俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第7話 猿と百万と次の戦場

 深夜、あるいは翌朝未明。

 

 佐藤健司は、狭いアパートの布団の中で目を見開いたまま、寝返りを打っていた。

 

 薄い布団、天井の染み、壁の薄さ、カーテンの隙間から差し込む街灯の白い光。何一つ変わらない、時給千二百円の底辺フリーターの部屋だ。

 

 だが、その空間の隅に置かれたリュックサックの中に、百万円の札束が眠っている。

 

 その事実が、部屋の空気そのものを変容させていた。

 

 健司は何度もリュックを確認してしまう。誰かに盗まれていないか。全部夢で、ただの紙切れに戻っていないか。本当に、百万円あるのか。

 

 リュックの奥から分厚い封筒を取り出し、福沢諭吉の顔を数える。そして、またしまう。少し時間が経つと、また不安になって取り出す。

 

 その繰り返しで、睡眠時間などとうに削り取られていた。

 

 百万円。

 

 健司にとって、人生で初めて手にしたまとまった大金だ。

 

 だが、実際に手元に置いてみると、それは途方もなく巨大で、そして恐ろしいほど中途半端な金額でもあった。

 

 奨学金を全額返せるわけではない。仕事を辞めて一生遊んで暮らせるわけでもない。家賃、生活費、税金、将来の不安。それらを計算すれば、百万円などあっという間に溶けて消えるだろう。

 

 それでも、昨日の自分にとっては、文字通り人生を揺るがす奇跡の結晶だ。

 

(……百万円って、こんなに重いのか)

 

 健司は札束を胸に抱きながら、暗闇の中で一人ごちた。

 

(これがあれば、少しだけ息ができる。首の皮一枚で繋がった気がする。でも……これだけじゃ、人生は変わらない)

 

(じゃあ、次はどうする?)

 

 昨日の競馬場では「最高だ」と思った。全てを手に入れたような万能感に包まれた。

 

 だが一夜明けてみれば、強烈な虚無感と、さらなる金への渇望が入り混じった不安が押し寄せてくる。

 

 成功の余韻は短く、現実は長く、冷たい。

 

 朝になり、健司はとりあえず百万円のうち八十万円を、近所の銀行ATMに入金することにした。

 

 現金をアパートに置いておくのが、どうしても怖かったのだ。

 

 だが、いざATMの前に立つと、妙な緊張で背中がこわばった。

 

 後ろに並んでいるおばさんに見られていないか。監視カメラのレンズがやけに大きく感じる。この金はどう説明すればいいのか。武田さんからの礼としてもらった金だが、普通に考えれば怪しすぎる。

 

 震える手で札束を機械に入れ、八十万円が口座に吸い込まれていくのを見届ける。

 

 残りの二十万円は、手元の生活費と、これからのための準備費として財布と封筒に分けた。

 

 アパートに戻り、健司はベッドに腰掛けてスマホを開いた。

 

「金は手に入れた。百万円だ。口座にも入れた。で、次はどうするんだ?」

 

 健司が尋ねると、魔導書はすぐに返信してきた。

 

『ふむ。百万円か』

 

『猿が最初に手にする“種銭”としては、上出来だな』

 

 種銭。

 

 健司はその言葉に少し引っかかった。

 

「種銭ってなんだよ」

 

『それは褒美ではない。元手だ』

 

『お前が次の段階へ進むための、ただの燃料にすぎん』

 

「……あのな」

 

 健司は少しムッとして打ち込んだ。

 

「昨日、俺はあんなに苦労して、頭が割れそうになりながら手に入れたんだぞ。少しくらい喜ばせろよ。一休みしてもバチは当たらないだろ」

 

『喜ぶのは昨日済ませただろ。今日は使い道を考える日だ』

 

 魔導書の言葉は氷のように冷たかった。

 

「使い道って言っても……なら、また競馬で稼げばいいんじゃないか?」

 

 健司は当然の疑問をぶつけた。

 

「昨日みたいに、武田さんの時みたいに、たまに穴馬を少しずつ当てればいい。それならリスクも少ないし、確実に増やせる」

 

『馬鹿』

 

 即座に否定された。

 

『競馬はもう主戦場にするな』

 

「なんでだよ! 一番稼ぎやすいだろ!」

 

『理由は四つある』

 

 魔導書は整然と説明を始めた。

 

『一つ目。目立つ。人気薄の単勝を何度も当てる奴は、必ず注目される。競馬場、ネット投票、払い戻し履歴、どこかで異常値として検知される。管理組織に目をつけられると昨日言ったはずだ』

 

『二つ目。回数が少ない。中央競馬は開催日が限られているし、レース数も限られる。お前の能力を鍛えるための訓練効率が悪すぎる』

 

『三つ目。因果が単発すぎる。一レースごとに結果が出るのは観測訓練にはいいが、複雑な情報処理能力を鍛えるには限界がある』

 

『四つ目。金額を大きくすると危険だ。当事者ノイズが増す。お前が自分の大金を賭ければ、また因果が激しく濁る。しかも大勝ちすればさらに目立つ』

 

『競馬は、魔法使い見習いの初級訓練場としては優秀だった』

 

『だが、そこで猿が一生遊んでいても、猿のままで終わるだけだ』

 

 健司は悔しかったが、納得せざるを得なかった。

 

 確かに、昨日のあのノイズを毎回自分の大金で処理できるかと言われれば、自信はなかった。

 

「じゃあ……次はなんなんだよ」

 

『次は、株だ』

 

『正確には、デイトレードだ』

 

 健司は動揺した。

 

「株!? いや、無理だろ! 株なんて、プロとか機関投資家とか、スーツ着た頭のいい連中がやるやつだろ! 素人が手を出したら一瞬で金が溶けるって聞いたぞ!」

 

『その通りだ』

 

 魔導書はあっさりと認めた。

 

『素人の猿が何も知らずに突っ込めば、一秒で死ぬ。だから勉強するんだ』

 

 健司は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「魔法を手に入れてまで、勉強かよ……。もっとこう、魔法使いってのは杖振って一瞬でバーンって稼げるもんじゃないのか」

 

『当たり前だ。お前の脳に“情報”というOSが入っていなければ、魔法というアプリはまともに動かん』

 

『競馬では、余計な情報はノイズだった。だが株では逆だ。株価は無数の情報によって動く。企業業績、決算、金利、為替、海外市場、政治、戦争、災害、流行、投資家心理、SNSの煽り……それら全部が絡み合った因果の巨大な塊だ。情報を知らなければ、見えている糸の意味すら理解できない』

 

『競馬は、馬を見る訓練だった』

 

『株は、人間の欲望と恐怖を見る訓練だ』

 

『株式市場は、一日中動き続ける巨大なパドックだと思え』

 

 その言葉は、健司の背筋に奇妙な興奮と寒気を同時に走らせた。

 

『目的は三つある』

 

 魔導書はさらに続ける。

 

『一つ、予測予知の訓練。過去と現在の膨大な情報から、未来の値動きを読む。競馬より情報量が多く、極めて複雑だ』

 

『二つ、当事者ノイズへの耐性強化。自分の金がリアルタイムで激しく増減する。恐怖と欲望が秒単位で襲ってくる。これに耐える精神を作る』

 

『三つ、公開記録によるジンクス作りだ』

 

「公開? 記録?」

 

 健司は眉をひそめた。

 

『“X”で戦績を公開しろ』

 

『毎日記録するんだ。自分が「当てる人間」だという実績を、ネット上に積んでいく』

 

「いや、ちょっと待て。目立つなって言ってたの、お前だろ!」

 

『目立ち方を“選べ”と言っているんだ』

 

『競馬で意味不明に大穴を当て続ける奴は怪しい。だが、株で勉強し、少額から始め、戦績を公開している兼業トレーダーが勝つのは、まだ社会的に「説明がつく」範囲だ』

 

『それに、最初は誰も見ない。フォロワーゼロの猿が何を呟いても、世界は振り向かん。だからこそ、今のうちに記録を始めるんだ。後でそれが最強の武器になる』

 

 健司は完全に納得したわけではなかったが、反論する言葉が見つからなかった。

 

『買い物に行くぞ、猿』

 

『ノートPC、投資本、モニター周りは最低限でいい』

 

『ただし、贅沢はするな。お前に必要なのは高級機材ではなく、情報を処理する環境だ』

 

「買い物って……今の俺の古いPCじゃダメなのか? ネットは繋がるぞ」

 

『起動に三分かかる鉄屑で、ミリ秒単位で動く市場の速度についていけると思うな。それと、あの部屋の机周りは汚すぎる。まず戦場を作れ』

 

 健司は手元の封筒を見つめた。

 

 せっかく手に入れた金が、また減っていく。そのことに強烈な不安を覚える。

 

「せっかく手に入れた金が……減る」

 

『消費ではない。投資だ』

 

 魔導書の言葉が突き刺さる。

 

『今のお前が一番やってはいけないのは、百万円を後生大事に抱えて腐らせることだ』

 

 午後。

 

 健司は秋葉原の街を歩いていた。

 

 夏の熱気、人混み、派手な看板、家電量販店のまぶしい照明。

 

 今までなら、健司は高いPCコーナーになど近づきもしなかった。自分には買えない、関係のない世界だと思っていたからだ。

 

 だが今日は違う。買える。必要だから、買うのだ。

 

「すみません。デイトレードに使えるノートPCを探してるんですが。予算は十万円以内で」

 

 店員に声をかける健司の口調は、以前のしがないフリーターとは少し違う、芯のある響きを持っていた。

 

『そのCPUは悪くない』

 

『メモリは最低16GBだ』

 

『画面は見やすい方がいい。ゲーミング光り物はいらん。猿が光ってどうする』

 

 スマホ越しに横槍を入れてくる魔導書に心の中で突っ込みを入れながら、健司は最終的に八万円台のノートPCを購入した。

 

 次は大型書店だ。

 

 株・投資コーナー。初心者向けの本から、専門的な分厚い本までがずらりと並んでいる。

 

「こんなに読まないとダメなのか……?」

 

 健司は圧倒されて呟いた。

 

『全部だ』

 

「全部!?」

 

『全部ではない。必要なものだけだ。だが、猿にとっては全部に見えるだろうな』

 

 魔導書の指示に従い、健司は次々と本をカゴに入れていく。

 

『株式投資入門』『デイトレードで生き残るための板読み入門』『損切りできない者から退場する』『市場心理と群衆の欲望』『ローソク足チャートの基礎』『資金管理こそ最強の武器』……。

 

 ふと、一冊の本が目にとまった。

 

『猿でも分かる株式投資入門』。

 

「おい、また猿だぞ」

 

 健司が嫌な顔をすると、スマホが震えた。

 

『良かったな。お前向きだ。それも買え』

 

 合計十数冊。会計は数万円にのぼった。

 

 健司はまた少し手が震えた。昨日までの自分なら、絶対に買わなかった金額だ。だが、今は買う。

 

(これも投資……これも投資……)

 

 自分に言い聞かせながら、重い袋を提げてアパートへ戻った。

 

 部屋に戻り、古いPCを片付け、真新しいノートPCを開封して机にセットする。

 

 セットアップを終え、ほっと一息ついたところで、魔導書が指示を出してきた。

 

『Xのアカウントを作れ』

 

「本当にやるのかよ。目立つんじゃないのか」

 

『だから、最初は誰も見ないと言っている。重要なのは記録を残すことだ。後から見た時、“こいつは最初から先出しで書いていた”というログが必要になる』

 

 健司は渋々アカウントを作成した。

 

 アカウント名は【株のK】。

 

 IDは【@Kabu_no_K】。

 

 アイコンは、魔導書の表紙に描かれていた、あの気の抜けた猿のイラストをスマホで撮って設定した。

 

「なんで猿なんだよ」

 

『お前の象徴だろ』

 

 プロフィール文にはこう書いた。

 

【しがない兼業トレーダー。少額からデイトレ練習中。日々の戦績を正直に記録します】

 

 フォロワー0。投稿0。

 

 広大なネットの海に、たった一つの猿アイコンが産み落とされた。健司は強烈な虚しさを感じた。誰も見ていない独り言を、これから毎日記録していくのか。

 

『次は証券口座だ』

 

「口座か。そういえば、学生の時にキャンペーンのポイント目当てで作ったネット証券の口座があったな。本人確認も済んでるはずだけど、一回も使ってない」

 

『ほう。猿にしては珍しく役に立つ過去だな。それを使え』

 

 パスワードの再設定に手間取りながらも、健司はなんとか口座にログインした。

 

「よし。じゃあ、口座に入れた八十万円、全部突っ込むか」

 

 健司が意気込むと、魔導書から痛烈な罵倒が飛んできた。

 

『馬鹿!!』

 

『初心者が全財産を市場に突っ込むな!!』

 

「え? だって、種銭だろ?」

 

『最初は三十万円だ。残りは生活費と予備資金として置いておけ。市場は、猿から金を奪うために存在していると思え。いきなり全額張れば、お前は一瞬で丸裸にされて終わる』

 

 資金管理。

 

 投資本を買ったばかりの健司にはまだピンとこない概念だったが、魔導書の剣幕に押され、健司は三十万円だけを入金した。

 

 夜。

 

 狭いアパートの机の上には、真新しいノートPC。横には積み上げられた十数冊の投資本。スマホには魔導書のLINE画面。PCの画面には証券口座と、フォロワー0の猿アイコンのXアカウント。

 

 健司は深く、重い息を吐いた。

 

「これ、今日全部やるのか?」

 

『馬鹿。今日からだ』

 

『そして明日も明後日もだ。お前が億万長者になるまで続く』

 

 健司は覚悟を決め、一番上にあった本を開いた。

 

 最初の数ページを開いただけで、知らない単語が怒涛のように襲いかかってきた。

 

 PER。PBR。出来高。板。ローソク足。移動平均線。損切り。信用取引。レバレッジ。

 

 健司の頭がガンガンと痛み始めた。

 

「……魔法使いって、もっとこう、楽に稼げるもんじゃないのか?」

 

 泣き言のように呟く健司に、魔導書は容赦なく告げた。

 

『楽に稼ぎたいなら、まず楽に稼げるだけの知識と技術を身につけろ』

 

『猿は魔法を覚えても、猿のままでは市場に食われるだけだ』

 

 健司は眠い目をこすりながら、本に向かい合った。

 

 百万円の一部が、PCと本と、市場への入金に変わった。もう、後戻りはできない。

 

 百万円は、彼を安心させる温かい毛布ではなかった。

 

 それは、より大きく、より過酷な地獄へ足を踏み入れるための、片道切符だったのだ。

 




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