空気が一気に清浄なものに変わったこと。

 

 舞い上がった埃が、浄化されたようにキラキラと光ったこと。

 

 そして、廊下の奥から、窓もないのにフワリと柔らかい風が吹いて通り抜けたこと。

 

 それは、カメラの映像と音声にも、確かに記録されていた。

 

 春日井が、少しだけ潤んだ目で小さく呟いた。

 

「……心霊現象って、怖いだけじゃないんですね。こういう、悲しい理由のものもあるんだ」

 

「前回もそうでしたけど、幽霊や霊的な存在が、全部が全部、人間に害をなす悪いものだとは限らないみたいです」

 

 健司が、静かに言った。

 

「本当に悪いのは、そういう存在を無理やり縛り付けて、自分たちの都合のいいように利用する生きた人間の側です」

 

 黒瀬は、真面目な顔で深く頷いた。

 

「……この動画、絶対に、ただ視聴者を怖がらせるだけの安っぽい編集にはしません。彼らがここに縛られていた事実を、ちゃんと伝えます」

 

「ただ……」

 

 真鍋が、カメラのプレビュー画面を見ながら申し訳なさそうに言った。

 

「後半のKさんの無双バトル部分は、どう頑張って編集しても、派手なアクション映画みたいになっちゃいますね」

 

「そこは、できるだけ控えめに、カット多めでお願いします」

 

「努力はします。お約束はできませんが」

 

 健司は、公開後の自分のネットでの扱われ方に、激しい不安を覚えた。

 

 健司は、木箱の上で二つに割れた『黒い石』の破片を、直接素手で触れないように小さな結界で包み込んだ。

 

 持ち帰り用の呪物封印袋は、事前に三枝から「何か怪しいものがあれば回収してください」と渡されていた簡易キットを使用する。

 

 クロノスのメンバーが、その様子を見て驚く。

 

「Kさん、その割れた石、回収して持って帰るんですか?」

 

 黒瀬が尋ねる。

 

「これは、極めて危険な呪物です。このまま放置して、誰かが持ち帰ったりしたら大変なことになりますから」

 

 健司が袋のチャックを厳重に閉めながら答える。

 

「やっぱり、ただの石じゃなかったんですね……」

 

 春日井が身震いする。

 

「はい。自然の石ではありません。誰かが意図的に、この場所に置いた可能性が高いです」

 

「誰かが……」

 

「その辺りの生々しい話は、動画の編集では絶対に伏せてください。中途半端に真似をする人間が出ると危険なので」

 

 黒瀬は真剣な顔で頷いた。

 

「分かりました。呪物の詳細な形や推測は出しません。映像でも、石の表面の模様には強いモザイクをかけます」

 

『その判断は正しい。猿、少しは周囲の仕事仲間に恵まれているようだな』

 

 魔導書が珍しくクロノスを評価する。

 

(クロノスの人たち、撮れ高にはめちゃくちゃ貪欲だけど、変なところで倫理観がちゃんとしてるよな)

 

 現場からの撤収。

 

 外に出ると、いつの間にか夜明けが近かった。

 

 旧・鳴沢荘を振り返ると、霊眼越しに見えていたあの建物を覆う『黒い霧』は、かなり薄く霧散していた。

 

 もちろん、建物はまだ古い廃墟のままだし、残留思念が完全にゼロになったわけではない。

 

 だが、先ほどまでの「何かに縛られている」という息苦しい感覚は、完全に消え去っていた。

 

 健司は「霊眼」の呪文を解除した。

 

 急に目の奥にズキズキとした痛みが走り、視界がチカチカする。

 

「……霊眼、やっぱり長く使うと目が疲れるな……」

 

『霊体という非物質と、因果の痕跡という概念を、脳内で同時に処理して視覚情報に変換しているからな。慣れるまでは脳の視覚野が激しく疲労する』

 

「また、高い目薬が必要になりそうだ」

 

『猿の目にいくら高級な目薬を差しても、知性は一ミリも増えんぞ』

 

「目の疲れの話をしてるんだよ」

 

 クロノスのメンバーは、建物の前で締めのエンディング撮影を行っていた。

 

「今回、我々クロノスは、この旧・鳴沢荘で、これまでの心霊ロケとは明らかに次元の違う、強烈な現象を目撃しました」

 

 黒瀬がカメラに向かって語りかける。

 

「物体の異常な浮遊、落下、見えない防護壁のようなもの、そして……予知者Kさんによる、目に見えない“何か”への物理的な介入。安全上の理由で詳細は伏せる部分もありますが……この場所に縛り付けられ、利用されていた存在は、少なくとも解放され、救われたように感じています」

 

「怖かったですけど……でも、最後は不思議と、少しだけ心が暖かくなるような、救われた感じがしました」

 

 春日井が素直な感想を述べる。

 

「映像は我々が持ち帰り、慎重に確認と編集を行います。危険な情報や、模倣犯罪につながる部分は伏せた上で、皆さんにこの驚愕の記録を公開します」

 

 真鍋が締める。

 

「Kさん、最後に視聴者へメッセージをお願いします」

 

 健司は、カメラに向かって静かに言った。

 

「心霊スポットに行く場合、面白半分で現場の物を持ち帰ったり、怪しいものに触れたりしないでください。何かが残っている場所には、必ずそれなりの理由があります。……不用意な好奇心は、身を滅ぼします」

 

 後日。

 

 クロノスのチャンネルで、ついに問題の動画が公開された。

 

 タイトルは、

 

【心霊ロケ中断寸前】予知者K、ポルターガイスト現象の中で謎の呪物を破壊!? 旧民宿で起きた異常現象を完全収録!

 

 案の定、公開直後からコメント欄は荒れに荒れた。

 

『さすがにやりすぎ。CGのクオリティが高すぎて逆に萎える』

 

『物の浮き方が不自然すぎて、完全にワイヤーアクションの作り物』

 

『Kさんの動きがバトル漫画の主人公で草。心霊動画で空中機動するなよw』

 

『いや、鏡が見えない壁に当たって空中で割れたの、一体何事!?』

 

『カメラ揺れまくってて、パニック感が逆にリアルで怖い』

 

『編集技術上がりすぎだろクロノス』

 

『前回の美人モデル幽霊回から、急にジャンルがホラーアクションに変わったな』

 

『CGならCGで、ハリウッド並みのクオリティ高すぎるだろ……』

 

『これ……もしかして、全部ガチの本物じゃないか?』

 

「やりすぎだ」「CGを本物っぽく出すな」というオカルト否定派の批判も出たが、クロノスは概要欄で毅然とした態度を貫いていた。

 

『映像には、安全上ぼかした部分がありますが、現場で起きた現象を可能な限り“そのまま”記録しました。

 

 危険な場所への無断侵入や模倣行為は、絶対におやめください』

 

 しかし、一部の映像に詳しい視聴者は、決定的な違和感に気づき始めていた。

 

「CGなら、なぜ鏡の割れ方と音の反響が、現場の環境音声とあそこまで完璧に合いすぎている?」

 

「飛んだ物の影の動きが、複数のカメラの光源と完全に一致してる。これ、合成じゃないぞ」

 

 健司は、自宅でそのコメント欄を見ながら、深く頭を抱えていた。

 

「……完全に、バトル漫画の主人公って言われてる……」

 

『よかったな、猿。心霊系、オカルト系に続いて、ついにアクション系という新しいジャンルを開拓したぞ』

 

 魔導書が嬉しそうに言う。

 

「そんなジャンル、一ミリも増やしたくなかったよ!」

 

 その数日後。

 

 ヤタガラスの施設に呼び出された健司は、三枝に回収した黒い石の破片を引き渡していた。

 

 三枝は、分厚いファイルの解析結果の一部を、険しい顔で健司に説明した。

 

「佐藤さん。旧・鳴沢荘で回収された『黒い石』の破片について、ヤタガラスの技術班からの初期解析が出ました」

 

「やっぱり、ただの不気味な呪物じゃなかったんですか?」

 

「はい。霊体への強制束縛、特定の場への術式の固定、低級霊体の遠隔制御、そして侵入者に対する簡易的な防衛反応。……極めて高度で複雑な、複数の機能が組み合わされて組み込まれていました」

 

「……かなり悪質で、手間がかかってますね」

 

「さらに重要な事実があります」

 

 三枝が、モニターに一つの比較画像を表示した。

 

「この石の干渉波形が、以前、あなたが遭遇した『ダンジョン異常』で回収された黒い石と、極めて近いことが判明しました」

 

 健司の表情が、サッと色を失った。

 

「ダンジョン異常って……あの、子鬼親分が大量発生した時の?」

 

「はい。第六層周辺の初心者区画で発生した、異常誘導、魔物の行動パターンの変化、そして空間の場の歪み。その中心にあった『核』の黒い石と、材質、表面に刻まれた紋様の規則性、そして干渉波形が、酷似しています」

 

「同じものなんですか?」

 

「完全な一致ではありません。今回のものは、異界のダンジョン内ではなく、現世の霊的存在を対象にチューニングされた『実験用』と見られます」

 

「実験用……」

 

「ええ。恐らく、同一人物、または同一の組織が、異なる環境下で同系統の呪物をテストしているのです。前回は、異界のダンジョンと魔物。今回は、現世の廃民宿と霊体を対象に」

 

 健司は、背筋を這い上がるような強烈な悪寒を感じた。

 

「じゃあ、誰かが意図的に、目的を持ってあちこちに置いて回ってるってことですか」

 

「その可能性が、現段階では最も高いです」

 

 魔導書が、脳内で珍しく重く、低い声で言った。

 

『猿。……これは、ただの偶然の悪戯や、遊びではなくなってきたな』

 

(分かってるよ)

 

 三枝は、さらに厳しい顔で続ける。

 

「現在、ヤタガラスのデータベースで、過去の類似案件を洗い直しています。不自然な心霊スポットの形成、ダンジョン周辺の異常、怪異の突発的な発生地点、能力者の原因不明の暴走地点。……黒い石、黒い札、黒い粉末など、類似の呪的媒体が現場で確認された記録を、すべて再照合します」

 

「それ、もし事実なら、かなり大きな規模の話になりませんか?」

 

「まだ断定はできません。ただの模倣犯の可能性もあります。しかし、この黒い石を用いた悪意ある実験が、組織的に複数箇所で行われているのだとすれば、我々ヤタガラスとして絶対に放置はできません」

 

「……また、とんでもなく面倒なことになってきたな」

 

 健司が天井を仰ぐ。

 

『安心しろ、猿。面倒事の方が、自ら進んでお前を避けて通ってくれたことなど、これまでただの一度もない』

 

「一ミリも安心できる要素がないんだけど」

 

 健司は、厳重な封印容器の中に収められた、黒い石の破片を見つめた。

 

 黒く、冷たい石。

 

 完全に真っ二つに割れているのに、まだどこかで、微かな悪意の脈動を打っているように見える。

 

 元モデルの白石玲奈の幽霊は、自分の強い意思で現世に残り、人に「見られること」を望んでいた。

 

 だが、今回の民宿の霊たちは全く違った。

 

 見知らぬ誰かの悪意によって、無理やりその場所に縛り付けられ、理不尽に利用され、苦しんでいたのだ。

 

 幽霊にも、怪異にも、それぞれの存在の残り方がある。

 

 そして、それを外側から暴力的に歪め、利用しようとする者がいる。

 

『猿。次に同じ臭いの石を見つけたら、一秒も迷うな。見つけ次第、すぐに壊せ』

 

 魔導書が、冷酷なまでに鋭く命じる。

 

「言われなくても、そうするよ」

 

 健司は、心の中で静かに同意した。

 

 三枝が、端末を閉じて静かに告げた。

 

「佐藤さん。今回の旧・鳴沢荘の件は、ただの心霊処理ではなく、『黒い石関連案件』としてヤタガラス内で再分類し、継続調査とします」

 

「名前からして、もう関わりたくない嫌な響きなんですけど」

 

「あくまで仮称です」

 

『よかったな、猿。今度お前が対峙する敵は、随分と石集めが趣味らしいぞ』

 

「全然よくないっての」

 

 心霊ロケは、撮れ高十分のバズる動画として終わった。

 

 視聴者の多くは、あまりにも派手すぎる映像を「クオリティの高いCGだ」と笑って消費した。

 

 だが、カメラの向こう側で本当に割れた黒い石の破片は、ヤタガラスの厳重な封印容器の中で、今も静かに沈黙している。

 

 ダンジョンの魔物を歪めた黒い石。

 

 廃民宿で霊を縛り付けた黒い石。

 

 場所も、対象とするものも違う。

 

 けれど、そこに刻まれた『悪意の形』は、ひどくよく似ていた。

 

 そして健司はまだ知らない。

 

 その黒い石を置いた何者かが、これを一度きりの偶然ではなく、繰り返し行われる実験の一つとして扱っていることを。

 




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