俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】 作:パラレル・ゲーマー
朝。
佐藤健司が自室の狭いキッチンでトーストをかじっていると、テーブルに置いたスマホがブルブルと激しく震え始めた。
画面を見ると、メッセージアプリの通知が連続でポップアップしている。相手は、最近ヤタガラスの『鳥カゴ』に入り浸っている弟子の瀬尾梓だった。
『ししょー!』
『今日の夜、初実戦って本当ですか!?』
『三枝さんからさっき連絡来ました!』
『本当に本物の怪異が出る現場ですか!?』
『ただの模擬戦じゃないんですよね!?』
数秒の間に何通も届くメッセージの波に、健司はトーストをくわえたまま呆れ顔になった。
「……テンションが高いのか、ビビって怖がってるのか、どっちなんだ……」
『両方だろう』
ローテーブルの上に鎮座する魔導書が、静かに答えた。
『動物園で安全に飼われていた子猿が、初めて柵のない檻の外のジャングルへ出されるのだ。興奮と恐怖が入り混じるのは当然の反応だ』
(梓は動物園の猿じゃないから)
さらに、梓からのメッセージが追撃してくる。
『持ち物って何が必要ですか!?』
『スポーツドリンク?』
『タオル?』
『救急セット?』
『塩?』
『魔除けの御札?』
『バナナ?』
「……最後の二つは絶対に現場にいらないだろ」
健司が突っ込む。
『いいや、バナナは必要だろう』
魔導書が真面目なトーンで言う。
『猿にとっての初めての遠足なのだから、バナナはおやつに入らんだろうが、必ず持っていくべきだ』
(お前が変な猿要素を無理やり増やしてるだけだろ!)
健司は心の中で魔導書を叩き、スマホの画面に返信を打ち込んだ。
『動きやすい服。ヤタガラスから支給された軽装の装備。飲み物。あとは三枝さんの指示通り。勝手に神社の御札とか塩は持ってこなくていいから』
数秒で既読がつき、返信が来た。
『分かりました!』
『バナナは一応、こっそり持っていきます!』
「持ってくるのかよ……」
健司は深いため息をつき、冷めたコーヒーを飲み干した。
夕方。
ヤタガラスが管理する施設の、無機質な会議室。
健司と三枝が待つ部屋に、梓が少し硬い表情で入ってきた。
動きやすいスポーツウェアの上に、ヤタガラスから正式に支給された黒い軽装の防護ベストを着込んでいる。腰には小型の通信機、簡易的な結界札のケース、フラッシュライト、そして最低限の応急処置ができる救急ポーチが装備されていた。
明らかに緊張しているが、その瞳の奥には、初めて実戦の舞台に立つという強い期待が満ちている。
「ししょー! よろしくお願いします!」
梓が、背筋を伸ばして元気よく頭を下げた。
「うん。……まず、最初に言っておくぞ。今日は安全な鳥カゴの訓練じゃなくて、本物の怪異が出る現場だからな」
健司が、わざと少し厳しいトーンで告げる。
「はい!」
「危ないと思ったら、俺が『逃げろ』って言う前でも、自分の判断で勝手に下がっていい」
「はい!」
「絶対に、無理に活躍しようとか、一人で手柄を立てようとしないこと」
「はい!」
「勝手に怪異の本体を追いかけて、俺の目の届かないところに行かないこと」
「はい!」
「クロノスの人たちみたいに、余計な撮れ高とか考えないこと」
「私はYouTuberじゃないですよ!?」
梓が少しだけ頬を膨らませた。
三枝が、いつもの無表情のまま手元の資料をモニターに表示した。
「今回、瀬尾梓さんは、ヤタガラスの『正式な前衛戦闘員』として現場に投入されるわけではありません」
三枝が、淡々と事実を告げる。
「あくまで、佐藤健司さんの補助要員。および、実地環境という極度のストレス下における、ご自身の能力制御訓練が最大の目的です」
「補助……」
梓が、少しだけ不満そうに肩を落とす。
「怪異をあなた一人の力で派手に倒すことが、目的ではありません」
三枝が冷徹に念を押す。
「現場の異常な状況を正しく把握し、パニックに陥らずに自身と同行者の安全を維持し、指揮官の命令に従って確実に生きて帰還すること。……それが、今回のあなたの最優先のミッションです」
「最初の実戦なんて、生きて帰れればそれで百点満点なんだよ」
健司がフォローするように言う。
『やれやれ、いっぱしの師匠らしいそれっぽいことを言っているが……猿本人の初実戦は、まともな準備も情報も何もないまま、ただ無計画に突っ込んで泥を啜ったのではなかったか?』
脳内で魔導書が、痛いところを突いてくる。
(それは今は言うなよ。師匠としての威厳に関わるだろ)
三枝が、今回のターゲットである怪異の情報を説明し始めた。
現場は、郊外にある閉鎖済みの『旧・青波市民プール』。
老朽化によって半年前に営業を終了し、現在は解体工事前の調査期間として立ち入りが禁止されている。
しかし、営業終了後から、夜間警備員や工事関係者の間で奇妙な報告が相次ぐようになった。
・水を完全に抜かれた空のプールの底から、水音が聞こえる。
・誰もいないのに、濡れた足跡が勝手に増えていく。
・清掃用具が、見えない力でプールへ引きずり込まれる。
・排水口から黒い泥のようなものが不気味に染み出す。
・プールサイドを歩いていると、何者かに足首を掴まれる。
・水が一滴もないはずなのに「溺れているような苦しげな声」が聞こえる。
・先日、一人の警備員が、見えない力でプールの底へ引き倒されて負傷した。
「ヤタガラスの事前調査では、自然発生型の低級怪異が一体だけ潜伏していると推定されています」
三枝が概要をまとめる。
「人的被害は現在までのところ打撲と捻挫のみ。現場はすでに完全に封鎖され、一般人は全員避難済みです。念のため、建物の外には制圧班も待機させています」
つまり、ヤタガラスが梓の「初の実地訓練」として、徹底的に安全網を敷いた上で選定した、お誂え向きの現場だった。
「佐藤さんが前衛です。瀬尾さんは、佐藤さんから常に『三メートル以上後方』の距離を維持してください」
「分かりました」
梓が頷く。
「佐藤さんが何らかの理由で撤退を指示した場合、理由を尋ねず、即座に振り返って一人でも退出してください」
「はい」
「ヤタガラスの通信が切れた場合も、即時撤退です。その場に留まらないこと」
「はい!」
健司は、元気よく返事をする梓の顔を覗き込んだ。
「……本当に、言ってる意味分かってる?」
「ししょー、私を何歳の子供だと思ってるんですか。ちゃんと分かってますって」
『精神年齢は、まだ乳離れしていない子猿の年齢だろう』
魔導書の毒舌を、健司は全力で無視した。
夜。
郊外の『旧・青波市民プール』に到着した。
建物の周辺には、設備点検や有害物質調査の業者を装ったヤタガラスの偽装車両が数台停まっており、関係者以外の立ち入りを完全にシャットアウトしていた。
梓は、車から降りて、目の前にそびえ立つ大きなコンクリートの建物を無言で見上げた。
昼間なら、ただの古びた平和な公共施設だ。
だが、夜の闇に包まれると、窓の奥がまるで底なし沼のように真っ暗で、異様な不気味さを漂わせている。
「……なんか……いつもいる鳥カゴの訓練場とは、全然空気が違いますね……」
梓が、ポツリと呟いた。
「何が違う?」
健司が歩きながら尋ねる。
「空気の、重さです。……訓練場は、何かヤバいことが起きても、防護結界があるし三枝さんにすぐ止めてもらえるって、頭のどこかで分かってるから安心できる。でも……ここは、違う」
梓は、自分の腕を小さく抱いた。
「……本当にこの中に、“何か得体の知れないもの”がいるんですよね」
「怖いか?」
梓は少しだけ迷ってから、小さく、だがハッキリと頷いた。
「ちょっとだけ。……でも、帰りたくはないです」
健司は、少しだけ微笑んだ。
「怖いって素直に思えるなら、大丈夫だよ。実戦において一番危ないのは、自分が無敵だと思って『怖くないつもり』になることだからな。その恐怖心を忘れるなよ」
『猿にしては、百点満点の完璧な回答だな』
魔導書が、脳内で素直に褒めた。
(今日はやけに素直だな、お前)
健司が少し驚く。
『当然だ。まだ未熟な子猿の命が、リアルにかかっているのだからな。貴様一匹の命なら多少雑に扱って死なせても構わんが、未来ある弟子の教育は別だ』
(俺の命も、もう少し大事にしてくれよ……)
健司を先頭に、梓がぴったり三メートルの距離を空けて、建物の内部へと進入した。
施設内は不気味なほど薄暗かった。
非常灯の赤い光と、二人が持つ携帯ライトの白い光だけが、暗闇を切り裂く唯一の頼りだ。
壁には色褪せて破れた水泳教室のポスター。受付にはホコリを被った古い利用案内が散乱している。床には乾いた落ち葉や泥の足跡が積もっている。
完全に閉鎖され、人間が立ち入らなくなった廃墟の空気。
それなのに。
建物の奥から、不規則に水滴の落ちる音が響いてくる。
ピチャン。
……ピチャン。
「……水、完全に抜いてあるんですよね?」
梓が、背後から小声で確認してくる。
「事前の資料では、一滴も残ってないはずだよ」
健司が答える。
梓は、無意識のうちに小走りで健司との距離を縮めた。
「近い近い。三メートル離れろって言ったろ」
健司が手を後ろに振って制する。
「……今だけ、二メートルじゃ駄目ですか?」
梓がすがるような声で言う。
「駄目とは言わないけど、俺が急に危険を察知してバックステップで下がった時に、確実にぶつかって巻き込むぞ」
「……三メートルにします」
梓は素直に数歩下がった。
メインのプールエリアへと続く、重い金属の扉の前に到着した。
健司は、扉の前で足を止めた。
床に、『濡れた足跡』がある。
それは、人間の足跡ではなかった。
細長く、関節の数がおかしい不気味な指の跡がいくつも重なり合い、壁際の暗がりから扉の隙間へと向かって続いているのだ。
梓が、ヒッと息を呑んだ。
「これ……本物の怪異の跡……」
「素手で触るなよ」
健司が注意する。
「触りませんよ! こんな気持ち悪いもの!」
健司は足跡と周囲の霊的な痕跡を詳しく調べるため、誰にも聞こえないほどの小声で呪文を唱えた。
「我が眼、霊なるモノ達を視る力、霊眼」
健司の視界が、薄い青白い膜を通したように切り替わる。
足跡の周囲には、黒く濁った霊的な残滓が、薄く床へこびりついていた。
『子猿。念動力で、あの足跡の痕跡に触れてみろ。……先日の特訓で、貴様は何を習った』
魔導書が健司の脳内で言う。
梓には魔導書の声は聞こえないため、健司が自分の言葉として通訳した。
「梓。念動力を薄ーく広げて、あの足跡の周りの空間だけを探ってみて」
「え? 物を動かすんじゃなくて……触る感じですか?」
「そう。押さない。引かない。ただ、薄く優しく触れるだけだ」
梓は深く深呼吸をして、意識を集中させた。
目を閉じ、念動力を床へと薄く、波紋のように広げていく。
足跡の周囲。タイルの冷たさ。濡れた跡の質感。小さな埃。
やがて、梓の表情がハッと変わった。
「……ししょー。この足跡、ただの水じゃないです」
「何に感じる?」
「普通の水より、ずっと重い。少しネバネバして粘る感じがします。……でも、念動力でしっかり触ろうとすると、スルッと薄く逃げるんです」
「怪異の本体の一部が、スライムみたいに分離してるのかもしれないな」
健司が推測する。
梓が、顔をしかめて念動力をパッと引っ込めた。
「……今の感覚、なんか気持ち悪くなりました。手袋越しにヘドロを触ったみたいな……」
「それでいい。直感で嫌な感覚がしたら、絶対に無理に触り続けないこと。その直感が、実戦での一番のセンサーになる」
この時点で、健司は梓が『念動力を感覚器官として使う』という先日の訓練の成果を、本物の現場で確実に引き出せていることに安堵した。
健司は、プールエリアの大きな扉をゆっくりと開け放った。
眼前に広がったのは、完全に水を抜かれた広大な二十五メートルプールだった。
空っぽのプールの底には、コースを示す青い線だけが虚しく残っている。天井の採光用のガラス屋根からは、薄暗い月明かりが差し込み、不気味な影を落としていた。
プールサイドには、倒れた監視員用の高い椅子、放置された清掃用のモップ、散乱したカビの生えたビート板、破損したコースロープ、そして工事関係者が忘れていったらしい錆びた工具箱などが乱雑に残されている。
どこを見渡しても、水は一滴もない。
しかし。
プールの底の、何も見えない暗がりから。
ザバッ。
……ザバッ。
と、誰かが深い水の中を泳いでもがいているような、生々しい水音が聞こえてくるのだ。
「……水、本当に一滴もないですよね!?」
梓が、三メートル後方で肩を震わせながら、健司の背中越しにプールの底を覗き込む。
「ああ、俺の目にも完全に空っぽに見える」
『水音だけで人間の恐怖を煽り、錯乱させて疑似的に“溺れさせる”類いの怪異かもしれん。猿、気を抜くな』
魔導書の警告が響く。
健司は、短期未来視のスイッチを入れた。
数秒後の未来のビジョン。
梓の立っている足元のタイルの隙間から、真っ黒な手が音もなく伸びてくる未来。
「梓、右へ跳べ!」
健司が鋭く叫んだ。
梓は反射的に、言われた通りに右へ大きく跳躍した。
直後、梓がさっきまで立っていた足元のタイルの隙間から、ドロドロの黒い泥でできた不気味な腕が、鞭のように勢いよく飛び出してきた。
健司は流れるような動きで手刀を振るった。
「斬!」
不可視の斬撃が、伸びてきた黒い腕を根元からスッパリと切断する。
切り離された腕が、ベチャリと不快な音を立ててプールサイドの床へ落ちた。
一瞬の、静寂。
「た、倒した……?」
梓が息を呑んで尋ねる。
しかし。
床に落ちた切断された腕が、ブクブクと泡立ち、二つの小さな『泥の塊』へと変化した。
そして、その二つの塊に、ギザギザの歯が並んだ口のような裂け目が開き、二体同時に健司の顔面へ向かって飛びかかってきた。
「うおっ!?」
健司は咄嗟に結界を展開し、二体の泥を弾き飛ばした。
「ししょー! 斬ったら、逆に増えました!」
梓が悲鳴を上げる。
『猿。見事に敵の数を増やしてやったな。さすがだ』
魔導書が皮肉る。
「俺だって、斬ったらスライムみたいに増えるなんて思わなかったんだよ!」
健司が毒づく。
プールの底にある大きな排水口から、大量の黒い泥が間欠泉のように噴き出し始めた。
細い泥の流れが何本も合流し、プールの中央で、人間ほどの大きさの異様な塊へと形を変えていく。
頭部らしい丸み。長すぎる不気味な両腕。下半身は泥のまま、プールの底の床へと繋がっている。
表面には、過去にここで溺れかけた人間の恐怖が凝縮したような、苦痛に歪んだ無数の『顔』や『手形』の凹凸が、浮かんでは消えを繰り返していた。
「うわ……気持ち悪い……」
梓が顔をしかめる。
「同感だ」
怪異が、長すぎる腕を大きく振るった。
泥の鞭が、プールサイドを広範囲に薙ぎ払う。
健司は瞬時に結界を張り、その鞭の直撃を防ぐ。
梓は、後方の安全圏から念動力を放ち、怪異の腕を物理的に壁へ押さえつけようと試みた。
「止まれっ!」
泥の腕が、念動力の圧力で一瞬だけピタリと止まる。
だが、直後。
腕はその形をドロドロに崩し、梓の念動力の見えない壁の『隙間』をすり抜けるように、細い水流となって逃れてしまった。
「駄目です! 押さえられません!」
「塊として強引に掴もうとするな! あいつは液体みたいに形を変える!」
健司が結界を維持しながら叫ぶ。
「じゃあ、どうすればいいんですか!?」
「外側の形を力任せに押さえ込むんじゃなくて、あいつが次にどう広がろうとするか、その“動きの源”を読め!」
梓は、健司の言葉でハッとし、念動力の絶対出力をあえて弱めた。
力任せに強く押さえつけるのではなく、極限まで薄い膜のようにして、怪異の表面にそっと触れる。
すると、ただの泥の塊だと思っていた怪異の内部の動きが、梓の指先へとダイレクトに伝わってきた。
「……中で、泥が激しく流れてる。……全部同じ方向に動いてるんじゃない」
怪異の内部で、泥が複数の異なるベクトルへと激しく循環しているのが『視えた』。
「ししょー! こいつ、身体の中がずっと複雑に動いてます!」
「たぶん、あちこちに移動させて、本当の『本体』を隠してるのかもしれない!」
怪異が突然、泥の身体を崩し、プールサイドの排水溝の中へとドロドロと潜り込んだ。
次の瞬間、健司と梓の足元の別々の排水口から、複数の黒い手が無数に飛び出してきた。
二人を分断する動き。
一本の黒い手が、梓の足首へ強固に絡みついた。
「うわっ!」
見えない強烈な引力が働き、梓の身体が、空っぽのプールの底へ向かってズルズルと引きずり込まれる。
健司は即座に結界で梓の腰のあたりを支え、落下を防いだ。
「落ち着け! 足を引っ張ってる力の元をよく見ろ!」
だが、恐怖に囚われた梓は、健司の言葉を待たずに、最大出力の念動力を怪異の手に向かって力任せに叩きつけてしまった。
バンッ!
黒い手が無残に潰れる。
しかし。
潰れた泥が細かく飛び散り、それぞれが独立した十数本の小さな『指』に変わり、再び襲いかかってきた。
「増えた!?」
「だから、力を物理的に叩きつけるなって! 俺がさっき斬って増やした時と同じ失敗だぞ!」
健司が広範囲に結界を展開し、梓の全身へ殺到する小さな黒い指の群れを一気に弾き飛ばす。
梓は、健司に助けられたことで、酷く悔しそうな顔になった。
「……ごめんなさい、ししょー……」
「謝るのは後。今は、怪我してないかどうかの確認が先だ」
「してません。無事です」
「なら続ける。次は、同じ失敗をしなければいいだけだ」
健司の言葉に、梓は深く深呼吸をして頷いた。
怪異が、プールの底一面に大きく広がった。
黒い泥が極薄の膜となり、二十五メートルプール全体を完全に覆い尽くす。
その瞬間。
水が一滴もないのに、健司と梓の全身に、深海に沈められたような凄まじい『水圧』と重さがのしかかった。
肺が圧迫され、呼吸が極端にしづらくなる。
耳元で、大勢の人間が暗い水の中でもがき苦しむような、ゴボボボボという不気味な幻聴が響く。
「息が……っ!」
梓が首を押さえて苦しむ。
健司は即座に梓の周囲に結界を張り、怪異からの精神的・物理的干渉を完全に遮断した。
「落ち着け! 実際にここに水があるわけじゃない! 呼吸は絶対にできる!」
『怪異が、周囲の空間認識と圧力を呪的に歪めているのだ。人間が溺れる時の苦しい感覚を、強制的に再現して押し付けているだけだ』
魔導書の分析を、健司はそのまま梓へ伝える。
「身体を底へ沈めようとする物理的な力と、溺れてると思い込ませる感覚の幻覚を、同時に送ってきてるんだ!」
「この引っ張る力……」
梓は、結界の中で息を整えながら、自分を捕らえようとする力の本質を感じ取った。
「私の念動力に、少しだけ似てる!」
「その力、崩せそうか?」
梓は、しっかりと目を閉じた。
自分を下へ引く力に、真正面から力任せに反発してはいけない。
先日の特訓で教わったことを思い出す。
相手の力を物理的に止めるのではなく、その力がどこから来て、どこへ向かっているかを探り、重心をずらす。
怪異の引力は、プールの中心から放射状に、四方八方へと広がっている。
梓は、その強大な泥の流れの隙間へ、自分の極薄の念動力を針のように細く差し込んだ。
「押し返すんじゃなくて……流れの起点を、横へずらす……!」
「そう! 力の中心のバランスを崩せ!」
健司が叫ぶ。
「……《念動力崩し》!!」
梓が目を見開き、念動力をピンポイントで作用させた。
プール全体にかかっていた強烈な下向きの引力が、斜め上へと不自然に逸らされた。
黒い泥の表面が、バランスを崩して激しく波打つ。
健司と梓を押さえつけていた窒息するような水圧が、フッと完全に消え去った。
怪異の巨大な身体が、支えを失ったように大きく揺らぎ、形を保てなくなる。
「今の、完璧に良かったぞ!」
健司が褒める。
「できた……!」
梓の顔に、自信が戻る。
『子猿は、安全な訓練場よりも、死の危険がある本番の方が覚えが良いようだな』
(俺も全く同感だよ)
怪異は、崩された引力のバランスを立て直すため、プール全体に広げていた泥を、一箇所へと急速に集め始めた。
その瞬間。
健司の霊眼に、泥の内部に隠された強烈な『歪み』が視えた。
しかし、黒い霊的な塊が複雑に高速で動き回っているため、正確なピンポイントの場所までは掴みきれない。
「あの泥の中に『核』がある! でも、ずっと場所を移動させて隠してる!」
「私、念動力で触って探してみます」
梓が自ら提案する。
「広範囲に広げすぎると、頭への負担になるぞ」
「でも、ししょーの霊眼と、私の念動力の触覚を合わせれば、絶対に見つけられるかもしれません」
梓の瞳は、恐怖を乗り越え、真剣な覚悟に満ちていた。
健司は少し迷った。
初実戦で、弟子にあまり無理をさせたくはない。
だが、ここで彼女の成長の芽を摘むのも間違っている気がした。
「分かった。ただし、俺が少しでも危ないと思って『止めろ』と言ったら、即座に念動力を解除して下がること。約束できるな」
「はい!」
梓は、プール全体へと極薄の念動力を網のように広げた。
怪異を力で強く掴むのではない。
表面に、本当に優しく触れるだけ。
泥の流れ。
タイルのひんやりとした摩擦。
排水口へ向かって逃げる泥の微細な移動。
分裂した小さな塊の振動。
それぞれの微細な動きの情報が、念動力を通じて梓の脳へとダイレクトに伝わってくる。
梓の額から、滝のような汗が流れ落ちる。
「……ほとんどの泥は、感触が軽いです……。触ると、サラッと逃げるだけ……」
健司は、前方で怪異の腕の攻撃を結界で防ぎながら、梓の言葉を聞く。
「他と違う場所は!?」
「一つだけ……異常に『重い』のが動いてます」
「どこだ?」
「今は左の排水口の近く……あ、違う、中央に移った……。動きがめちゃくちゃ速い!」
怪異は、梓が自分の急所である核を探していると本能で理解したのか、動きをさらに激しく狂暴化させた。
泥の身体を細かく分裂させ、プール全体へ散らばらせる。
百以上の小さな黒い塊が、床や壁、天井を縦横無尽に這い回る。
「くそっ、また数が増えた!」
健司が舌打ちする。
「でも、分かります! たくさんいる中で、一つだけ、私が触ると『強く触り返してくる』やつがいます!」
核には、怪異の自律的な防御反応があるのだ。
念動力で触れられると、それを拒絶しようと逆に力を押し返してくる。
梓は、その微かな『反発』を手掛かりにして、高速で移動する核を懸命に追跡する。
しかし、中盤の危機が訪れた。
怪異は、自分を執拗に探している『梓』を、最も危険な優先排除対象と判断したのだ。
プール底のすべての泥が、一斉に梓へ向かって殺到する。
黒い手、泥の槍、無数の触手が、四方八方から彼女を串刺しにしようと伸びる。
健司が、梓を背後にして前に飛び出し、強固な防護結界を展開した。
「梓、探索を切れ! 一旦下がれ!」
「でも、もう少しで完全に捕まえられるのに!」
「今は自分の防御が先だ!」
梓は悔しそうに唇を噛み、念動力を解除して後退した。
直後、健司の結界へ、無数の黒い手が激しく殺到した。
怪異が結界の表面をドロドロと這い上がり、透明なドームを完全に包み込もうとする。
健司は、遠距離斬撃を使えない。
斬れば、さらに細かく分裂して数が増え、対処不能になるからだ。
確率操作で怪異の攻撃の狙いを外し続けることはできるが、根本的な『核』を見つけて破壊しなければ、このジリ貧の消耗戦は終わらない。
『猿。子猿を守りながらの防御主体の戦いでは、いかに貴様でも手数が足りんぞ』
魔導書が厳しい現実を突きつける。
(分かってるよ。でも、梓を下がらせたら、あの核の正確な場所が見つからないんだよ)
『ならば、師匠らしく“仕事を分けろ”。すべてを一人で抱え込もうとするな』
健司は、背後の梓へ向かって叫んだ。
「梓! 俺が、あいつの全部の攻撃を一人で引き受ける! 梓は、核を見つけることだけに全集中しろ!」
「でも、それじゃししょーが、ずっとサンドバッグに……」
「先日の黒い石事件でも言ったんだ。飛んでくるものは、俺が全部完璧に止めるって」
健司は、先日の黒い石事件で小野寺に告げた言葉を、今度は自分の弟子にも使った。
「弟子が後ろで仕事してる間くらい、師匠に格好つけさせろよ」
梓は、一瞬だけ驚いたように目を丸くし、そしてフッと力強く笑った。
「……分かりました。お願いします、ししょー!」
健司の防衛戦が始まった。
健司は、自ら防護結界を解き、空っぽのプールの底の中央へと飛び降りた。
空中に結界足場を展開し、黒い泥の上を縦横無尽に移動する。
怪異の注意を、完全に自分一人へと引き付けるための囮だ。
「こっちだ、泥化け物!」
健司が挑発する。
黒い手、泥の鞭、強烈な引力、そして弾丸のように飛ばされたビート板や金属製のコースロープ固定具が、一斉に健司一人へと集中する。
健司は、極限の集中状態でそれらを捌いた。
短期未来視で、全方位からの攻撃の順番を完全に読み切る。
結界を最小範囲の盾としてピンポイントで展開し、直撃を防ぐ。
空中足場を蹴って、三次元的に包囲網から逃れる。
身体能力強化で、泥の鞭をミリ単位で回避する。
確率操作で、自分が踏む足場の崩落や、死角からの直撃の確率をゼロへ偏向させる。
一切の『攻撃』を行わず、怪異の全てのヘイトを自分の一箇所へと誘導し続ける、完全な防御主体の超絶機動。
『斬撃が使えないだけで、随分と不便そうだな、猿』
魔導書が茶化す。
「斬ったら増えるんだから仕方ないだろ!」
『まるで、包丁以外の調理器具を使うことを禁じられた、不器用な料理人のようだ』
「今、死に物狂いで戦闘中なんだから少しは黙ってろ!」
怪異が、健司を鬱陶しく思い、巨大な一本の太い腕を作り出し、健司をプールの底へハエのように叩き潰そうとした。
健司は正面から受け止めず、結界を斜めに滑り台のように張り、巨大な腕の質量を受け流した。
黒い腕が、そのままの勢いでプールのコンクリートの壁へと激突する。
その巨大な衝撃によって、バラバラになっていた泥が、壁の一箇所へと大きく集まった。
その動きによって、泥の内部に隠されていた『核』も、一時的に中央付近へと寄り集まったのだ。
「見つけた!」
梓の、確信に満ちた叫び声が響いた。
彼女は、念動力を施設全体ではなく、健司が怪異を集めたプールの中央部分にだけ、極限まで濃密に絞り込んで展開していたのだ。
範囲を絞ったため、探知の感覚が先ほどよりも桁違いに鮮明になっていた。
「場所は!?」
健司が叫ぶ。
「ししょーの右斜め後ろ! 泥の中を、下へ向かって高速で移動してます!」
健司が、霊眼の焦点を梓の示した位置へ集中させる。
黒い泥の分厚い層の奥深くに、わずかに明滅する赤黒い『点』が見えた。
「……本当にいた!」
『子猿の、見事な手柄だな』
魔導書が称賛する。
怪異は、自分の核が見つかったことを悟り、即座に泥の中を別の場所へ逃がそうとする。
梓は、念動力でそれを必死に追う。
だが、核そのものを直接強い念動力で掴もうとすると、強烈な防御反応で弾き飛ばされてしまう。
「駄目です、逃げる……!」
「核を直接掴むな! 周りの泥の流れを押さえろ!」
梓は、健司の言葉で発想を切り替えた。
核そのものを止めるのではない。
核が逃げようとしている『周囲の泥の逃げ道』を、念動力の壁で円形に囲い込み、固定するのだ。
逃げ場を失わせる、念動力の檻。
「ししょー! 重すぎます! 長くは維持できません!」
梓が、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「十分だ!」
怪異が、核を奪われまいと最後の狂暴な抵抗に出た。
プール全体のすべての泥が、一体の巨大な人型へと集積していく。
天井近くまで届く、巨大な黒い上半身。いくつもの太い腕。
水のないプールに、巨大な津波が立つような、恐ろしい轟音が響き渡る。
梓は、核の周囲を念動力で必死に固定し続けている。
怪異の強烈な引力が、今度は梓へと直接伸びてきた。
梓は、片方の集中で核の檻を封じながら、もう片方の集中で《念動力崩し》を使って引力を逸らそうとする。
しかし、強大な怪異相手に、二つ同時の高度な制御は今の彼女には重すぎた。
「くっ……!」
梓の膝が折れかける。
「核だけを全力で押さえろ! お前への攻撃は、俺が全部止める!」
健司が、梓と怪異の間に割り込んだ。
巨大な黒い腕が、梓をペシャンコにしようと脳天へ振り下ろされる。
健司が、二人の頭上に強固な多重結界を展開して、それを真っ向から受け止めた。
ドォォォォンッ!!
結界が、悲鳴を上げて激しく軋む。
健司の足元のプールサイドのタイルが、衝撃に耐えきれずにクモの巣状に割れた。
「梓! まだいけるか!」
健司が、結界を支えながら叫ぶ。
「いけます!」
「なら、その核を、泥の中から上へ押し出せ!」
「はいっ!!」
梓は、核の周囲にある泥だけを、下から上へとすくい上げるように念動力で持ち上げた。
巨大な怪異の黒い泥の表面が、不自然にボコッと盛り上がる。
そして。
赤黒く濁った球体が、一瞬だけ、泥の外へと完全に露出した。
直径十五センチほど。
その不気味な表面には、水中で溺れた無数の人間の顔のような模様が、苦痛に歪んで浮かび上がっている。
これが、怪異の『核』。
「ししょー、今です!!」
健司は、右手を鋭く構えた。
今回は、『概念限定斬撃』を使う必要はない。
核が明確に外部へ露出し、他の泥の部分と完全に分離されている。
今必要なのは、普通の遠距離斬撃『斬』による、極めてシンプルで正確な一撃だけだ。
「離すなよ!」
「絶対に離しません!」
「斬!!」
不可視の鋭利な斬撃が、空中に露出した怪異の核を、ど真ん中から真横に両断した。
パキンッ。
ガラスが割れるような、硬く乾いた音がプールの空間に響き渡った。
核が二つに割れ、赤い光を失う。
直後、天井まで届いていた巨大な黒い人型が、完全にピタリと停止した。
次の瞬間。
プール全体に広がっていたおぞましい泥が、一斉に黒い水蒸気のように蒸発し、霧散していった。
床を這っていた小型の泥の塊も。
排水口に蠢いていた黒い影も。
壁に残っていた無数の手形も。
すべてが、幻だったかのように跡形もなく消え去っていく。
あの不気味な、溺れるような水音も完全に止んだ。
旧市民プールに、本物の静寂が戻った。
梓は、限界を迎えて念動力を解除し、その場にヘナヘナと座り込んだ。
健司が、すぐに駆け寄る。
「梓、大丈夫か!?」
「だ、大丈夫です……。ちょっと、足の力が抜けちゃって、立てないだけで……」
梓が荒い息を吐きながら答える。
「それを世間では、大丈夫とは言わないんだよ」
「でも、私たち、勝ちましたよね?」
梓が、健司の顔を見上げて聞く。
「ああ。完全勝利だ」
梓の顔が、一気にパァッと明るくなった。
「やったあああ……!」
喜ぼうとして立ち上がろうとしたが、膝が笑って再びペタンと座り込んでしまう。
「だから無理するなって」
「ししょー。最後の私、めちゃくちゃ格好よくなかったですか?」
梓が、得意げな顔で聞いてくる。
「格好よかったよ。ちゃんと核の場所を正確に見つけたし、最後の最後まで逃がさなかった。完璧なアシストだった」
「本当ですか!?」
「本当。……ただ、最初にパニックになって、力任せに泥を潰して敵を増やしたのは反省点な」
「うっ……」
「あと、自分が引力で引っ張られた時に、恐怖で視野が狭くなって、周りが見えなくなったのもマイナス」
「ううっ……」
「でも、その後の《念動力崩し》のリカバリーは完璧に成功してた。あれがなかったら、もっと長引いて面倒なことになってたよ。よくやった」
梓が、期待に満ちた目で健司を見る。
「じゃあ……初実戦、合格ですか?」
「最終的にそれを決めるのは、外にいる三枝さんだけどな」
「ししょー個人の評価は?」
健司は少しだけ考える素振りをしてから、優しく笑った。
「俺の弟子の初実戦としては、十分すぎるくらい合格だよ」
梓が、今日一番の満面の笑みを浮かべた。
『やれやれ、とてつもなく甘い師匠だな』
魔導書が呆れたように言う。
(ちゃんと反省点も厳しく言っただろ)
『だが、自分が見込んだ子猿の成長を目の当たりにして、内心では嬉しくて仕方がないのだろう。顔が緩んでいるぞ』
(……まあ、少しはな)
現場検証。
建物の外で待機していたヤタガラスの制圧班と調査班が、一斉にプールエリアへ入ってくる。
怪異の微細な残留物を回収し、空間の安全を確認していく。
三枝も、タブレットを持ちながら現場へ入ってきた。
健司は、怪異の核があったプールの底の場所を、霊眼を使って念入りに確認していた。
排水口の奥。機械室への隙間。用具倉庫の裏。プールの底のタイルのひび割れ。
あの『黒い石』らしき呪物の破片が、どこかに残っていないかと目を皿のようにして探している。
「ししょー、何か探してるんですか?」
梓が不思議そうに聞く。
「黒い石」
「今回もですか?」
「一応な。ただの自然発生の怪異にしては、妙に不自然に強くなってたから、誰かが裏で呪物で操ってた可能性もあると思ってさ」
三枝が、端末の解析データを健司に見せた。
「現時点の観測結果では、外部から呪物や術式によって操作された形跡は、一切ありません」
「本当に?」
「はい。怪異の核の構造も、施設内に残された残留魔力の波形も、ヤタガラスのデータにある『自然発生型の怪異』と完全に一致しています。黒い石を用いたと思われる共通構造は、どこにも確認されていません」
健司は、その報告を聞いて心底からの安堵の息を吐いた。
「よかったぁ……。ただの怪異だったか」
「……ただの怪異って言葉、だいぶ感覚がおかしくなってないですか?」
梓がジト目でツッコミを入れる。
「私も、そう思います」
三枝が無表情で同意する。
『黒い石の呪物ではなく、ただの自然発生の怪異だと聞いて心底安心するとは。……猿も、立派にこの世界の異常な感覚に麻痺してきたな』
魔導書が嗤う。
「最近、どこの現場に行っても、何でもかんでも全部黒い石のせいなんじゃないかって、疑心暗鬼に見えてくるんだよ……」
健司は、疲れたように肩をすくめた。
帰還後。
ヤタガラス施設の会議室で、梓、健司、三枝による簡単な報告会が開かれた。
三枝が、タブレットを見ながら梓の今回の行動を客観的に評価していく。
「良かった点。現場進入前の指示を厳格に守ったこと。単独で怪異を追跡せず、指定された距離を保ったこと。念動力を物理的な力ではなく、感覚器官として応用して使えたこと。怪異の核の正確な位置を特定したこと。《念動力崩し》で引力干渉を冷静に解除したこと。前衛の佐藤さんとの役割分担を理解し、核を直接掴まず、周囲の泥の流れを固定するという柔軟な判断ができたこと。……そして、撤退命令が出ていない極限状況下で、任務を最後まで継続し遂行したこと」
「総合評価として、初の実地任務としては非常に良好です」
三枝が珍しく褒め言葉を口にした。
「良好!」
梓がガッツポーズをする。
「改善点」
三枝が続ける。
「恐怖を感じた直後、パニックになり最大出力を無駄に叩きつけたこと。力を加えれば解決するという、単調な発想に戻ったこと。自分の足元と退路への注意が致命的に不足していたこと。広範囲に念動力を広げすぎ、認識と制御へ必要以上の負荷をかけたこと。核の探索に集中しすぎて、敵からの攻撃を見落としたこと。佐藤さんが全てを守ってくれるという前提で、無茶を続けかけたこと」
「ううっ……」
梓が小さくなる。
「以上の結果を踏まえ、ヤタガラスとしては、瀬尾梓さんの『単独での実地任務』を許可する段階にはまだないと判断します」
「ですよね……」
「当面は、佐藤健司さん、または正式なヤタガラスの監督官の同行下でのみ、低〜中危険度の実地任務への参加を認めます」
梓が、パッと顔を上げて健司を見た。
「ししょー。次も、絶対一緒ですね!」
「……何で俺が確定みたいな言い方なんだよ」
「瀬尾さんとの能力的な相性、現場での救助能力、そして何より、現場でのスムーズな意思疎通を考慮すれば、佐藤さんが最適任です」
三枝が、事務的に決定事項として告げる。
「三枝さんまで、俺を確定枠にしないでくださいよ」
『弟子を取るとは、そういうことだぞ、猿。最後まで責任を持て』
魔導書が、保護者のような顔をして言う。
任務後。
健司と梓が、最寄りの駅まで夜道を並んで歩いていた。
梓は疲労困憊のはずだが、初めての実戦を生き抜いた興奮がまだ収まっていないのか、足取りは軽かった。
「ししょー。私、最初にあの黒い怪異が出た時、本当にすごく怖かったです」
「うん。俺も最初は怖かったよ」
「鳥カゴの訓練では、もし私が失敗しても、三枝さんに止めてもらえるって心のどこかで甘えてました。でも今日は……もし私が失敗したら、私をかばって、ししょーが大怪我するかもしれないって思って。それが一番怖かった」
「俺の方が強いし頑丈なんだから、そこは心配しなくていいよ」
「でも、いくら強い人でも、絶対に怪我しないわけじゃないですよね」
梓の真っ直ぐな言葉に、健司は否定できなかった。
自分は無敵ではない。
「だから、もっと上手くなりたいです。ただ後ろで守られて、助けてもらうだけじゃなくて。……今日みたいに、ししょーの役に立てるように」
「今日は、ちゃんとすごく役に立ってたよ。梓がいなかったら、俺一人じゃあの怪異の核は見つけられなかったし、倒すのに何時間もかかってたと思う」
「じゃあ、次はもっと役に立ちます!」
「次が決まるのが早いな……」
梓が、リュックサックをごそごそと漁り、何かを取り出した。
「ししょー、食べます?」
差し出されたのは、一本のバナナだった。
「お前、本当に現場にバナナ持ってきたのかよ」
「初実戦を乗り越えた後の、大事な糖分補給ですから!」
『師弟揃って、本当に猿らしくて何よりだ』
魔導書が呆れる。
(お前には、一口もやらないからな)
帰宅後。
健司がシャワーを浴びてベッドに転がっていると、スマホに梓から一枚の写真の画像データが届いた。
ノートの見開きページの写真だった。
そこには、今回の戦闘についての反省と気づきが、びっしりと細かい文字で書き込まれていた。
・怪異出現時の自分の立ち位置が悪かった
・最初に力みすぎた原因は恐怖心
・《念動力崩し》が成功した時の、引力を逸らす感覚
・核を探した時の、念動力を弾き返される反発の感触
・念動力の探知範囲を狭めた時の、精度の違い
・健司がどこに結界を張っていたかの位置関係
・次回の改善点
そして、ページの最後に、赤いペンで大きく力強い文字でこう書かれていた。
『次は最初から役に立つ!!』
写真の後に、メッセージが続く。
『ししょー、今日は本当にありがとうございました!
明日から、また厳しい修行お願いします!
あと、念動力で核の反発を探す練習方法、新しいの考えておいてください!』
「……もう、次の修行の話してるよ、あいつ」
健司は、苦笑しながら天井を仰いだ。
『子猿は、極めて順調によく育っているな』
魔導書が静かに言う。
「そうだな」
『では、偉大なる師匠猿も、弟子に無様な恥をかかぬよう、さらに成長しなければならんな』
「……俺も?」
『当然だ。可愛い弟子に実力で追い越されてから、慌てて背伸びをしても遅いぞ』
健司は、スマホに映る梓のノートの写真を、もう一度見つめた。
今日まで、自分が彼女から『師匠』と呼ばれているのは、半分冗談のような、単なるノリのようなものだと思っていた。
能力の理屈や使い方を教えることはあっても、自分はまだ、誰かの人生を導けるほど立派な人間ではない。ただの元会社員だ。
けれど今日。
梓が本物の怪異を前にして、極限の恐怖を乗り越え、自分の教えた技術を使い、自分の役割を最後まで立派に果たした。
そのひたむきな姿を見て、健司は少しだけ実感したのだ。
自分はいつの間にか、本当に、誰かの『師匠』になっていたらしい。
健司は、スマホのキーボードを打ち、返信を送った。
『明日は休め。
修行は明後日から。
まず、筋肉痛と能力使用による疲労をしっかり治すこと』
すぐに既読がついた。
『はい、ししょー!
明後日、よろしくお願いします!』
健司は、小さく笑ってスマホを机に置いた。
『休ませるという判断は悪くない。少しは師匠らしい顔つきになったな、猿』
「少しだけかよ」
『調子に乗るな。まだ、手のかかる子猿が一匹だけだ』
「一匹だけでも、めちゃくちゃ大変なんだよ……」
健司は、心地よい疲労感に包まれながら、静かに目を閉じた。
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