俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第6話 猿と確信と百万円

 日曜日の朝。佐藤健司は、スマートフォンのアラームが鳴るよりも早く目を覚ました。

 

 浅い眠りだった。夢の中でも、ひたすらに馬が走っていた。サラブレッドの蹄の音、ターフビジョンの眩しい光、絡み合う因果の糸、そして分厚い茶封筒に入れられた十万円の重み。それらがとりとめのない映像となって、脳内をぐるぐると回り続けていた。

 

 ベッドから身を起こし、首を回す。睡眠不足のはずだが、不思議と身体は軽かった。

 

 この三日間、魔導書の指示通りにランニングで心肺をいじめ抜き、現場で汗を流し、食事と睡眠の質を意識してきた。身体強化の魔法の出力調整も、だいぶ板についてきた。こめかみの奥に微かな熱は残っているが、それは脳が焼き切れそうな嫌な痛みではなく、戦いを前にしたエンジンのアイドリングに近い。

 

 枕元のスマホが短く震えた。

 

『起きたか、猿』

 

 画面越しの魔導書の声。健司は画面をこすりながら、短くフリック入力する。

 

「起きてる」

 

『今日の目的を言え』

 

 健司は画面をじっと見つめた。

 

 今日、自分が何を背負い、何をするのか。

 

「武田さんの十万円を増やす。世界の抵抗ってやつを体験する。俺が、次の段階に進める器かどうかを試す」

 

 数秒の間の後、既読がついた。

 

『よろしい。だが、忘れるな。お前が外せば、あの親父の十万円は完全に消え去る』

 

 健司の胸の奥に、鉛のような重い塊が落ちた。

 

 分かっている。今日、自分が挑むのは、ゲームのガチャでもなければ、一円も賭けないエアー予想でもない。本物の金が、他人の労働の結晶が絡む、初めての実戦なのだ。

 

 顔を洗い、着替えてアパートを出る。

 

 夏の朝の空は、すでに白く焼けるような光を放っていた。湿った熱気を含んだ風が肌にまとわりつく。だが、健司の足取りは、これから処刑台に向かうかのように重苦しかった。

 

 東京競馬場の正門前。

 

 待ち合わせ場所に指定した巨大な金色の馬の銅像の下には、すでに武田の姿があった。

 

 普段の土埃にまみれた作業着姿とは違う、休日のラフなジャンパーにキャップという出で立ちだ。片手には競馬新聞を丸めて握り、もう片方の手には缶コーヒーを二本持っている。

 

「おう、兄ちゃん! こっちだこっち!」

 

 健司の姿を認めるなり、武田は子供のように人懐っこい笑みを浮かべて大きく手を振った。

 

「おはようございます、武田さん。早いですね」

 

「おうよ! 今日はなんたって勝負の日だからな! ほれ、冷てえうちに飲めや」

 

 武田から差し出された微糖の缶コーヒーを受け取る。

 

 その武田の手のひらには、長年の肉体労働で分厚く硬くなったタコがいくつも刻まれていた。

 

 健司がその手を見つめていると、武田はジャンパーの内ポケットから、無造作に茶封筒を取り出した。

 

「へへっ。ばっちり下ろしてきたぜ。俺の一ヶ月の血と汗と涙の結晶、きっちり十万だ!」

 

 中を覗き込むまでもなく、封筒は生々しい厚みを持っていた。

 

 紙幣としての物理的な重さは大したことがないはずだ。だが、健司にはそれが、とてつもない質量を持った鉄の塊のように見えた。現場で重いコンクリートを担ぎ、汗だくになりながら笑っていた武田の姿が脳裏をよぎる。

 

 この十万円は、ただの数字ではない。

 

「武田さん……本当に、いいんですか? 俺、名人を気取れるほど自信があるわけじゃないんです。外れても、本当に責任は取れませんよ」

 

 健司が乾いた唇を舐めながら言うと、武田はガハハと豪快に笑い飛ばした。

 

「分かってるっての! 最後に買うのはこの俺だ。兄ちゃんのせいにしたりなんざしねえよ。俺はな、兄ちゃんのその不思議な『勘』に賭けてみてえんだ。気楽にいこうや!」

 

 その言葉は、健司を気遣ってのものだろう。

 

 だが、武田が自分で責任を被ると言ってくれているからこそ、健司の罪悪感とプレッシャーは余計に膨れ上がっていった。

 

 入場ゲートをくぐり、パドックへ向かって歩き出したところで、ポケットのスマホが震えた。

 

『いいか、猿。今日のお前は完全な観測者ではない。だが、完全な当事者でもない』

 

 健司は歩調を少し緩め、画面に目を落とす。

 

『今日、実際に金を失うリスクを負うのはあの親父だ。だから、因果の濁りの中心はお前にはない。だが、お前の助言がその金の行方を左右する以上、お前も因果の渦の端っこに足を突っ込んでいる状態だ』

 

『今日は、その中途半端な重さを処理しろ。他人の期待、他人の金、そしてお前自身の証明欲。それら全部がノイズとなってお前の目を塞ごうとするはずだ。そのノイズの奥から、一本だけ、本物の糸を拾い上げろ』

 

「分かってる」

 

 健司は小さく呟き、スマホをポケットにねじ込んだ。

 

 メインレースは午後。

 

 それまでの数時間、健司は武田と共に午前のレースをいくつか観戦した。

 

 武田は横で楽しそうに競馬新聞を眺め、赤ペンで印をつけている。健司は馬券を買わせず、あくまでメインに向けた肩慣らしとしてパドックを観測し続けた。

 

 だが、事態は健司が思っていた以上に深刻だった。

 

(……見えない)

 

 最初のレース。パドックの柵の前に立ち、意識を沈めようとするが、どうしても視界がクリアにならない。

 

 隣には武田がいる。ジャンパーのポケットには十万円の封筒が入っている。「兄ちゃん、どう見る?」という武田の無邪気な期待の声が、耳にこびりついて離れない。

 

 それらのノイズが、馬たちが放つ因果の糸にまとわりつき、世界全体が薄いモヤに包まれたように濁って見える。

 

 なんとか一頭、少しだけ光が強く見える馬を絞り出して武田に伝えた。

 

 結果は、二着だった。

 

「おっしいなー! 兄ちゃん、いいとこ見てんじゃねえか!」

 

 武田は手を叩いて悔しがったが、健司の顔は青ざめていた。

 

 悪くはない。

 

 だが、一着ではないのだ。

 

 次のレースも、その次のレースも、因果の糸は三本から四本に枝分かれして見え、健司は「これだ」というただ一本の確信を掴むことができなかった。結果的に、彼が迷った三頭のうちの一頭が勝つ、という状況が続いた。

 

『悪くない』

 

 魔導書からの冷徹な評価が届く。

 

『だが、まだ親父の期待に意識を引っ張られているぞ。そんな泥水をすするような観測精度で、メインを当てられると思っているのか?』

 

 健司は唇を強く噛み締めた。

 

 やはり、今日は簡単にはいかない。

 

 昼時になり、二人はスタンド裏のフードコートへ向かった。

 

「兄ちゃん、カツカレー食うか? なんたって勝負の日だからな! 勝つ、にかけてカツだ!」

 

「いや、俺は自分で出しますよ……」

 

「いいから食えって! 若いのは腹いっぱい食わねえと、頭も働かねえぞ!」

 

 武田は強引に健司を席に座らせ、自腹で大盛りのカツカレーを二つ買ってきた。

 

 湯気を立てるカツカレーを前にしても、健司の食欲は全く湧かなかった。武田は本当に良い人だ。健司を責めるつもりなど微塵もないし、この十万円勝負を彼なりの「大人の遊び」として純粋に楽しんでいる。

 

 だからこそ、重い。

 

(外したくない。この人を、がっかりさせたくない)

 

 カツカレーを無理やり胃に流し込みながら、健司は痛切にそう思った。

 

 だが、その感情そのものが、因果の糸を激しく濁らせる原因なのだと、彼は気づき始めていた。

 

『優しさもノイズだぞ、猿』

 

 スマホの画面に、容赦のない文字が浮かぶ。

 

「分かってる」

 

 健司は心の中で反論した。

 

『分かっているだけでは足りん。切り分けろ。親父を助けたいという感傷と、ただ事実として勝ち馬を見る目は、全くの別物だ。それを混同しているうちは、お前はただの人の良いフリーターで終わりだ』

 

 午後三時。

 

 いよいよ、その日のG2メインレースの出走馬たちがパドックに姿を現した。

 

 観客の数が、午前中とは比べ物にならないほど膨れ上がっている。スタンドを揺るがすような重低音のざわめき。巨大な望遠レンズを構える者、新聞を睨みつけながら虚空に向かってぶつぶつと呟く者、一番人気や二番人気の馬が周回するたびに、空気が熱を帯びて波打つ。

 

 重賞レース特有の、むせ返るような欲望の匂い。

 

 武田の表情も、これまでとは打って変わって真剣そのものだった。

 

「兄ちゃん……頼むぞ」

 

 その低く抑えた一言が、健司の背中にずしりと乗る。

 

 健司は無言のまま深く頷き、パドックの柵の最前列に立った。

 

 目を閉じる。

 

 深く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

 

 だが、ダメだ。

 

 意識を沈めようとすればするほど、巨大な壁が立ちはだかる。

 

 まず、武田の十万円が見える。封筒の厚み、日雇い現場で流した汗、奢ってもらったカツカレー。

 

 次に、自分の証明欲が見える。当てたい。魔導書に認めさせたい。自分が本当に人生をひっくり返せるだけの力を持っているのだと、確信したい。

 

 そして──世界の抵抗が来る。

 

 視界の裏側で、無数の因果の糸が荒れ狂う嵐のように絡み合う。

 

 一番人気の馬の糸が、威圧的に太く輝いて見える。かと思えば、大穴の馬の糸が突如として現れ、消える。オッズの数字が脳裏にフラッシュバックし、観客のどよめきが鼓膜を突き破らんばかりのノイズとなって健司の精神を揺さぶる。

 

 頭の奥が、割れるように熱い。

 

(分からない……!)

 

 健司は呻き声を上げそうになった。

 

 どれも勝つように見える。どれも負けるように見える。未来が、完全に混沌の渦に飲まれている。

 

「兄ちゃん……? 大丈夫か?」

 

 武田が心配そうに顔を覗き込んでくる。

 

 健司は拳を固く握りしめた。

 

「分からない」と言ってしまえば楽になれる。

 

 自分の千円札をしまったあの日のように、逃げてしまえばいい。

 

 だが。

 

『飲まれるな』

 

 ポケットの中のスマートフォンが、まるで心臓の鼓動のように強く震えた。

 

『十万円を見るな。親父を見るな。お前自身を見るな。──結果だけを見ろ』

 

 魔導書の言葉は、氷のように冷たく、そして鋭かった。

 

『お前が背負うべきなのは、親父の人生じゃない。親父の十万円でもない。ただ、どの馬が一着でゴール板を駆け抜けるかという、たった一つの物理的な事実だけだ』

 

 健司は、奥歯が砕けるほど強く噛み締めた。

 

 そうだ。武田さんを助けたいという気持ちを消す必要はない。ただ、それを「観測のレンズ」から外すだけだ。自分が勝ちたいという欲望も、脇に置く。

 

 世界の抵抗も、観客の声も、オッズも、全てを遠景へと退かせる。

 

 ただ、見るべきものは一つ。

 

 一着で、ゴールする馬。

 

 健司はもう一度、深く意識を沈めた。

 

 ノイズの嵐の中で、彼はひたすらに凪の空間を探した。

 

 そして。

 

(……見えた)

 

 視界の奥底。混沌とした太い糸の束の陰に隠れるようにして、一本の細い糸が存在していた。

 

 決して太くはない。一番人気のように眩しく光り輝いてもいない。観客の熱気の中では、容易に見落としてしまいそうなほど細い糸。

 

 だが、その糸だけが、他のどの糸とも絡むことなく、一切の淀みなく、真っ直ぐにゴール板の向こう側へと伸びていたのだ。

 

 番号は、三番。

 

 芦毛の馬だった。

 

 健司がゆっくりと目を開けると、ちょうど三番の芦毛がパドックを歩いていくところだった。

 

 派手な歩様ではない。首を少し下げ、どこか眠そうにすら見える。オッズは単勝で二十倍前後。新聞の印もほとんどなく、周囲の観客は誰もその馬に注目していない。

 

 だが、健司には分かっていた。

 

 これだ。

 

 この馬しかいない。

 

「兄ちゃん、どうだ……?」

 

 武田が、すがるような声で尋ねる。

 

 健司はすぐには答えず、自分の中で最後の確認をした。

 

 三番。芦毛。細いが、絶対に切れない因果の糸。

 

 ノイズは完全に消え去っていた。不安も恐怖もある。だが、それ以上に、彼の中には揺るぎない確信が満ちていた。

 

「……三番です」

 

 健司が静かに告げると、武田は目を丸くした。

 

「さ、三番? あれ、全然人気ねえぞ? 前走も二桁着順だったし……」

 

「でも、俺にはあれに見えます」

 

 武田は迷っているようだった。

 

 十万円を、こんな見ず知らずの穴馬に突っ込む。常識で考えれば正気の沙汰ではない。

 

 健司は、武田の目を真っ直ぐに見据えて、生まれて初めて、他人の運命に対して断言した。

 

「武田さん。単勝で買ってください」

 

「単勝!? 複勝とか、ワイドじゃなくてか!?」

 

「はい。単勝です」

 

 健司の目に一切の揺らぎがないのを見て、武田はしばらく沈黙した。

 

 やがて、彼はフッと息を吐き出し、ニヤリと笑った。

 

「いい顔してんじゃねえか。……分かった。地獄の底まで付き合ってやるよ!」

 

 武田は踵を返し、券売機へと向かっていった。健司はそれを止めなかった。

 

 券売機の前。武田が茶封筒から一万円札の束を取り出す。

 

 機械に札が吸い込まれていく。一枚、また一枚。十枚の諭吉が全て吸い込まれると、機械音が鳴り、一枚の小さな紙切れが吐き出された。

 

 三番。単勝。十万円。

 

 武田がその馬券を掲げたのを見て、健司はごくりと喉を鳴らした。

 

 もう、後戻りはできない。

 

 スタンドへ移動すると、レース発走の時刻が迫っていた。

 

 ファンファーレが鳴り響き、数万人の歓声が地鳴りのように東京競馬場を震わせる。

 

 各馬がゲートに収まっていく。三番の芦毛も、大人しくゲートに入った。

 

 健司の頭の奥は、異常なほどの熱を持っていた。だが、もはやノイズによる痛みではない。一本の因果の糸を、脳髄の力だけで必死に握りしめ続けていることによる、オーバーヒートに近い熱だ。

 

『目を逸らすな』

 

 ポケットの中でスマホが震える。

 

『お前が選んだ因果の行方を、最後まで見届けろ』

 

 ガシャン! という音と共に、ゲートが開いた。

 

 十八頭の馬が一斉に飛び出す。

 

 だが、三番の芦毛はスタートのタイミングが合わず、完全に出遅れた。

 

「おいおい! 後ろじゃねえか!」

 

 武田が焦ったように声を上げる。

 

 先頭集団から大きく離され、最後方から数えて二番目。絶望的な位置取りだ。健司の心臓が激しく跳ねる。

 

 しかし、視界の裏に映る因果の糸は、決して切れてはいなかった。

 

「大丈夫です」

 

 健司は、半ば自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 レースは進む。一番人気と二番人気の馬が、好位につけて危なげなくレースを引っ張っている。実況のアナウンサーも、後方にいる三番の名前など全く口にしない。観客の声援は全て、前を走る人気馬たちに向けられている。

 

 向こう正面。

 

 ここで、健司は明確な「世界の抵抗」を感じ取った。

 

 三番の前に、馬群が壁のように固まったのだ。

 

 進路がない。外へ出そうにも隣に別の馬がピタリと張り付いており、内に入れば完全に前が詰まる。物理的な逃げ場が塞がれていく。

 

(……っ!)

 

 健司の頭痛が激しさを増した。世界が、因果のシステムそのものが、三番を勝たせまいと圧力をかけてきているのが分かる。

 

 ここで無理に「前を開けろ」と因果を捻じ曲げようとすれば、健司の脳がショートし、糸は切れるだろう。

 

『押しすぎるな。糸を切るぞ』

 

 魔導書の警告が脳裏をよぎる。

 

 健司は、力任せに勝たせることをやめた。

 

 ただ、祈るのではなく、ひたすらに、その細い糸が一番進みやすい「道」を見失わないように、そっと支え続けた。前の馬がわずかに内へ寄る可能性、隣の馬がバテる可能性。それらの微小な確率の揺らぎを拾い集め、三番の周囲に集めていく。

 

 そして、最終コーナー。

 

 三番の騎手が、ほんのわずかな隙間を見つけ、馬を外へと持ち出した。

 

 普通なら迷うような、一瞬だけ開いた進路。だが、三番はそこを一切の躊躇なく突き抜けた。

 

 その瞬間、健司の視界の中で、くすんでいた細い糸が爆発的な光を放った。

 

「おい、三番上がってきたぞ!」

 

 武田が身を乗り出して叫ぶ。

 

 最後の直線。

 

 先頭は依然として一番人気。それに二番人気が猛然と迫り、観客は完全にその二頭のマッチレースだと思って熱狂している。

 

 だが、その大外から。

 

 全く違う次元の脚色で、一頭の白い影が飛んできた。

 

 最初は誰も気づかなかった。しかし、一頭抜き、さらに一頭抜き去るその異常なスピードに、場内のどよめきが徐々に悲鳴へと変わっていく。

 

 実況が、ついにその名前を絶叫した。

 

「大外から三番! 大外から一気に三番が飛んできた!!」

 

「来い! 来い来い来い来い! 三番来いっ!!」

 

 武田が手すりを叩きながら喉が裂けんばかりの声で叫ぶ。

 

 健司はもう、声が出なかった。

 

 頭の奥が火を噴くように熱い。だが、視界は極限までクリアだった。

 

 三番の因果の糸は、今や他のどの馬よりも太く、力強くゴールへと直結している。

 

 残り五十メートル。

 

 一番人気と三番が完全に並ぶ。

 

 最後の一完歩。首の上げ下げ。

 

 そして、三番の芦毛が、ほんのクビ差だけ前に出て、ゴール板を駆け抜けた。

 

 一瞬の静寂の後。

 

 東京競馬場が、割れんばかりの大歓声と、信じられないものを見たという絶望のどよめきに包まれた。

 

 人気薄の三番が、勝ったのだ。

 

「……勝った?」

 

 武田は、馬券を握りしめたまま、石像のように固まっていた。

 

 健司もまた、荒い息を吐きながら呆然とターフビジョンを見上げている。

 

 やがて、写真判定の末に「一着 三番」の文字が赤く点滅した。

 

 確定だ。

 

「っしゃあああああああああああああっ!!!」

 

 武田が鼓膜が破れそうなほどの絶叫を上げ、健司の肩をバシバシと力任せに叩いた。

 

「兄ちゃん! 当たった! 本当に当たったぞ! 信じられねえ!」

 

 身体強化の魔法を切っていた健司にとって、その一撃は普通に痛かった。

 

 だが、その痛みよりも、現実感のなさが勝っていた。

 

 ターフビジョンに、配当が表示される。

 

 単勝 3番 2050円。

 

 オッズ20.5倍。

 

 十万円が、二百五万円に化けた瞬間だった。

 

 健司の喉の奥から、乾いた笑いが込み上げてきた。

 

 自分はやったのだ。

 

 他人の十万円という重い十字架を背負い、世界の抵抗を押し除け、因果の泥水の中からたった一本の正解を引きずり出した。

 

 払い戻し窓口。

 

 武田はまだ手が震えており、機械に馬券を入れるのにも苦労していた。

 

 やがて、機械から吐き出された分厚い茶封筒。

 

 二百万円以上の、現金。

 

「やべえな……。こんな札束、久しぶりに見たわ……」

 

 封筒の口を開け、ぎっしりと詰まった福沢諭吉の束を見た武田が、震える声で呟く。

 

 健司も少し離れた場所から息を呑んだ。

 

 これが、魔法で動かした現実の「結果」だ。スマホゲームのデジタルな数字ではない。ただの予想でもない。本物の、日本銀行券。

 

 競馬場の端の、少し人が少ない喫煙所の近くまで歩いたところで、武田は急に立ち止まった。

 

 そして、封筒の中から分厚い札束を抜き取ると、それを健司の胸に押し付けてきた。

 

「えっ? 何してるんですか?」

 

 健司が驚いて身を引く。

 

「百万円だ」

 

 武田は、さも当然のように笑った。

 

「いやいやいや! 俺、金出してないですよ! それ、武田さんの金じゃないですか!」

 

「馬鹿野郎。兄ちゃんが選ばなきゃ、俺は絶対に三番なんて買ってねえよ。これは礼だ。受け取れ」

 

「でも……十万円のリスクを背負ったのは武田さんで……」

 

 健司がなおも拒否しようとすると、武田は少しだけ真面目な顔つきになった。

 

「いいんだよ。俺は俺で、まだ百万円以上残る。それに……若い奴が必死こいて何かを掴もうとしてるあの顔、俺は嫌いじゃねえんだ。いいから、黙って受け取れ」

 

 その言葉に、健司はそれ以上反論することができなかった。

 

 武田はただ健司をギャンブルの道具として利用したわけではなかったのだ。健司がパドックで世界の抵抗と戦っていたあの必死さを、彼なりに感じ取ってくれていた。

 

「……ありがとうございます」

 

 健司は深く頭を下げ、百万円の札束を受け取った。

 

 重い。

 

 ただの紙切れ百枚の重さではない。それは、自分の力で初めて人生の歯車を強引に回した、確かな質量の重さだった。

 

 奨学金、今月の家賃、深夜バイトの疲労、将来への漠然とした不安。自分を縛り付けていた鎖が、この瞬間だけ、音を立ててちぎれ飛んだ気がした。

 

 健司の手は、かすかに震えていた。

 

 帰り道。

 

 武田と別れ、一人で歩く健司のポケットで、スマホが震えた。

 

『どうだ、猿』

 

『今、どんな気分だ?』

 

 魔導書からのLINEだった。

 

 健司はリュックの中に大切にしまった百万円の感触を背中に感じながら、空を見上げた。

 

 嬉しい。怖い。信じられない。武田への感謝。世界の因果をいじってしまったという罪悪感と、圧倒的な全能感。

 

 時給千二百円の自分が、何十時間、何百時間と働いてようやく手にする金を、今日一日で手にしたのだ。

 

 しかも、これは偶然拾った金ではない。自分の意志と魔法と訓練で、世界からむしり取った金だ。

 

 健司は、画面に向かって短く、だが万感の思いを込めて返信した。

 

「最高だ」

 

 すぐに既読がつく。

 

『そうか』

 

『なら、忘れるな。その感覚が、お前を次へ進ませる』

 

 帰りの電車の窓ガラスに、健司の姿が映っていた。

 

 外見は昨日と何も変わらない。安物の服を着た、細身で目つきの悪いフリーターだ。

 

 だが、中身はもう完全に別の生き物になっていた。

 

 確率を操作する魔法。身体能力強化。因果の観測。世界の抵抗。上位者の存在。

 

 そして、リュックの中にある本物の百万円。

 

 時給千二百円の世界は、まだ彼の背後にへばりついている。明日になればまた生活費のためのコンビニバイトがあり、奨学金の返済義務が消えたわけでもない。

 

 だが、もはやそれだけが世界の全てではない。

 

 世界には裏側へと続く抜け道があり、自分にはそれをこじ開ける力があるのだと、健司は確かに知った。

 

 底辺を這いずり回っていた時給千二百円の猿の反逆が、ここから、本当に始まったのだった。

 




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