俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第49話 猿と黒い石と止まらない手

 深夜の駅前。

 

 終電がとうに過ぎた薄暗いロータリーを、小野寺拓海は重い足取りで歩いていた。

 

 三十二歳、中規模の物流会社勤務。

 

 性格は事勿れ主義で、揉め事を避けるタイプ。日々の業務や人間関係に鬱憤は溜まっているが、それを他人にぶつけることはない。

 

 今日も理不尽な急ぎの仕事と上司の小言を押し付けられ、一人残業を終えた帰りだった。

 

 ふと、街灯の下のタイル張りの歩道に、ポツンと『黒い石』が落ちているのが見えた。

 

「何だ、これ……」

 

 小野寺は、疲れ切った頭で立ち止まった。

 

 直径数センチ程度の、丸みを帯びた黒い石。ガラス片のようにも見えるが、街灯の光を受けても不思議なほど反射しない。マットで、不気味なほど真っ黒な石。

 

 小野寺は、何気なく手を伸ばしてそれを拾い上げた。

 

 夜気は冷たいのに、石は妙に生暖かかった。そして、手のひらに吸い付くような奇妙なフィット感がある。

 

 だが、疲労で思考が鈍っていた小野寺は深く考えず、「誰かの落とした装飾品か何かだろう」とそのままスーツのポケットに突っ込み、家路を急いだ。

 

 自宅近くの横断歩道。

 

 小野寺が渡ろうとした瞬間、歩行者信号が赤に変わった。

 

「あと少しだったのに……。もう一回、すぐに青にならないかな……」

 

 心の中で、ほんの小さな愚痴をこぼす。

 

 その瞬間。

 

 ポケットの中に入れた右手が、勝手にピクッと小さく動いた。

 

 まるで、見えないスイッチをカチッと押し込んだような、機械的な指の曲がり方。

 

 直後。

 

 交差点の信号機が一瞬だけチカッと消灯し、数秒後、なぜか歩行者側の信号だけが不自然に『青』へと変わった。

 

「……あれ?」

 

 小野寺は首を傾げたが、信号機の故障だろうと都合よく解釈して横断歩道を渡った。

 

 アパートの手前、自動販売機でいつもの缶コーヒーを買う。

 

 取り出し口から、同じコーヒーがガコン、ガコンと二本立て続けに出てきた。

 

「……ラッキー?」

 

 小野寺は少しだけ笑い、二本とも持ち帰った。

 

 翌朝。

 

 小野寺は、昨夜ポケットから出して机の上に置いたはずの黒い石を、なぜか『右手で固く握りしめた状態』で目を覚ました。

 

「……あれ?」

 

 寝ぼけて、無意識に拾ってしまったのだろう。

 

 小野寺は石を再び机に置き、着替えを済ませて玄関へ向かった。

 

 だが、靴を履こうとした時、右手に不気味な違和感を覚える。

 

 また、あの黒い石を握っている。自分で持ち歩いてきた記憶は一切ない。

 

 小野寺は気味が悪くなり、今度は石を引き出しの奥にしまい込んだ。

 

 しかし。

 

 出勤途中の満員電車の中で、ふと右手を確認すると、いつの間にかまたあの石が手のひらにある。

 

 しかも、指を開いて石を落とそうとしても、右手が勝手に力強く石を握り込み、絶対に離そうとしない。

 

 左手で右の指をこじ開けようとしても、異常な力で固く閉じたままだ。

 

「離せよ……何なんだよ、これ……!」

 

 小野寺は、満員電車の中で冷や汗を流し、本気で怯え始めた。

 

 右手の掌に、黒い石が強力な磁石のように貼り付いている。

 

 そして、その石の周囲から、髪の毛ほど細い『黒い線』が、まるで刺青のように皮膚の下を這って手首の方へと伸び始めているのが見えた。

 

 小野寺は、急いでカバンから手袋を取り出して右手に嵌め、黒い石の異常を隠して出勤した。

 

 職場。

 

 今日は朝から、古い複合機が何度も紙詰まりを起こしていた。同僚たちが困り果てている。

 

 小野寺も急ぎのコピーができず、苛立って心の中で毒づいた。

 

「もう、こんなポンコツ、完全に壊れて新しいのに交換になればいいのに……」

 

 その瞬間。

 

 手袋の中の右手の人差し指が、勝手にピクリと動いた。

 

 バチンッ!!

 

 複合機の内部から激しい火花が散り、白煙を上げて完全にショートした。

 

「うわっ!? 何だ!?」

 

 同僚が悲鳴を上げる。

 

 小野寺は青ざめた。自分が思った直後に壊れた。

 

 しかし、偶然だ。偶然に決まっている。

 

 自分のデスクに戻り、パソコンで作業をするが、動作が重くてフリーズ気味だ。

 

「早く動けよ……!」

 

 右手が、机の下で小さく力強く握り込まれる。

 

 画面が一瞬だけ不吉に暗転し、その後、処理が異常な速度で完了した。

 

 小野寺は、自分の身に起きている不可解な便利さと、得体の知れない恐怖の間で激しく揺れていた。

 

 最初は、明確な願望にだけ反応していた黒い石。

 

 だが、時間が経つにつれて、石は小野寺という宿主の精神を『学習』し始めた。

 

 言葉になる前の、瞬間的な無意識の感情でも、勝手に作動するようになっていく。

 

 面倒だと思う。邪魔だと感じる。苦手な人が近づく。大きな音に驚く。怒られることを恐れる。

 

 その度に右手が先に動き、石が周囲の環境を物理的に操作して、結果を強引に作り出していく。

 

 午後。

 

 小野寺の部署で、他部署との連絡不足による小さなミスが発覚した。

 

 小野寺の直接の責任ではないが、短気な課長が小野寺の机の前で激しく叱責を始めた。

 

「何度同じことを言わせるんだ! こんな簡単な確認もできないのか!」

 

 小野寺は俯く。本心では反論したいが、いつものように我慢して嵐が過ぎ去るのを待つ。

 

 その時、課長が机をドンッと強く叩いた。

 

 小野寺は、ビクッとして反射的に強く思った。

 

「もう……黙ってくれ……!」

 

 右手が、勝手に課長へ向かって大きく開かれた。

 

 ドガンッ!!

 

 目に見えない強烈な衝撃波が、課長を真正面から吹き飛ばした。

 

 課長は数メートル後方へ飛び、金属製の書類棚に激突して崩れ落ちた。

 

「キャアアアアッ!?」

 

 周囲の女子社員が悲鳴を上げる。

 

 小野寺自身が一番驚愕していた。

 

「違う……俺じゃない……!」

 

 同僚の一人が、小野寺を止めようと近づいてくる。

 

 小野寺は、パニックと恐怖で思った。

 

「来るな!」

 

 右手が、真横へ大きく払われる。

 

 机、椅子、重いモニター、書類の山が一斉に宙に浮き上がり、同僚たちとの間を遮るように激しく叩きつけられた。

 

 オフィスは完全に地獄絵図と化した。

 

 幸い、重傷者はいない。しかし、完全な異常事件だ。警備員が呼ばれる。

 

 小野寺は、自分が人を傷つけてしまった事実にパニックになり、職場から一目散に逃げ出した。

 

「人がいない場所に行かないと……また、誰かを怪我させる……!」

 

 小野寺は複合オフィスの地下駐車場へと逃げ込んだ。

 

 だが、その恐怖もまた、黒い石には格好の『命令入力』として利用される。

 

 追いかけてきた警備員に対し、「近づかないでくれ」と思った瞬間、右手が動く。

 

 ガァンッ!

 

 駐車場の分厚い防火扉が、勢いよく閉まる。

 

 コンクリートの車止めや鉄製の案内看板が次々と宙に浮き、警備員を威嚇するように床へ深々と突き刺さった。

 

 警察と消防へ通報が行く。

 

 監視カメラには、小野寺の右手が動くたびに、ポルターガイストのように物が動く映像がハッキリと残っていた。

 

 通常のテロや事件ではないと判断され、ヤタガラスのネットワークへと情報が緊急転送された。

 

 健司は自宅で、先日回収された黒い石関連案件についての追加資料を読んでいる最中だった。

 

 そこへ、三枝から緊急連絡の着信が入った。

 

「佐藤さん。黒い石関連と見られる、新たな異常事態が発生しました」

 

 三枝の無機質な声。

 

「もう見つかったんですか!?」

 

「正確には、石を所持していると思われる一般人が、現在暴走状態にあります」

 

「一般人が?」

 

 三枝から、現場の監視カメラ映像が健司の端末へ転送されてくる。

 

 スーツ姿の小野寺の右手が動く。少し遅れて、周囲の机や椅子が吹き飛ぶ。右手の中には、小さな黒い物体が握られている。

 

「……黒い石だ」

 

 健司が呟く。

 

『ほう。今度は生きた人間を操る実験か』

 

 魔導書が脳内で言う。

 

「本人が突然、能力者になったってことじゃないのか?」

 

『違う。術式の動きが完全に外部依存だ。あの石が、人間の念動力の真似事をしているだけだな』

 

「人間の真似?」

 

『あの石は、宿主の感情の揺れを読み取り、その願望を命令へ変換しているのだ。宿主本人には何の制御技術も意思もない。ただ、石が右手を操作盤として強引に使っているだけだ』

 

「じゃあ、本人は加害者じゃなくて、完全に被害者じゃないか」

 

「その可能性が極めて高いです」

 

 通信越しの三枝が同意する。

 

「現時点では、対象を能力犯罪者として制圧するのではなく、呪物による被害者として保護・救助する方針で動きます」

 

 ヤタガラス側も、小野寺を倒すのではなく救う方針だ。

 

 健司は猿面ではなく、ヤタガラス側の通常任務用の目立たない装備で現場へ急行した。

 

 予知者Kとして公に出る案件ではない。

 

 駅前複合ビルの周囲は、すでに警察とヤタガラスによって厳重に封鎖されていた。

 

 一般人は避難済みだ。

 

 三枝と現場の制圧班が、地下への入り口で待機している。

 

「対象は、地下二階の駐車場エリアの奥にいます」

 

 三枝が状況を共有する。

 

「周辺の駐車車両、設備、消火器などを遠隔で動かし、バリケードのようにしています」

 

「本人の意識ははっきりしてるんですか?」

 

 健司が聞く。

 

「会話は可能です。ただし、我々が不用意に近づくと、本人の『恐怖』に過剰に反応して、ポルターガイスト現象が強くなります」

 

「説得しようとして近づくと、相手が怖がった分だけ、石からの攻撃が強くなるってことですか」

 

「はい」

 

『厄介だな』

 

 魔導書が言う。

 

『本人が善良で小市民であればあるほど、人を傷つけることへの恐怖が増大する。その恐怖という感情を、石が“自己防衛命令”として過剰に出力しているのだ』

 

「完全に悪循環じゃないか」

 

「遠距離からの麻酔銃などによる無力化も検討しました」

 

 三枝が言う。

 

「ですが、石と対象者の呪的な接続状態が不明です。強引に石を破壊するか、対象の意識を刈り取った場合、脳や神経に致命的な反動が返る危険性があります」

 

「だから、因果の繋がりを見える俺が呼ばれたんですね」

 

「はい。佐藤さんには霊眼で接続状態を確認し、必要であれば……対象を傷つけずに、因果の接続のみをピンポイントで切断していただきたいのです」

 

「……言うのは簡単ですね」

 

 健司がため息をつく。

 

『安心しろ、猿。お前は昔から、そういう面倒で難しいことを、一番簡単そうにやらされる担当だ』

 

「だから安心できないんだよ」

 

 健司は一人で、薄暗い地下駐車場へと足を踏み入れた。

 

 ヤタガラスの隊員は、小野寺を過剰に刺激しないため、入口付近で待機している。

 

 非常灯の赤い光だけが点灯している空間。

 

 何台もの車のセキュリティアラームが、不規則に鳴り響いている。

 

 駐車場の奥。

 

 小野寺が、太いコンクリート柱の陰で座り込んでいる。

 

 右手を左手で必死に押さえつけ、ガタガタと震えていた。

 

「……来ないでください……!」

 

 小野寺が、健司の姿を見て悲鳴を上げる。

 

「あなたを捕まえに来たんじゃありません。その手に張り付いた石を、外しに来ました」

 

 健司がゆっくりと両手を挙げて近づく。

 

「駄目です。近づいたら、また俺の手が勝手に……!」

 

 小野寺が強烈に怯えた瞬間。

 

 右手が、健司の方へ向く。

 

 駐車場のコンクリート製の車止めが、メリメリと床から剥がれ、複数個同時に宙に浮き上がった。

 

 そして、弾丸のような速度で健司へ向かって飛来する。

 

 健司は咄嗟に結界を展開して受け止める。

 

 ガガガガッ!

 

 重い車止めが、見えない壁に激突して粉々に砕け散る。

 

「ごめんなさい! 俺じゃないんです! 本当に、俺はこんなことしたくないんです!」

 

 小野寺が泣き叫ぶ。

 

「分かってます! あなたは何もしなくていい! 無理に右手を止めようとしなくてもいいです!」

 

 健司が叫び返す。

 

「でも……!」

 

「あなたの『止めなきゃ』って焦る恐怖まで、石に攻撃のエネルギーとして使われてるんです!」

 

 健司は、飛来する破片を結界で弾きながら、小声で呪文を唱えた。

 

「我が眼、霊なるモノ達を視る力、霊眼」

 

 視界が切り替わる。

 

 小野寺の右手が、ドス黒い靄に包まれて視えた。

 

 掌に張り付いた黒い石。

 

 そこから伸びる無数の黒い糸が、指、手首、肩、胸部、そして頭部へと深く繋がっている。

 

 ただし、物理的な肉体に根を張っているわけではない。

 

 人間の神経回路と感情の流れにピッタリと重なるように、呪的な接続が幾重にも作られているのだ。

 

『見えるか、猿』

 

(ああ。前回の廃民宿の動物霊より、ずっと接続が複雑だ)

 

『当然だ。生きた人間は、単純な霊体よりも感情も神経系も遥かに複雑だからな』

 

 魔導書が分析を始める。

 

『大きく分けて、三種類の接続線がある。一つ目、“感情読取の糸”。宿主の恐怖、怒り、苛立ちを常に石へ送信している。二つ目、“運動支配の糸”。宿主の右手を勝手に動かし、石の術式を起動させる物理的なトリガー。そして三つ目、“肉体固定の糸”。石を掌から絶対に離れないように接着している』

 

(石を壊す前に、それを順番に切っていけばいいんだな)

 

『少なくとも、感情読取と運動支配を先に切れ。その後で固定を断ち、石を引き剥がす』

 

(順番を間違えるとどうなる?)

 

『感情読取を残したまま石を剥がせば、宿主の極限の恐怖を“最後の自爆命令”として出力する可能性がある。運動支配を残せば、切り離そうとした瞬間に右手ごと石が抵抗して暴れ、宿主の腕が千切れるぞ』

 

(怖いことをさらっと言うなよ……)

 

『腕を丸ごと斬れとは言っていない。見えない鎖だけを斬れ、猿。絶対に間違えるなよ』

 

(そこまで俺に信用ないのかよ!)

 

 健司が一歩近づくと、小野寺の右手が勝手に大きく開かれる。

 

 バンッ!

 

 周囲の車のドアが一斉に開き、車載工具、消火器、三角表示板、パイプなどの金属部品が次々と宙へ浮き上がる。

 

「来るな! 俺に近づくなあああ!!」

 

 空中の物体が、一斉に健司へ飛来する。

 

 健司は身体能力強化の出力を引き上げて駆け出した。

 

 結界で正面から来る消火器を弾き返し、横から迫る金属棒を手刀の斬撃で綺麗に切断する。

 

 車のボンネットの上に空中の結界足場を展開し、それを蹴って飛来物の上をアクロバティックに飛び越える。

 

「本人より、周りの飛んでくる物の方が危ない!」

 

 健司が毒づく。

 

『石の出力が上がっている。宿主の恐怖が強いほど、利用できる力も増幅するようだな』

 

 小野寺は必死に右手を左手で押さえつけようとする。

 

 だが、その行為自体が「止めなければならない」という焦燥を増し、右手がさらに激しく暴れ回る。

 

 駐車中の車が、エンジンもかかっていないのにタイヤを軋ませ、横滑りを始める。

 

 二トンの鉄の塊である無人の車が、健司へ向かって突進してくる。

 

 健司は正面から受け止めず、結界を斜めに展開した。

 

 車の進路を滑らせるように横へ逸らし、コンクリート柱への激突を避けながら安全なスペースへ流す。

 

 派手な戦闘だが、小野寺本人は一度も明確な攻撃の意思を持っていないのだ。

 

 健司は、攻撃を凌ぎながら小野寺へ呼びかけた。

 

「小野寺さん! あなたが悪いわけじゃない!」

 

「でも、俺が思ったことが……!」

 

「思うだけなら、誰でもやります! 腹の立つ相手に黙ってほしいとか、邪魔な物が消えてほしいとか、俺だって毎日普通に思います!」

 

「でも、俺は人を吹き飛ばした! 怪我をさせたんだ!」

 

「石が勝手に、一番乱暴で最低な方法で実行しただけです!」

 

「俺が、こんな石を拾わなければ……!」

 

「道端に危ないものを落とした奴が一番悪いんですよ! だから今は、自分を責めるのを止めてください!」

 

 小野寺が自分を責めるほど、石はその苦しみを吸い上げて凶暴化する。

 

 健司は、小野寺に完全な冷静さを求めない。

 

 そんなことは不可能だ。

 

 代わりに、一番安心できる言葉を投げた。

 

「俺が線を切るまで、何も止めようとしなくていいです!」

 

 健司が、結界の中で力強く言う。

 

「手が動いても、周りの物が飛んでも、俺が全部完璧に止めます。だから、自分の右手と戦わないでください」

 

 健司は、短期の未来視をフル回転させた。

 

 右手が次にどちらへ動くか。どの物体が飛んでくるか。数秒先の動きを完全に先読みする。

 

 飛んでくる消火器を紙一重で回避。

 

 結界足場を蹴って、一気に小野寺の目前へ接近する。

 

 霊眼の焦点を絞り、胸部から右手へ伸びる黒い糸に照準を合わせる。

 

『最初は感情読取だ。宿主の恐怖を石へ送っている通信線を斬れ』

 

「斬!」

 

 不可視の限定斬撃。

 

 小野寺の胸と右手の間に伸びていた、黒い糸だけがプツリと切れる。

 

 小野寺の身体には傷一つつかない。

 

 直後。

 

 黒い石の出力が、ガクンと一瞬落ちた。

 

 空中に浮いていた工具類が、バラバラと床へ落ちる。

 

 だが、右手はまだ動いている。

 

『一つ切れた。だが、石はそれまでに読み取った恐怖の命令を内部に保存している。油断するなよ』

 

「保存機能まであるのかよ!」

 

 黒い石が、小野寺の右手を強引に頭上へと持ち上げる。

 

「止まらない……! 手が、勝手に……!」

 

 右手が、ギリッと強く拳を握る。

 

 周囲の車体が一斉に嫌な音を立てて軋み始めた。

 

 見えない力で金属が圧迫され、ドアやボンネットが歪み始める。

 

 次に、握られた手が勢いよく開く。

 

 圧縮されていた金属部品が、爆発するように四方八方へ飛び散った。

 

 健司は咄嗟に、小野寺の周囲をドーム状の結界で包み込んだ。

 

 本人が放った破片から、本人を守るためだ。

 

 さらに自分の前にも二重の結界を展開する。

 

「自分で暴れさせておいて、宿主まで巻き込むのかよ!」

 

『道具に宿主を守る良心などを期待するな、猿』

 

 右手が、健司の方へ向く。

 

 今度は、駐車場の巨大な鉄製シャッターがメリメリと軋み、壁から強引に引き剥がされた。

 

 巨大なシャッターが、一枚の巨大な刃となって健司へ倒れ込んでくる。

 

 健司は正面から受け止めず、結界を斜めに展開して滑らせるように横へ逸らした。

 

 そのまま、倒れたシャッターの上を足場にして走り抜け、小野寺との距離を完全に詰める。

 

 霊眼で見る。

 

 黒い石から、小野寺の手首、肘、肩へと太く伸びる糸。

 

 右手を物理的に操作している因果だ。

 

『次は運動支配だ。右手を石の発動装置に変えている線を断て』

 

「腕じゃなくて、糸だけ……!」

 

『当たり前だ。貴様がわざわざ口に出すと、非常に不安になるな』

 

「うるさい!」

 

 小野寺の右手が、健司を弾き飛ばそうと強烈な目に見えない衝撃波を放つ。

 

 健司は結界でその衝撃を受け止めながら、その内側から極小の斬撃を放った。

 

「斬!」

 

 右手を動かしていた黒い糸が切断される。

 

 小野寺の右腕から、ふっと力が抜けた。

 

 まるで操り糸を切られた人形のように、腕が自然に下がる。

 

「……止まった……?」

 

 小野寺が呆然と呟く。

 

 だが、黒い石はまだ掌にピッタリと貼り付いている。

 

 指は開いたが、石自体が皮膚から離れない。

 

 黒い糸が掌へ深く食い込み、絡みついている。

 

 感情読取と運動支配を切られた黒い石が、異常な反応を起こした。

 

 小野寺という操作入力を失ったため、石は即座に『新しい宿主』を探し始めたのだ。

 

 掌から黒い石がゆっくりと浮き上がる。

 

 だが、完全には離れない。

 

 黒い糸が掌に絡みつき、肉体へ固定されている。

 

『猿、最後の固定を切れ。早くしろ』

 

「分かってる!」

 

 石の表面がピキリと割れ、黒い針のような糸が周囲へ向けてウニのように伸びる。

 

 その一本が、健司へ向かってシュルリと伸びてきた。

 

『どうやら、次の宿主に、都合よく目の前にいるお前を選んだようだぞ』

 

 魔導書が楽しそうだ。

 

「絶対に嫌だ!」

 

『安心しろ。猿の空っぽの脳を読めば、あまりの情報量の少なさに石も絶望してすぐに離れる』

 

「戦闘中に悪口を言うな!」

 

 健司は、小野寺の右手を結界で優しく固定し、石が暴れても掌へ食い込まないように保護した。

 

 霊眼で、石と皮膚の間にある黒い糸の『結び目』を見る。

 

 この糸は肉体の一部ではない。

 

「この石を手元へ固定しろ」という呪的な命令。

 

 健司は狙いを定める。

 

「斬!」

 

 固定の因果が切れる。

 

 黒い石が、小野寺の掌から勢いよく弾き出された。

 

 小野寺の右手には傷一つない。

 

 黒い線も薄れ始めている。

 

 だが、黒い石は床へ落ちず、空中に不気味に浮かんだ。

 

 内部に蓄えていた力で、自律的に動き始める。

 

 周囲の車両や設備が再びフワフワと浮き始めた。

 

 宿主を失った黒い石が、最後の暴走を始める。

 

 石が、駐車場全体の物体へ強引に干渉する。

 

 車の警報が一斉に鳴り響く。

 

 天井の照明が次々と破裂。

 

 スプリンクラーが作動し、水が降り注ぐ。

 

 シャッター、標識、消火器、工具、無人の車両が、重力を失ったように次々と浮き上がる。

 

『宿主から切り離されたことで、残存出力を一気に吐き出して自爆するつもりだ』

 

「本人から完全に離れたなら、もう遠慮はいらないな」

 

 健司は小野寺を強固な結界で完全に包み込んだ。

 

「絶対に、ここから出ないでください!」

 

「は、はい!」

 

 黒い石が、健司へ向かって一直線に飛んでくる。

 

 周囲の物体も同時に襲いかかってくる。

 

 健司は空中機動を開始した。

 

 結界足場を連続で展開し、浮いた車の間を縫うようにアクロバティックに進む。

 

 飛んでくる金属片を斬り落とし、巨大な看板を結界で受け流す。

 

 短期未来視で、黒い石の直線の進路を読む。

 

 石は、健司の右手へ直接取り付こうとしている。

 

『猿、拾うなよ』

 

「拾うわけないだろ!」

 

 健司は石の正面へ回り込み、霊眼で内部の構造を深く透視した。

 

 今回の石には、前回の廃民宿の霊体束縛術式とは異なる構造がある。

 

 中心にあるのは、『感情入力を現実干渉へ変換する呪式核』。

 

「対象指定。……感情入力、運動変換、外部干渉」

 

『まとめて斬れ』

 

「斬!!」

 

 不可視の限定斬撃が、黒い石のど真ん中の中核を正確に貫いた。

 

 パキンッ!!

 

 黒い石が空中で真っ二つに割れる。

 

 同時に、浮いていた無数の車両や物体が、一斉にコントロールを失って落下を始めた。

 

 健司は地面へ落ちる直前に、広範囲に結界を広げた。

 

 落下してくる車両や重い設備を、見えないクッションで支え、ゆっくりと安全に床へ戻す。

 

 駐車場が、静まり返った。

 

 スプリンクラーの水音と、警報音だけが虚しく鳴り続けている。

 

「……終わった?」

 

『術式核は完全に壊れた。宿主との接続も消滅している』

 

「よかった……」

 

 健司は膝をついて安堵の息を吐いた。

 

『石に新しい宿主として選ばれなくて、残念だったな』

 

「残念なわけないだろ」

 

 健司が小野寺のもとへ戻ると、小野寺は自分の右手を見つめていた。

 

 指は、自分の意思で動く。

 

 握る。

 

 開く。

 

 震えてはいるが、完全に本人の手へ戻っている。

 

「動く……。俺の、手だ……」

 

「もう石は完全に切り離しました。あなたが何か考えても、周りの物が勝手に飛ぶことはありません」

 

 小野寺は安心すると同時に、職場で起きた異常な光景を思い出して顔を青ざめさせた。

 

「俺、人を……」

 

「死者はいません。怪我人も軽傷だと聞いています」

 

「でも、俺が……」

 

「あなたは石に利用されただけの被害者です。何もなかったことにはできませんが、最初から誰かを傷つけるつもりではなかったことは、監視カメラの映像にもちゃんと残っています」

 

 小野寺は、健司の言葉に泣き崩れた。

 

 健司は下手に励まさず、ただ黙ってそばに立っていた。

 

 ヤタガラスの医療班と保護班が駐車場へ入ってくる。

 

 三枝が小野寺へ近づき、事務的に説明を始める。

 

 能力犯罪者として逮捕するわけではないこと。

 

 呪物被害者として保護すること。

 

 身体と精神への影響を検査すること。

 

 事情聴取は必要だが、必要なら記憶処置の相談も可能であること。

 

 小野寺は疲れ切りながらも、何度も頷いた。

 

 搬送される前、小野寺が健司へ尋ねた。

 

「俺の中に、あんな恐ろしい力があったんですか?」

 

「たぶん、ありません」

 

 健司が即答する。

 

「……え?」

 

「あなたが能力者になったわけじゃない。あの石が、あなたの考えていることを勝手に利用していただけです」

 

「じゃあ、俺の願いを叶えていたわけでも……」

 

「本当に願いを叶えるなら、もっとマシな方法を選びますよ。あれは、あなたの言葉を一番乱暴で最悪な形で実行していただけです」

 

『願望機ではない。人間を入力装置にした、出来の悪い自動機械だ』

 

 魔導書が脳内で補足する。

 

「……そういうことです」

 

 健司の言葉に、小野寺は少しだけ救われたような顔をして、救急車へと乗っていった。

 

 後日。

 

 ヤタガラス施設。

 

 健司と三枝は、回収された黒い石の解析結果を確認していた。

 

 今回回収された石は、廃民宿で回収した石よりも明らかに小さい。

 

 だが、内部の術式構造は、さらに複雑で精密だった。

 

「今回の石は、一般人が容易にポケットに入れて持ち運べるよう、意図的に小型化されています」

 

 三枝が言う。

 

「拾わせる前提だったってことですか?」

 

「その可能性が極めて高いです。表面は人間の掌に収まりやすい形に研磨され、触れた人間の体温や微弱な生体電流へ即座に反応する構造になっていました」

 

「気持ち悪いな……」

 

「石が置かれていた場所についても調査しました。駅前の通勤経路です。早朝から深夜まで、多数の会社員が通行する場所でした」

 

「小野寺さん個人を狙ったんじゃなくて、誰が拾うか試していた?」

 

「現時点では、そう見ています」

 

 つまり、犯人は小野寺を選んだわけではない。

 

 ストレスを抱えた人間が大勢通る場所へ無差別に石を置き、誰かが拾うのを待っていた。

 

 拾った人間の性格、感情、反応を観察するための実験。

 

 技術班の解析では、これまでに回収された三つの黒い石に、共通の『基礎部分』があることが判明していた。

 

 ダンジョンの魔物を異常化した石。

 

 廃民宿で霊体を拘束した石。

 

 一般人の感情を読み取った石。

 

 外側の機能は違う。

 

 だが、中心部には、同じ形式の呪式基盤が刻まれている。

 

「同じ規格を基礎として、用途ごとに機能を交換しているように見えます」

 

 三枝が資料をめくる。

 

「石そのものが、一つの製品みたいなものなんですか?」

 

「少なくとも、毎回一から別の術者が手作りしたものではありません。同一の設計思想、共通の製造法、あるいは一定の製造拠点が存在する可能性があります」

 

『要するに、同じ箱へ別の機能を入れてテストしているのだろう』

 

 魔導書が言う。

 

「魔物、幽霊、次は人間……」

 

「実験の対象が広がっています」

 

 三枝の表情が険しい。

 

「目的は分かりますか?」

 

「まだ断定できません。ただし、今回の石は『訓練も契約もしていない普通の人間の感情や無意識を、呪物の操作入力として利用できるか』を試していた可能性があります」

 

『そこらの人間を、兵器の操作盤に変えられるか。その確認だろうな』

 

「笑えないな、それ」

 

 健司は少しだけ、自分の持つ『確率操作』を思い出した。

 

 自分も、思ったことを現実へ反映できる。

 

 ただし自分は、対象を選び、結果を考え、リスクを制御して使っている。

 

 黒い石は、その過程をすべて無視する。

 

 人間の一瞬の苛立ちを拾い、最も乱暴な方法で現実に押しつける。

 

「俺だって、腹が立って誰かに黙ってほしいと思うことはあるけど……そのたびに吹き飛ばしてたら、とっくに凶悪犯罪者だよな」

 

『だから制御が必要なのだ、猿。力とは、願いを持つことではない。無数にある願いの中から、どの願いを実行しないかを選ぶことだ』

 

「……今日は妙にまともなこと言うな」

 

『貴様があまりにも猿だから、たまには基礎的な教育をしてやらねばならん』

 

「やっぱり褒めたくないんだな」

 

 三枝が、追加の資料を開いた。

 

 小野寺が黒い石を拾った場所の、防犯カメラ映像。

 

 石が落ちていた場所は確かに映っている。

 

 だが、石を置いた人物は確認できない。

 

 カメラの死角。

 

 人通りの切れ目。

 

 清掃時間の直後。

 

 誰かが、監視カメラの位置と巡回時間をある程度知ったうえで、意図的に置いた可能性が高い。

 

「偶然落としたとは考えにくいです」

 

 三枝が言う。

 

「でも、置いた人間は映ってない」

 

「はい。現状では追跡不能です」

 

『相手は、姿を隠すことだけは考えているようだな』

 

「何を試したいんだよ、そいつは」

 

「分かりません。ただ、次の石がすでにどこかへ置かれている前提で、調査を進めます」

 

 三枝が締めくくる。

 

「もう置かれてる前提なんですか」

 

「今回の石が発見される前から、複数の実験が同時進行で始まっていた可能性がありますので」

 

 封印容器の中。

 

 割れた黒い石の破片。

 

 表面の溝は、廃民宿の石とは違う。

 

 だが、中心に刻まれた小さな紋様だけは同じだ。

 

 健司はそれを見つめる。

 

 小野寺拓海は、世界を変える力を望んだわけではない。

 

 誰かを傷つける力を求めたわけでもない。

 

 ただ、日常の中で一瞬だけ、「黙ってほしい」「どいてほしい」「壊れてしまえばいい」と思っただけだった。

 

 それは、誰にでもある感情だ。

 

 だが黒い石は、その小さな感情を拾い上げ、人を傷つける命令へ変えた。

 

『覚えておけ、猿。……願いを無条件で叶える物ほど、ろくなものではない』

 

 魔導書が低い声で言う。

 

「……本当に願いを叶えてくれるなら、まだマシだったかもな」

 

『違いない』

 

 黒い石は、小野寺の願いを叶えたのではない。

 

 彼の中に溜まっていた小さな苛立ちを、誰かの実験結果へと変換しただけだった。

 

 そして、その実験を行った何者かは、今もどこかで、次に石を拾う人間を待っている。

 




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