俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】   作:パラレル・ゲーマー

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第8話 猿と初陣と五千四百円

 翌週の月曜日の朝。

 

 佐藤健司は、真新しいノートPCの前に座り、重い頭を抱えていた。

 

 この一週間、彼は地獄のような日々を送っていた。魔導書から与えられた膨大な株の専門書を読み漁り、知らない単語をノートに書き写し、動画サイトでチャートの見方を詰め込む。

 

 ローソク足、出来高、板、成行、指値、移動平均線、寄り付き、前場、後場、ストップ高、ストップ安、信用取引、資金管理……。

 

 何時間も活字を追い続け、健司の脳は完全にパンクしかけていた。

 

「おい……人間の脳にインストールとか言うなよ。頭が本当に破裂しそうだ」

 

 机に突っ伏したまま、スマホに向かって毒づく。

 

『破裂していないなら続行可能だ』

 

 魔導書の返信は相変わらず冷酷だった。

 

『まだバグだらけの仮インストール状態だが、最低限システムは起動するはずだ。今日はいよいよ実戦だぞ、猿』

 

 午前八時三十分。

 

 健司は証券口座にログインし、画面に表示された数字を見つめた。

 

【口座残高:300,000円】。

 

 武田との勝負で得た百万円の一部。自分の未来を切り開くための軍資金であり、同時に、今日この場で減るかもしれない金だ。

 

 他人の金を背負った競馬場のパドックとも違う。今度は完全に、自分一人の金だ。

 

 その事実が、ずしりと胃を重くする。

 

『猿。準備はいいか』

 

 スマホが震えた。

 

「全然よくない」

 

『上出来だ。怖いと思っているうちは、まだ生き残れる』

 

 魔導書の文字が画面に並ぶ。

 

『いいか。今日は大金を稼ぐ日ではない。市場のノイズに慣れる日だ。お前の未熟な予知がどこまで通用するかを確認する日だ。一回ごとの勝敗より、ルール通りに入って、ルール通りに出ることを最優先しろ』

 

『目標勝率は6割。損切りできなければ、お前は即退場だ』

 

「勝率6割って、意外と低くないか? 競馬じゃ100%を求められたのに」

 

『デイトレードで安定して6割勝てる人間は、ただの猿ではない。大事なのは、勝率100%を目指すことではない。負けを小さく切り捨て、勝ちを大きく伸ばすことだ』

 

 午前九時。

 

 東京株式市場が開いた。

 

 ノートPCの画面が、一斉に動き出した。

 

 複数の銘柄、チャート、板、気配値、ニュース速報。数字が滝のように流れ、赤と緑の表示がミリ秒単位で明滅する。板に並ぶ注文数量が消えたり増えたりし、チャートの線が生き物のように脈打つ。

 

 意味不明な数字の洪水だった。

 

 競馬のパドックには、馬という実体があった。騎手の表情が見え、観客の熱気を感じられた。五感で情報を拾うことができた。

 

 だが、市場は違う。ここにあるのは無機質な数字だけだ。

 

 しかし、その数字の向こう側には、無数の人間の欲望と恐怖が渦巻いている。

 

『聞こえるか、猿』

 

『これが、市場の呼吸だ』

 

 健司は目を閉じた。

 

 かすかに感じる。金が動く音。誰かが買い、誰かが売り、誰かが損を切り、誰かが欲に飛びつき、誰かが恐怖で逃げ出す。

 

 競馬場とは規模が違う。ここは巨大な獣の腹の中だ。

 

 チャートの線が因果の糸に、板の厚みが人間の欲望の壁に、出来高の増減が熱の波に見えるような気がした。だが、まだ解像度が低すぎる。情報量が多すぎて、すぐに頭が熱くなった。

 

『見すぎるな。今日は全部を見ようとするな。一本だけ拾え』

 

 魔導書の指示に従い、健司は一つの銘柄に絞った。

 

『“東都マイクロシステム”。小型のIT関連銘柄だ。朝から出来高が増えている』

 

『ここで入れ。少額だ。三万円分だけ買え』

 

「三万円!? いきなり三万円も突っ込むのかよ!?」

 

『お前の口座には三十万円ある。最初から全力で殴りにいく馬鹿はいない。三万円は、お前が恐怖を感じるには十分で、死ぬには少ない額だ』

 

 健司は震える手でマウスを握り、成行で買い注文を入れた。

 

 クリック。

 

 約定。

 

 画面に保有銘柄と評価損益が表示される。

 

 その瞬間、健司は自分の金が底なし沼に投げ込まれたような強烈な錯覚を覚えた。

 

 マイナス三百円。

 

 マイナス五百円。

 

 プラス二百円。

 

 マイナス七百円。

 

 ほんの数秒で、数字の赤と緑が目まぐるしく入れ替わる。

 

 胃が縮み上がる。

 

「おい、下がってるぞ!」

 

『黙れ。十秒で騒ぐな。お前の恐怖が未来の解像度を曇らせる』

 

 健司は必死に画面を見つめた。だが、赤いマイナスの表示が怖い。早く損切りして逃げ出したくなる。

 

『待て。波の中心を見ろ』

 

 数十秒後。株価が少しだけ上向いた。

 

『今だ。売れ』

 

 健司は慌てて売り注文を出した。

 

 確定損益。

 

【+1,200円】

 

 健司は呆然とした。

 

 時給千二百円。かつての自分が、深夜のコンビニで一時間頭を下げて得ていた金。それを、わずか数分で得たのだ。

 

『次だ』

 

 喜ぶ間もなく、魔導書の指示が飛ぶ。

 

 一戦目でプラス千二百円。

 

 健司は少しだけ浮かれていた。

 

「これ、いけるんじゃないか? 意外と簡単だぞ」

 

『その顔だ』

 

 魔導書が冷たく刺す。

 

『市場が一番好む餌の顔だ』

 

 次の銘柄。今度は健司が自分で「これ上がりそうじゃないか」と目星をつけたものだった。魔導書はあえて何も言わなかった。

 

 買う。最初は少し上がった。プラス五百円。

 

 利確しようか迷ったが、もっと上がる気がした。欲が出た。

 

 次の瞬間、急落した。

 

 プラスが消え、マイナス千円。さらにマイナス千五百円。

 

 健司は青ざめた。

 

『損切りしろ』

 

「でも、戻るかもしれないだろ! もう少し待てば……」

 

『損切りしろ。今すぐだ』

 

 健司は歯を食いしばって売却ボタンを押した。

 

 確定損益。

 

【-1,600円】

 

 一戦目の利益が吹き飛び、日次マイナスに転落した。気分が悪くなる。

 

『今の負けは良い負けだ』

 

 魔導書が諭すように言う。

 

『欲で入った。欲で引っ張った。だが、最後にお前は損切りできた。損切りできる猿は、まだ生き残れる』

 

 三戦目。

 

 魔導書の補助を受けながら、健司は因果の糸を読んだ。今度は「上がる」という強い確信があった。

 

 買う。だが、上がり方が想定より弱い。一瞬だけ上がった後、横ばいになり、その後材料ニュースの見出しが流れると、別の銘柄に資金が移ってしまった。

 

 健司が見ていた未来は外れたわけではない。だが、ほんの数分、タイミングがズレたのだ。

 

『見えた未来は確かに存在した。だが、お前の入るタイミングが遅かった。市場では、正しい方向を見ても、時間を間違えれば負ける』

 

 結果は小さな負け。

 

【-700円】。

 

 これで二敗目。本日の合計はマイナス。

 

 健司は焦り始めた。

 

「おい、もう二敗だぞ。勝率6割ってことは、次から全部勝たないとダメじゃないか」

 

『だから焦るなと言っている。焦りが、次の負けを呼ぶ』

 

 四戦目。前場終盤。

 

 健司はかなり疲弊していた。頭が熱く、目が痛い。

 

 魔導書はあえて沈黙していた。健司は自分で銘柄の海を見る。

 

 膨大な数字の中で、一つだけ妙に気になる銘柄があった。

 

 “北辰バイオセンサー”。板は薄く、出来高も少ない。だが、チャートの底に、微かな反発の気配を感じたのだ。

 

『なぜそれだと思う?』

 

 魔導書が問う。

 

「分からない。でも、下げ止まった感じがする。売ってる奴らの勢いが少しだけ弱くて、買いの方に、細い糸が見える」

 

『入れ。ただし少額だ』

 

 健司は買った。

 

 最初は動かなかった。沈黙が長い。不安になるが、今回は赤字になってもすぐには騒がなかった。板とチャートと、自分の感じた細い糸だけを信じて待つ。

 

 数分後。株価が跳ねた。

 

 プラス千円。プラス二千円。プラス三千円。

 

 もっといける。健司の欲が顔を出す。

 

『利確しろ』

 

 今回は、素直に従った。

 

 確定損益。

 

【+3,800円】

 

 健司は拳を握りしめた。

 

「勝った……」

 

 魔導書の完全指示ではなく、自分で糸を拾って掴んだ勝利だった。

 

 五戦目。後場。

 

 健司の集中力は限界に近づいていた。脳の表面を紙やすりで削られているような感覚だ。

 

『今日はあと一戦で終わりだ』

 

「もう終わりでいいのか?」

 

『猿の集中力が限界だ。これ以上やると、訓練ではなくただの自傷になる』

 

 最後の銘柄。今回は比較的読みやすい大型寄りの銘柄を選んだ。

 

 前場の失敗を思い出す。欲を出さない。損切りを遅らせない。糸を見失わない。

 

 買い。数分間、細かく上下する。手が震えるが、恐怖を無理やり横に置く。

 

『まだだ。もう一波来る』

 

 健司は耐えた。株価が一段上がる。

 

『売れ』

 

 確定損益。

 

【+2,700円】。

 

 午後三時。大引け。

 

 市場が終了し、画面の数字の明滅が止まった。

 

 健司は椅子の背もたれに深くもたれかかった。

 

 脳が焼け焦げそうだ。一日中、目の前で自分の金が増減し、精神が激しく削られた。

 

 本日の結果を見る。

 

 一戦目:+1,200円

 

 二戦目:-1,600円

 

 三戦目:-700円

 

 四戦目:+3,800円

 

 五戦目:+2,700円

 

 合計:+5,400円。

 

 5戦3勝2敗。

 

 健司はしばらく黙り込み、ぽつりと呟いた。

 

「……これだけ?」

 

 朝からずっと極限の緊張を強いられ、頭を焼きながらトレードして、結果は五千四百円。

 

 あの百万円の熱狂から見れば、あまりにも拍子抜けするほど小さな額だった。

 

「競馬なら、一発で百万円だったのに……これ、本当に意味あるのか? コンビニ四時間半働いたのと同じだぞ」

 

『馬鹿』

 

 魔導書の文字が画面を叩きつけるように現れた。

 

『今日の目的は金額ではない。市場という欲望と恐怖のノイズの海に、お前の脳を放り込むことだ。自分の金が秒単位で増減する恐怖を体験することだ。そして、5回未来を見て、3回勝つことだ』

 

『お前は今日、勝率6割を達成し、損切りができ、自分で糸を拾い、日次プラスで終えた』

 

『お前は今日、市場に殺されなかった。それだけで十分だ』

 

 健司は画面を見つめた。

 

 確かに、金額は小さい。だが、自分はこの巨大な獣の腹の中で、生き残ったのだ。

 

『仕上げだ。Xに戦績を投稿しろ』

 

「こんなしょぼい結果を?」

 

『だからこそだ。派手な勝ちだけを見せる奴は信用されない。最初の小さな一歩から記録を残せ』

 

 健司はXのアカウントを開いた。

 

 フォロワー0。いいね0。

 

【株のK】

 

 本日の戦績:+5,400円(5戦3勝2敗)

 

 初デイトレ。思っていたよりずっと怖かった。

 

 負けもあったけど、なんとか日次プラス。

 

 明日も記録します。

 

 #デイトレ初心者 #株式投資

 

 投稿ボタンを押す。

 

 もちろん、何の反応もない。数分待って更新しても、いいね0のままだ。

 

「……虚しいだけだな、こんなの」

 

『今はそれでいい』

 

『歴史というものは、常に誰にも気づかれない一行の記録から始まる』

 

 夜。

 

 健司はベッドに倒れ込んだ。

 

 肉体労働とは違う、深い疲労感。心臓がまだチャートの動きに合わせて揺れているような気がする。

 

 たった五千四百円。

 

 だが、これは自分が初めて市場という戦場から奪い取った金だ。

 

『明日もやるぞ、猿』

 

「……分かってるよ」

 

 たった五千四百円。

 

 だがそれは、のちに株クラを激震させる「株のK」という名がネットの海に刻んだ、最初の小さな爪痕だった。

 




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